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2006年3月

2006/03/21

■松下電器の対応は誠実なのか非常識なのか

今朝の新聞に「引き続き、松下電器からお客様へのお願いです」というチラシが入っていました。
トラブルを起こしたFF式石油暖房機の回収活動がまだ続いています。
以前、自宅に葉書も届きましたが、ここまで来ると疑問を感じます。
松下電器には常識が無いのかと思えてなりません。

常識の無い会社は、必ずといっていいほど、また問題を起こすでしょう。
組織としての意思決定システムに欠陥があるからです。

松下が回収活動にかけた費用は莫大なものでしょうが、それは必ず商品売価に反映します。
それだけではなく、社会的にも大きなコストを発生させていると私には思えます。
それだけのコストをかけるのであれば、もっとやりようがあったのではないかとさえ思えてなりません。
それに全部を回収するのは無理があります。
FF石油暖房機の製品寿命がどのくらいかわかりませんが、すでに廃棄処分した家も少なくないでしょう。

松下電器は問題の設定を間違えているような気がします。
万一、事故が再発しても、これだけ努力しているのだから使っていた人が悪いと言う状況をつくっているのではないかという疑念さえ、私は持ってしまいます。

私の受け止め方がゆがんでいるのかもしれません。
経済性を度外視した松下の誠実な対応を評価すべきかもしれません。
しかし、ここまで繰り返しやられると松下電器への批判の声も上がるような気がします。
現に私の周りではいくつか聞こえてきます。もちろん私も松下には批判的です。
資源の無駄使いをする会社だと思ってしまうほどです。

誠実さと過剰対応はどこで違いが出るのでしょうか。
対応の意図かもしれません。
そしてその意図を実現するための手段の的確さかもしれません。
さらには全体像を明確にした上での行動のグランドデザインも重要な要素かもしれません。

それらがあいまいだと過剰反応をしてしまいます。
危機管理は問題解決型で発想しがちですが、危機管理は状況進化型で考えるべきだと思っていますが、そう考えると今回の事件も全く違ったプログラムが構想されたはずです。

しかし、そうはなりませんでした。
それは松下だけの姿勢ではありません。
責任逃れのための過剰反応は、昨今の日本社会の大きな流れです。
個人情報保護の問題に、それが極端に現れています。

「社会の喪失」が進行しているような気がします。


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2006/03/15

■弁護士の犯罪

私は弁護士に大きな不信感を持っています。
リーガルマインドが欠落しているからです。
それに関してはこれまでも何回か書きました。

この1週間、3人の弁護士に会いました。
民事と商事と、それぞれ全く別々にお会いしました。
その3人の弁護士とお話していて、弁護士への信頼が高まりました。
もしかしたら、私の弁護士感は間違っているのではないかと思い出したのです。
その矢先に起こったのが、昨日の光市母子殺害事件の最高裁弁論への被告弁護士の出廷拒否です。


遺族の本村さんは「これほどの屈辱受けたのは初めて」と話しています。彼の心中を思うと心痛みます。
「暴発」しやすい私であれば、何をしてしまうかわからないほどの屈辱感です。
死刑廃止運動に取り組む安田弁護士が今月になって弁護士を引き受けたのですが、この無責任さは普通の社会では許される話ではないでしょう。特権階級と自認している弁護士にしてできることです。

法律には違反しないかもしれませんが、わたしにはこれは「犯罪」だとしか思えません。
犯罪は明文化された法律だけではなく、法の精神に基づいて考えられるべきです。

以前も書きましたが、弁護士のミッションは何でしょうか。
容疑者もしくは被告の、不当な人権侵害を守ることです。
決して容疑者もしくは被告を守ることではありません。
ましてや自分の思いのための、たとえば死刑制度廃止運動などの手段のために利用すべきことではありません。
安田弁護士は、リーガルマインドなど微塵も持っていないと私には思えますが、国によって身分保障されている弁護士がこういう行動をとることは、犯罪としか思えません。
できることなら、本村さんに安田弁護士を訴えてほしいものですが、法制度的にはそれはできないでしょうし、第一、本村さんのような誠実で真摯な人はそんなことはしないでしょう。
しかし、とてもやりきれない事件です。
法曹界にも「政治」や「経済」が入り込んでいることを強く感じます。

せっかく弁護士への信頼感を高めつつあったのに、また一挙に崩れてしまいました。
日本の法曹界をだめにしているのは、裁判官だけではなさそうです。
その裁判官も、取材源秘匿問題で、これまた権力に迎合したような判決を昨日出していますが。

ちなみに、私が尊敬する弁護士も決して少なくはありません。
CWSコモンズにも何人かを書いていますが、たとえば中山武敏さんの活動や大川真郎さんたちの活動には感激します。


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2006/03/14

■住民投票に耳を傾けない政府とは何なのでしょうか

米軍機移駐問題で岩国市の住民投票が行われました。
さまざまな利害の錯綜と中央政府からの圧力などで、住民投票ボイコットの活動も展開されましたが、投票率は58%を超え、住民投票は成立しました。
反対者が87%を占めました。

この住民の意思に対して、政府はむしろ「遺憾」の意を表しながら、計画変更はしない旨を発表しています。
政府には民意を聴く姿勢は無いのです。
せめて話し合いをすべきですが、計画を変更しない前提での話し合いは話し合いとはいえません。

この件では違和感を持つことがとても多いのですが、そのいくつかを書いてみます。
まず、政府が最初から言っている「国の安全保障に関する問題は住民投票に馴染まない」ということです。
読売新聞の記事によれば、拓殖大学の森本敏教授は、「市町村のゴミ処理をどうするかは、その自治体で決めるべきだが、国の安全保障問題は、1自治体の住民投票にはなじまない」といっています。
私には納得できない発想です。
いずれも「国家の安全保障」しか考えておらず、国民の生活の視点がありません。
発想の起点で、手段と目的を履き違えています。
会社を守るために誰かをリストラさせるという発想と同じです。
結局は自分さえ良ければいいのです。典型的なコラテラル・ダメッジ発想です。

それに加担する学者は御用学者としか言いようがありません。
森本教授がもし岩国に住んでいても、そういったでしょうか。
他人事で発言する人の言葉にはいつも反発を感じます。

自民党の山崎拓議員は、市町村合併のため、住民投票の効力が1週間しかないことを指摘して、「種々の疑問がある」と言っています。
その市町村合併という、私には日本の自治体を台無しにした悪政を推進してきた片山議員は「一種の地域エゴだ」と語ったそうです。
要するに、自分たちの考えに反対する意見は住民エゴと片付け、効力が無いから住民意思を明確にすることは無意味と言うのです。
つまり、無知な住民は黙って従えといっているわけです。
国民から選ばれた代議士でしかない「分際」で、何を馬鹿なことを言っているのかと驚きますが、権力者になった勘違いから、はなから国民の意見を真剣に聴いて、行動する姿勢が無いのでしょうか。
そうした発言に、今の国会議員や政府の本質が見えてきます。

信じられないことですが、岩国の住民からも、「移駐計画は国の専管事項で、住民投票条例にはそぐわない」という声が上がっているそうです(読売新聞社説)。
国からの赤紙1枚で戦線に行けといわれても、それは国の専管事項だからと戦場に赴くのでしょうか。
国民主権ということをどう理解しているのでしょうか。

書いているうちに、ますます気分が暗くなってきたので、もうやめます。
しかし、毎日のように、こうした報道に触れていると健康によくありません。
テレビのナンセンスなトーク番組だけをみていたほうが楽しい人生になるのかもしれません。
パンとサーカスの政策はますます深化しているようです。

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2006/03/13

■頭でわかっていてもなかなか自分ではできないものです

喧嘩の始め方と収め方について、数日前に書き込みましたが、私自身は最近、無様な始め方と収め方をする体験をしてしまいました。恥ずかしい限りです。
頭でわかっていても、なかなかうまくいかないものです。
私の最大の欠陥は「感情的」になると自分を抑えられなくなるのです。それに自分の感情を隠す事が全くできない人間です。
抑えられないのは「短時間」で、すぐに回復できるのですが、家族からは「切れてしまう」とよく指摘されています。
きっと何かが欠落しているのでしょう。
「社会人」として、あるいは一人前の大人としては、失格なのかもしれません。
しかし、そう思いながらも、開き直りたくなる気分はあるのです。
おかしなことをおかしいと思いながらも見過ごしていたり、陰では批判しながらその時には何も言わなかったり、オブラートに包んだような「ソフィストケート」された良識的な表現をしたり、そういう大人が多すぎるのが、今のようなおかしな社会をつくっているような気がするのです。感情はもっと素直に出してもいいのではないか。
裸の王様の話のように、子どもの純粋な言動を「社会化」することが社会人になることではないように思うのです。

今回の「喧嘩」(正確には論争ですが)の相手は私の住んでいる我孫子市の市長です。
いろいろと「前史」があるのですが、それを一切省略すれば、それまでの経緯に「切れてしまった私」が「暴言」を吐いたのです。
そして市長から「佐藤さんの発言は普通の住民の発言ではない」といわれました。録音をとっていないので不正確かもしれません。
しかし、この発言に私は恐ろしさを感じました。
「普通の住民」とは何なのでしょうか。
もの言わぬ、ものわかりのいい住民が「普通の住民」なのでしょうか。
そうでないことを願いたいです。
私はよほど社会に適合していないのかもしれません。
まあもしかしたらそうかなという自覚もないわけではありません。
困ったものです。

岩国では住民が声を上げましたが、お上は聴く耳を持たないようです。
どこか似ているような体験だなとつい思ってしまいました。
我孫子市の住民自治はまだまだ遠い先なのかもしれません。

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2006/03/08

■メールの暴力

知るのが遅かったのですが、経済産業省の消費経済部長が、「わかりやすい言葉で政策を伝えたい」と、役職と氏名を明示して開設したインターネットのブログが、3週間ほどで閉鎖に追い込まれたそうです。
「谷みどりの消費者情報」というブログです。
朝日新聞によれば、「谷さんはブログで、悪質な内職商法の問題など消費者関連の政策を紹介、経産省のホームページ(HP)への誘導を狙った。当初は好意的な書き込みが多く、読者との関係は良好だった」そうです。
しかし、いま話題の電気用品安全法に触れたところ、書き込みが殺到したのだそうです。それも悪意をこめたものです。
「その上、ブログの更新が執務中だったことが問題視され、部長は大臣官房から注意を受けた」とも報道されています。

私は電気用品安全法には異論もありますし、ネットで探して読んだいくつかの記事からは谷さんの考え方にはかなりの違和感があります。
しかし、考えが違うことはよく起こることです。
だから社会は豊かになりえるのです。

私が残念に思うのは、せっかく「役職と氏名を明示して開設した」ブログが、壊されていくことです。
実名でブログを開設することを、私は何よりも評価したいと思います。
勇気のいることです。きっと谷さんは書き込んだ後、どのような反応があるだろうかと毎回、胃を痛めていたことでしょう。
私は匿名の発言にはほとんど興味を持ちません。その人の生活の基盤がわかればこそ、メッセージは真実味を持ち、発言に責任をもつ姿勢があるからこそ、その真実性が伝わってくるからです。
実名で書いていた谷さんに拍手を送りたいです。それが崩されたのはとても残念です。
もうひとつ残念に思うのは、「わかりやすい言葉で政策を伝えたい」という行政の試みが失敗したことです。
わかりやすい言葉であるということは、だれでもが反論できる生きた生活用語だということです。実体のない多義的な(無意味なということです)政治用語ではないのです。だからこそ、おそらく暴力的な反論が寄せられたのでしょうが、谷さんの挑戦は行政としても真剣に考えてほしいものです。
行政はコミュニケーション活動や情報発信活動に莫大のお金を使っていますが、もしかしたら本当は真実を伝えないために、あるいは議論を起こさないために、あえて「伝わらないようにしている」と思えるほど、わかりにくい言葉を使っています。
そういう状況を苦々しく思っている私は、谷さんのブログの挑戦から学ぶことはたくさんあるだろうと思うのです。
この事件はとても大きな意味を持っている事件だと思います。
こうして社会は劣化していくのでしょうか。

それにしても、日本人は議論も下手だし、自分たちのメディアを育てていくことも下手ですね。
もちろん私もそうです。
私は議論が大好きなのですが、議論の仕方は極めて未熟なのです。
このブログを読まれている方はすでにお気づきだと思いますが。

ビッグイッシューに触らないようにしながら、もう少しこのブログを生きながらえさせたいと思っています。

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2006/03/03

■喧嘩の始め方と終わり方

私は「非戦論者」ですが、好戦的な一面を内在させています。
喧嘩にも効用があると思っているのです。なにやら矛盾していますが。
個人生活においても論争が大好きです。それも時に感情的な論争になりがちです。
本性が見えてきますので、時にそういう自分に嫌悪感を持つこともありますが、この習癖は直りません。
委員会や仕事先でも、時に言わずもがなな刺激的な発言をして、場をしらけさせてしまうこともあります。
それで仕事を失いこともあります。
特に「権力」に対しては、どうしても感情的な反感を持ちやすいタイプです。困ったものです。

私自身は、論争は論争、と割り切っているので、そうした感情も論争が終わると全く消えるのですが、よそからみると喧嘩に見えることもあるようです。
つい数日前もある委員会で破壊的な問題発言をし、それがきっかけで市長と大論争になってしまいました。
しかし、破壊は時に創造や革新につながります。

もう時効だと思いますが、昔、東レでCIプロジェクトに取り組んでいる時に、普通では会えない会長に直接会いたくて、問題発言をぶつけたことがあります。
予想通り、会長室に呼び出されましたが、おかげで会長にプロジェクトの意味を直接話すことができ、共感者になってもらえました。
残念ながら、その会長はその直後、病気で入院され、間もなく死去されました。
そのため、私との約束は果たされませんでした。
もし会長が健在で、私との2人だけの約束が実現したら、私はたぶん東レを辞めなかったでしょう。
初めて口にすることですが。

私が「喧嘩」の仕方に関心を持ったのは、映画「アラモ」です。
アラモの砦に集まった義勇軍たちに、圧倒的に戦力の違うサンタアナ軍は降伏を申し入れます。
砦にいるアラモの義勇兵たちに向かって、降伏呼びかけ状を読み上げている将軍の使者の前で、それを静かに聞いていた義勇軍のリーダーのトラヴィス大佐は、おもむろに吸っていた葉巻の火を大砲に着火、空に向かって発砲させます。
突然の発砲に使者はほうほうの体で帰っていきます。
見事な宣戦布告です。
結果的にはもちろん全員が死んでしまうのですが。
私の大好きな場面で、そこだけを見に学生の頃は映画館に通いました。今もDVDで時々見ます。

堀江メール事件ですが、民主党は喧嘩の始め方を知っていたと思いますが、喧嘩の仕方は知らなかったようです。
そしてもっと悪いことに、喧嘩の活かし方や収め方もしらなかったようです。
武部幹事長は喧嘩の買い方と収め方を知っていました。
私は自分でも驚くのですが、好感さえも抱きました。

喧嘩を活かせないのであれば、喧嘩はすべきではありません。
創造できないのであれば、破壊はすべきではありません。
堀江メール事件で、そんなことを考えました。

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2006/03/02

■トリノオリンピックで納得できなかったこと

オリンピックを見ていて、とても気になったことがあります。
スピードを競う種目で、0.01単位で勝敗が決まることです。
人間が見分けられない時間差で順位を決めようとする発想に違和感があるのです。
0.1秒単位でも私には馬鹿げた話だと思いますが、まあそれは目のいい人であれば見分けられるのかもしれませんので、我慢しますが、0.01秒差は無意味な数字ではないかと思います。人間が競っているわけですから。
競い合わせ、何が何でも勝敗を決めるルールに支配されているオリンピックはどうも好きにはなれません。
人間は機械ではないのですから、もっと競い合いの仕方があるのではないかと思うわけです。
それに機械に依存して0.01秒単位で差をつけるのではなく、人間的感覚で見たら差がつけられない場合は、並んで表彰台に立ってもらえればいい話です。金メダルが複数でもいいでしょう。その分だけ幸せが増えるのですから。
フィギュアスケートも私にはほとんど興味ありません。私には、3回転しようと4回転しようとどうでもいい話で、もっと大切なのはそこからどういうメッセージなり、夢を感じさせるかが大切だと思います。無理をして転んだりしては興醒めです。

オリンピックは何のために始められたのでしょうか。
私は基本的にオリンピックが好きではないのでしょうね。
ドービングなどを引き起こすイベントがいいはずは無い、と私は思っているのです。
お金に汚染されすぎています。
偏屈ですみません。

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2006/03/01

■時間の配分で生き方が変わってきます

生活を基準にして考えると、解決すべき問題は3種類あります。
まず自分の暮らしに直接関わる問題です。
家族の問題や家計の問題です。もちろん自らの生命や健康の問題もあります。
自分が動かないと解決しない問題です。

次に自分の暮らしの周辺の人たちが抱えている問題。
自分とのつながりによって、その問題からの影響度は変わります。
全く無視することも可能ですが、その場合は友人を失い、自らの世界を狭める可能性はあります。

そしてもっと大きな範囲の平和や環境問題があります。
これはそれを損なうことをしても自らの暮らしに降りかかってくるマイナスは小さいですから、無視してもやっていけるかもしれません。

これらはきっちり分かれているわけではありませんし、状況によっては直接的なつながりも起こりえます。
そして、多かれ少なかれ自分の生活に影響を与えます。
しかし、時に平和や環境の問題にマイナスの働きかけをすることが、自分の暮らしに直接的にはプラスになることは少なくありません。
それらは必ずしも同じ方向を向いているわけではありませんし、正の相関があるわけでもありません。
そこに大きな問題があります。

これら3つの問題の解決に向けて、私たちはどういう優先順位で、どのくらいの時間を割いているでしょうか。

なにか抽象的な話を書き出しましたが、最近、自分の限られた時間と資源を、これら3つの問題解決にどのように配分すべきかを考えるようになってきました。
私自身の持ち時間の限界が見えてきたからかもしれません。
また「大きな福祉」を目指したコムケア活動に取り組んだおかげで、自分に問題を抱えている人ほど、周辺の人の問題への関心が強いことを知りました。
逆の言い方もできるかもしれません。
実は最近、「悠々自適」という言葉に疑問を持ち出しています。
単なる「ヒガミ」かもしれませんが。

問題解決に向けての時間と言う視点で考えるともっとわかりやすいでしょう。
自分の暮らしのための問題解決に向ける時間は「自分のための時間」です。
「自分」のなかには家族も入ります。人は一人で生きているわけではありませんから、私は、社会の基本単位である家族をいつも発想の出発点に置くようにしています。
周辺での問題解決に向ける時間は「仲間のための時間」です。
周辺や仲間の範囲は人によって全く違うでしょう。
そして最後の平和や環境は、「みんなのための時間」です。
もちろん「みんな」には自分も入っています。

どこにどのくらいの時間を割くか、また配分の優先順位はどうかで、生き方が決まってきますし、考え方も変わってきます。
その集合で、その社会の文化が決まってきます。

こうした視点から、いまの日本社会を見直してみるとさまざまな問題が見えてきます。
日本は経済大国になったといいますが、国民の多くは「自分のための時間」に多くをとられすぎて、仲間のためやみんなのための時間が割けなくなってきています。
言い方を変えれば、そうした生き方によって、経済発展してきたのです。
そして、今やそれが「自分の暮らし」を壊しだしているのです。
経済とは一体何なのか。その問題にぶつかります。

一挙に「みんなの問題」に時間を割くのは難しいかもしれませんが、
まずは隣の仲間の問題に割く時間を少しだけ増やしていければと思っています。

元気が無かった仲間の笑顔を見ると、本当に幸せになります。

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