■喧嘩の始め方と終わり方
私は「非戦論者」ですが、好戦的な一面を内在させています。
喧嘩にも効用があると思っているのです。なにやら矛盾していますが。
個人生活においても論争が大好きです。それも時に感情的な論争になりがちです。
本性が見えてきますので、時にそういう自分に嫌悪感を持つこともありますが、この習癖は直りません。
委員会や仕事先でも、時に言わずもがなな刺激的な発言をして、場をしらけさせてしまうこともあります。
それで仕事を失いこともあります。
特に「権力」に対しては、どうしても感情的な反感を持ちやすいタイプです。困ったものです。
私自身は、論争は論争、と割り切っているので、そうした感情も論争が終わると全く消えるのですが、よそからみると喧嘩に見えることもあるようです。
つい数日前もある委員会で破壊的な問題発言をし、それがきっかけで市長と大論争になってしまいました。
しかし、破壊は時に創造や革新につながります。
もう時効だと思いますが、昔、東レでCIプロジェクトに取り組んでいる時に、普通では会えない会長に直接会いたくて、問題発言をぶつけたことがあります。
予想通り、会長室に呼び出されましたが、おかげで会長にプロジェクトの意味を直接話すことができ、共感者になってもらえました。
残念ながら、その会長はその直後、病気で入院され、間もなく死去されました。
そのため、私との約束は果たされませんでした。
もし会長が健在で、私との2人だけの約束が実現したら、私はたぶん東レを辞めなかったでしょう。
初めて口にすることですが。
私が「喧嘩」の仕方に関心を持ったのは、映画「アラモ」です。
アラモの砦に集まった義勇軍たちに、圧倒的に戦力の違うサンタアナ軍は降伏を申し入れます。
砦にいるアラモの義勇兵たちに向かって、降伏呼びかけ状を読み上げている将軍の使者の前で、それを静かに聞いていた義勇軍のリーダーのトラヴィス大佐は、おもむろに吸っていた葉巻の火を大砲に着火、空に向かって発砲させます。
突然の発砲に使者はほうほうの体で帰っていきます。
見事な宣戦布告です。
結果的にはもちろん全員が死んでしまうのですが。
私の大好きな場面で、そこだけを見に学生の頃は映画館に通いました。今もDVDで時々見ます。
堀江メール事件ですが、民主党は喧嘩の始め方を知っていたと思いますが、喧嘩の仕方は知らなかったようです。
そしてもっと悪いことに、喧嘩の活かし方や収め方もしらなかったようです。
武部幹事長は喧嘩の買い方と収め方を知っていました。
私は自分でも驚くのですが、好感さえも抱きました。
喧嘩を活かせないのであれば、喧嘩はすべきではありません。
創造できないのであれば、破壊はすべきではありません。
堀江メール事件で、そんなことを考えました。
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コメント
喧嘩、僕は少し前までは議論する事と同義に考えていました。けど、それは正論で相手の矛盾を突き黙らせる、勝ち負けのつまらないものでした。佐藤さんの少し前の記事を読んで、ああ、議論というのはそういう建設的なものだと良いなあと思いました。
さて!議論の前に、佐藤さんの「本の紹介」に載せていただいた『私のだいじな場所』という本の専門ブログを作成いたしましたので、ご報告いたします。佐藤さんに紹介してもらった事も載せてありますので、読者の皆さま、これから興味を持ってくださる皆様はぜひご訪問ください!
http://www.hands-on-s.org/daiji/
投稿: よつもと | 2006/03/05 11:39