« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »

2006年5月

2006/05/31

■違法性判断の民間委託

明日から違法駐車の取り締まり業務が民間に委託されます。「違法行為の処罰」が「民営化」されるわけです。
たとえば、大阪府警によれば、これによって大阪府内の駐車違反の摘発件数は3倍になるだろうといわれています。ちなみに、これは大阪府警は仕事をきちんとしていなかったことを公言しているわけですが、恥も外聞も気にしない、警察らしい発表です。
朝日新聞によれば、委託された民間法人は元警察官の職場であるところが多いようですので、これも「産業のジレンマ」のひとつの事例です。仕事をしなければしないほど、仕事は増えるのです。そこに近代産業の本質があります。

ところで、今回のテーマは、昨日に続けて「違法性」です。
近代国家は、暴力を独占することに存続の基盤があります。国家のみが暴力を行使できるようにしたのです。そして、暴力を正当化するための基準が法律です。したがって「違法性」を判断することも国家が独占しています。
いかに「違法」と思われる行為をしていても、国家ではない私人としては、それを処罰できません。この仕組みは実に巧妙で、話し出せばきりがないほど面白い問題です。最悪の政府がなぜ圧倒的な国民の支持を得ることができるかの秘密もここにあるように思います。

今回の改正道路交通法による駐車違反取締りの民間委託は、違法性の判断と処罰を民間にゆだねるということです。
どういう事態が起こるでしょうか。末恐ろしいことになると、私は思います。
なぜそう思うかといえば、「違法性の判断」が、「法の精神」ではなく、「経済基準」によって行われるからです。
道路は自動車が流れるパイプではありません。駐車して何が悪いのか。現状はたしかに違法駐車が多いですが、それでも全く自動車が通れないほどにはならないのは、自動車運転手同士の常識が働いているからです。
常識と法律と、どちらを優先させるべきか。
違法駐車の取り締まり方は、私には全くの方向違いだと思えてなりません。「21世紀は真心の時代」ではなく、ますます「管理の時代」に進んでいるようです。

ソーシャル・キャピタルが、またひとつ壊れていきそうです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/30

■事の良し悪しの発端

「板橋高校卒業式事件」の東京地裁判決で、卒業式に来賓で参加した元教師が国歌斉唱時の不起立を呼びかけたことに対して罰金刑の判決がでました。その判決に、ある人は「日本は法治国家ではない」といい、ある人は「法治国家として当然」とコメントしています。
法治国家とはいったい何なのでしょうか。
憲法を軽視した結果、憲法と現実が違うのは良くないから憲法を変えようという発想が、もしかしたら日本の法治主義なのかもしれませんが、法を持ち出すこともなく、おかしなことはおかしいのです。法は最後の拠り所でしかありません。
最近、企業ではコンプライアンス、つまり遵法精神が語られていますが、遵法などという当然のことを語らなければならないほど、企業はおかしくなっているのかもしれません。
法治国家とか、遵法精神とかが語られなければならない社会は壊れだした社会です。

さて、板橋高校卒業式事件ですが、卒業式を混乱させたというのが罪状です。
そこだけを見れば、確かにそうでしょう。
しかし、なぜそうなったかを考えれば、原因は別のところにあります。
そもそも信条の自由を踏みにじって、国歌斉唱を強要することがなければ、こんな事態は起こりません。
国歌なんだから、起立して斉唱するのが当然だという人はぜひ次の記事を読んでください。
日の丸と君が代

9.11事件はどうみても許せない事件です。その原因を起こしたのは誰でしょうか。
報復という言葉が双方から出されますが、どこから考えるかで意見は全く違ってきます。

事の善し悪しは、起点によって変わってしまいます。
しかし、起点がどこであろうと善し悪しが明確なこともあります。
そこから考えていくことが、壊れかけて社会には必要なことかもしれません。
大切なのは、法の条文ではなく、法の精神でなければいけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/29

■「民」の本質

国民年金保険料の不正免除・猶予手続きが問題になっています。
矢面に立たされているのが社会保険庁の村瀬長官。民である損保ジャパンからスカウトされた「期待の星」だった人です。
ちなみに、社会保険庁の最高顧問は、民の浜田広さんとNPOの世界にも関わっている堀田力さん。いずれも、社会的な評価の高い人です。まあ、最高顧問という名前からして、組織の隠れ蓑に使われる「走狗」でしかないわけですが。堀田さんにしても、それに勝てなかったということでしょうか。
やはり現場の体験のない人は、結局は組織を壊せないのかもしれません。

今回の事件で明らかになったのが、「民」の本質だと思いますが。いかがでしょうか。
まだ「民営化」信仰を捨てられないでしょうか。

損保ジャパンは、NPO支援でもとてもいいプログラムを展開している会社です。
ここにも「民」の本質があります。
だいたい、「社会貢献」などと自ら語っているような会社は信頼できません。本業で社会貢献していないことを明言しているわけですから。
「奉仕」とか「貢献」とか言う言葉は、自らが言うべき言葉ではありません。その見識もない経営者がいかに多いことでしょうか。
しかしそれが、日本の現在の「民」、つまり企業の実態なのです。
本当の民は「民営化」の「民」とは違うのです。
損保ジャパンの文化と経営観が、今回の事件をもたらしたと言い切って良いかどうかは迷いますが、加速させたことは間違いないでしょう。
日本の行政がこの10年、一生懸命に取り組んできた「経営発想」とはこの程度のことでしかありません。

しばらくブログを書く気にならなかったのですが、やはり書くことにしました。
書いているとだんだん腹立たしくなって、精神的に良くないのですが、書かない自己欺瞞感も高まってきましたので、ブログを再開します。
村瀬長官のような「犯罪者」を放置しておいては、社会はますます劣化するでしょうから。
まあ、多くの人は彼を犯罪者とは思わないでしょうね。そこが問題なのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006/05/01

■組織起点の常識と個人起点の常識

大型連休です。
会社を辞めて以来、ゴールデンウィークは私にとってはほとんど意味のないものになりました。会社時代は仕事から解放される週間でしたが、いまはむしろ仕事をする週間になっています。
組織に属して仕事をするか、自分で仕事をするかで、全く違った意味を持ってくることを実感したのが、この大型連休の意味の変化でした。
会社時代もスタッフワークが中心でしたので、家に仕事を持ち込むことは多かったのですが、そして連休もいつも仕事を持ち込んでいましたが、気分的には解放されている気分でした。
しかし、会社を辞めてしまうと、いつも解放されているわけですから、連休は全く意味のないものになりました。
言葉ではなかなか伝えられないのですが、大きな変化でした。
連休に限らず、時間の意味も変わりました。
一言でいえば、時間価値が飛躍的に高まったのです。会社時代には勤務時間中の「時間」を無駄に浪費していたことを反省させられました。
時間だけではありません。私財もお金も無駄使いが多かった気がします。
事務用品ひとつとっても、今ではコスト意識が全く違っています。

現在の多くの制度や仕組み、あるいは常識は、組織起点で発想する時代の枠組みで構築されています。そこから離れて生きだすと、風景は全く変わってくるのです。
団塊の世代が組織を辞めだしますが、彼らがどう感ずるかとても興味があります。

「コモンズの悲劇」という話がありますが、それは組織起点で発想した場合の話です。個人起点で考えると「コモンズの幸せ」という話になるはずです。
組織でいえば、それを可能にする一つの方策がオープンブック・マネジメントです。
まちづくりでいえば、共創型まちづくりです。

今年は仕事三昧の連休を予定していました。
NPO関係の報告書づくりがあるからです。
しかし、天気に恵まれそうな連休に自宅でパソコンに向かい続けることはとても難しいです。前半、飲まず食わずで報告書を仕上げて、後半は出かけることにしました。

となると、会社時代とあんまり変わっていないですね。
どこが違うのか、もう少し考えたいと思います。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年4月 | トップページ | 2006年6月 »