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2006/05/01

■組織起点の常識と個人起点の常識

大型連休です。
会社を辞めて以来、ゴールデンウィークは私にとってはほとんど意味のないものになりました。会社時代は仕事から解放される週間でしたが、いまはむしろ仕事をする週間になっています。
組織に属して仕事をするか、自分で仕事をするかで、全く違った意味を持ってくることを実感したのが、この大型連休の意味の変化でした。
会社時代もスタッフワークが中心でしたので、家に仕事を持ち込むことは多かったのですが、そして連休もいつも仕事を持ち込んでいましたが、気分的には解放されている気分でした。
しかし、会社を辞めてしまうと、いつも解放されているわけですから、連休は全く意味のないものになりました。
言葉ではなかなか伝えられないのですが、大きな変化でした。
連休に限らず、時間の意味も変わりました。
一言でいえば、時間価値が飛躍的に高まったのです。会社時代には勤務時間中の「時間」を無駄に浪費していたことを反省させられました。
時間だけではありません。私財もお金も無駄使いが多かった気がします。
事務用品ひとつとっても、今ではコスト意識が全く違っています。

現在の多くの制度や仕組み、あるいは常識は、組織起点で発想する時代の枠組みで構築されています。そこから離れて生きだすと、風景は全く変わってくるのです。
団塊の世代が組織を辞めだしますが、彼らがどう感ずるかとても興味があります。

「コモンズの悲劇」という話がありますが、それは組織起点で発想した場合の話です。個人起点で考えると「コモンズの幸せ」という話になるはずです。
組織でいえば、それを可能にする一つの方策がオープンブック・マネジメントです。
まちづくりでいえば、共創型まちづくりです。

今年は仕事三昧の連休を予定していました。
NPO関係の報告書づくりがあるからです。
しかし、天気に恵まれそうな連休に自宅でパソコンに向かい続けることはとても難しいです。前半、飲まず食わずで報告書を仕上げて、後半は出かけることにしました。

となると、会社時代とあんまり変わっていないですね。
どこが違うのか、もう少し考えたいと思います。はい。

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