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2006年6月

2006/06/30

■宮内義彦さんのコーポレートガバナンス論

宮内義彦オリックス会長が村上ファンドに絡んで話題の人になりだしています。
私は以前から宮内さんの資本重視のコーポレートガバナンス論には違和感をもっていましたので、少しだけホッとしています。
これで日本のコーポレートガバナンス論も少し方向転換してもらえればうれしいことです。
しかし、そうなるかどうかは楽観は出来ません。
根はもっと深いでしょうから。

彼らの論理からすれば、お金がお金を稼ぎ出すのは悪いことではないのです。
そもそも企業とは、あるいは行政機構とは資本家のものなのです。
金を持っている資本家がさらに金を増殖させていくための仕組みでしかないのです。

福井さんにしろ宮内さんにしろ、村上さんと同じ発想の持ち主ですから、
彼らの考える「志」とは、堀江さんや村上さんのような金銭重視主義です。
ですから、素直に村上さんのように、儲けたかった、といえばいいのではないかと思うわけです。
儲けて何が悪いなどと惨めな開き直りはいけませんが。

企業経営者のアカウンタビリティも宮内さんたちが盛んに言っていたことです。
しかし、自分の問題になると途端に口を閉じてしまうような、アカウンタビリティ論はいかにも残念です。
宮内さんにはせめて福井さんのような嘘はついてほしくないと思います。
危機管理の本質はフランクネスです。
人間は過ちを犯します。
志が高くても目の前にお金が積まれれば動揺します。
だから人間は魅力的なのです。

大切なのは過ちを犯すことではなく、それに気づいたときの対処の仕方です

みんな見ています。
社会に、とりわけ次世代を担う若者たちに与える影響は大きいです。
福井さんは間違いましたが、宮内さんには間違ってほしくないと思います。
まだ間に合うように思います。

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2006/06/29

■よそ者を排除する意識

今朝、見聞した話です。
近くの人が相談に来ました。
東北から数年前に転居してきた方ですが、自動車の登録ナンバーを前のナンバーから近くの野田ナンバーに変えることにしたのだそうです。
その手続きを自分でしようと警察署に相談に行き何枚かの申請書をもらったのですが、どうもその書き方が良くわからないというのです。
相談を受けた女房も混乱気味ですので、たまたままだ自宅にいた私にお鉢が回ってきました。
最近は私もこの種の申請書の書き方には不得手になっていますが。
ところでなぜナンバーを変えるのですかとお聞きしたら、地元ナンバーでない自動車が走っていると不審車だと思われるというのです。
自宅前に駐車しているときは、車に「我が家の自動車です」と張り紙をしているのだそうです。
いささか過剰反応ではないかと思ったのですが、ナンバーまで変えようという気になったのにはそれなりのいやな体験があるのでしょう。
警察への通報もあったのかもしれません。
万一事件でもあれば、疑われるかもしれないという不安もあるのかもしれません。
考えすぎですよと笑いたいところですが、昨今の社会状況を考えると笑えない気がします。
よそ者への不信感はみんなの意識の中にかなり強く埋め込まれています。しかし、その一方でよそ者への憧れや親切心もまた埋め込まれているような気がします。
余裕のある時には後者が、余裕のない時には前者が強く出てきます。
おそらく今は前者が強く出てきている時代なのでしょう。
不幸な時代です。

本当は「よそ者」は自らが創りだすもので、自らを相手の「よそ者」にしてしまう自閉的行為でしかないのですが。
ちなみに、自動車のプレートにはナンバーだけではなく、所有者の顔写真と名前を大きく掲示すべきだと、私は25年前の自動車会社の懸賞論文に書いたことがあります。
表情があれば、決してよそ者にはならないような気がします。
「よそ者」問題は実に私たちの社会を象徴する面白い問題です。

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2006/06/28

■薬害C型肝炎訴訟控訴に見る政府の姿勢

朝日新聞で読んだのですが、薬害C型肝炎訴訟で敗訴した国は判決を不服として大阪高裁に控訴したというのです。
以前から書いているように、この事件は国と製薬会社の共謀事件だと思いますし、その事件の異常さにおいては、最近起きた生き埋め殺人事件とそう違わない残虐性を持っていると私は思うのですが、国はまだ被害者を救うよりも、当事者をかばったり権威を守ったりするほうが大切のようです。
控訴を決めた責任者はいったい何を考えているのでしょうか。
国が愛されなくなるのは当然だと思いたくもなります
国と私たちとは超えがたい溝を感じます。国民主権とはどういう意味なのでしょうか。

まず考えるべきことは、目の前にいる被害者の救済です。
財政問題などは瑣末な問題です。いかように解決できます。
しかし今被害に苦しんでいる人には、今の救済が大切なのです。
感染時期の問題も瑣末な技術論です。責任回避などをしている場合ではないでしょうに。
改革すべきは行財政改革ではなく、価値観なのかもしれません。

時間感覚に関しても書いたことがありますが、政治家の時間感覚はどうして当事者の時間感覚を斟酌できないのか不思議です。
マクロとミクロの違いなどでは決してありません。
生活感覚の有無ではないかと、私は思います。
そうはなりたくないものです。

いまをしっかりと生きるように努めたいと、最近、改めて思っています。
明日などないかもしれないからです。
だからこそ、ビジョンも大事なのですが。

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2006/06/27

■得をするのはだれか

探偵小説の犯人探しでは、その事件で得をした人を探せといわれます。
実際の事件はそれほど単純ではありませんが、事件を解く時のひとつの視点であることはまちがいありません。

テポドン騒動で一番利益を受けているのは誰でしょうか。
私は、ブッシュ政権と小泉政権だと思います。
金正日は、その2人との指示のもとに動いていると考えてみたら、どうでしょうか。
つまりこの事件は、最初から仕組まれた「日米政府主導の演出」だったというわけです。
そう考えるとさまざまな問題が納得できるような気もします。

では、9.11事件はどうでしょうか。
主犯はブッシュ政権とする見方がありますが、仮にそうだとして考えて見ましょう。
いろいろなことがつながってきます。
これについては、Spiritual Peace Musicianの池邊幸惠さんのサイトに興味ある記事のPDFがリンクされています。

また、本日6月27日発売の週刊誌「SPA!」にきくちゆみさんが、書いています。
きくちゆみさんのホームページもぜひご覧ください。

ちょっと視点を変えると世界は違った風景になります。
セロのマジックのような大きなマジックが、もしかしたら世界を覆い始めているのかもしれませんが、事の真相は意外と簡単なのかもしれません。

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2006/06/26

■チャッピーの悲劇

我が家の愛犬はチャッピーといいます。
私は「チビ太」と呼んでいますが、本名はチャッピーなのです。
「血統書つきの名犬」だった、はずなのですが、彼の不幸は生後まもなく起こりました。重い病気になったのです。
ペットショップに頼んでいたのですが、引取り直前に入院する羽目になりました。
詳しくは聞いていないのですが、かなりの重症だったようです。
2か月後にショップから電話があり、どうしますかと問われました。
もし断れば、彼の人生はかなりの不幸が予想されそうな気配もあり、引き取ることにしました。
引き取って少しして、ショップの人が心配して電話して来ました。
大丈夫かというのです。
もちろん大丈夫でしたので、なんと親切な良心的なショップかと感心しました。
しかし、ショップの人が心配するだけの事情があったのです。

不幸はその半年後から起こりました。
その時はもう「チビ太」くんは我が家の大事な家族になりきっていました。
不幸が起こったのは突然です。
娘が彼の背中を撫ぜた時に、突然、噛み付いてきたのです。
中途半端な噛み方ではありません。牙が皮膚に食い込んで出血です。
噛んだ「チビ太」は急に震えだして、引きつった表情をしていました。

それを契機に、彼が家庭内暴力を振るようになったのです。
いや家庭内だけではなく、外でもその恐れが出てきたのです。
普段はとてもおとなしく、可愛いのですが、いつ突然に豹変するかわからあないので、誰も安心できなくなりました。
家族はみんな噛まれて、病院通いです。みんなどこかに傷跡をもっています。手術を受けた家族が2人います。

今でも突然牙をむいて震えながら噛み付いてくる態度は直りません。
それも突然なのです。筋肉質の犬なので、噛まれると大きな穴が開くくらいの凄さです。

勝手な想像ですが、これはきっと生後の病気時に隔離され「処置」された体験がトラウマになっての異常行動ではないかと、我が家では解釈しています。
そのため、我が家では誰も彼を抱いたり、十分なスキンシップができないのです。
とても不幸な話です。
子どもの頃の「甘噛み」は「安心した生活」はとても大切なことなのです。

些細なことからけんかになって、それが相手を実際に殺してしまうまでの暴力行為になり、2人の若者が殺されてしまう事件が起こりました。
子どもの頃から小さな喧嘩を積み重ねていないために、最近は喧嘩の「ルール」も身につけずに大人になる人が増えているのでしょうか。
あんまり体力もなく、結構「優等生」だった私ですら、子どもの頃は取っ組み合いの喧嘩をしたことも皆無ではありませんが、今はそういう経験はなくなっているのでしょうか。
なにしろ運動会でも、騎馬戦や棒倒しはなくなったと聞いています。
なんだか怖い話です。

国家間の関係も少し似ていますが。

安全が重視されてきていますが、それが大きな不幸につながらないことを祈らずに入られません。
優等生もどんどん小さな喧嘩をしていくことが大切です。
「喧嘩」を新しい科目に取り入れたらどうだろうかと、真剣に思ったりしてしまいます。
だめでしょうか。
我が家は夫婦喧嘩が多いので、良好な夫婦関係を今でも持続しています。はい。

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2006/06/25

■個人情報保護に関して思うこと

個人情報保護ということが盛んに言われだしています。
私は今、自治会の会長をやっていますので、名簿の扱いにはいろいろと注意しなければいけませんが、しかしとても不便なことが多いです。
いささかばかげている話も少なくありません。

自治会の住民の名簿を、市役所から提出を求められるのですが、市役所は使用目的を限定した上で提出したことを承諾したという書類を会長である私に求めてきます。
いかにもお上的な責任逃れを我孫子市役所はしているうえに、その承諾書のスタイルが不備な気もしましたが、我孫子市役所と議論してもらちがあかないことを体験したばかりなので、従うことにしました。
まあこうして住民自治はだめになっていくのだと反省はしていますが。

地域の小学校で安全パトロールをボランティアに依頼していますが、名前だけで住所も電話もおさえていないので、本人の了解を得て住所と電話を教えてくれないかと学校から連絡がありました。
これにも唖然としました。
所在もわからない人に安全パトロールを依頼しているほうが安全ではないように思いますが、個人情報保護法の関係で最初にきちんと把握できなかったようです。
笑い話のような話ですが、これが現実です。

私のオフィスは文京区にあるのですが、その所管の東京電力の支社から「お客さま個人情報の紛失について」という連絡が封筒で届きました。
検針用携帯端末が紛失する事件が起きたようです。
こんな連絡をもらっても個人としては何の意味もありません。
こうした連絡をするコストの分だけ電力料金が高くなるですから、意味のない連絡はしてほしくないですが、これも責任回避のためのものなのでしょう。

個人情報保護法によって、どれだけの社会コストが発生したのでしょうか。
その分、新しいビジネスが発生したという意味では経済効果はあったのかもしれませんが、社会的費用は間違いなく高まっています。

経済行為には、実体価値を創出する部分と実態価値には無縁、もしくは消費する部分があります。
これに関しては「脱構築する企業経営」で論じたことがありますが、これまでの経済はマイナス価値もプラスにカウントする仕組みになっています。
ですから、環境産業が経済成長を牽引するなどという発想が出てくるわけです。

これからの経済は、実体価値を減少させるか、無縁なものは、カウントしない仕組みにしていくべきではないかと思います。
ソーシャル・キャピタルをベースにして、経済を再構築する動きは出てこないものでしょうか。

ちなみに、個人情報保護に関しては、個人情報の悪用に関する厳罰こそが大切だと思います。
最近の法の発想は効果よりも形式や市場拡大の視点から考えられているように思えてなりません。
リサイクル法などはその典型例です。

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2006/06/24

■「ルールを守った上での金もうけは自由」なのでしょうか

村上ファンド事件に関する今朝の朝日新聞の報道記事の中に、

検察幹部のひとりは「ルールを守った上での金もうけはもちろん自由だ」と語った。
という文章がありました。
この考えに私は大きな危惧と違和感を持ちます。
昨今の経済事件のほとんどすべては、この発想から生まれているように思うのです。
いま必要なのは、この発想を問い直すことではないでしょうか。

村上さんが記者会見で「金を儲けることがわるいことですか」と絶叫していましたが、悪いに決まっています。しかしほとんど人は悪いと思わないのです。
皆さんはどう思いますか。そこが問題だと、私は思います。
金が儲かることは悪くはありません。
それは結果論であり、社会に役立ったことの結果です。
しかし、「儲かること」と「儲けること」は、似て非なるものだと思います。

以前、「癒す」と「癒される」の違いを書いたことがありますが、他動詞と自動詞では意味はまったく変わってきます。
同じ行為でも、「働く」と「働かされる」は全く違う行為です。

なぜ儲けることが悪いのか。
人に迷惑をかけるからです。
お金は社会システムですから、配分の問題であり、実体的価値を創造することとは無縁の、まさに「マネーゲーム」でしかありません。
そのゲームの公正さを維持するのが中央銀行の役割です。ファンドを支援するような人をその総裁にして良いのかと、私は思います。もっと中立的な人でなければ、通貨システムの万人に離れないような気がします。
マネーゲームに参加する人たちは、公正さをくぐりぬけることで、マネーからマネーを生み出させることを目標にします。
そんな暇があれば、少しは実態的価値を創れと私は言いたいですが、彼らにはそんな気は微塵もないでしょう。目的は「儲けること」だからです。
そうした人たち、たとえばファンドマネージャーたちと対峙するのが中央銀行総裁なのではないかと思っていました。もちろん現実は、そうはなっていないことは理解していました。なにしろ、金こそずべて、に向けて政治がパワーを発揮している時代ですから。

もっと大きな問題は、「ルール」を守ればいいのかという問題です。
ここでの「ルール」とは何かですが、それが「社会を維持していく上でのルール」であればともかく、この発言の文脈は「法律」のように思いました。
もしそうであれば、以前繰り返し書いた「違法性」への誤解につながります。
「法律」は行為を正当化するものではありません。
それに抵触すれば、外部からの処罰が可能になるというだけのものです。
抵触しなければ良いわけではありません。
そして、法律はもちろんそうですが、ルールもまた時代によって変わる「恣意的なもの」です。
「法律が恣意的?」といわれそうですが、時の権力の所在によって変わるのが法律です。
映画の著作権期間が最近50年から70年に延びましたが、まあそんなものです。
いずれにしろ、「ルールを守れば自由」などという意識の低い人が検察幹部になっているとは驚きです。もう一度、法学を学びなおしてほしいものです。
そもそも「自由」などという言葉を軽々に使ってもらいたくないです。
法律は万能ではないのです。

今日はやや八つ当たり的な書き込みになりました。
金儲けできない者のやっかみかもしれません。
困ったものです。

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2006/06/23

■日本はなくなるのではないですか

つい先日、ある人たちと日本現状の問題を話していて、なんともやりきれない気分になり、どうしたらこの状況は変えられるのか、日本はどうなるのか、と発言したら、その人は「日本はなくなるのではないか」と答えてくれました。
とても気になる言葉です。しかしなぜか違和感はありませんでした。

愛国心を口走る人たちが、いま、日本を、そして日本の歴史を壊そうとしているように思えてなりません。
彼らはもちろん気づいてはいないでしょう。
完全に手なづけられているのかもしれませんし、機械のような官僚制、あるいは制度の中に組み込まれてしまっているのかもしれません。
大村さんのご指摘のように、機械は反乱しないかもしれませんが、マンマシンシステムとしての反乱は十分可能です。

NHKの朝の連続ドラマで、今朝、女学校の教師が「愛国者」による「亡国に向かう授業」を強要されて、教師を辞する最後の授業のエピソードを放映しました。
このドラマが、いまの日本社会を描いているという思いで毎回見ているのですが、今日の展開はまさにいま各学校で行われている亡国のシナリオへの告発のようにも思えました。
「こんな時代もあった」という話では決してなく、まさに今起こっている話なのです。
そう思っている人が少なからずいるのではないかと思っています。
このドラマの演出者はきっと間もなくNHKを辞めるだろうと思いますが、まあそれは考えすぎでしょうか。
考えすぎですね、はい。
しかし、事態はそこまで来ているのかもしれません。
ニーメラーの教訓を思い出したいものです。


パンとサーカスで滅んだローマはもちろん、よく引き合いに出されるカルタゴの亡国の歴史も驚くほどに現在の日本に類似しているように思います。
日本は自国の国民の食料や生活資材を自給することのできない国になってしまっています。つまり、存在が他国の人たちに迷惑をかけているわけです。
今のままでは、なくなっても仕方がないのかもしれません。

事態を変転させなければなりませんが、どうしたらいいのでしょうか。

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2006/06/22

■あり得ないことが存在すること

セロというマジシャンがいます。
一昨日もテレビで放映されていましたが、街中でマジックをやって、たくさんの「サプライズ」を起こします。
それが中途半端ではありません。
あり得ない現実をみせてくれるのです。

たとえば、一昨日のテレビでは水族館の水槽が舞台です。
たまたまその水槽を見ていた人に一組のトランプの中からカードを選んでもらい、そこにサインしてもらい、戻してもらいます。
その一組のカードを水槽のガラス面にぶつけると見学者が選んだ1枚のカードだけがガラスを抜けて水槽の中に入るのです。
あり得ない話です。が、それが起こるのです。

さらに今度は水槽の反対側のガラス面にハンカチをあてて、そこに手を突っ込むと、
なんとその手がガラスを抜けて(当然水槽の中の水が漏れ出します)、
反対側のガラス面にくっついている、先ほどのカードを水槽から引き出すのです。
手が水槽から抜けるとガラス面は元のままです。
水槽の中にある手は、水槽の横からカメラで撮影されています。
ありえない事です。しかし,実際に目の前で起こるわけです。

もしこれが映像の編集の結果だとしたら、その時に偶然その現場に居合わせた人たちみんなが仲間ということになりますが、そうとは思えません。
テレビで同じようなものを観た方も多いと思いますが、不思議というか、悪夢のような話です。

このマジックを観た時から気になって仕方がありません。
もしこれが現実に起こったのであれば、私の価値観は根底から崩れてしまうからです。

たかがマジックに大げさな反応だといわれそうですが、ありえない事が起こることの意味は大きいです。
みんな、ただ不思議だというだけで納得しているのでしょうか。
私の場合は、気になって眠れません。まあ眠れないのは1晩だけですが。

しかし、そのうちきっと麻痺してしまうでしょう。
そうして、ありえない事への違和感はなくなっていくのでしょう。
人間は本当に柔軟です。機械とは全く違います。
そして、機械とは別の意味で壊れていってしまうのかもしれません。

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2006/06/21

■機械の反乱が始まりました

朝起きたら、娘が昨夜からパソコンがつながらなくなったというのです。
調べてみると、電話も通じません。
昨年、我が家は光回線に切り替えたのですが、そのシステムが作動しなくなったようです。
どうしたらいいか、まさに危機管理事態です。

NTTに電話して、確認してもらったのですが、まず言われたのが機器の配線のおかしさです。
これは私がやったわけではなく、回線業者の方が2回も来てやってくれたのですが、どうもおかしいようなのです。
そういえば、光にしたのに私以外は速度も利便性も高まらずにむしろ不調になってしまったと家族全員から言われています。
我が家は家族4人ともがそれぞれパソコンを使ってメールをしているのです。
しかし、そのつなぎ方は私にはまったくわかりませんので、不審に思いながらも打つ術がありません。
仕組みが見えないからです。

今回も電話で相談してくれた娘が、窓口の人から配線の仕方がおかしいようだと言われたそうですが、
工事を手配してくれた会社の人からおかしいといわれるのはいささか心外です。
しかし、下請けの下請けという構造が広がる中で、さまざまなところでこうした事態が増えているのでしょうね。
問題はエレベーターだけではないようです。
見えないところで、さまざまな仕組みが見えない問題を蓄積しているように思います。

昨夜、報道ステーションで古館さんが、
機械が反乱しだしたようだというようなコメントをしていましたが、
これはあながち冗談ではないように思います。

ちなみに私が25年前に書いた「21世紀は真心の時代」の書き出しは、「反乱の時代」でした。
機械の反乱は25年目にして実感できるようになったようです。

修理を娘に頼んで私は福島に出かけたのですが、帰宅したら直っていました。
機械のひとつが壊れてしまっていたようです。
我が家の電話回線くらいでよかったです。テボドンの発射システムの不具合だったら、大変でした。

まさに不安の上に私たちは暮らしているのがよくわかります

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2006/06/20

■大切なのは批判ではなくワクワクするビジョン

松戸市の市長選挙は現職の当選になりました。
現状を変えようという思いで立候補した中田京さんは残念ながら落選してしまいました。

私は松戸市民ではないので、松戸の問題は把握できていませんが、いろいろな人たちから現状の問題点をお聞きしていますし、どんな人でも4期は長すぎるような気がしますので、今回は多分交代になるだろうなと思っていました。
中田さんを応援させてもらっている私にとってはとても残念な結果でした。
なぜ現職は勝ったのでしょうか。
松戸市民ではないので無責任な発言になりますが、現職に対抗することの難しさを改めて感じます。

そこで思ったことの一つが、以前も書きましたが、現職に対抗する人たちのメッセージの魅力ではないかということです。
対抗馬が立候補する状況は、現状にさまざまな問題が起こっているからです。
したがって、多くの場合、対抗馬の人は現状を批判し、その改善策、あるいは改革案を提起します。ここに落とし穴があるのではないかと思います。
どんな現状であろうと、そこから利益を受けている人は少なくありません。しかし、現状に批判的な人はそうしたことをともすると忘れがちです。
私もこのブログで、さまざまな問題を批判していますが、おそらくほとんどの方はその批判の対象に依存している部分が多いはずです。
指摘している私自身もそうです。国家による管理を批判していますが、いま、それがなくなってしまえば、私もかなりのダメッジを受けるはずです。
ですから、現状を批判することは多くの人を敵に回すことでもありますし、現状に批判的な人たちの心すらも動かさない恐れがあります。
つまり「批判」は人の心をつかむ魅力を持っていないということです。
大切なのは新しい価値です。
アラモの勇士たちが命を預けたくなるような、ワクワクするビジョンなのです。
もっと言えば、マジックワードです。

社会の成熟化の中で、選挙戦略も大きく見直していくことが大切だということを、今回の松戸市長選から改めて私は学ばせてもらいました。
選挙だけではありません。
私も少し接点のある、平和関係のいくつかの動きがいま広がっていますが、私はなかなか参加できずにいます。
仲間に入っていながら実際の行動が起こせずにいることをとても心苦しく思ってはいるのですが、なぜか心がワクワクしないのです。
そして「登校拒否」のように、いざとなると参加できなくなってしまうのです。
このブログでは批判ばかりしている私がいうのもおかしな話ですが、やはり目指す価値を中心にしたビジョンを明確に打ち出すところにこそ、エネルギーを注ぐべきなのでしょうね。

CWSコモンズのメッセージでは、それを心がけていたのですが、このブログはやや批判中心になってしまっています。

どうするか、迷いだしています。

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2006/06/19

■日本クロアチア戦を見てしまいました

サッカーが好きではないといいながら、そして最近のスポーツイベントは「パンとサーカス」戦略の陰謀ではないかなどといいながら、昨夜はついついワールドカップのクロアチア戦を観てしまいました。時流に勝てないのが人間なのです。はい。
いつもそうなのですが、見出すと止められなくなるのがスポーツですね。
しかもそこに「戦いの要素」が入るとついつい自分に近いほうに肩入れしてしまいます。それがちょっと高ずるとファン同士の「戦い」になってしまうのでしょうか。
それにしても、日本チームの動きに一喜一憂し、相手のミスに拍手を送ってしまう自分に、「パンとサーカス」批判論者の自分はいったいどこに行ったのだろうかと思ってしまうわけです。はい。
やはり人間である以上、「パンとサーカス」の魅力には勝てないことがよくわかりました。
ちなみに、テレビにもちょっと映っていましたが、試合終了後の選手たちのお互いに気遣いあう交流風景には感動しました。戦いの中にある「心の通い合い」を象徴していました。

「パンとサーカス」の社会も、それほど悪くないのかもしれません。
問題はそれに代わる魅力的なメッセージがないことなのでしょうね。
それを昨日の松戸市の市長選で感じました。
松戸市の市長選は現職が4回目の当選を決めました。
これに関しては項を改めて書きます。
クロアチア戦を観ている場合ではなかったかもしれません。困ったものです。

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2006/06/18

■「毎日、楽しいね。お母さん」

北九州市の市立病院の人に聞いた話なのですが、
新卒の女性職員を産院に見学につれていったところ、
新生児は初めてという彼女たちは、その可愛さに自分も子どもがほしいと大騒ぎだったそうです。
その人は、若い女性たちが、子どもにもっと触れる機会が増えたら少子化の流れも変わるかもしれないと言っていました。
もう7~8年前の話ですが。

先日の「子育てが不安の風潮」を読んだ人がこんなメールをくれました。
ご本人の許可を得ていないのですが、とても示唆に富む内容ですので、紹介させてもらいます。

今度は2人目の妊娠が発覚。 なんだか慌しい、でもとても幸せな毎日を過ごしています。 初めての妊娠の時もそうでしたが、私は妊娠している自分が大好きです。

この10ヶ月は、私にとって、誰かとつながっていることを実感できるとても大切な時間です。
子供とつながっているのはもちろんですが、子供を通して夫とのつながりも再認識させられるのです。
なんだか無性にあたたかい気持ちになります。
そして生まれてきた我が子は思っていた以上に愛しくて、
人の親になれることの喜びに勝るものはなく、
できれば3人以上の子供に恵まれたいと願う毎日です。

私は、修さんのおっしゃる、すりこまれた「不安」の中には、
「大変だから」不安ということ以上に、
「失敗したくないから」不安と考えている人が多いような気がしてならないのです。
自分を勝ち組にするためには、自分だけでなく子供も家族も勝ち組でなければならないという焦りが、
子育てへの不安を煽っているのではないかと思うのです。

私も人の親ですから、そういう意識がまったく無いとは言いません。
でも、今、目の前にいる我が子は、ただ可愛いくて、そんなくだらない思いを忘れさせてくれます。
思わずギューっと抱きしめてしまいます。
私と夫のところに生まれてきてくれたことに感謝してしまいます。
とは言っても、子供が学校に行き始めたりすると、また違ってくるのかもしれませんが…
でも、どんな風に自分が悩んだり迷ったりするのかも、ちょっと楽しみな気がします。

健全な次世代を育てることが一番の社会貢献だと、私は思っています。
そして健全な人間に必要なのは、
「生きてるって楽しいな」と感じられることだと思うのです。

何でもない普通の日に、我が子たちが「毎日、楽しいね。お母さん」と言ってくれたら、最高に嬉しいです。
そんな日を夢見て、私自身が毎日楽しく子育てしていきたいと思います。

「毎日、楽しいね。お母さん。」
いい言葉です。
読者からのコメントに学ぶことがたくさんあります。

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2006/06/17

■個人の利益と社会の損失の非対称

環境倫理学の加藤尚武さんがある雑誌の対談で紹介していた話です。
ある工場が廃業する時、廃棄物をドラム缶につめて敷地内に埋めたのだそうです。ところが後になって、ドラム缶が腐って廃棄物が漏れ出し、地下水を汚染する事件が起こりました。汚染された水を処理するのに200億円の税金が使われたそうです。
加藤さんは、40万円もあれば、適切な廃棄物処理が行われたはずだと指摘しています。
工場は40万円を節約したために、200億円の税金が使われてしまったという話です。
とても示唆に富む話です。

すぐ思い出されるのが「コモンズの悲劇」です。
全体の損失の上に成り立つ個人の利益が、結局は個人の利益の存立基盤を損なうというのが「コモンズの悲劇」ですが、未熟な社会で起こる現象です。
その視点から、この事例を考えるのも面白いですが、今回の私の関心はが、そこにおける利益と損失のあまりにも大きな差です。
これこそが、社会の、あるいは自然のダイナミズムだと思います。
これを逆転すれば、40万円のコストで200億円の利益を生むこともできるということだと思いますが、これが経済の面白さかもしれません。

アダム・スミスの「見えざる手」の発想は、「コモンズの悲劇」の発想とはパラダイムが違います。
スミスの経済には、個人の利益の上に成り立つ全体の利益を出発点にした経済を感じます。それがいつしか、全体の損失の上に成り立つ個人の利益へと組み替えられ、おかしな形で発展してしまったような気がします。
中途半端に書くと誤解されそうですが、私が考えている「個人起点の社会へのパラダイムシフト」は、「個人の利益の上に成り立つ全体の利益」の発想に立脚しています。ですから、決して「コモンズの悲劇」は起こりません。

ややこしい話はこれくらいにして、今日、書きたいことは日銀総裁の事件です。
福井総裁は1000万円の資金で、汗もかかずに1000万円前後の利益を得ました。
しかし、その行為が社会にどのくらいの損失を与えたでしょうか。
先の事例のように、その損失が明らかな金銭的損失として計上されないのが残念ですが、桁違いの損失が発生しているはずです。
その損失を支えているのは全国民ですが、一人ひとりの金銭的損失額はきわめて小さいが故に可視的にはなりにくいのです。
これは年金基金の無駄遣い問題にもいえることですし、小泉首相の財政の無駄遣いや郵政民営化にもいえることです。どれだけの損失を私たちは負担させられたのでしょうか。
恐ろしいことに、それが私たちには見えてこないのです。財政赤字がいくら増えても、誰も実感できないのです。

つまり個人を束ねることによって、一部の人が好き勝手なことができる仕組みが作れるということです。
それを逆転させれば、違った世界が開けてきます。
たとえば、国民一人ひとりが100円を負担するだけで、100億円の資金が集まります。
カネミ油症事件の被害者も、ドミニカ移民の人たちも、その請求額はそれで対応できるのです。
問題が多すぎて、きりがないと言う人がいるかもしれません。
そうかもしれませんが、その優先順序を考えればいいでしょう。
それこそが「政治」ではないかと私は思います。

今の政治も経済も、すべて発想のベクトルが違うように思います。
個人の利益と全体の利益を対立させない仕組みがあるはずです。
古来からの「結い」や「講」の視点から、あるいは「リパブリック」の視点から、社会を再構成していくことが必要ではないかと思います。

国家の仕組みを私物化している人たちを排除した仕組みが生まれないものでしょうか。
無理でしょうね。
そろそろ国家の役割は終わりつつあるように思います。

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2006/06/16

■関係の逆転

一昨日の続きで「信頼性」について書きます。
私のところには、いろいろな方が雑談に来ます。なかには相談も少なくありません。
相談に対する私の対応は単純です。基本は2つのパターンしかありません。
ひとつは、「それってどういう意味ですか」というソクラテスアプローチです。
相談の内容を肝心の本人が理解していない場合や相談以前の場合の対応です。
問題を理解できれば、ほとんどすべてその時点で解決できたようなものです。
もうひとつは、「いいんじゃないですか」というエンパワーアプローチです。
私に相談した人は大体この答えを受け取ります。
時にアジテーションになったり、コンセプトデザインの手伝いをしたりすることもありますが、基本姿勢はこの2つなのです。
昨日も引用した「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」にアドバイスに関する組織行動学者たちの報告が出ています。
多くの人が、その道の権威や専門家、あるいは有料情報を過大評価しがちだというのです。相談料は高いほど信頼されるそうです。
前者でいえば、答えの内容ではなく、答えた人への信頼性、それもその人の社会的評価が判断基準になっているということです。
そのため、ある分野で有名になった人は、すべての領域で発言を求められるようになるわけです。
後者でいえば、費用と品質は関係しているという認識があるということです。
先日書いたネクタイの話に榊原さんが書いてくれた、ブランド物は高いから売れるという話につながります。

問題は、いつしかそれらの関係が反転してしまうことです。
有名人であるだけで、その人の意見への信頼感が高まることから、その言葉を利用する人が出てきます。
そのため専門分野ではない事柄にまで意見が求められ、意見が言えるようになります。さらに、それがまたビジネスになるのです。
費用と品質の視点からは、値段を高くすることで信頼性を高める発想がでてきます。
価格を高くすることで商品価値や情報価値が高まるわけです。
もちろんそれはあくまでもイメージ価値ですが、その一定の部分は実体価値を生み出すところがややこしいところです。
ちなみに、この構造を合理的に展開する仕組みを構築したのが一時期流行したCI戦略です。発展させることにおいて関係者は必ずしも成功したとは思いませんが。これに関しては、CWSコモンズのアーカイブのコーナーに昔書いたコーポレートデザインの論文を近々掲載します。ちょっと横道に入ってしまいました。すみません。

こうした本末転倒した発想が大手を振って闊歩しているのが現代かもしれません。
これもまた「金銭至上主義の時代」の風景です。

私は相談の専門家でも権威でもなく、しかも有料ではありません。
にもかかわらずいろいろな人が来てくれるのは、もしかしたら「相談」ではなく、「雑談」しかしていないからかもしれません。
「相談」と「雑談」。この違いも面白い問題ですが、これはまたいつか書きたいです。

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2006/06/15

■道義的責任と法的責任とどちらが大切でしょうか

いま、ある企業の従業員のマニュアル作りに関わっています。
但し、これまでのようなマニュアルではありません。
まったく発想の起点が違うマニュアルです。

マニュアルの意味はなんでしょうか。
マニュアルには二つの位置づけが可能です。
行動を管理するマニュアルと行動を支援するマニュアルがあります。
前者はマニュアルが行動を規制します。マニュアルに従うことで責任も回避されます。
これが第一段階のマニュアルですが、社会の成熟化の中で、こうしたマニュアルは逆効果を生み出しかねません。
後者はマニュアルが行動の出発点であり、それを活かすことが課題になります。
マニュアルを参考にしながら現実の対応をしていくわけです。
北九州市のスペースワールドの人にホスピタリティのフォーラムに参加してもらったことがありますが、そのとき、マニュアルを超えることの大切さが語られていたのを思い出します。
マニュアル通りでは十分な対応はできないということです。
現場の人はそれをよく知っています。

今取り組んでいるマニュアルはそうしたことを踏まえて、新しい枠組みを考えていますが、今日の話題はマニュアルではなく、また「違法性」の話です。

法律をマニュアルと考えて見ましょう。
両者は行動における判断基準という意味では同じカテゴリーに属する制度です。
法律は守れば責任を問われないものなのか、つまり行動を管理するものなのか、それとも法律は行動を支援する素材なのかです。

福井総裁の村上ファンドへの出資に関して、法的責任論と道義的責任論がいわれています。
法的責任と道義的責任とどちらが重要でしょうか。
多くの人はきっと法的責任が重要だと思うのではないかと思います。
私は、法的責任などは瑣末な話だと考えている人間です。大切なのは道義的責任です。
なぜ私がそう思うかは、法律は人為的なものであり、統治のために恣意的に決められたものだからです。
国家統治のためには大切でしょうが、庶民の暮らしのためには大して重要ではありません。
重要なのは道義です。
法律に違反しないからといって騒音をたてていていいわけはありません。
統治には関係ないかもしれませんが、生活には支障をきたします。

さらに問題は、法律には抜け道があるということです。
法律に通じた人は、法律遵守をたてにとって道義的責任を逸脱していくのです。
いいかえれば、法律とは違法性を回避するための基準なのです。
ですから法の番人や法に詳しい人は遵法的「違法」行為ができるのです。
それができる人を専門家というのではないかという気さえすることがあります。
ちなみに、ここでいう「違法」とは、法律ではなくもっと大きな意味での自然法を意味します。
ややこしくてすみません。

企業が盛んにコンプライアンス(遵法精神)を語りますが、語るべきはコンプライアンスではなく(そんなことは言わずもがなでしょう)、道義的責任、つまり人間的な考えです。
ゼロ金利を国民に押し付けながら、自らは金で利益を上げる「金への投資」を支援する行為は法的問題ではなく、福井さんの生き方の問題です。
違法行為も時には恥ずべきことではありませんが、道義に反してはいけません。
しかし、専門家にはそんな論理は通りません。
彼らは専門家であり、国の統治の重要な役割を担っている人たちですから。

こうして社会の秩序は壊れていくわけですが、ややこしいのは、これは福井さんだけの問題ではなく、私たちの生き方もまた、多かれ少なかれ、そうした行動に汚染されてしまっているということです。
自分の生き方に時々嫌悪感を持ってしまいます。
人生はつらいものです。はい。

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2006/06/14

■つながりを壊すお金とつながりを育てるお金

日本銀行の福井総裁が村上ファンドに1000万円投資していたことが問題になっています。お金の論理を考えればそう驚くような話ではありませんし、もっと構造的な問題があると思っている私としては、こんな話は瑣末な話です。それに、彼らに「見識」を求めることなど期待すべきではありません。
ある雑誌が富裕族の特集をしているのを満員電車の横の人が読んでいましたが、富裕族の「つながり」は、金を生む源泉であるとともに、金によって維持されるものですから、お金が絡んでくるのは当然のことです。金融関係で仕事をしている人は、ほとんどがそういう「金縁」で生きているのかもしれません。いや、財界の人たちもそれに近いかもしれません。
かくいう私も、一時はそれに少しだけ近づいた時期があり、お金は富裕層の間で回っているのだなと感じたこともあります。その世界を目指せば、私の人生は変わったでしょう。残念ながら私にはその才能がありませんでした。それに、そうして得たお金は、人生の豊かさや幸せにはまったく無縁のものだという気がしていました。
中央省庁の外注業務のうちの随意契約の8割が不適切だという調査結果が今日発表されましたが、これなども「つながり」の中で行われているのでしょう。談合や癒着の文化はそう簡単には変わりません。こうした実態は、関係者はみんなわかっているはずですし、マスコミが取り上げるのはそのほんの一部でしかないでしょう。
「お金でつながった社会」とはもろい社会です。金の切れ目が縁の切れ目になるからです。
今月号の「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」に「ソーシャル・キャピタルの高い組織はむしろ脆い」という調査報告の記事が出ていますが、そこで語られているソーシャル・キャピタルは、まさに「金によるつながり」のようです。まあこれは調査をしたケンタッキー大学の教授の見識のなさを示していますが、それにしても、米国流資本主義においては「金の縁」が人の絆(ソーシャル・キャピタル)の基本なのかもしれません。その世界につながろうとしている日本の政財界の主流の人たちが「金縁」を基準に行動しているのは当然のことでしょう。
ところで、「お金」あるいは「通貨」は、そもそもは人のつながりを創るものです。
しかし、その「つながり」の設計の基本思想は、「つながり」を自立させないことでした。つながりが自立すれば、貨幣も制度も不要になるからです。
そのために、「富裕族」たちは、つながりが自立できないような「貨幣依存の経済システム」を構築したわけです。
もし一時期広がりだした地域通貨やコモンズ通貨を基本にすれば、経済システムも社会のあり方もまったく今とは違ったものになったでしょう。だからこそ、つぶされたのです。今はやっているのは、そのまがい物でしかありません。

今の通貨システムは、つながりを壊すためのメディアなのです。
設計の基本思想を変えなければいけません。

ところで、私が取り組んでいるコムケア活動が標榜しているのは、「金の切れ目が縁のはじまり」です。
100年後にはきっとそうなっているでしょう。確信しています。

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2006/06/13

■カネミ油症事件救済法の見送りの理由

昨夜、日本テレビの報道特集で、カネミ油症事件がまだ終わっていないことを知りました。
この事件に関しては、技術者倫理サロンなどでも杉本さんからお話をお聞きしているのですが、私の中ではすでに解決に向かって動き出しているとばかり思っていました。
そして、恥ずかしいことに、今国会で救済法が課題になっていることすら知りませんでした。反省しなければいけません。

「カネミ油症事件」は1968年に西日本を中心に起こりました。カネミ倉庫が製造した食用油にPCBが混入したため、深刻な健康被害が発生した事件です。1万人を超える被害者が発生し、日本最大の食品公害といわれた事件です。
問題はそれが母体を通じて、子供たちにも影響を与え続けていることです。
孫の代にも被害は少なくないようで、その意味では被害者はまだ増加している状況のようです。
そうした事実をはじめてしっかりと知りました。これまでもきっと聞いていたはずですが、画面で見ると認識は大きく変わります。

土壌汚染などもそうですが、環境汚染や人体障害は次世代へと継承されます。ですから迅速な解決が必要ですが、多くの事件はその最初の対応に遅れてしまい、被害が広がり対策費用も膨大になるのです。

ところで、与党はその被害者の救済法を国会に提出する予定だったようですが、提出を見送ることにしたそうです。
理由は、時間の長い経過の中でいま救済策を出すことが不公平になるということと救済の「適用が広がりすぎる」ということのようです。
昨日のテレビでのコメンテーターは、この法案は票にならないからでしょうと寂しそうに言っていました。

不公平、適用が広がりすぎると、まさに「管理発想」です。
専制国家の君主と自らを履き違えているのではないかと思いますが、思想のないテクノクラートの発想です。
苦しんでいる人がいれば、まずはその人たちに対して何ができるかを考えるのが人間です。

たとえば、難病の子供の手術費用を集めるために、親が行動を起こし、それに共感した友人知人が動き出し、それがテレビなどで報道されると1週間で1億円を超える募金が集まるという事例が増えています。
困った人がいれば、まず動き出す。それをしっかりと時間できれば、可能な範囲で寄付をする気持ちになる。それが人間です。
それがすべてにおいて良い結果を生むわけではありませんが、その原点を忘れてしまったら、どんな制度をつくってもいい結果は生みません。

コメンテーターの「票にならないから」という指摘には、今の政治への根深い不信感を感じます。
私も同感です。
しかし、問題は、そうした問題への取り組みが「票にならない」社会になっていることです。
言い換えれば、私たちがそうした問題を切り捨てているということかもしれません。

テレビはワールドカップでにぎわっています。
私はそれを苦々しく思っています。
ローマ時代の「パンとサーカス」の時代が世界規模で再現されているような気がしてなりません。
サッカーファンには申し訳ないのですが、いかにも過剰報道ではないかと思います。
その1%の費用と時間をこうした事件の報道と支援に使う社会になれば、今よりももっと住みやすい社会になるように思います。

そういう方向に向かうかどうかも、私たち一人ひとりの生き方にかかっているのです。

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2006/06/12

■子育てが不安の風潮

少子化問題を話していて、改めて気づいたことがあります。
子育てへの不安という幻想が少子化を助長しているということにです。
もっとわかりやすくいえば、子育て支援の制度や仕組みができればできるほど、またそうした必要性をマスコミが問題にすればするほど、少子化は進行するのではないかということです。
大学を卒業して今春、企業に入社した女性が「まわりに子育てへの不安があることは事実」というような話をしてくれました。そこでハッと気づいたのです。つまり「不安」というものは誰かから教えられるものだということです。
これもいつか書きましたが、「知は力」が真実であると同じように、「無知こそ力」もまた真実なのです。その意味では、教育が生きる力を削いでいることは否定できません。
大人たちはしたり顔に中途半端の「知識」を次に続く世代に継承し、いつのまにか子育ては難しく、支援する仕組みがなければできないことになっていくわけです。
こんなことを書くとかなりヒンシュクをかいそうですし、子育ての難しさがわかっていないと怒られそうですが、難しいのは何も子育てに限ったことではありません。
人生は難しさの連続であり、だからこそ楽しく豊かなのです。

昨日、オリンピックコンサートなるものを聴きに行きました。
オリンピック選手の活躍や苦労の映像をバックにしたコンサートです。
オリンピックの栄光の陰に、どれほどの困難や苦労、不安や挫折があることでしょう。だからこそ高橋尚子さんはマラソンで優勝した時に、「楽しい42キロでした」と輝く顔で話せたのです。

楽しさと苦しさ、不安と充実、失敗と成功、貧しさと豊かさ。すべてはコインの裏表です。もっとも裏表ではない、貧しさや危険、困難と苦しさもないわけではありません。
安直な子育て支援策は、少子化を加速させこそすれ、問題の解決にはならないでしょう。さらに悪いことは、いまの少子化支援策のほとんどすべてが、金銭での解決の枠組みで考えられていることです。
少子化もまた、ビジネスの材料にされてしまったのです。

少子化支援策に取り組んでいる人たちに、ぜひ考え直してほしいと思います。
支援の意味をよく考えてほしいものです。
子育てにおける支援とは何か。
そこから考えれば、新しい答えは見えてくるはずです。
お金で子供は育てられません。しかし、この数十年、私たちはきっと子供たちをお金で育ててきてしまったのです。それと同じ過ちを今、組織的にやろうとしているのが最近の子育て支援策なのかもしれません。恐ろしい話です。
それに少子化がなぜ悪いのか、きちんと答えられる人はいるでしょうか。人間の視点から、です。労働力不足や市場の縮小は答えにはなりません。
もしなると思っているとしたら、少子化のことを考える資格はないと、私は考えています。

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2006/06/11

■違法な戦争と違法な兵役拒否

一昨日、テレビで米軍将校のエレン・ワタダさんがイラク派遣を拒否したニュースを見ました。
その声明を、ジャーナリストの今井恭平さんの翻訳で読ませてもらいました。
今井さんは翻訳していて涙が出てきたといいます。
ちなみに原文は、次のサイトにあります。
http://thankyoult.org/index.php?option=com_content&task=view&id=22&Itemid=9

以下は、その中に出てくるワタダ中尉の言葉です。

「私は将校に就任するとき、アメリカの法と民衆を守ることを宣誓しました。 違法な戦争に参加せよとの違法な命令を拒むことにより、私はその宣誓に従います。」

いろいろ思うことがあります。
私が真っ先に思い出したのは、あのランディ・キラーのスピーチです。

いずれも現実に起こった話です。
アメリカはコスタリカではありませんから、彼のこれからは厳しくなるでしょう。
コスタリカはサッカーではドイツに負けましたが、愛国心の強さでは世界で最も誇りえる国ではないかと思います。
私には今のワールドカップが、巧妙に仕掛けられたわなのように思えてなりませんが、まあこれは被害妄想でしょう。


ワタダ中尉の声明に自らを反省していたら、さらに恐ろしいメールが飛び込んできました。
要約すると以下のようになります。

CIAにいたレイ・マクガヴァンが暴露したブッシュ政権の戦争計画によれば、遅くも10月頃までに、ブッシュ政権が、イラクに大規模攻撃を仕掛け、侵略戦争を西アジア一帯に拡大する。それに先立ち、ブッシュ政権は、攻撃の口実を作るために、再度9・11事件のような大規模「テロ攻撃」をイランの仕業に見せかけてアメリカかヨーロッパのどこかで仕掛けるだろうとマクガヴァンは警告している。

コメントは差し控えます。

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2006/06/10

■金銭を基軸にした経済システム

千代田線の女性専用車に出会いました。
北千住の駅でJRから乗り継いだのですが、時間が9時半前だったためにまだ先頭車両は女性専用でした。どういう人たちが「女性」なのか興味はあったのですが、ホームに看板を持った駅員がいて、ここから先は女性専用ですと言っていましたので、そちらにはいけませんでした。ここでも無駄なコストが発生しています。高齢の駅員の方に守られてわがままな女性たちがのさばっていると思うといささか腹がたちます。どうせつくるのであれば、化粧専用車をつくってほしいです。
あれほど不快なものはありません。
女性たちの電車の中での言動は私には目に余るものがあります。女性専用車を作る前にやることがあるだろうと私は思います。
それはともかく、昨今の問題解決は、ともかく安直です。
違法駐車問題と同じです。

さて、無駄なコストが発生するといいましたが、働き場が発生するとか金銭の動きが活性化するという意味では、無駄ではありません。
無駄が無駄ではないのが最近の経済システムのポイントです。
つまり価値を評価する視座が人間の生活とは別のところにあるのです。
ニューディール政策で私たちが教えられたように、ともかく「お金」をうまく回すことで「経済」は活性化するのです。
そこでは基軸は人間ではなく、「お金」もしくは「金銭経済システム」です。
人間はその仕組みを支える「消費者」として組み込まれてしまったわけです。
ですから、よく吟味していくと、以前も具体的に書きましたが、豊かさと金銭の多寡とは無縁であるばかりか、むしろ逆相関にあるのです。
しかし、不思議なことに豊かさの指標は金銭だけになってしまったのです。
しかも、その金銭には「表情」がありません。私の持っている1万円札とあなたが持っている1万円札とは同価値なのです。私にはそれが不思議でなりません。
金銭以外のものは、みんな人によって違った価値を持っているのですが。
そこから出発すると、おそらく今とはまったく違った人間が基軸の経済システムが取り戻せるかもしれません。

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2006/06/09

■人の死を喜ぶ社会

「イラク・アルカイダ機構」の幹部ザルカウィが、米軍の空爆で殺害されました。
それを喜ぶ人の姿をテレビや新聞は報道しています。
たとえば、イラクのマリキ首相や駐イラク米国大使です。ブッシュもそうですね。
人の死を喜ぶ。しかも殺して喜ぶ。
不思議な社会です。
まずは「哀悼の意」を表明するのが人間ではないのでしょうか。
アメリカンネイティブを人間と思わずにほとんどすべてを殺戮したアメリカの歴史を思い出さずにいられません。
シンドラー社のエレベーター事故に関する同社のトップの発表と同じものを感じます。
いや彼らだけではありません。
ドミニカ移民訴訟に関する日本政府のコメントも同じでしたね。
人道などは遠い昔のものになったのでしょうか。
国家の本質を垣間見ます。その国家に隷属している人たちには「人間性」はないのでしょうか。
社会はすでにマトリックスの時代になってしまっているのかもしれません。

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2006/06/08

■国への愛と国民への愛

昨日、ドミニカ移民訴訟の判決が出ました。

政府の政策に応じてドミニカ共和国に渡った日本人たちが「募集時の約束と異なる悪条件の土地を与えられ、困窮生活を余儀なくされた」として、国に計約32億円の損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は7日、請求を棄却する判決を言い渡した。(朝日新聞)

判決は、国の責任を認める一方で、時効により損害賠償は否定しました。
その判決に対して、安部官房長官は「国の主張が認められた」という一言ですませました。そこには被害者に対する思いやりの気持ちは微塵も感じられませんでした。
「棄民政策」が問題にされたのは昭和40年代だったと思いますが、この訴訟が起きた時に、まだ問題は解決していないのかと私は驚きました。
今回の裁判でも解決しなかったのかと残念に思います。

問題の解決はそう難しいわけではありません。もしお金の問題であれば、国民に呼びかければ、32億円どころか1000億円くらいのお金はそう難しくなく集まるでしょう。
そういう時代です。

30年ほど前にブラジルに行った時、国の呼びかけに応じてブラジルに移住した人にお会いしました。歳のわりにとても老けて見え、ご苦労がにじみ出ていました。国の無責任さに、他人事ながら怒りを感じたのを思い出します。

日本の政府は国民を愛しているのでしょうか。とてもそうは思えません。
愛さなくてもよいのですが、せめて国民の苦労や痛みはわかってほしいものです。
「痛みを分かち合う」は、まず自らが実践しなければいけません。
国民への思いやりのない政府を、国民は愛せるでしょうか。
愛せるはずがありません。

いま問題の「愛国心」は「国」への愛です。
この「国」というのがまた曲者です。
「国敗れて山河あり」という言葉がありますが、ここでの国は「政府」でしょうか。
愛郷心という言葉の「郷」は自然、つまり山河や文化だとすれば、愛国心の国もまた山河や文化でしょうか。

いま問題の愛国心は政府を意味しているような気もします。
愛国心論争での「国」とは何かもあいままのまま議論されているのが、いかにも日本的です。
郵政民営かもそうですが、多義的な民営化や愛国心をみんな分かったような気になって賛否を議論しています。議論にはなりようがないのですが。
この国には議論する基盤がないのかもしれません。それが悪いわけではありません。それもひとつの文化です。
しかし、何か議論していような勘違いをさせることはフェアではありません。

お上は一方的な愛を求めてきますが、愛は「愛すること」にこそ、意味があるのであって、「愛されること」にはほとんど意味がないというのが私の考えです。
「愛される」ことを強要することほど滑稽なことはありません。
絶対にそんなことは起こりえないからです。たとえ洗脳しても、それは「愛」ではありません。
もし愛国心を養いたいのであれば、まずは愛するべきでしょう。
国民を、そして国を。

愛国心を語っている人たちの愛国心のなさには、私のような愛国者は我慢がなりません。あれ!?、またよくわからない議論になってしまいました。
人間、立腹すると論理的なくなるのです。困ったものです。

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2006/06/07

■庶民の目

昨日、福島でタクシーの運転手と話していて、違法駐車の取締りの話題になりました。
違法駐車がなくなって走りやすくなったでしょうというと、37年のベテランのタクシー運転手は、あれはお上が金儲けのためにつくった仕組みだから私たちにも迷惑な話だというのです。
たとえばトイレに立ち寄るとか弁当を買いにコンビニに寄るのも気を使うようになったといいます。
これまでの道路交通法でも十分に取り締まれたのに、さらにそれに制度を上乗せして、誰かに儲けさせることを考える賢い人がいるのだろうとその運転手さんは感心していました。

ともかく真面目に働くよりも、段取りをつくるのが賢い生き方になったというのです。
最初はその意味がよくわからなかったのですが、どうも「何もせずに儲ける段取り」をつくる賢い人が多くなったので、汗をかいて一生懸命に働く自分たちの暮らしは良くならないということのようです。
それでベトナムにでも移住したいと奥さんに提案したそうですが、拒否されて、相変わらずタクシーの運転手を続けているそうです。
なぜベトナムかは、ベトナムではメイドが雇えるからだそうです。いやはや。
しかし、月1万5千円で生活できるそうです。本当でしょうか。
日本の「下流社会族」がみんなベトナムに移住したら、みんな幸せになりそうです。
私も資格がありそうですので、いざとなったら考えます。メイドは雇いませんが。はい。

村上ファンドの話も出ました。村上さんも汗をかいて働くのではなく、段取りで楽に儲ける人だというのです。
そして、金を儲けても幸せにはならないのに、と同情していました。

この数日、私がブログにややこしく書いてきたことのエッセンスをこの運転手さん(加藤さんといいます)は20分で語ってくれたのです。感激しました。
やはり生活している庶民には事の本質は見えているのです。

見えていて、しかし彼らにゆだねている強かさは、「七人の侍」の農民たちと同じなのかもしれません。
結局、村上さんも堀江さんも、そしてきっと小泉さんも、消耗品なのです。
私も消耗品ではない生き方をしたいと思っているのですが、加藤さんのような生き方を真似なければいけません。

ちなみに加藤さんは63歳で高3の孫がいて、亭主関白に憧れながら奥さんの尻に敷かれている人です。
趣味は勝ったことのない競馬です。酒もタバコもたしなみません。
そして時々、お客さんが乗ったのにメーターを下ろしていなかったり、降りたのにメーターを上げていなかったりして、損をしているそうです。
私が乗った時も途中でメーターを入れていました。
福島で加藤さんのタクシーに乗ったら、すぐ話しかけるとメーターを倒さずに走り出しますので、もしかする無料で目的地にいけるかもしれません。
ぜひお試しください。


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2006/06/06

■儲けることと価値を創ることとは違います

村上ファンド代表の村上世彰さんの記者会見をテレビで見ました。
ある人は「かっこよすぎる」とコメントしていましたが、私には無様に見えました。
第一、内容が支離滅裂です。
その話の骨子でもある「ルールを破ったことは申し訳ない」と「ルールに従って儲けることがなぜ悪いのか」を組み合わせれば、自らがやってきたことへの意味を理解していないことも見えてきます。これは堀江さんと同じです。

もう一つの開き直りは、「儲けることがどうして悪いのか」という発言です。「人を殺すことがなぜ悪いのか」という質問にどう応えたらいいかということが話題になったことがありますが、いずれも簡単な問題です。悪いから悪いのです。誰かを犠牲にするからです。

企業の経営資源は「ヒト、モノ、カネ、情報」といわれます。
いずれも企業の経営資源である前に、企業を超えた社会の資源です。
つまりいずれも限定的に社会から借りていると考えるべきです。
ですから従業員は言うまでもありませんが、自社所有の土地や資金であっても、勝手に処分することは出来ないはずです。
これは、昔、私が雑誌に連載していた「脱構築する企業経営」などに書いたことですが、野村総研の人から「ヒト、モノ、情報」は社会からの借り物であることはわかるが、金は自由に使ってもいいのではないか、と強く言われました。
どうも金銭は他の資源と違うようです。これは昨日の「金銭への愛」問題にも繋がりますが、それは改めて書くことにします。ポイントは「金銭には表情が無い」、つまり普遍的な価値を持つということかもしれません。

自分のお金だからといって自由に使うことは許されないというのが私の考えです。
なぜならばお金はシステムとして意味を持っており、すべてのお金が繋がっているからです。
個人のお金の使い方で、他の人のお金が大きな影響を受けるのです。だから勝手に使ってはいけないのです。
銀行預金が50万円しかない私ならば、どう使おうがあまり影響はでないでしょうが、4000億円にもなるとそれをどこに使うかで大きな影響がでます。そういう意味で、お金もまた社会からの預かりものなのです。ちなみに政府が扱う金額は、それ以上に巨額なのですが、感覚は村上さんと同じく私物化しています。蛇足でした。
お金を使わないこともまた問題です。守銭奴は物欲がありませんが、金銭を死蔵させることで貨幣システムに悪影響を与えます。お金は使うことで生きてきます。

このように、お金は社会システムを構成するメディアです。
儲けるという行為は、お金を集めるという行為です。社会システムのメディアであるお金を集めるにはそれなりの価値の創造が必要です。
守銭奴は一生懸命に価値を作り出し、社会に提供することで貨幣を集めます。その意味では社会に役立っています。お金を死蔵させることで、自ら作り出した価値が不合理に上昇するとしてもそれは大した問題ではありません。メディアである金銭の動きを止めることが問題なのです。

昨今の金融工学的なお金の集め方、つまり儲け方は、基本的に社会にとっての価値の創出には立脚していません。実体経済、実体社会と切り離されたところでの操作で、貨幣が貨幣を生むという世界です。その世界の人たちに、最近の実体経済は振り回されています。それが腹立たしいです。

そもそも「儲けること」は目的概念ではありません。金銭を溜め込む守銭奴が虚しいように、儲けることはあくまでも使うための手段なのです。守銭奴は集めた金銭を社会に還元する資本家に変わることで、社会的価値を創出しだしますが、儲けを目的にしてしまうとそこには社会の視点は入り込む余地はありません。したがって、相変わらず社会にとっては有害な存在になるような気がします。
大切なのは儲けることではなく、集めたお金を生かすことです。
村上さんにはそこに気がついてほしいと思います。
きっと最初はビジョンがあったのでしょうが、理念が不在だったのかもしれません。
「儲けることがなぜ悪いのか」という質問に哀れさを感じました。かっこよさは微塵も感じませんでした。

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2006/06/05

■5000円のネクタイと398円のネクタイ

企業の仕事をまた再開した関係で、最近はネクタイをすることが増えました。
同じような柄のネクタイがあります。
1本はデパートで購入した5000円のネクタイ。もう一つは興味本位で立ち寄ったドンキホーテで購入した398円のネクタイ
ところがこの1年くらい、あまりネクタイをしていなかったためか、どちらがどちらかが分からなくなってしまいました。
専門家が見ればすぐ分かるのかもしれませんが、私にはもはや区別はつきません。
となると、これからはドンキホーテで398円のネクタイを買えばいいことになります。
しかし、価格が安ければいいわけではありません。
ドンキホーテのネクタイとデパートのネクタイとでは、着用している時の気分が違うのかもしれません。そこが経済のおもしろいところかもしれません。
同じネクタイをドンキホーテと専門店で価格を変えて販売したらどうでしょうか。
お互いに売れるかもしれません。
経済とは、極めて人間的な要素に支配されている世界です。

今日、座談会があって、それに参加しましたが、そのいずれかのネクタイをしていきました。どちらか分からなくなったので、今やオールマイティのネクタイです。
状況にあわせて、思い込めるからです。
退屈な話ですみません。
私にはなにか「大発見」のような気がしたのですが、書いてみたら、それがどうしたというような気がしてきました。はい。

ところで、昨日の記事の「金銭への愛」は、どうもピンとこないというご指摘をいただきました。
たしかにそうですね。
実は私も括弧書きで書こうかと思っていたのです。
しかし、そう指摘されて気がついたのですが、なぜピンとこないのでしょうか。
これも面白い問題のような気がしてきました。
もしかしたら、また「大発見」に繋がるかもしれません。
少し考えてから、このブログで書いてみたくなりました。
それにしても、世の中にはどうしてこんなに面白いことが多いのでしょうか。
もう3万年くらい生き続けたいものです。

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2006/06/04

■「悪しき企業の経営」モデル

NPO学会の大会が新潟でありました。
私は学会メンバーではありませんが、コムケアのパートナーである住友生命の井上さんからコムケアの体験を発表するのでセッションに参加するように連絡がありました。
コムケアは井上さんのおかげで実現した仕組みですから、参加しないわけにはいきません。30分のセッションのために2時間かけて新潟まで行きました。
この学会には友人知人がたくさんいます。私の参加したセッションにも数名の知り合いの顔が見えました。私は発表してすぐ退室したので、残念ながらお話はあまりできませんでした。
発表で余計な修飾語をつけてしまいました。それもやや「感情」を込めてです。
事業型NPOが増えていることに言及して、しかし、それらがモデルにしている経営発想は「悪しき企業の経営」をモデルにしているので心配だと発言してしまったのです。質疑応答で思ったとおり質問がありました。「悪しき企業の経営とは何を意味するかお聞きしたい」というのです。余計な言葉は反発を生み、メッセージを拒否されてしまうものです。その経験を私は山のようにしていますが、いまだに治りません。これは一種の病気です。困ったものです。
「悪しき企業の経営」に込めた意味は、金銭経済至上主義の経営です。昨今の企業の経営の多くは、目的と手段が履き違えられています。
最近の村上ファンドやトヨタの経営がその典型です。
また余分な一言がありますね。村上ファンドはともかく、トヨタは入れないほうがいいでしょうね。しかし間もなくトヨタの経営の非人間的な実態は理解されるでしょう。人間を基本にしない経営は手段を目的化した金銭経済至上主義の変形でしかありません。経営の出発点は「愛」ですが、金銭への愛であってはいけません。まあ資本主義とは金銭への愛から始まったのかもしれませんが。
行政でも経営発想が必要だといわれています。
NPOもそうです。
私も同感です。当たり前のことですから。
しかし、昨今の動きには違和感があります。
NPOや行政の経営と企業の経営が違うということではありません。
むしろ私は、いま経営が一番必要なのは企業だと思っています。日本の企業はこの数十年、経営を放棄しているとしか思えないのです。その経営を放棄した企業の行動を「経営」と考えて、NPOや行政が「悪しき風潮」を身につけようとしているのが現状だというのが私の認識です。罪深い経営学者がそれに加担しています。
しかし希望はあります。NPOや町村の中に、しっかりした経営に取り組みだしたところが出てきているからです。そうした経営モデルが、企業を変えていく時代が間もなく来るのではないかと思います。
ベクトルは、企業からNPOではなく、NPOから企業です。それも脆弱なまだ法人にもなっていないようなNPOから。
但し、そのNPOの実態認識において、おそらくNPO学会のメンバーと私とは全く違うでしょうが。
私が間違っていればいいのですが。

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2006/06/03

■違法性の網の広がり

違法性を認識していることは、多くの場合、犯罪の構成要素になっています。
違法性は常識とは違う次元の話ですから、社会の状況によって変わってきます。ですから、違法性の基準を明示していることが法治国家の要件になります。
言い方を換えれば、違法性を問題にするのが法治国家です。国家の前に違法行為があるわけではありません。国家が規定した法律に違反することが違法性の成立要件です。
しかし、法律は多義的に設定される上に、状況の変化により違法性もまた変化しますから、実際には「違法か否か」を判断することは、自明のことではありません。むしろ恣意的なものというべきでしょう。
そこに大きな落とし穴があります。人道に反することは違法性とは別の話です。
違法性の網は、社会の成熟のある段階まではどんどん増えていきます。おそらく今では違法性の網にひっかかることなく生きることは不可能に近いでしょう。
そして、その状況の中で経済主義が優勢になると、「訴訟国家」へと社会は変質します。管理社会といってもいいでしょうか。昨今のアメリカがそうかもしれません。そして、日本もまたそのすぐ手前にあります。
私が法曹界への不信感を強めているのは、経済主義に抗する姿勢が弱いからです。
医療も福祉も教育も芸術もスポーツも、同じ方向に向かっていますから、法曹界だけが悪いのではありません。私は、すべてに不信感を強めています。ですから胃カメラを飲まなければいけなくなってしまったわけです。
もっとも、こうした方向に社会が動いているのは、私たちの生き方の結果ですから、私もまた、それに加担しているわけです。

村上ファンドがインサイダー取引で失速しそうですが、その気になれば、だれもが違法行為の嫌疑をかけられる時代です。恐怖政治の時代がじわじわと広がっているのです。そうした流れの中で、共謀罪法案や愛国心論議を考える必要があります。全体を展望すると、その末恐ろしさが見えてくるはずです。
村上ファンドの暴走には不快感を持っていましたし、インサイダー取引疑惑問題には何の意外性もありませんが、しかし何かもっと大きな不安を感じます。目をつむりたくなるような不安です。

違法性の網は、今やほとんど社会にくまなく張り巡らされました。
法律が一つ出来れば、違法性の根拠は一つ増えるのです。
その網から自由であると、皆さんは自信をもっていえるでしょうか。
残念ながら私には自信がありません。
違法性の網を活用して、社会の舵取りをしているのは、一体だれなのでしょうか。
法律は一体誰のためにあるのか、弱者を守るためにあるのでしょうか。
違法性の網の意味を、もっと私たちは真剣に考えなければいけないように思います。
違法性に惑わされることなく、素直に生きていける社会に生まれたかったと思います。
その時代は今から1万年以上前に終わってしまったのかもしれませんが、未来に再現することは可能かもしれません。いや、社会の本当の成熟とはそういうことではないかと、私は思います。私が生きている間には無理でしょうが。

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2006/06/02

■基本を変えずに問題は解決するでしょうか

NHKの首都圏特報で医療制度が取り上げられていました。
ヒポクラテスの会にも関わっている栗橋病院の本田宏医師が、医師を代表して参加していました。本田さんはずっと前から日本の医療制度の問題を現場からしっかりと整理し、メッセージを送り続けている方です。
本田さんの話を統合医療研究会でお聞きし、とても共感し、以来、お付き合いが始まりました。私のホームページには、時々登場してくれていますが、5月のヒポクラテスの会のフォーラムでもとてもいいメッセージを出してくれました。

今回のテレビでも、本田さんは日本の医師数の絶対数不足を問題提起していました。しっかりしたデータに基づいてのメッセージなのですが、残念ながらその問題提起が番組では議論されることがありませんでした。残念でなりません。
本田さんは現在の日本の医療制度の問題の基本は医師数の不足と医療への財政支出の低さだと考えています。本田さんご自身がさまざまな統計を調べて客観的なデータでそれを論証しています。ご関心のある方は、ぜひ本田さんのホームページを見てください。
私も同感です。
その基本を変えなければ、問題は解決しません。
そうした問題はたくさんあります。
昨日から問題になっている路上違法駐車の問題もそのひとつです。駐車が組み込まれていない都市構造を変えずに、路上駐車を厳しく取り締まるのはいかにも安直です。
しかし、昨今の日本の問題解決策はそういう対症療法が多いように思います。
目先の解決策は話題にはなるでしょうが、事態は逆に深刻になることが多いことを、私たちは認識すべきではないかと思います。

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2006/06/01

■秩序化の基準としての法律と常識

トリッキーなやり方で、共謀罪の法律が成立しそうです。
社会の隅々までが市場化されつつあるように、生活の隅々までが法の対象になりつつあります。これは決して別々の問題ではありません。深くつながっています。財界と政界は同じものです。靖国参拝に関して、政界と財界の意見の違いが報道されていますが、あれは陽動作戦の類でしかないでしょう。政治と経済は同じものです。そこを分けるところから、ある人にとってだけ都合のよい各論的最適化が進むわけです。たとえば、今日から施行された民間による駐車禁止取締は全体の状況を無視した法制化ですから、所詮は弱いものにしわ寄せがいくのです。
国家は法律によって秩序化されていますが、社会は常識に支えられて秩序化されます。
国家にとっては常識よりも法律が優先します。
というよりも、常識を抑えるのが組織(国家)に内在する本質的性向です。しかし、個人にとっては、法律よりも常識が優先すべきです。
法治国家とは常識国家ではないわけです。にもかかわらず、なぜか多くの人は法律に依存したがります。すべてのほうは、実は私法なのですが、それを公法と勘違いするわけです。
英国では成文法よりも慣習法が優先されていた時代があります。私が学生のころは、よくそうきかされました。今はどうなのでしょうか。最近は不勉強で実情を知りませんが、法律よりも常識が優先する社会であってほしいと思います。
もっとも、次の問題は「常識」とは何かです。
書き出していくときりがないですね・
常識に内在するコンフォーミュティを考えると、決してそれがいいとはいえないのですすが、やはり社会の構造原理が問題なのではないかと思います。

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