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2006/06/01

■秩序化の基準としての法律と常識

トリッキーなやり方で、共謀罪の法律が成立しそうです。
社会の隅々までが市場化されつつあるように、生活の隅々までが法の対象になりつつあります。これは決して別々の問題ではありません。深くつながっています。財界と政界は同じものです。靖国参拝に関して、政界と財界の意見の違いが報道されていますが、あれは陽動作戦の類でしかないでしょう。政治と経済は同じものです。そこを分けるところから、ある人にとってだけ都合のよい各論的最適化が進むわけです。たとえば、今日から施行された民間による駐車禁止取締は全体の状況を無視した法制化ですから、所詮は弱いものにしわ寄せがいくのです。
国家は法律によって秩序化されていますが、社会は常識に支えられて秩序化されます。
国家にとっては常識よりも法律が優先します。
というよりも、常識を抑えるのが組織(国家)に内在する本質的性向です。しかし、個人にとっては、法律よりも常識が優先すべきです。
法治国家とは常識国家ではないわけです。にもかかわらず、なぜか多くの人は法律に依存したがります。すべてのほうは、実は私法なのですが、それを公法と勘違いするわけです。
英国では成文法よりも慣習法が優先されていた時代があります。私が学生のころは、よくそうきかされました。今はどうなのでしょうか。最近は不勉強で実情を知りませんが、法律よりも常識が優先する社会であってほしいと思います。
もっとも、次の問題は「常識」とは何かです。
書き出していくときりがないですね・
常識に内在するコンフォーミュティを考えると、決してそれがいいとはいえないのですすが、やはり社会の構造原理が問題なのではないかと思います。

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