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2006/06/17

■個人の利益と社会の損失の非対称

環境倫理学の加藤尚武さんがある雑誌の対談で紹介していた話です。
ある工場が廃業する時、廃棄物をドラム缶につめて敷地内に埋めたのだそうです。ところが後になって、ドラム缶が腐って廃棄物が漏れ出し、地下水を汚染する事件が起こりました。汚染された水を処理するのに200億円の税金が使われたそうです。
加藤さんは、40万円もあれば、適切な廃棄物処理が行われたはずだと指摘しています。
工場は40万円を節約したために、200億円の税金が使われてしまったという話です。
とても示唆に富む話です。

すぐ思い出されるのが「コモンズの悲劇」です。
全体の損失の上に成り立つ個人の利益が、結局は個人の利益の存立基盤を損なうというのが「コモンズの悲劇」ですが、未熟な社会で起こる現象です。
その視点から、この事例を考えるのも面白いですが、今回の私の関心はが、そこにおける利益と損失のあまりにも大きな差です。
これこそが、社会の、あるいは自然のダイナミズムだと思います。
これを逆転すれば、40万円のコストで200億円の利益を生むこともできるということだと思いますが、これが経済の面白さかもしれません。

アダム・スミスの「見えざる手」の発想は、「コモンズの悲劇」の発想とはパラダイムが違います。
スミスの経済には、個人の利益の上に成り立つ全体の利益を出発点にした経済を感じます。それがいつしか、全体の損失の上に成り立つ個人の利益へと組み替えられ、おかしな形で発展してしまったような気がします。
中途半端に書くと誤解されそうですが、私が考えている「個人起点の社会へのパラダイムシフト」は、「個人の利益の上に成り立つ全体の利益」の発想に立脚しています。ですから、決して「コモンズの悲劇」は起こりません。

ややこしい話はこれくらいにして、今日、書きたいことは日銀総裁の事件です。
福井総裁は1000万円の資金で、汗もかかずに1000万円前後の利益を得ました。
しかし、その行為が社会にどのくらいの損失を与えたでしょうか。
先の事例のように、その損失が明らかな金銭的損失として計上されないのが残念ですが、桁違いの損失が発生しているはずです。
その損失を支えているのは全国民ですが、一人ひとりの金銭的損失額はきわめて小さいが故に可視的にはなりにくいのです。
これは年金基金の無駄遣い問題にもいえることですし、小泉首相の財政の無駄遣いや郵政民営化にもいえることです。どれだけの損失を私たちは負担させられたのでしょうか。
恐ろしいことに、それが私たちには見えてこないのです。財政赤字がいくら増えても、誰も実感できないのです。

つまり個人を束ねることによって、一部の人が好き勝手なことができる仕組みが作れるということです。
それを逆転させれば、違った世界が開けてきます。
たとえば、国民一人ひとりが100円を負担するだけで、100億円の資金が集まります。
カネミ油症事件の被害者も、ドミニカ移民の人たちも、その請求額はそれで対応できるのです。
問題が多すぎて、きりがないと言う人がいるかもしれません。
そうかもしれませんが、その優先順序を考えればいいでしょう。
それこそが「政治」ではないかと私は思います。

今の政治も経済も、すべて発想のベクトルが違うように思います。
個人の利益と全体の利益を対立させない仕組みがあるはずです。
古来からの「結い」や「講」の視点から、あるいは「リパブリック」の視点から、社会を再構成していくことが必要ではないかと思います。

国家の仕組みを私物化している人たちを排除した仕組みが生まれないものでしょうか。
無理でしょうね。
そろそろ国家の役割は終わりつつあるように思います。

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