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2006/06/06

■儲けることと価値を創ることとは違います

村上ファンド代表の村上世彰さんの記者会見をテレビで見ました。
ある人は「かっこよすぎる」とコメントしていましたが、私には無様に見えました。
第一、内容が支離滅裂です。
その話の骨子でもある「ルールを破ったことは申し訳ない」と「ルールに従って儲けることがなぜ悪いのか」を組み合わせれば、自らがやってきたことへの意味を理解していないことも見えてきます。これは堀江さんと同じです。

もう一つの開き直りは、「儲けることがどうして悪いのか」という発言です。「人を殺すことがなぜ悪いのか」という質問にどう応えたらいいかということが話題になったことがありますが、いずれも簡単な問題です。悪いから悪いのです。誰かを犠牲にするからです。

企業の経営資源は「ヒト、モノ、カネ、情報」といわれます。
いずれも企業の経営資源である前に、企業を超えた社会の資源です。
つまりいずれも限定的に社会から借りていると考えるべきです。
ですから従業員は言うまでもありませんが、自社所有の土地や資金であっても、勝手に処分することは出来ないはずです。
これは、昔、私が雑誌に連載していた「脱構築する企業経営」などに書いたことですが、野村総研の人から「ヒト、モノ、情報」は社会からの借り物であることはわかるが、金は自由に使ってもいいのではないか、と強く言われました。
どうも金銭は他の資源と違うようです。これは昨日の「金銭への愛」問題にも繋がりますが、それは改めて書くことにします。ポイントは「金銭には表情が無い」、つまり普遍的な価値を持つということかもしれません。

自分のお金だからといって自由に使うことは許されないというのが私の考えです。
なぜならばお金はシステムとして意味を持っており、すべてのお金が繋がっているからです。
個人のお金の使い方で、他の人のお金が大きな影響を受けるのです。だから勝手に使ってはいけないのです。
銀行預金が50万円しかない私ならば、どう使おうがあまり影響はでないでしょうが、4000億円にもなるとそれをどこに使うかで大きな影響がでます。そういう意味で、お金もまた社会からの預かりものなのです。ちなみに政府が扱う金額は、それ以上に巨額なのですが、感覚は村上さんと同じく私物化しています。蛇足でした。
お金を使わないこともまた問題です。守銭奴は物欲がありませんが、金銭を死蔵させることで貨幣システムに悪影響を与えます。お金は使うことで生きてきます。

このように、お金は社会システムを構成するメディアです。
儲けるという行為は、お金を集めるという行為です。社会システムのメディアであるお金を集めるにはそれなりの価値の創造が必要です。
守銭奴は一生懸命に価値を作り出し、社会に提供することで貨幣を集めます。その意味では社会に役立っています。お金を死蔵させることで、自ら作り出した価値が不合理に上昇するとしてもそれは大した問題ではありません。メディアである金銭の動きを止めることが問題なのです。

昨今の金融工学的なお金の集め方、つまり儲け方は、基本的に社会にとっての価値の創出には立脚していません。実体経済、実体社会と切り離されたところでの操作で、貨幣が貨幣を生むという世界です。その世界の人たちに、最近の実体経済は振り回されています。それが腹立たしいです。

そもそも「儲けること」は目的概念ではありません。金銭を溜め込む守銭奴が虚しいように、儲けることはあくまでも使うための手段なのです。守銭奴は集めた金銭を社会に還元する資本家に変わることで、社会的価値を創出しだしますが、儲けを目的にしてしまうとそこには社会の視点は入り込む余地はありません。したがって、相変わらず社会にとっては有害な存在になるような気がします。
大切なのは儲けることではなく、集めたお金を生かすことです。
村上さんにはそこに気がついてほしいと思います。
きっと最初はビジョンがあったのでしょうが、理念が不在だったのかもしれません。
「儲けることがなぜ悪いのか」という質問に哀れさを感じました。かっこよさは微塵も感じませんでした。

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