■道義的責任と法的責任とどちらが大切でしょうか
いま、ある企業の従業員のマニュアル作りに関わっています。
但し、これまでのようなマニュアルではありません。
まったく発想の起点が違うマニュアルです。
マニュアルの意味はなんでしょうか。
マニュアルには二つの位置づけが可能です。
行動を管理するマニュアルと行動を支援するマニュアルがあります。
前者はマニュアルが行動を規制します。マニュアルに従うことで責任も回避されます。
これが第一段階のマニュアルですが、社会の成熟化の中で、こうしたマニュアルは逆効果を生み出しかねません。
後者はマニュアルが行動の出発点であり、それを活かすことが課題になります。
マニュアルを参考にしながら現実の対応をしていくわけです。
北九州市のスペースワールドの人にホスピタリティのフォーラムに参加してもらったことがありますが、そのとき、マニュアルを超えることの大切さが語られていたのを思い出します。
マニュアル通りでは十分な対応はできないということです。
現場の人はそれをよく知っています。
今取り組んでいるマニュアルはそうしたことを踏まえて、新しい枠組みを考えていますが、今日の話題はマニュアルではなく、また「違法性」の話です。
法律をマニュアルと考えて見ましょう。
両者は行動における判断基準という意味では同じカテゴリーに属する制度です。
法律は守れば責任を問われないものなのか、つまり行動を管理するものなのか、それとも法律は行動を支援する素材なのかです。
福井総裁の村上ファンドへの出資に関して、法的責任論と道義的責任論がいわれています。
法的責任と道義的責任とどちらが重要でしょうか。
多くの人はきっと法的責任が重要だと思うのではないかと思います。
私は、法的責任などは瑣末な話だと考えている人間です。大切なのは道義的責任です。
なぜ私がそう思うかは、法律は人為的なものであり、統治のために恣意的に決められたものだからです。
国家統治のためには大切でしょうが、庶民の暮らしのためには大して重要ではありません。
重要なのは道義です。
法律に違反しないからといって騒音をたてていていいわけはありません。
統治には関係ないかもしれませんが、生活には支障をきたします。
さらに問題は、法律には抜け道があるということです。
法律に通じた人は、法律遵守をたてにとって道義的責任を逸脱していくのです。
いいかえれば、法律とは違法性を回避するための基準なのです。
ですから法の番人や法に詳しい人は遵法的「違法」行為ができるのです。
それができる人を専門家というのではないかという気さえすることがあります。
ちなみに、ここでいう「違法」とは、法律ではなくもっと大きな意味での自然法を意味します。
ややこしくてすみません。
企業が盛んにコンプライアンス(遵法精神)を語りますが、語るべきはコンプライアンスではなく(そんなことは言わずもがなでしょう)、道義的責任、つまり人間的な考えです。
ゼロ金利を国民に押し付けながら、自らは金で利益を上げる「金への投資」を支援する行為は法的問題ではなく、福井さんの生き方の問題です。
違法行為も時には恥ずべきことではありませんが、道義に反してはいけません。
しかし、専門家にはそんな論理は通りません。
彼らは専門家であり、国の統治の重要な役割を担っている人たちですから。
こうして社会の秩序は壊れていくわけですが、ややこしいのは、これは福井さんだけの問題ではなく、私たちの生き方もまた、多かれ少なかれ、そうした行動に汚染されてしまっているということです。
自分の生き方に時々嫌悪感を持ってしまいます。
人生はつらいものです。はい。
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