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2006年7月

2006/07/31

■経営者の雇用拡大責任と偽装請負事件

今朝の朝日新聞のトップ記事は「偽装請負」でした。
偽装請負とは、「メーカーなどの企業が、人材会社から事実上、労働者の派遣を受けているのに、形式的に「請負」と偽って、労働者の使用に伴うさまざまな責任を免れようとする行為」(朝日新聞記事)だそうです。
職業安定法や労働者派遣法に抵触し、職業安定法には懲役刑もありますが、適用されたことはほとんどないと書かれています。
最高の業績を上げているキャノンの名前も出ていましたが、違法を指摘されながらまだ行われているそうです。そこに日本の企業の腐った現実があります。
なぜこんな状況になったのでしょうか。
しかも、こんなことをして利益を上げた企業の経営者が財界トップになる時代なのです。
彼らには恥の意識はないのでしょうか。
そうした人たちがトップにいる組織がまともな活動ができるはずがありません。

私が会社に入ったのは昭和39年です。
入社後5年目に、関係会社に出向しました。
そこの経営者が私に、われわれには雇用を拡大していくという社会的使命があると言ったことを今でも鮮明に覚えています。
そういう時代だったといえばそれまでですが、働く場を増やしていくことは、今でも経営を担う人の大きな役割だと思います。
にもかかわらず、最近はリストラと称して、雇用削減をすることが経営者の役割だとされる風潮があります。
とんでもない話だと、私は思いますが、そうした経済政策を推進している小泉首相がなぜか国民の支持を得ています。
支持しておいて、働き場が少なくなったなどとぼやいている国民にはさすがに愛想が尽きる思いですが、財界がたくみにその真実を糊塗していることに問題があるのかもしれません。
賢い人は無知な人をうまく利用するものですから。
また少し口汚くなってきました。すみません。
そういえば、昨日、友人が「最近、何かにつけ怒りっぽくなっているようです」とメールしてきましたが、本当にそうです。
昨日も接客の来客と政治問題で言い争ってしまいました。後味がよろしくありません。

雇用の安定こそが、社会の安定につながりはずです。
自らの存続基盤である社会の安定を損なうような企業の経営者にCSRとか企業倫理を語ってほしくありません。

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2006/07/29

■荒すぎる議論とビジョンの不在

消費税議論が盛んになりだしています。
こうした議論がでてくるたびに思うのですが、日本での議論はビジョンのないままの粗雑な議論ばかりのように思います。
靖国問題もそうですが、大本の理念やビジョンがなく表面的な議論ばかりがなされます。
昭和天皇の言葉は、理念やビジョンがあれば全く意外性などないはずですが、いかにも意外な要素が加わったような報道も行われます。
新聞社の編集委員や論説委員の不勉強は20年位前から私自身はささやかなお付き合いで実感していますが、それにしてもひどすぎる議論が多すぎます。
消費税に関しても、大切なのはその根底に課税理念や目指す社会の姿です。
それに消費税といっても様々です。
日本は世界で最も消費税率の低い国ですが、そんなことすらほとんどマスコミは問題にしません。
私は消費税中心の税体系に転換すべきだと思っていますが、それは社会そのものの重点が生産から消費に変わっているからです。つまり消費するときに考えさせる仕組みが必要だと思うからです。
その視点から考えると、当然、環境や資源を消費する「生産活動」も税の大きな対象になります。
そうした税の役割議論があってこその消費税です。
ちなみに、所得税や相続税をどうするかですが、これも消費起点発想で考えれば問題はありません。
その考えを突き詰めると、実は私の好きなマイナス金利論につながるはずです。
お金で儲けることはたぶんできなくなるでしょう。

一方、生活のための食材や生活必要品は無税にするべきです。
消費に一律に課税することが消費税のすべてではありません。
消費税は庶民にとっては税負担を軽くする最善の方策になるはずです。
そうした細かな議論は、ビジョンがあればこそでてきます。

ともかく税体系は簡単にすべきです。
国で集めて地方に配分する仕組みだからこそ、無駄も不正も発生します。
年金にまで課税するような官僚のための仕事作りをしてはいけません。
最初から年金額を減らせばいいだけの話です。

靖国問題もそうですし、郵政民営化もそうですが、
目的もあいまいで、しかも粗雑な議論で、結局は目先の自分だけの利益に振りまわされている状況から抜けでなければいけません。
せっかく歴史をかけて積み上げてきた郵便の仕組みが、儲けしか考えない民間企業に安く売り渡されたような愚挙は繰り返したくないものです。
国鉄や電電公社が民営化されて良かったと考えている人が圧倒的に多いだろうと思いますが、果たして本当に良かったのかどうか、私は疑問です。
もう一つの方法があったような気がしてなりません。

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2006/07/26

■富裕層が海外に出て行くことをどう考えますか

今朝の朝日新聞に「ハリー・ポッター」の翻訳者の松岡さんの翻訳料収入の課税をめぐる記事が大きく出ていました。松岡さんは日本とスイスの半々で暮らしているために、税率の安いスイスで所得申告しているのが問題になったようです。
私が興味を持ったのは、それに関連して、「富裕層、次々海外へ」という見出しとその関連記事です。企業で成功した富裕層の所得はかなり海外に流れているようですが、形式的な居住地を海外に移すことも多いのでしょうか。
そういえば、中学校の頃、税金の関係でリベリアやパナマに船籍を置くことが多いということを習ったことを今でも覚えています。子ども心に、おかしな話だと強く印象に残ったのです。
これは、いわゆる、便宜置籍船(FOC:Flag Of Convenience Ship)で、「本来、課される税金や法律などから逃れるため、実際の船主とは異なる国に船籍をおいている船」(Wikipedia)のことですが、同じWikipediaによれば、「これらの船は他国の国旗を掲げて操業を行なう上、乗組員の人権も無視されていることが多いため、国際的な問題となっている」のだそうです。
船だけではなく、なにやら現在の経済の本質を象徴しています。

富裕層にとって、国家とは何なのか、かれらの愛国心とは何なのか。
そこで思い出したのが、24日のテレビ朝日の「テレビたっくる」での、森永卓郎さんの発言です。
税制が話題になっていました。税制のことをあまり知らない人たちが話し合っていましたが、そのなかで、森永さんと共産党の議員の方がしっかりと勉強されていることがわかりました。印象に残ったのは森永さんの言葉でした。
法人税制を高くしたら利益を上げている会社が海外に出て行くという自民党の、たとえば高市早苗さんの発言に対して、そういう会社はどんどん海外に行ってもらえばいいと言い切ったのです。
感心しました。私も以前からそう思っていたからです。そういう会社はいらないのです。
それでは経済が成り立たないと自民党の、たとえば高市早苗さんは馬鹿にしたような笑いを込めて切り捨てましたが、そこに彼らの本質を感じたのは私だけでしょうか。
要するに、彼らは国家を自らの利益の源泉と考えており、社会のあり方や仕事への取り組み方、つまり価値観よりも、儲けを自らに持ってきてくれる組織や人の取り込みを基本に考えているのです。いささか極端に言えば、賄賂経済の延長で考えているということです。
経済のパラダイムを変えなければいけません。
経済の位置づけを変えなければいけません。
富裕層にはどんどん海外に出て行ってもらうのがいいと私も思います。
そういう人は、みんなが暮らしやすい社会には無縁な人なのです。

今回もまた暴論に聞こえそうな書き方になってしまいました。
まあ、暴論なのかもしれませんが、
しかし、私は森永卓郎さんのファンになりました。
同じ経済学者でもこんなにも違うものなのですね。
もちろん竹中さんと比べての話ですが。

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2006/07/25

■食医の不在

昨夜、青森の三沢市で花作りに取り組んでいる人たちと話す機会がありました。
参加者の中に保育園や児童館に関わっている人たちがいたこともあって、子どもたちの遊びや食事の話になりました。
三沢においても子どもたちの食事環境は都会型になってきているようです。
ある子どもが、給食の食器を見て、家のとは違うと言うので、よく聞いてみたら、その家ではスーパーで買ってきたプラスチックのトレイをそのまま食卓に出しているのだそうです。
昔は給食の食器が粗末過ぎて問題になりましたが、どうも事態は反対になっているようです。
給食が生命線になっている子もいるそうです。
家族の収入が少ないためにそうなっているのでは必ずしもないようです。

保育園の方が「最近は母親が食医の役目を果たしていないから」といいました。
「食医」。
日本の辞書には出てこない言葉です。

NHKで「チャングムの誓い」という韓国のテレビドラマを放映していますが、そこで先週の土曜日に出てきた言葉です。
チャングムを見ていますね、と質問すると、やはりそうでした。

その番組では、主人公が宮廷の皇太后に、次のような質問を出します。

「人を当てる問いでございます。その方は古くからの食医でございました。明国皇帝の食医は、その方に由来すると言われています。また、その方は一家のしもべで、あらゆるつらい仕事をしながらも、全員の師匠でもありました。この人が生きている間は、この世は山でありましたが、亡くなるとこの世は水に沈んだという伝説があります」

答はわかりますか。
先の発言をされた羽立さんは、「私はすぐになぞの答がわかった」というのです。
答は「母親」です。

母親の不在、食医の不在。
子どもたちを預かっている保育園や児童館の人たちには、そうした社会の実相が見えているのです。
政策立案者に欠けているのは、おそらくそうした社会の実相の把握です。
情報のベクトルを変えないと社会はなかなか変わっていかないでしょう。
行政と住民、経営者と従業員、そうした間で仕事をしていると、そうしたベクトルの転換の必要製を強く感じます。

ちなみに、私は「チャングムの誓い」は今月になってから時々見るようになりました。
この番組は完全な紙芝居で、20年前の日本のテレビを見ているようです。
しかし、メッセージはわかりやすいです。
最近の日本と韓国の社会の実相を反映しているのかもしれません。

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2006/07/24

■管理のための教育と自立のための教育

教育基本法が問題になっていますが、その改正の動きと連動するように各地の学校や教育委員会でさまざまな問題が起こっています。
ある学校では教育勅語を生徒に唱和させたり、問題になっている教科書が住民の反対にも関わらず使われることになったり、メーリングリストにはそうした話が毎日飛び交っています。
教育を受ける権利は憲法で認められていますが、問題はその教育の中身です。

教育は2つの側面をもっています。
管理のための教育と自立のための教育です。
教育制度の設計主体が管理側にあれば、おのずとその内容は支配や統治のためのものになります。
経済成長を支援するための産業社会への順応教育も、この一種と考えていいでしょう。
これが悪いわけではなく、そのおかげで日本は豊かで安全な社会を実現しました。
しかし、そこには危険性も内在します。ナチスや今の北朝鮮の事例はそれを物語っています。
この種の教育は、ある段階まではメリットが大きいですが、ある段階を超すと管理側にさえマイナス面が出てきます。
しかしその段階で軌道修正する仕組みはほとんどの場合、仕組まれていませんから、破綻しかありません。

自立のための教育は個人に基点をおいています。
多様な選択肢を用意することが管理側の役割になります。
そこに市場原理を入れたほうが多様性を実現できるという主張が最近強くなっていますが、そんなことは絶対にありません。
市場原理の本質は多様化ではなく、画一化です。
そのことが忘れられているのが残念です。
民営化発想や市場原理は、多様性を壊しこそすれ多様性を増やすことはありません。

一時期話題になったチャプタースクールや私塾はうまく設計できれば多様性につながる可能性はありますが、そこにはしっかりしたコモンズの理念がなければいけません。

教育のありかたは、社会のビジョンと深く関わっています。
ビジョンや理念のない教育改革や研究がはびこっているのが、とても残念でなりません。

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2006/07/23

■長野知事選での田中康夫再選を期待します

長野県の知事選が8月6日です。
これに関してはさまざまな議論が展開されていますが、先の滋賀県知事選の結果が大きな影響を国政に与えたように、この選挙も日本の未来を左右するほどの意味があるように思います。
素直に考えれば時代の流れは間違いなく田中再選ですが、選挙は予断を許しません。
それに田中知事もファシストとまで言われるほどに敵を増やしているようですし、最近の教育行政では教育の現場との乖離も大きくしているようです。
http://w2.avis.ne.jp/~hito-art/nikki-6-7-1.htm
とても示唆に富んでいるのが共産党の動きです。
共産党はなんと「自主投票」を決めたのです。
http://w2.avis.ne.jp/~hito-art/nikki-6-7-6.htm
しかし、気を許すわけにはいきません。
さまざまな利害を複雑に絡ませている旧体制の強さは侮れないからです。
彼らは生活者に政治の利権を渡したくないと資力(死力)を尽くしてくるはずです。
1回目(滋賀)の勝利は、2回目(長野)に有利とはいえないのが政治です。

CWSコモンズで書いたように、友人が福岡市の市長選に立候補しようとしています。また来年の東京都の区議選でも2人の友人が立候補を検討しています。
ようやく普通の人たちが政治に参加しだしました。
いま起こっているのは、政治のノーマライゼーションなのです。
利権政治屋にとっては生きるか死ぬかの物語の始まりなのです。

いずれにしろ政治は大きく変わっていくでしょう。
滋賀県知事選挙はそうした時代のベクトルを顕在化しました。
今回の長野県知事選は、そのベクトルがさらに前に進められるかどうか、とても重要な選挙です。
長野県の久保田さんが投稿してくださったように、時代の流れを戻さないためにも、長野県の皆さんにはしっかりと現実を見てほしいと思います。

先日、長野の県道をバスで走ったら、道路のガードレールが材木で作られていました。
これも田中県政の快挙です。
多くの首長と違い、彼には見識があります。世界が広いのです。
投票権がないのが残念です。

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2006/07/22

■欽ちゃんの教え

メンバーの不祥事件で、衝撃の球団解散宣言から3日目にして、欽ちゃんの茨城ゴールデンゴールズは復活しました。もしこれが欽ちゃんではなく、他の人だったら批判も出たでしょうが、ほとんど批判もなく、元に戻った感じがします。
これは欽ちゃんの人徳が大きな理由だとは思いますが、それだけではないでしょう。
ここから企業の経営者が学ぶことはたくさんあります。
いや私たちもまた、その生き方において学ぶことは少なくありません。
欽ちゃんがこうした素直な対応ができるのは、彼に生き方そのものに拠るところが大きいでしょうが、私たちもその生き方を学ばねばいけません。
自由に、わがままに、無邪気に、迷惑をかけながら幸せもばらまきながら、欽ちゃんの生き方はそんな生き方に見えます。
私にとっては、理想的な生き方に感じます。
彼の優しさと潔さには、たくさんのことを学ばせてもらいました。
難しく考えずに、もっとしなやかに生きていけばいいのです。

政治家もこんな生き方ができないものでしょうか。
福田さんが出馬をやめたのがとても残念でなりません。
欽ちゃんのように、もっと素直にわがままに生きられないものでしょうか。
見えないところで決めていく茶番劇からそろそろ抜け出てもいい頃です。

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2006/07/20

■消えたニュース

最近、ぱったりと村上ファンド関連の福井さんや宮内さんのニュースがなくなりました。
これからやっと宮内さんへの違和感が究明されるかと思っていた矢先だったのですが。
それもすべてのマスコミがいっせいに、です。
どうしたのでしょうか。

マスコミのニュースがみんな同じなのは当然だと思っていましたが、
やはりこれはおかしいことです。
どのニュースを追いかけるか、あるいはきちんと報道するか、
報道の内容もさることながら、報道の対象こそが重要な問題であることに、
私はやっと今日、気づきました。

すでにオーウェルの「1984年」が到来しているのに気づいたわけです。
注意しなければいけません。

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2006/07/19

■名古屋の教訓

昨日、名古屋で乗ったタクシーの座席の前に「自己研修終了認定書」というのがはってありました。
最近は客との対応がいろいろ問題になるので、その研修を受けるのだそうです。
基本は、客を乗せた時間はともかく、ひたすら客に耐えることのようです。
相手のためと思って言っても、受け取り方で問題にされることもあり、
しかし何もいわないとまた無愛想だと怒られるわけです。
問題を残したまま降ろすとすぐに本社に電話があるそうです。
社会の実相が象徴されているようです。

密室的空間に自ら入って、自らの生命を託するタクシーのドライバーとの信頼関係がなくなったときに、
タクシーは存立できなくなるでしょうが、その予兆を感じます。
それは同時に、社会の劣化につながります。
タクシーが公共交通である時代は終わろうとしているのかもしれません。
規制緩和がそれを加速しているような気もします。
どこかに仕組みの問題がありそうです。

こんな話もありました。
名古屋のドライバーは信号切り替えのぎりぎりまで通過するのだそうです。
一番ひどいのは右折信号のある交差点で、右折に切り替わっても直進車が止まらないので、
右折車は今度は赤になっても走ってしまい、
その結果、反対の信号が青になっても、右折車のためにすぐにはスタートできないのだそうです。
つまり信号の効果が全体に少しずつ後ろよりになっているわけで、結局はそれぞれの走行時間は同じになるので、大きな目で見たら損得はないのです。

問題は交通信号の信頼性が低下することです。
私はいつも交通信号の信頼性に驚異に近いものを感じています。
世の中には様々な人がいますが、交通信号はほぼ例外なく守られています。
信号の信頼性を高めたことが、自動車産業の発展を可能にさせた最大の理由とさえ思いますが、
それは単に交通ルールだけではなく、社会生活の基本につながっています。
つまりモータリゼーションの普及と社会秩序の安定とは強い相関があるはずです。
交通事故数とソーシャル・キャピタルの関係は面白いテーマかもしれません。

以上、二つの話から、名古屋の未来を危惧するのはばかげていますが、
なぜか最近の企業不祥事は愛知が多いです。
それにトヨタの本社があるのに、愛知県は毎年交通事故の数では全国の1位か2位なのも理解しにくいことです。
トヨタのCSRの理念も気になります。

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2006/07/18

■財界による消費者情報のオープンバンク構想

パロマ工業の瞬間湯沸かし器による死亡事故が問題になっています。
事故発生後の会社の対応がとても残念です。
日本の企業のビジネスセンス、とりわけ製造物責任感覚はまだまだ未熟のようです。
コンプライアンスやCSRの議論よりも、まずはビジネスセンスを磨くことが大切かもしれません。
以前、書いた松下のファンヒーターも、結局はその裏返しのような気がします。

インターネットがここまで広がってきた状況を考えると、こうしたことの解決策はそう難しいことではないように思います。
内部告発の議論もありますが、消費者情報をもっと社会化すればいいのです。
つまり、消費者の体験や今回のような事故を、社会的に掲示できる仕組みをつくれば、状況は大きく変わるでしょう。
そうした仕組みは、すでに一部のNPOなどが取り組んでいますが、もっと体系的に経団連が中心になって進めたらどうでしょうか。
抽象的な倫理綱領などとは違い、効果は抜群のはずです。
費用対効果も高いはずで、企業にも社会にも、もちろん消費者にもメリットのある「三方よし」のシステムになると思います。
今度、経団連の人に提案してみようかと思いますが、いかがでしょうか。

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2006/07/17

■言葉と文字の持つ意味

印刷の普及が出版物を増やし、それが「国語」を形成し、ナショナリズムを勃興させたという説があります。とても納得できる主張です。
ホンダはかつて企業を活性化させるためにKT法というのを導入し、トップから現場の従業員まですべてこの研修を受けて、社内の言語をそろえたといいます。
バベルの塔の崩壊は、天を目指す人間をとどめるために、神様が人々にたくさんの言語体系を与えて、コミュニケーションできなくさせたからだといいます。
女房は郷里に戻ると方言を使い出しますが、それに伴い人格も変わるようにさえ感ずる時があります。殖産興業・富国強兵に向けて、政府が標準語を重視した理由はよくわかります。
古来の表情を持った地域の名称が機能的な味気ない名称になってから、地域の文化はたぶん崩壊しました。せっかくの地名をひらがな表記する自治体は、愛郷心を育てることはないでしょう。
先週、仕事で50を超える企業の社内報を読みました。社内報には見事にその企業の文化や経営水準がにじみ出ています。
コミュニケーションの仕方やメディアが変わりだしていますが、100年後はどうなっているのでしょうか。
しっかりした国語よりも英語を教えたがる、あるいは学びたがる風潮には大きな危惧を感じます。
また、言語の意味をあいまいにしたまま、金銭を言語代わりにしようとしている企業にも大きな不幸を感じます。

昨日、20年以上前に書いた「非情報化革命論」のコピーが見つかりました。
未完でした。私にとってはもう一度読んでみたかった「幻の論文」だったのです。
20年ぶりに読みました。
言語について、もう少しきちんと考えないといけないことに気づかされました。
情報論は面白い課題がまだたくさんありそうです。
よかったら読んでください。

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2006/07/16

■ゼロ金利時代が終わって残念です

ゼロ金利時代が終わりました。
残念です。
私はマイナス金利派なのです。
まさに最近はマイナス金利でした。
わずかな金利は銀行手数料にははるかに及びませんでしたから、実際にはマイナス金利だったのです。
しかしみんなそれに大きな抵抗もなく、文句はいいながらも順応しだしていました。
新しい経済へのチャンスだったのです。

荷物は保管してもらうと保管料を取られます。
なぜお金だけが保管料も取られずに、利子がもらえるのか、考えてみたことはあるでしょうか。
お金は減価しないし、個性がないので預かっているうちに活用して収益を生むからだという説明は、一見、もっともらしいのですが、
ではなぜお金は減価せずに、収益を生むのかというと、これもよく考えてみると必ずしも公理ではありません。
たとえば地域通貨のように、減価する通貨もありますし、お金が収益を生むのではなく、お金を効果的に活用する行為が収益を生むわけです。しかもお金は利益だけではなく、損害や混乱や不正も生み出します。人間を壊していくことも少なくありません。

利子の考えは、お金が利益を生むという発想を広げ、お金に価値を与え、お金中心の発想を生み出します。
お金があれば、何でもできるなどと思っている人は多くはないでしょうが、しかしお金への過大期待を持っている人は少なくないでしょう。
しかし、無人島で一人になった時に、いくらお金をたくさん持っていても何の役にもたちません。
お金そのものには当然のことながら、何の価値もありません。
お金とは人とのつながりにおいてのみ、意味がある仕組みでしかありません。
しかし、そのお金が「人のつながり」を壊すことはよくあることです。
なんとも悩ましいのがお金です。
いや、現代の経済システムにおける通貨というべきでしょうか。

お金は使ってこそ意味があります。
お金は財産ではなく、みんなをつなげる仕組みです。
ですから、使わずに保有している人のお金を預かる場合は、保管料をもらうのが合理的です。
そのお金を「運用」などで増やそうなどと思う必要はありません。
なにしろ預かってもらわなければいけないほど、お金が余っているのですから。
むしろある程度の損失を前提に、社会活動の支援をしていったほうが、預金者は喜ぶかもしれません。
そんな馬鹿なことはない、と一蹴されそうですが、まずはそうした固定観念を捨てるべきでしょう。説明の仕方は難しいですが、可能性はゼロではないでしょう。

せっかく5年もゼロ金利時代が続いたのであれば、むしろ一歩進んで、マイナス金利へと移行すればよかったのにと私は思います。
マイナス金利になって、みんながお金をもっと使い出せば、社会は元気になります。
無駄遣いが増えるではないかといわれそうですが、それを防止するために、無駄遣いのための消費税は50%くらいに上昇させたらどうでしょうか。
無駄遣いする人はその程度の消費税ではひるみません。
仮にひるんだとしたら、無駄遣いがなくなるのでいいことです。
そして無駄遣いではない、日常生活のための消費に関しては、消費税は無料にするのがいいでしょう。
いや、マイナス消費税があってもいいかもしれません。
無駄遣いもできない、生活消費では余りすぎる人は、稼ぐのをやめて、社会のための活動を始めましょう。
これも結構お金がかかりますので、お金減らしに役立つかもしれません。
それでも余るようであれば、ぜひコムケア基金CWS基金に寄付してください。
いつでも受け付けています。
まあ、私が勝手に使ってしまう可能性が高いのですが。

めちゃくちゃな議論だといわれそうですが、パラダイムを変えたら、そうめちゃくちゃでもないかもしれません。
まあ、こういう書き方をするとめちゃくちゃに感じるでしょうが、大きな枠組みで経済の仕組みを考え直す時期が来ているように思います。

それにしても、金利がわずかに上昇しても、預金がせいぜい数百万しかない私たち庶民の利子収入はたいして増えるわけではありません。それよりも他の料金上昇の余波を受けたマイナスのほうが大きいはずです。
預金で暮らしている年金生活者にとっても、きっとマイナスが大きいでしょう。
よほど巨額な遺産継承者は別ですが。
にもかかわらず、庶民はゼロ金利解除でなにやらうれしい気分になっているようです。
テレビ報道の姿勢にもそれを感じます。
いや、私自身さえ、そうした考えが頭のどこかにあるような気もします。
どこかで何かがおかしいのです。

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2006/07/15

■電話が不通です

携帯電話の不通に続き、今度は電話が不通です。
昨日の午後、激しい雷雨がありました。
停電もありました。
その後で気づいたのですが、また電話が不通になってしまいました。
1年ほど前に、光フレッツに切り替えたのですが、これで2度目の不通です。
幸いに今回はメールは大丈夫でしたが、こんなに簡単に壊れてばかりだと困ってしまいます。
修理依頼の電話をしたら、留守電でした。まだ復旧していません。

市の災害緊急連絡網が電話で計画されていますが、これは問題です。
電話への過信は最近なくなりましたが、動くものが動かない状況を、私たちはもっとイメージしておくべきですね。
今日はまた暑くなりそうです。

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2006/07/14

■トンボと転倒した自動車を見ました

我が家の庭で今年初めてのトンボを見ました。
麦わらトンボでも塩からトンボでもない、ちょっと珍しいトンボでした。
今年はトンボも少ないです。
ウグイスはまだ鳴いていますが。

今朝、我が家の近くの道路で自動車事故がありました。幸いに若者が飛ばしていた軽自動車がなぜか横転してしまっただけで、人身事故にはなりませんでした。早朝でしたので、その転倒の大きな音で目が覚めて屋上から見てみました。道端に転倒した自動車がありましたが、その横を何もなかったように自動車が走っているので、もしかしたらあの音は聞き違いで、事故は夢だったのではないかと思いましたが、まもなくレッカー車が来て自動車を片付けてくれましたので、夢ではありませんでした。
しかし、誰も事故のところに集まりませんでした。朝の忙しい時間だったからでしょうか。ポテドンほどの迫力がないので人目を引かなかったのでしょうか。

身の回りにはいろいろな事件が起きますが、
どうも私たちの関心は、身近な事件よりも、テレビの中の事件に向いているような気がします。
我孫子市では昨年、2000件の事件が発生したそうです。
こんなにたくさんの事件が起きているのに、私はほとんど知りません。
情報の流れのどこかに問題がありそうです。

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2006/07/13

■ジダンの頭突きと9.11事件

ワールドカップの決勝戦でのジダンの頭突き事件が話題になっています。
インタビューで、ジダンが、こうした事件が起きると行動者が問題にされるが、その行動を引き起こさせた側も問題にするべきだ」と語っていましたが、心から同感します。
社会は見えるものしか糾弾しないのです。
見えるものは客観性が強く、見えないものは主観性が強いからです。

しかし、もし自らがジダンの立場だったらどうでしょうか。
そう考えれば簡単に答は見つかることが多いのです。

観戦していた子供たちには謝罪したいと言っていましたが、もしジダンのいうことが事実であれば、泣き寝入りすべきではなく、行動したことは子供たちにも大きなメッセージになったはずですから、謝罪しなくていいように思います。
時には大切なことを失ってでも守ることがあるといメッセージは、今の時代にこそ必要なメッセージです。
暴力はいけないというかもしれません。
では構造的暴力や言語の暴力はいいのでしょうか。
そんなきれいごとでは本質を見抜く子供たちはごまかせません。
小賢しい大人たちはだませるかもしれませんが。

私はジダンの発言を聞きながら、すぐ、9.11事件を思い出しました。
ジダンには自己釈明の場が与えられました。
しかし、もし仮に飛行機のビル突込みがビン・ラディンたちの行為だったとしても、彼らに釈明の場はありませんでした。
最近の多くの事件でも同じ状況にある事件は少なくありません。
ジダンの頭突き事件は、現代の世界を見る上で大きな示唆をあたえてくれます。

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2006/07/12

■情報共有社会の落とし穴

私が会社に入った頃から盛んに言われだしたのが「情報化社会論」です。
1964年です。
当時出版された「知識産業」(マッハルプ)や「情報産業論」(梅棹忠夫)、「幻影の時代」(ブーアスティン)は実に新鮮でしたし、当時愛読していた経営関係の雑誌(当時は今よりもたくさんの実践的な経営誌が発行されていました)はいずれも「情報化」特集が多く、企業に入ったばかりの私にも「情報化」が企業や産業を大きく変えていくという期待を持たせてくれました。
しかし、その後30年間、期待したほどの大きな変化もなく、情報化に失望していました。
状況が変わりだしたのは、5年ほど前からです。
情報環境はインターネットとパソコンのおかげで、一変しました。
情報共有社会が現実の話になってきたのです。
情報共有が実現すれば、情報格差による一方向的な支配関係や安直なビジネスによる利益格差は是正され、公正な人間関係と価値の配分が実現します。情報の共有は生活の共有であり、宮澤賢治が夢見ていた、みんなが幸せで豊かな世界が実現する。

と思っていました。
ところがです。どうも過渡期には反対の現象が発生するようです。
いや過渡期だけではないのかもしれません。
私は、情報共有社会の本質をどうも勘違いしていたようです。
最近、なんとなくそんな気がしだしていたのですが、
昨日、岩波新書の「メディア社会」(佐藤卓己)を読んで、私の間違いに気づきました。
この本は実に刺激的な本で、読んだ以上のことを書きたくなるほど、面白い本です。
副題に「現代を読み解く視点」とありますが、確かに現代を読む上での示唆がたくさんある本です。

大きな問題は3つあります。

情報共有が可能になる社会は実は情報格差を拡大する社会でもあるようです。
フィリップ・ティチュナーの「知識ギャップ仮説」というのがあるそうです。
誰でも利用できる情報量が増大すれば、個人の情報活用量は増大する、のだそうです。
情報を共有できる環境と個人の情報格差とはむしろ反比例するというわけです。
昔、情報化社会論の流行に反発して、「非情報化革命論」を書いたことがありますが、その論考を少し進めれば行き着いたことなのですが、当時は全く気づきませんでした。
今は実感できるほどにわかります。
ちなみに、ネットで「非情報化社会論」を検索しましたが、出てきませんでした。少なくともある人が私の未発表の小論を論文に引用してくださっているのですが、昔のことすぎて見つからないようです。暇なときにまた探してみようと思いますが、こうしたネットサーフィンも面白いです。

もう一つの論点は、情報共有社会は人間の表情を消去するという問題です。
活字の発明で「子供」が誕生したといわれますが、情報化の主役がテレビになったことで「子供」が消滅したという議論があるそうです。つまり情報にアクセスするメディアが年齢を制約条件にしなくなったのです。衝撃的な指摘です。少子化ではなく、子供が消滅したのですから。これにもうっかり気が付きませんでした。
いや年齢だけではありません。性も生活場所も職業も、すべての属性を超えて、すべての人の前に情報が直接アクセスしだしたのです。これはすごく怖い話です。今の無表情な社会は、もしかしたら情報共有化のためかもしれません。個性の消滅につながりかねません。
昨今のさまざまな事件はここに起因しているのかもしれません。

説明不足ですみませんが、この2点は少しこれから考えてみたいと思っています。
いや、1年、すべての仕事を止めて、このテーマを考えてみたい気もします。
もしかしたら世界の行く末が見えるかもしれません。

ところで、この本を読んで、携帯電話は止めようとも思ったのですが、ついついまた買ってしまいました。
これが情報共有社会の3つ目の問題です。

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2006/07/11

■携帯電話が不通になりました

一昨日、うっかり携帯電話を水溜りに落としてしまいました。
急いで乾かしたおかげで、その直後は大丈夫になったのですが、昨日、かけようと思ったらだめでした。つまりそこに入っていた友人知人の携帯電話番号もすべて消去してしまったわけです。
これを契機に携帯電話なしの生活に戻ろうかと思ったのですが、昨日の1日だけで、その不便さを実感しました。人間は便利な生活を一度体験すると戻れなくなりそうです。
私はあまり携帯電話を使わないのですが、それでもこれだけの不便さを感じます。携帯電話をよく使っている人にとっては仕事もできないし、生活もできないかもしれませんね。私からパソコンがなくなったら、きっと文章ひとつ書く気がしなくなっているのと同じでしょうね。
さて、携帯電話をどうするか。
ともかく今日はもう1日、携帯電話なしの生活です。
早朝から岡山出張なのですが、少し不安ですね。
こうして人間はどんどん生活力を失ってきているのでしょうか。

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2006/07/10

■テポドン騒動

テポドン騒動では友人からどう思うかというメールが来たり、またいろいろなメーリングリストで賑やかな話題が送られてきたりしていますが、私にはどうしても瑣末な問題にしか思えません。
どこに危険性があるのでしょうか。
全く理解できないのです。
あの程度の核兵器であれば、アメリカにとってはおもちゃのようなものでしょうし、その実験をするからといって、それがどうしたという話です。
かつてフランスが核実験をした時に世界の世論は盛り上がりましたが、それに比べれば、どうでもいい程度の実験です。
現にインドも9日にミサイル実験をしています。
なぜそれは問題にならないのでしょうか。
北朝鮮が当事者だから問題というのであれば、少しはわかりますが、まあそれでもブッシュや小泉とさほど違いがあるわけでもありません。
過剰な騒ぎには何か背後に意図を感じます。
この騒動で誰が得をしているのでしょうか

これに関しても、ネットでは面白い情報がながれています。
それらを読むと世界の見え方が変わってきます。
いずれが正しいかではなく、固定観念で世界を見るのは止めたほうがいいようです。
しかし、それが難しい。
人間はまさに「作られた意識の集合体」なのかもしれません。

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2006/07/09

■イラク事件はまだ終わっていません

イラク事件はまだ終わっていないようです。
北朝鮮情報もそうですが、ネット配信される様々な情報を読んでいると、日本のマスメディアの情報とあまりにも違う話題が飛び交っているので、戸惑いがあります。
今回はちょっと気になっている話題のうちの一つを紹介させてもらいます。

イラク西部の町ラマディで、あのファルージャ虐殺のような活動が進められているのだという情報があります。
高遠菜穂子さんや、JVC、PEACE ON などイラク支援に携わる個人や団体でつくっている「イラクホープネットワーク」が、その惨状を見かねて、ブッシュ大統領に攻撃停止を訴える署名集めを始めています。

詳しくはイラクホープネットワークの記事を読んでください。
ついでに次のサイトも読んでもらえるとうれしいです。
http://iraqhope.exblog.jp/5206129/

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2006/07/08

■地方分権反対論

私は「地方分権反対論者」です。
そういうと、誤解されてしまうのであまり言わないようにしていますが。
「官から民へ」も「行政のサービス機関化」も反対なのですが、これも誤解されてしまっていますし、言葉は難しいです。
市長との議論のために言葉の定義をしたペーパーを用意して行ったら、佐藤さんは勝手に言葉を定義してしまうと言われたことがありますが、一般的に使われているからといってあいまいな意味で使っていては、本当の議論はできません。
ですから私はソクラテスほどではありませんが、言葉への自分の定義は明確にしています。まあ説明する能力と姿勢が欠落しているので、独りよがりと怒られてしまうわけですが。

さて地方分権です。
地方分権とは中央の権限(権力)を地方に分権(委譲)していくことですから、中央集権体制でのひとつの手段です。
地方分権体制といえば、体制ですから手段ではありませんが、分権というからにはどこかに権限を分ける主体がありますし、分権する大本の権限の源泉が一まとめになってあることが前提のはずです。
集権があればこそ、分権が成り立ちます。
それに「地方」というのは「中央」を前提とした概念ですから、ここでも全体から発想する枠組みが基本にあります。
そう考えると、地域主権という言葉と地方分権は全く発想が逆のものであることがわかります。
地域主権は、「地域」に、分権された権限ではない、固有の権限があるという概念です。
しかも「地域」という概念は国家や政府と違って主体になりえない概念ですから、その権限の源泉は、おそらくその地域の住民であり、したがってその前提には住民主権があるはずです。
もっともここで国家と同じような虚構が入り込みます。
いわゆる有識者や有力者が、多くの場合は国家体制に依存した行政体や議員や法人役職者が「住民」を僭称します。
したがって注意しないと地方分権と同じようなものにもなりかねません。
組織原理が全く違うのですが、まだまだ現実には成立しにくいのが地域主権です。
しかし、NPO概念の広がりの中で、ようやく住民概念が実体化されつつあるように思います。
これに関してはこのブログやCWSコモンズで何回も書いていますが。

実は「もったいない」発想がどんどん希薄されたことにつなげようと書き出したのですが、なかなかつながりません。
テーマが大きすぎました。
要は、現場との距離と「もったいない発想」とは反比例するということを書くつもりだったのです。
たとえば、昨今の行政の無駄遣いは地方交付税に裏付けられた分権体制に起因するというような話です。
しかし、私の頭の中にある簡単な話も論理的に書いていくと膨大な文字が必要なことに時々気づかされます。
人間の頭とコンピューターは、やはり全くの別物ですね。

この話はまたつづきを書きます。

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2006/07/07

■今日もまだウグイスが鳴いているのです

今朝もウグイスが鳴いていました。
今年はいつまでもウグイスの声がきけます。
いま夕方の6時ですが、今も部屋からウグイスの声が聞こえました。
これはちょっと異常です。

奇妙な静けさがあった。 たとえば、鳥は、どこへ行ってしまったのだろう。 多くの人々が、そのことをいぶかり、心配し、話した。裏庭の給餌場に、やってくる鳥はいない。 たまにどこかで見つかる鳥は、死にかけていて、激しく震え、飛ぶことができない。 それは、音のない看であった。 朝になると、かつては、夜明けのコーラスを歌うコマドリ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイなど、多くの鳥の声でにぎやかだったのに、 いまや、音はなく、草原や森や沼地に、沈黙があるのみだ。 (中略) 道ばたは、かつては魅力的だったものが、一面の植物がしおれて茶色になり、あたかも山火事にあったかのようだ。 ここでも、あるのは沈黙であり、生き物がいなくなってしまった。 小川さえも、いまでは生命がない。 釣り人が訪れなくなったのは、魚がすべて死んでしまったからだ。

これは1962年に発表されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」のはじめにある「明日のための寓話」の一節です(杉本泰治仮訳)。

沈黙どころか、この数年の自然は冗長です。
それが沈黙よりいいことなのかどうか、にわかには判断できませんが、今年のウグイスは異常です。
何かの予兆でなければいいのですが。
庭にメロンの食べた後を小鳥たちのために置いておいたら、カナブンで真っ黒になっていました。
これほどのカナブンがこの時期に群がっているのもめずらしいです。
その反面、蝶々が少ないような気がします。
この数年、モンシロチョウはめっきり減りましたが、昨年はアゲハチョウが賑やかでした。
今年は気のせいか蝶が少ないようです。
毎年、何がしかの異常を感じます。
気のせいであればいいのですが。

九州の豪雨が心配です。
これは天災なのか人災なのか。
私たちの生き方を変えないといけないと思いながらも、変えられずにいます。

ちなみに我が家の庭に放したはずの沢蟹は、相変わらず姿を見せません。
春には子蟹が大挙出現するのではないかと期待していたのですが、今年もだめでした。
これはまあ別の要因かもしれませんが。はい。
自然は正直ですから、そこからのメッセージに私たちはもっと敏感にならなければいけないのでしょうね。
何か予兆を感じていませんか。

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2006/07/06

■最近とても気になること

今日、近くの小学校の会議に自治会長として参加しました。
それに関してはCWSコモンズに書きますが、ちょっと最近気になっていることを書きます。
最近の会議では各人に小さなペットボトル飲料が配布されることが多くなりました。
会社の会議ではさすがにまだ多くはありませんが、行政や研究所やNPOの集まりでは多くなっています。
今日も各人に配布されました。
先日、市長に会いにいった時にもペットボトルが出てきたのにはさすがに驚きましたが、最近は私自身少し麻痺してきていました。それほど一般化しています。
見ていると会議で実際に飲む人は少なく、半分以上の人は持ち帰ります。
やはりこれは考え直すべきことだと思います。

たしかにペットボトルを使うと便利です。
サロンや会議を主催することの多い私としては手間もかからず簡単で便利ですので、人数が多いときには、ついつい依存してしまうこともあります。
日本はともかく会議の多いところですから、きっとたくさんのミニペットボトルが消費されていることでしょう。
資源消費の面からも大きな問題です。

しかし、それ以上に大きいのは、やはり「文化」の問題です。
机の上にペットボトルが置かれているのは私にはとても違和感があります。
しかも飲まない人は持ってかえってくださいといわれると、これは「謝礼のつもり」?などとつい思ってしまいます。事実、そう言われたこともありますが。
昔は自分ながらにけじめをつけており、ペットボトルには手をつけず、もちろん持ち帰りなどはしなかったのですが、最近、持ち帰ってしまうこともありました。断ると角が立つこともあるのです。
反省しました。

会議ではやはりきちんと心を込めてお茶を入れてほしいですね。
それができないのであれば、お茶などは出す必要はありません。
どうしてもというのであれば、せめて大きなペットボトルと紙コップを用意して、飲みたい人は自分で入れるようにしたらどうでしょうか。
各人へのミニボトル配布はぜひとも見直していくべきです。

私はこれから携帯用のステンレスボトルを持参することにしようと思います。
できるところから少しずつ取り組もうと思います。
皆さんもぜひお考えください。

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2006/07/05

■「もったいない」概念と「29日目の恐怖」

滋賀県知事選で嘉田さんが自民・公明・民主の支援を受けていた現職を破り当選したことが大きな波紋を呼んでいます。
もしかしたら「常識」が回復しだす、地殻変動の予兆かもしれません。

嘉田さんが旗印にした「もったいない」は生活用語です。
政治や産業の世界にはない言葉です。
昨今の日本の政治や産業は「もったいない」概念を否定するところに成り立っています。
「もったいない」概念を壊すことで産業は発展し、
「もったいない」概念から自由になることで政治は国民から支援をとりつけてきました。
その結果が、環境破壊であり、パンとサーカスの借金財政です。
もちろん、「もったいない」概念を基本においた政治も産業もあります。
おそらく日本江戸時代はその社会原理で展開されてきていたように思います。

この「事件」は様々な示唆を与えてくれています。
そこから何を読み取るかは人によって様々でしょう。
読み取る人たちの感受性が、日本の未来を決めていくでしょう。

ここ数日の新聞記事を読む限り、しかし事態はそう変わりそうもありません。
私が地殻変動の予兆を感じたことを年賀状に書き、雑誌の連載記事に書いてからでももう15年がたちましたが、ほとんど変わった気配はありません。
しかし、変わってきているのです。もはや予兆ではないのです。

最近、環境問題に絡んで「29日目の恐怖」という話が語られています。
私が子どもの頃、流行ったクイズと同じ話ですが、

「ある池のハスの葉が増え、1か月で池のすべてを覆い尽くしてしまったが、
その前日の29日目、池の景色は特に普段と変わらなかった」
というヨーロッパの昔話です。
倍々で増えていくものは最終段階を迎える直前まで気づき難いということです。
もしかしたら、今は地殻変動の29日目かもしれません。

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2006/07/04

■ゼロ金利とグレーゾーン金利

今朝の新聞には、金利に関する二つの記事がでています。
ひとつはゼロ金利問題。
現在はゼロ金利というよりも、手数料などを考えるとマイナス金利ですが、金利よりも手数料のほうが大きな問題のような気がします。
それらを総合して考える必要があります。
もちろん両者は全く別の問題ととらえられがちですが、そうした発想を壊していくことが大切です。
私はゼロ金利には異論は全くない人間です。
財産を預かってもらうのであれば、むしろマイナス金利でも納得できますし、金利という発想こそが貨幣中心の現在の経済システムにつながっているような気がするのです。

一般金利はどうでもいいのですが、私にとってどうでもよくないのが、もうひとつの記事であるグレーゾーン金利です。
自民党の貸金業制度小委員会は、出資法と利息制限法の間の不透明な「グレーゾーン金利」を廃止することで一致し、出資法の上限金利を大幅に引き下げることにしたそうです。
ところが自民党内には、「急激に金利を下げれば貸金業者の審査が厳しくなり、借りられなくなった利用者が、より高金利のヤミ金融業者に流れかねない」「利息制限法の上限を少し超えただけで直ちに刑事罰の対象にするのは難しい」といった慎重論も根強いため、またまた特例措置が検討されているそうです。
いやはや、です。
より高金利のヤミ金融業者は犯罪です。
これをもっときちんと処罰すべきです。
本気で厳罰に処すればいいだけの話ですが、それがなされずにいます。
時々話題になるように、つながりがあるから処罰できないのでしょうか。
もともとすべての根源はきっと銀行にあるのでしょう。
そこを正すことをせずに、「高金利のヤミ金融業者に流れかねない」などという発想には怒りを感じますが、「利息制限法の上限を少し超えただけで直ちに刑事罰の対象にするのは難しい」などという発想には驚きを感じます。
自らも加担している人なのでしょうか。
私にはそう思えます。そういう人をまずは処罰してほしいです。

ヤミ金融業者がなぜなくならないのか。
それは金融システムの基本設計が悪いからだと思います。
極論すれば、基本に「金利」概念があるからです。
利息制限法の上限金利も大幅に引き下げるべきだと私は思いますが、そもそも金融システムや貨幣システムは何のためにあるのかという問題です。
みんなの生活を支援するためのものでしょうか、それとも権力を集中するためのものでしょうか。
無尽講や頼母子講の歴史、地域通貨の実験、など、私たちは今の貨幣システムとは違った仕組みの知恵ももっています。
複数の仕組みがあってもおかしくはありませんが、今の貨幣システムはどうも私にはなじめません。
だからといって、そこから抜け出られないのがもどかしくて仕方がありません。

高金利を禁止するとお金を貸す人がいなくなるので、お金を借りたい人は困ってしまう、とよく言われますが、この設問はどこかおかしいと思いませんか。
基本的な前提が私とはきっと全く違うのでしょうね。
お金がないために自殺するようなことの起きない経済システムはないのでしょうか。
お金がなくても、水と食べ物があれば生きていけるのですが。
ちなみにお金があっても、水と食べ物がなければ生きていけません。
そこから考えていくことが必要になってきているように思います。
青臭いなと笑われそうですが。

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2006/07/03

■正すべきは自らにあり。

金英男さんの記者会見は見え透いたお粗末な茶番という人が多いですが、日本の国会の実況と、私にはそう違わないような気がしました。
印象に残ったのは、隣で発言している金さんの顔を横から唖然としてみている母親の表情でした。何も出来ない、発言すらできない、唖然とするしかないのです。
あの目線を、金さんはどう感じたでしょうか。
国会議員の答弁は、ああいう目線からも隔離されているのかもしれません。
いや、私たち国民が、ああいう当事者としての感受性や関心をすでに失っているのかもしれません。

北朝鮮政府の責任ある人が嘘をついたり、つかせたりしていることが、もし真実であるとしたら、それを正すことなく、その嘘の上に国交し、核危機を回避しても、それは何も生み出さないのではないかという気がしてなりません。
それに、悪事を見逃すことは、自らも悪事に加担することと同義です。
結局は〔仲間〕になるということです。
にもかかわらず、正すことも経済制裁も出来ずに、対話しようとしている。

しかし、ちょっと立ち止まって、自分の生き様を考えてみると、
実は私もまた、金英男さんと同じような生き方をしていることを否定できません。
嘘をつかなければ生きていけない社会。
納得できなくとも、体制に従わなければ生きていけない社会。
金英男さんが、見事に自分に重なっているのに改めてゾッとしました。
もちろん、そうしたことの積み重ねが日本の国会審議になっているわけです。

金正日の嘘の構造は、私たちの嘘とつながっているのです。
正すべきは自らにあり。
金英男さんの記者会見は自らの生き方も含めて、いろいろ考えさせられました。

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2006/07/02

■世界を広げる学びと世界を狭める学び

講談社現代新書の「偽りの大化改新」を読みました。
最近は大化の改新などはなく、乙巳の変という表現のほうが基本になっていますが、
この本はこの事件でいったい誰が得をしたのかという視点から入鹿殺害の犯人探しをしています。

先日、「得をするのはだれか」に書いたように、
先入観を捨てて、結果的に利益を得た人に焦点を当てて事件を振り返ると新しい構造が見えてくることもあります。

本書の結論は蘇我入鹿殺害の首謀者は軽王子、つまり事件後、即位した孝徳天皇だというのです。細かな論証をしていますので、説得力があります。
小学生の頃からこの事件は中大兄皇子による「改革」のプロローグという枠組みで学ばされてきた私には、
そういう「素直な論理的帰結」が思いもつかなかったのです。

きっとこうしたことは多いのでしょうね。
学ぶことが発想の広がりを邪魔することもあるわけです。

「学び」には次元があります。
そして、世界を広げる学びと世界を狭める学びがあるのかもしれません。
いまの学校教育はどちらを目指しているのでしょうか。

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