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2006年8月

2006/08/31

■薬害C型肝炎訴訟に見る政府や企業の発想

C型肝炎訴訟では2番目の判決になる、福岡判決が出ました。
大阪地裁での判決と同じく、国と製薬会社に賠償支払いが言い渡されました。
この問題は日本の行政の本質を象徴しているだけではなく、企業の本質を象徴している事件なので、私にはとても関心があり、これまでも何回か書いてきました
大阪地裁の判決時にも書きました。

今回も原告勝訴とはいえ、何かすっきりしないものがあります。
原告の一部の請求を棄却したというのもそうですが、
こうした事件を教訓にして、政府や企業が自らの考えを問い直している姿勢があまり見えてこないからです。

J&Jは、タイレノール事件で自らの企業のあり方を変えたといわれています。
日本では、こうした事件が起きても、企業のあり方を変えようという動きが出てきません。
訴訟で争うのも必要かもしれませんが、
まずは被害者救済に全力を尽くすとか、再発防止のための企業の仕組みを見直すとかするべきではないでしょうか。
ところが、企業や国の対応は、企業防衛、賠償額節約、つまりは責任回避が先行しているように思えてなりません。
発想の起点が違います。組織起点なのです。
それではせっかくの事件が活かされません。
個人の問題に矮小化され、当事者双方にとってもむなしい結果になりがちです。
しかも本質的なことは解決されませんので、類似の事件が繰り返されているわけです。
個々の問題解決と同時に、そうした事件の再発を回避する対策が重要です。
それが結局は企業にとっても国にとっても、大きなメリットになるはずです。

裁判や訴訟の増加が増えていますが、
かつての大岡裁きのような「三方得」発想のしくみはできないものでしょうか。
裁判で決着をつける方法は、最後の手段のように思いますが、
三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)や厚生労働省がもしもこの事件を謙虚に考え直していれば、もっと違った対応になるはずです。
もしかしたら裁判への対応の半分の費用とエネルギーでそれが実現できるかもしれません。

いつもこうした事件に触れて思うのは、
もしそれぞれが自らの立場を相手に置き換えて考えたらどうなるかということです。
特に三菱ウェルファーマや厚生労働省の意思決定者に聞いてみたいと思います。
争いが生じた時に、まずは立場を置き換えて考える時間があれば、
世の中の争いはかなり減少するような気がします。

せっかくの「フィブリノゲン事件」も、企業の進化には役に立たなかったことが残念です。

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■イラク派兵の後遺症

憲法9条が変えられるかもしれない不安が、日に日に高まっています。
しかも、自分もその家族も戦場などには行きそうもない、愛国心など微塵もないであろう権力者たちがそれを主張しているばかりではなく、まず真っ先に戦場に送られて悲惨な目に合うだろう庶民の一員である若者たちが、それを加速している状況を見ると、本当に寂しくなります。
イラクに派兵するのであれば、まずは自分の息子をイラクに派遣することを考えてほしいですが、それも暴論でしょうか。
しかし、ノブレス・オブリッジ精神を少しは持ってもらいたいものです。
それでこそ、宰相といえます。
イラクに派遣された米兵が、帰国後健康障害を起こしている話は日本のマスコミではあまり報道されませんが、アメリカではいろいろと問題を起こしているようです。
日本でもきちんとした健康調査をするような働きかけの動きがありますが、イラク派兵は過去の話ではありません。
派遣された自衛隊員だけではなく、日本社会の健康への影響もきちんと検査すべきでしょうね。
後遺症は個人にだけ残るのではありません。
マスコミはあまり話題にしなくなりましたが、これからもきちんと関心を持ち続けていきたいと思います。

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2006/08/30

■無理しなければ疲れません

我が家のトイレにこんな紙がはってあります。

Photo


半年前に女房があるところから見つけてきて、貼り出しているのです。
トイレに貼ってあるので、自宅にいれば、毎日目にすることになります。
このメッセージを毎日、読んでいるにもかかわらず、
なぜか疲れて、傷つくことが多いのです。

私の信条は
Take it easy.
です。
まあ、気楽にやろうよ、という感じですが、
先週、ある人に話したら、驚いたというのです。
私の生き方はとても「気楽」ではないように見えるというのです。
そういえば、昨日もある人から同じようなことを言われました。
私の生き方は、まだまだTake it easyではないようです。
どこかで無理をしているのかもしれません。

無理しなければ疲れません。
いたわれば傷つきません。
体も、心も、おんなじだね。

そんな生き方に近づきたいと思いますが、
どうしてこうも毎日、問題が続発するのでしょうか。
社会的な事件もそうですが、身近な事件も多すぎます。
身近な問題に関しては、私自身がTake it easy に生きてきたせいではないかと気もしますが、
もしかしたら、社会全体の事件もそうかもしれません。
Take it easy は最近の日本社会の基調だったのかもしれません。
その一方で、無理をするばかりで、いたわりを忘れてきたのも、この30年の私たちの生き方だったのかもしれません。
だれもがお互いに支え合いながら、社会全体の無理を最小化するような社会を目指して、まずは自分が出来るところから生き方を見直していきたいと思います。

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2006/08/29

■コストダウンからコストアップへの戦略転換

またまた悲惨な交通事故が起きました。福岡市で飲酒運転していた車に追突され、川に墜落、若い両親が3人の子どもたちを一挙に失った事故です。
これは事故ではなく、犯罪事件というべきで、明らかに防止策がもっととられてもいい事件です。
こうした事件に対する処罰は、最近、重くなったとはいえ、まだまだ極めて軽いです。最高でも20年以下の懲役ですから、被害者の家族は決して納得できないでしょう。
日本の刑法は、その前提において、かつての冤罪や警察の横暴さを前提にした被害者保護の視点が強いように思います。そろそろ発想を転換すべきです。
それに、産業優先の行政措置も見直すべきでしょう。
飲酒運転をした人は運転免許を永久に剥奪すべきだと私は思います。
自動車の危険性を少しでもわかっていたら、そんなことは当然だと私は思います。
それで何か不都合が生まれるでしょうか。
自動車市場が少し小さくなって、アルコール飲料の売上げが少し減るだけのことでしょう。
自動車メーカーとアルコールメーカーは賛成しないかもしれません。
でも、その経営者も、自分の家族が被害者になれば、考えは変わるでしょう。
人間は自分が当事者にならなければ、真剣に考えないという傾向がありますが、当事者になれば真剣に考えるものですから。真剣に考えれば、答は簡単です。

しかし、今回、問題にしたいのは別の話です。
今回の事件で私が感じたいのは、やはり自動車の価格が安すぎることです。
重量あたりで言えば、リンゴや梨と自動車は同じくらいの価格ですが、果物は食べれば無くなるのに自動車はずっと使えるわけですから、実は重量あたり価格はリンゴに比べて桁違いに安いのです。
にもかかわらず、自動車メーカーは今なお空前の利益を上げています。
それはスケールメリットのおかげですが、自動車はおもちゃではなく、走る凶器でもあるわけですから、誰でも買えるような価格設定でいいのでしょうか。
かつて「自動車の社会的費用」が問題になったように、コスト設定と商品が発生させる社会的損失評価に間違いがあるのだと私は思っています。

そうしたことを考えると、自動車メーカーは価格を上げると同時に、少なくとも利益のかなりの部分をそうした社会的補填ないしは予防に割くべきです。
いや、自動車のコストをもっと高めるための仕組みが必要なのです。
トヨタはコストダウンは得意ですが、コストアップは不得手かもしれませんが、これから必要なのはコストアップの思想と利益配分の思想です。
たとえば飲酒運転防止などの仕組みの研究開発が進められていますが、それをもっと加速し、そのコストを価格に反映させることも良いでしょう。
交通事故発生予防の社会的仕組みづくりにももっと資金投入すべきですし、交通事件にあった被害者救済にもっと資金を割くべきでしょう。それらをコストに組み込めばコストは上げられるのです。
奇妙な論理だと思われるかもしれませんが、そろそろコスト発想の枠組みを変えるべき時期に来ているのです。
目先のコストダウンは、実は長期的なコストアップにつながっています。
そしてその逆もまた真なのです。

日本の企業は、そろそろコストダウン発想からコストアップ発想へと進化すべき時期ではないかと思います。
先日書いた住宅も、まさにそれが緊急の課題です。
まずは自分の生活から変えても良いかもしれません。

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2006/08/28

■大勢に乗る生き方の見直し

1か月ほど前に、ちくま新書の「ウェブ進化論」を読みだしました。
わくわくするような内容で、これからの時代の方向性を理解することが出来ました。
こういう意識の人がどんどん社会を変えていくのだろうなと思いながら読んでいましたが、ある記述で、その先を読めなくなってしまいました。
しばらく間を置いてから、一応読了しましたが、なんだかおぞましい実態を見てしまったようで読後感が極めて悪いのです。
忘れようと思っていたのですが、最近の自民党総裁選挙の動きを見ていると、その記述が頭に浮かんでくるのです。
そこで私の気持ちを鎮火するために、書くことにします。
すみません。私憤発散の記事であることをあらかじめお断りしておきます。

まず書く気になったのは、次の記事を読んだためです。
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060823-79375.html
8月22日に横浜市で行われた自民党の南北関東ブロック大会で、推薦人集めが難航している河野太郎さんが出席した5候補中、最も党員の声援を受ける意外な健闘を見せたという、日刊スポーツの記事です。
そこで、河野さんは、
「総裁選は始まる前から終わっているかのように言われるが、政策議論もしないまま推薦人が決まるのはおかしい。派閥の親分が右と言うから右に乗っかるなら自民党に明日はない」と、雪崩を打って本命・安倍氏支持に流れる党内を痛烈に批判したそうです。

自民党総裁選の動きは、全く見識のない政治屋たちの本質を見る気がします。まさに主体性のないコンフォーミティの世界です。
政策よりも保身がかれらの関心事なのでしょうか。
何のために政治家になったのでしょうか。

ところで、先の「ウェブ進化論」で私が唖然とした文章を紹介します。

著者はブログ空間が総表現社会を生み出し、社会そのものの情報的自立化に向かっていることを説明しています。とても納得できる話であり、共感もできます。また膨大な現場情報は新たな情報を創造し、全体を方向付けていくことは、コモンズの回復の基本ビジョンにもつながっています。

そうしたなかで、著者は、先の解散後の小泉圧勝が当初からわかっていたそうですが、それに関連して、こんな記載があるのです。
本書の151¬~152ページの文章です。

母から「今回の選挙は、誰に入れるべきなのか」という軽い相談であった。私は「政治のプロ」ではないが、家族・親戚という小さなコミュニティの中では、専門でない政治のことについても、それなりに意見が信用される。私は母に、今回は小泉支持だと伝えた。私は「老人も子供も含めて10人に1人」くらいのコミュニティ内での信用をもとに、小さな影響力を行使した。そして、こんなことがひょっとしたら日本中で起こっているのではないだろうか、ふとそう思った。総表現社会参加者層はブログ空間に影響されて判断し、リアル世界でミクロに「大衆層」に影響を及ぼす。そんな連鎖が起きた最初の事例として小泉圧勝を読み取ることもできるのではないだろうか。


寒々としたものを感じました。
この著者には自分という主体性や自分の価値観に基づく言動が出来ないのだと気づいたからです。
みんながそちらを向いているから自分もそれに乗ろうという人間に主体性や知性などあるはずがありません。
そんな人間の書いたものに、共感し感動していた自分に嫌気をさしたのです。
しかし、日本の知識人たちや有識者たちは、ほとんどがそうなってきているのでしょうね。
思いだすと、そういう苦い体験がいろいろと頭に浮かびます。
大勢に迎合する生き方は安楽かもしれませんが、自分の人生とは言いがたいです。
ブログ空間で把握した認識は、自分の言動を決める材料にすべきです。
それに自分を合わせるようなことはしたくありません。
みなさんはいかがでしょうか。

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2006/08/27

■学校の役割

今日、友人家族がやってきて小学生の子どもを持つ家族が訪ねてきてくれたのですが、そこでの話題の一つが小学校の話でした。
子どもが通っている学校は、かなり評判のいい公立小学校ですが、夏休みの宿題がほとんどないそうです。昔あった夏休み日記やドリルなどもないそうです。
子どもはのびのびと自由に遊ばせるのが良いと考えているのでしょうか。
しかし、どうもそうではないようです。
夏休みに限りませんが、その学校に通う子どもたちの多くは塾に行っているのだそうです。ですから、子どもが遊ぼうにもなかなか遊び相手を見つけられないのです。
学校もまた、子どもたちの塾通いを勧めているようです。
学校は塾での勉強を邪魔しないように、夏休みの宿題は出さないのかもしれないと思いたくなります。
学校の役割は何なのか、と友人に聞いたら、体育と隔離でしょうか、と冗談で答えました。その冗談が冗談で終わらないのが、どうも現実のようです。
教育基本法が変えられようとしていますが、まさにその大きな動きもこうしたミクロ情報につながるように思います。
学校と塾はいろいろな意味でミッションが違うはずです。
私は日本における初等教育体系は30年前にパラダイムシフトすべきだったと思います。
しかし、反対のほうにパラダイム回帰したのが実際の学校行政でした。
学びの場ではなく、教えの場になり、そして管理の場になってしまいました。
健全な子どもたちが反発し、問題を起こすことは必然的な結果です。
そして同時に、教育の産業化が進められました。
それも本当の意味で志のある教育産業であれば良いですが、単なる利益志向の教育産業です。私もある大企業に少し関わりましたが、その実態を知って唖然としました。教育とは正反対のところに歩きがしました。
子どもたちは、まさに市場化されてしまったわけです。
もっと恐ろしいことも起こっています。
別の所に書きましたが、子供たち同士の集団登校も今ではなくなっているそうです。
なぜ無くなったか、考えてみるとさまざまなことが思い当たります。

学校の役割は何なのか。
国家や国旗や「教育勅語」を強制する前に、自らがやるべきことはたくさんあります。
最近盛んな「次世代育成活動」の基本理念を改めて考え直さないと、日本はとんでもない方向に行きかねません。
次世代育成計画行政を起案し推進している人たちに対する子どもたちの反乱が、とても心配です。自業自得で終わらないからです。

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2006/08/26

■住宅のあり方と少子化、あるいは子どもたちの反乱

今はあまり「衣食住」という言葉が使われないですが、衣食住は社会の基本です。
社会というよりも、生活や文化、あるいは人間の意識の基本です。
残念ながら、最近30年の日本においては、この衣食住がおろそかにされてきたように思います。
それが昨今の社会の崩れの基本だと私は考えています。

たとえば「衣」。ファッション感度は高くなっているのかもしれませんが、私には大きな違和感があります。
たとえばクールビズ。機能性から考えるのも良いでしょうが、衣とは何かという基本が軽んじられているように思います。文化の放棄です。

「食」はどうでしょうか。
グルメが騒がれますが、子どもたちの食生活を見れば、グルメ志向が単なる商業主義の発想でしかないことが分かります。
グルメを自称している人で、食文化への関心を持っている人に残念ながら出会ったことがありません。
ファッションとしてのグルメ、消費としてのグルメには違和感があります。
しかも、食文化とは無縁のところで、あまりにもひどいテレビ番組が多すぎます。
さすがに最近は、食べ物の投げ合いをするような腹立たしい番組は無くなりましたが。
日本に豊かに存在した、衣の文化、食の文化は失われつつあります。

そして「住」。
昨日、旧知の時田さんが訪ねてきてくれました。
時田さんは熊谷で工務店をやっています。
日本の伝統文化である住の技法を継承している職人たちのネットワークを大事にしながら、
納得できる仕事をしていますが、昨今の状況ではなかなかそれも難しいようです。
時田さんはこう言います(私の整理ですので不正確かもしれません)。

戦後日本の住宅政策の基本は「戸建て持ち家」で、それを推進するために、低利の建設資金を融資する住宅金融公庫を1950年に設立した。しかし、それに対抗する勢力は、集合住宅借家方式を主張、1955年、日本住宅公団が設立され、団地が誕生。その「持ち家発想」と「団地発想」が統合されて、都市型マンションが生まれ、住宅もまた商品になってきた。そして、政策理念のないままに、経済至上主義の中で、構造偽装に象徴される欠陥マンション、平均寿命25年という木造住宅が広がった。

そこで、時田さんは、高品質な住環境と住宅、それを成立させるための思想を世に問いながら、
新しいコミュニティを創造するプロジェクトに取り組むことになったのですが、それに関しては、
CWSコモンズの活動記録(2006年8月24日)で報告します。
ここでは、時田さんと話していて改めて考えたことを書きたいと思います。
住宅に関しては、以前、私も日本住宅会議に入っていましたので、
いつか住宅政策の間違いを指摘したいと思い続けていたのです。

まず、時田さんの整理のように、日本人は戦後の荒廃から立ち直るために、仮設住宅を創ったのに、いつの間にかその仮設住宅が標準住宅になってしまったということです。
しかも、それが経済至上主義にくっついてしまった。
家電製品や自動車と同じように、買い替え市場を生み出す商品に位置づけされてしまったのです。
そして30年しか持たないような消費型住宅ばかりができて、建設廃材世界1の国になったわけです。
そこには住文化は微塵もありません。
いや、文化を壊し経済人になる仕組みが埋め込まれていたというべきかもしれません。

つまり住宅が「モノ」として捉えられ、そこで展開される家族の「住まい方」、あるいは近隣住民とのつながりが育てていく空間価値などが全く置き去りにされたのです。
住文化の喪失です。

こうした住宅政策は結果的に核家族化を進め、さらには単身暮らしを増やしていきます。
核家族などと「家族」という言葉を使っていますが、これは家族の解体でしかありません。
世代は分断され、子育ては機能不全を起こし、コミュニティは解体され、お互いに殺傷しあうおぞましい社会が広がり、少子化が進行するのは、こうしたことの結果です。
ピントはずれの少子化対策は、事態を悪化させるとしても社会を良くすることはないでしょう。

土地も含めて、住宅が商品化されたことの弊害も大きいです。
これに関しては、また改めて書きたいと思います。

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2006/08/25

■団塊世代の新しい役割

最近、なぜか団塊世代の地域返りの話がよく話題になります。
今週だけでも、日経マスターズの編集長だった人がその話題でやってきましたし、コムケアの集まりでも団塊世代のためのフリーマガジンの話が出ました。
ある会でも話したことがあるのですが、団塊世代の活躍の場は、これからまだまだ広がりそうです。
私の地元の我孫子市でも、団塊世代の活躍の場を創ろうと様々な制度が作られていますし、団塊世代の地域戻りを歓迎するイベントなどをやる自治体も増えています。
しかしいつもそうなのですが、こうした新しい動きも基本的な社会のビジョンが弱く、そのため発想の転換がなされないために、制度だけできて機能しないことが少なくありません。
時代の変わり目における、新しい仕組みにはしっかりしたビジョンと理念がなければいけません。
私は社会の枠組みの再編成が進むと考えていますので、その役割の一部を団塊世代のエネルギーが果たせるのではないかと考えています。
たとえば、企業、行政、地域社会をつなぐメディエーターの役割です。
企業や行政の文化と言語を持っている人が地域に入って活動をすることで、彼らは多言語族になれるはずです。そうなれば、今のような企業や行政と住民活動とのコミュニケーションの壁は解消されるはずです。もっといえば、企業や行政という組織を、生活や地域社会の視点で、いい意味で活かしていくことができるようになるでしょう。
そうした大きな仕組みづくりを通して、もしかしたら企業社会も企業そのものも大きく変わっていく可能性もあります。
10年ほど前に、そうした構想の下にいくつかのプロジェクトに取り組み、すべて失敗してしまいましたが、物事にはタイミングというものがあるものです。
今度こそ、団塊世代たちが社会を変えて行ってくれるでしょう。
もちろん良い方向にです。
く来い来い高齢社会です。

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2006/08/24

■自由と秩序

朝日新聞の連載記事「境界線で」の最終回は、国家と非国家がテーマでした。
刑務所や警察機能の民営化の話しも紹介されていましたが、
民営化から共営化へと移行させるべきだと
考えている私にとっては、恐ろしい未来への懸念が高まるばかりです。
しかし、その懸念は私だけではないようです。
その連載の締めくくりの文章はこうなっていました。

見かけは小さな国家でも、コントロールが利きにくければ、力は強大になる。
自由度が増したようで、実は選択の余地があまりない。
この国は、そんな方向へ向かっているのかもしれない。

「国家が秩序を保ち、国民一人ひとりが自由を享受するには、清貧が最も有効だ」
これはマキャベリの言葉です。
『政略論』にこう書かれているそうです(塩野七生「マキアヴェッリ語録」)。

ローマも、建国後400年までは少なくとも、清貧を尊ぶ気風が充満していたのだった。 なぜならローマ市民にとって、いかなる公的地位につくにもいかなる栄光に浴すにも、貧しさが不都合なことはまったくなかったからである。 もしも、その人物が力量に恵まれてさえいれば、どんなに貧しい小屋に住んでいても、人材登用の機会にもれないという自信をもてたのだ。 だから、強いて富を求める必要もなく、欲求も生れなかったのである。 つまり、ローマ人の制度が、ローマ人自身に、富をがむしゃらに追求する気持を生れさせなかったのだった。 それどころか、畑仕事をしていたのを臨時独裁執政官に登用されたキンキナートゥスのように、立派な人物ならば、清貧もまた名誉とさえ思われていたのだ。

そして、こう書いています。

清貧を尊ぶ気風が、国家や都市やすべての人間共同体に栄誉を与えたのに反して、富追求の暴走は、それらの衰退に役立っただけなのであった。

国家のみならず、企業の経営者にもぜひ考えてほしい問題です。
今の日本は、まさに富追求の暴走状況にあるように思います。
せめて自分だけでも、そうならないように心がけていますが、心迷わす誘惑が多すぎて煩悩から脱せずにいます。

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2006/08/23

■「伝えたいニュース」の消費者からの脱出

昨日、
>事件や犯罪もまた「生産」されるようになったのではないか
と書いたのですが、自分で書きながら、書きすぎだと思っていましたが、
書いてしまった後、どうも1日、気になっていました。
ところが考えているうちに、もしかしたら実際にそうなのかもしれない、という気になってきました。
まあ、それはいいのですが、関連して考えたことを書きます。

問題が多発すれば、問題の意味もまた希薄化します。
事件発生の頻度と自分に起こりえる現実感は、比例すると考えるのが普通です。
周辺で犯罪が頻発すると、もしかしたら次は自分かもしれないという思いになるでしょう。
しかし、ここには2つの要素があります。
「周辺」と「頻発」です。
もし頻発する事件が「周辺」でなく、ボルドーやレバノンだったらどうでしょうか。
自分の生活空間とは遠い所で、事件の頻度が高まると、
逆に事件そのものが自分とは無縁な観察や消費の対象になってしまうのではないかと気づきました。
編集の仕方で、相関関係は全く逆転するのです。
ゲームや映画などの虚構の世界の事件が、さらにそうした動きを補強します。

ITの発展が、世界の距離を縮め、世界中の情報を並列に並べて処理する仕組みを生みだしました。
マスコミなどに載る情報の選別は完全にメディアの作り手にゆだねられたのです。
私たちは「知りたいニュース」の受信者ではなく、「伝えたいニュース」の消費者になってしまったのです。
しかもマスコミはニュースの実体よりも、ニュースの話題性に関心を移しています。つまりニュースの加工をしているということです。
その結果、事件が頻発すればするほど、感覚が麻痺し、現実感が失われる社会に変質してしまったのです。

先日書いた発砲率ですが、対象との距離と発砲率は比例するそうです。
物理的距離や心理的距離を大きくすれば、発砲率は高められるのです。
事件の発生地との距離もまた、事件を対象化してしまうことは間違いありません。
話題が広がることの危険性がそこにあります。

私たちは世界を自らの暮らしとは別のものにしてしまう情報環境に陥っているのかもしれません。
そうしたバーチャルな世界に住んでいると、いつの間にか自らもまたバーチャルな存在になりかねません。
身近な近隣社会の情報やニュースに改めて関心を向けることが大切になってきています。

みなさんは地域社会の動きをどの程度知っていますか。
地域でもさまざまな事件が起きています。
たとえば路地の空地に花が咲いたとか、隣人が怪我をしたとか。
自治会の会長をさせてもらっていると、いろいろな気づきがあります。

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2006/08/22

■イラクは平和になったのでしょうか

最近、イラクのニュースが少なくなりました。
平和が回復しているのでしょうか。
そんなことはないようです。
たとえば、昨日の読売新聞によれば、

イラクの首都バグダッドで20日、武装集団が、市北部のイスラム教シーア派聖地カジミヤ地区に向かっていた同派信徒を銃撃する事件が相次いで発生、AP通信によると、少なくとも20人が死亡、300人以上が負傷した。
そうです。

治安はますます悪化しているという人もいます。
イラクの復興のために私たちの税金は少しは役に立ったのでしょうか。
それとも逆にイラクの人たちの暮らしを壊すことに加担したのでしょうか。
それが今もってわかりません。
誰も説明してくれません。
イラクにいた自衛官たちが帰国後も何の発言もしないのも異様で、
本当にイラクに駐留していたのかどうかさえも疑いたくなります。
イラク派兵とは一体、何だったのでしょうか。

すべてがうやむやのうちに忘れられていく。
問題が多すぎるのかもしれません。
人の噂も75日といわれますが、私たちは多くの悲惨な事件や不条理の犯罪を75日単位で消費しているような気もします。
いやそうしなければやっていけないほどに事件や犯罪や問題が多すぎるのです。

それにしても、どうしてこんなに次々と問題が発生するのでしょうか。
事件や犯罪もまた「生産」されるようになったのではないか、とさえ思いたいほどです。

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2006/08/21

■沢蟹のこと

このブログは、アクセス解析機能がついています。
ですからどの項目にいつどれだけアクセスがあったかがわかります。
実は昨日それに気づきました。
それを今見ていたら、意外なことがわかりました。
「沢蟹騒動」へのアクセスが多いのです。
この4ヶ月の間になんと163人のアクセスがありました。
この記事は2004年5月3日の記事です。
普通は見つけられないはずですから、ネットで探した人が見てくれたのです。
おそらく読んだ人は失望したでしょうが、沢蟹への関心の高さがわかります。
沢蟹好きは私だけではないようです。

ネットでの情報発信の場合は、見出しのつけ方やアクセスさせる仕組みが重要なことがよくわかりました。
実に面白いテーマですし、実際に工夫しだすと底なしの面白さでしょうね。
実際にビジネスとしても成り立っているわけですが。

これから毎回、沢蟹という表題をつけるとアクセス数が増えるかもしれません。
まあ、それでは詐欺になりかねませんが、この記事へのアクセスがどうなるか興味があります。
たわいのない話のようですが、現代の情報環境を示唆する興味深い話です。

最後に少しは沢蟹のことを書かなければいけませんね。
実はわが庭のビオトープに放した沢蟹たちは相変わらず姿を見せません。
困ったものです。
奥深くに隠れてしまったようです。
今でもいろいろとの所に出かけた際には寸暇を惜しんで沢蟹探しをしていますが、見つかりません。
ペットショップに行きましたが、なぜか最近は売っていません。
そう思っていたら、今日、ネットでうれしい記事を発見しました。
食用の生きた沢蟹を購入して、それを育て上げた人のサイトです。
私も一度挑戦しましたが、もう一度挑戦することにしました。
問題は生きた食用沢蟹を見つけなければいけないことです。
見つかるといいのですが。

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2006/08/20

■イーハトーヴの平和と夏休みの効用

岩手に行っていました。
宮沢賢治のイーハトーヴの世界です。
イーハトーヴは、賢治にとっての理想郷でしたが、その言葉の意味とは違い、ネバーランドではなく、決して少なくない人たちの心象世界の中に実在した世界なのだろうと思います。
岩手の豊かな自然に触れると、そう思えてなりません。
賢治はおそらく、動植物はもちろん岩や土や水の流れ、風や太陽とも会話していたのだろうと思いますが、ここに来て自然と触れると、とても納得できます。

岩手の自然に触れて、もう一つ感じたのは、岩手の貧しい農民たちというイメージがなかなか実感できないことでした。
彼らは実際に貧しく、冷害に苦しみ、毎年雪を越すことで精一杯だったのでしょうが、それは過酷な自然状況のせいだったのでしょうか。
雪の深い岐阜高山の知人から、長い雪の世界が終わり一挙に梅も桃も桜も開花する春の到来の感激の話を時々聞きますが、雪深い岩手の世界でも、きっと毎年、その歓喜の春がみんなを元気にさせていたのではないか。そうやって元気付けられた人たちが、自然と仲良く暮らせていたのではないか。などと思ってしまうのです。
そんなに良いと思うのなら自分も転居したらどうかといわれそうですが、それは私にはできないでしょう。
人はそう簡単には転居できないものだということを最近痛感してきています。
人の生命は土に深くつながっているのを最近強く感じます。
そのつながりが切れた時に、もしかしたら悲惨な農民の物語が創られたのかもしれません。
事実に反するのかもしれませんが、そう思えてなりません。

賢治はなぜ自然と話ができたのでしょうか。
そして現代人の多くは、なぜその能力がなくなってきてしまったのか。
アイヌ民族はかつて「文字」を持たなかったが故に、暦や文化を伝承で伝えてきたが、文字を学んだことで、その記憶力や非言語コミュニケーション力が失われたということを子どもの頃学んだ記憶があります。
日本の地方に行くと、その自然の豊かさにいつも圧倒されるのですが、もし今もなお自然と話ができるままで生活していたら、今とは違った豊かさの指標を持てていたかもしれません。
人と人との平和の前に、人と自然との付き合い方や会話できる能力を回復することが大切なのかもしれません。

毎年の夏休みで、多くの人たちが、そして多くの子どもたちが、企業や学校から解放されて、自然と触れ合う夏休みの効用はきわめて大きいように思います。

みなさん、自然ときちんと話をしていますか。

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2006/08/19

■自分たちが実際に戦争に行くという実感が持てない

テレビを見ていたら、ある若者が「自分が戦争に行くという実感がもてない」と話していました。
唖然としました。彼にとっては、戦場での悲惨な情景は実生活につながっていないのです。
そうした若者が語る戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

平和をテーマにしたあるテレビ討論会で、ある人が戦争の実感を持っていない若者たちに向かって
「戦争を体験してみろ」というような発言をしました。
これもまた唖然とする恐ろしい言葉です。
戦争を体験しないと語れない戦争や平和の話は、いったいどういう意味があるのでしょうか。

ともかく唖然とすることが多すぎます。
靖国の意味もほとんど知らないままに、
戦没者を慰霊することの何が悪いのかという発言も私には唖然としますが、
ともかく唖然とすることが多すぎます。
それもれっきとした学者や有識者、政治家が、です。
小泉チェルドレンといった雇われ政治家の話ではありません。
本物の政治家の話です。

靖国参拝支持か、不支持か。
9条改正反対か賛成か。
こうしたアンケート調査や世論調査結果がよく報道されますが、
その結果の数字はいくらでも操作可能です。
そんな実証データも、ネット世界では飛び交っていますが、
もっとみんな、自分の問題として平和や戦争の問題を考えていくことが大切なように思います。
そのための設問がとても重要になっています。
「あなた」を問わなければいけないのです。

あなたはレバノンの戦いに参加したいですか。
国を守るためにあなたは人を殺せますか。
国を守るためにあなたは自らを犠牲にすることを受け入れられますか。
あなたの加害者と同じ墓に入りたいですか。
どこかの国と戦いが始まったら、あなたは志願して戦いに行きますか。

国の平和と家族の平安と、あなたはどちらが大切ですか。

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2006/08/18

■銃撃されて死ぬ確率

ロシア国境警備隊の銃撃を受けて、日本漁船の乗組員が死亡しました。
たとえ領海を侵犯した密漁であっても、銃撃されて殺される状況はなぜ起こったのでしょうか。
思い出すのは「発砲率」の話です。
米国陸軍に23年間奉職したデーヴ・グロスマンが書いた『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)に出てくる恐ろしい話です。

「発砲率」とは米軍で使われている用語ですが、
兵士が実際に敵と対峙した時に敵に向かって銃を撃っているか、という割合です。
どのくらいだと思いますか。
彼の調査によれば、南北戦争から第2次世界大戦まで、「発砲率」は15~20%で、ほとんど一定だったそうです。
つまり、80~85%の兵士は、自分の命が危ない時でも、敵を狙って発砲していないのです。
ではどうしているか、違った方向に向けて発砲したり、威嚇しあって発砲しなかったり、という事例が多いようです。

とても安心します。
人間だけが、仲間を無意味に殺す生物だと教えられてきた私にとっては、
この文章に出会えた時には、やはりそうだったかととても安堵したことを覚えています。

ところが、その後の記述が恐ろしいのです。
こうした事実に気づいた米軍は、発砲率を高める研究を行い、実践します。
そして、ベトナム戦争以後は、発砲率は95%に劇的に高まったといいます。
私の安堵感は逆に大きな失望感に変わったことは言うまでもありません。
以来、このおぞましい話は記憶から追いやっていました。
今回の事件で、その話を思い出しました。

この本の原題は、正確には「戦争と社会における・・・」になっています。
そして、実はこの研究成果は兵士の軍事訓練だけではなく、社会全体に展開されているような気がします。
それが、私がおぞましいと思った理由です。
加担しているのはマスコミと産業界、とりわけエンターテイメント産業です。
映画やゲームを思いだせば、わかってもらえるでしょう。
第一次洗脳を受けた人たちが、今度は洗脳する側に回っているという恐ろしい構図も感じられます。
この本を読んだ直後に、このブログでも北野たけしを批判した記事を書きましたが
彼などもまた洗脳を受けた典型的な人物だと思います。

少し考えすぎかもしれませんが、この視点で見ていくと、世界の動きが奇妙につながって見えるのです。

盛田さんはなぜ射殺されたのか。
私がいつ同じ境遇に出会ってもおかしくない社会になりつつあるのかもしれません。
生物としての人間は滅びつつあるとさえ思えてなりません。

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2006/08/17

■エレン・ワタダ中尉が生まれる素地

今年は終戦記念日や原爆投下日に前後して、
新聞がかなりしっかりと平和や戦争の問題を連載で追いかけているような気がします。
気のせいでしょうか。
それだけ事態が緊迫していることの現れでしょうか。
平和に関する市民の集まりも増えています。
しかし、その一方で、加藤紘一議員の実家が放火されるなど、
現実の動きはますます加速されているようです。

今日、ある人が、エレン・ワタダ中尉が8月14日に開かれた
「平和のための退役軍人全米大会」でスピーチしたニュースのサイトを教えてくれました。
ワタダ中尉は、「違法な戦争と違法な兵役拒否」で書いたように、
イラク派遣を拒否下アメリカ軍隊の将校です。現在、軍法会議にかけられています。
彼のスピーチに対し、会場からは総立ちの拍手喝采が送られたそうです。

日本の自衛隊にはこうした動きが全くありません。
恐ろしいほど静かです。
イラクでの真実をぜひ聞きたいものです。
私たちの税金で派遣されたのですから、良くも悪くも見てきた真実を語りだしてほしいものです。
過去を語るのもいいですが、いま起こっている現実を直視することも大切です。

エレン・ワタダ中尉が生まれる素地のあるアメリカと、日本はどこがちがうのでしょうか。
私たちの意識の違いかもしれません。

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2006/08/16

■生態系の変化

温暖化の影響で自然界に異変が起こっているという話が最近増えています。
私自身、なんとなく毎年の自然の成り行きに違和感を持ち出してから、すでに10年以上たちますが、その変化や違和感は、気のせいかなと思うほどの小さなものですから、意識的には徐々にならされてきている感じがあります。
ゆっくりと進む変化には人は次第に慣れていき、おかしさを感じなくなるものです。

そこ気づいたのですが、日ごろ感ずる変化をメモに残していこうと思いつきました。
たとえば今年のウグイスの話やトンボの話しのようなことを、です。
みんなで気づいた、ちょっと回りで気づいたおかしな話をどこかに集めてみたら、なにかが見えてくるかもしれません。

今日から始めます。
一緒にやってみる方はいませんか。
今日の気になる風景は、3時頃見た黒煙のような雲でした。
写真にとっておかなかったのが残念ですが、生まれて初めてあんな雲を見ました。

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2006/08/15

■「ありがとう」の気持ちは訓練の対象なのか

今日は終戦記念日だったので、湯島天神に行きました。
終戦記念日と湯島天神とどうつながっているか、などと詮索してはいけません。
私は靖国ではない神社に行きたかっただけの話ですから。

そこで思い出したのが、先日、友人からもらった「ツキ」のことです
この2年、凶を引いたことのない幸運な大村教授が私に自分のツキをくれたのです。
実際に、その翌日、ちょっといいことが起きましたし、その後、購入した宝くじも当たらないという幸運に恵まれました。宝くじがもし3億円、当たっていたらきっと私の人生は狂ってしまうでしょうから、当たらなかったのはとても「ツイテいた」にちがいありません。はい。これはきっと大村さんの配慮の結果でしょう。
しかし大村さんの話が本当かどうかは、おみくじで確かめねばなりません。
そこで湯島天神でおみくじを引きました。
「中吉」でした。
さてこれをどう受け止めるべきでしょうか。
最大吉とか特吉であれば考える余地はありませんが、中吉だということは、本当に大村さんから「ツキ」がもらえたのかどうか、疑いがないわけではありません。
ちょっと悩んでしまったのですが、半日考えたら答がわかりました。
間違いなく、大村さんからツキは回ってきているのです。
つまり大村さんに会ってなければ、きっと大凶だったのです。
それが中吉。感謝しなければいけません。
では、もし「大凶」だったらどうでしょうか。
それでも結論は同じです。
もし大村さんに会ってなければ、おみくじなど引ける状況にはなれないほどの悲惨な状況に陥ってしまっていたはずです。
そうやって考えると、常に今の状況は感謝しなければいけないのだということに気づきます。
そういえば、こんなことを友人の飯田史彦さんが本「生きがいの創造」に書いていました。
感謝の気持ちを持って生きると、人生はとても豊かになるのかもしれません。

とまあ、そんな気持ちになって、昨日届いた「軍縮問題資料」を読んでいたら、教育基本法案に関する入江曜子さんの論考に、文部科学省が作成した「心のノート」の話が出ていました。
その小学5~6年生のテキストに、「『ありがとう』っていえますか?」という見開きページがあるそうです。
そして、それに関する入江さんのコメントを読んで頭が混乱してしまいました。
みなさんにもぜひ読んでほしいですが、それと同じ記事が次のサイトにあります。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0404/sin_k170.html

みなさんはどう思われますか。
話がややとんでしまっていますが、これが私の終戦記念日の1日でした。
まだ数分ありますが。

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■終戦記念日の迎え方

終戦記念日です。
その日の最初の大ニュースが首相の靖国参拝でした。
予想していたこととはいえ、何か大切なものを汚されたような不快感が残りました。
靖国の真実は、きちんと公開されなければいけないと思いました。
「知の非対称」が人の意識を乱し、争いや戦いを起こします。

しかし、小泉首相のおかげで私は今日が終戦記念日であることを強く意識できました。
どんなことにも「良い面」はあるものです。
今日は1日、終戦記念日であることを意識してすごしたいと思います。

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2006/08/14

■「ここまでやって来たのに、もったいない」

滋賀県の嘉田知事が公約の栗東駅建設中止で苦境に立たされているようです。
それに関連して、こんな記事が8月11日の朝日新聞に出ています。

知事選から5日後の7月7日。JR東海の松本正之社長は、名古屋市の本社応接室で国松善次・前知事と向かい合っていた。「もったいない、に負けた」と謝罪する国松氏を慰めつつ、選挙結果を皮肉った。「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。

JR東海の本質が垣間見えます。
「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」。
まさに無駄遣いや悪徳商法者が語る常套句です。
そうやって、私たちは日本を浪費し続けてきたのです。
そこからそろそろ抜け出なければいけません。
頂上を目前にしても、状況によっては登頂をあきらめて引き返す勇気が登山家には必要とよくいわれますが、
まさに今はそういう時期なのです。
私たちにいま、必要なのは「勇気」です。

大切な農地を駅建設のために売却してしまった農民は複雑な気分でしょうが、
農協に騙され続けてきた歴史を思い出してもらえば、何が大切かはわかってもらえるでしょう。
駅建設をやめても、対応策はいくらでもあるはずです。
一緒になって真剣に考えれば、打開策はあるはずです。

しかし、今のような状況を中途半端に知らされた県民は、
「ここまでやって来たのに、凍結こそもったいない」と思い出すかもしれません。
事実、そういう人に私も出会いました。住民とは本当に身勝手です。
しかし、すべての原因は中途半端な情報の流通にあるような気がします。

ところで、長野県知事が変わります。
8月11日の信濃毎日ニュースに、県世論調査協会の支持率アンケート調査結果が出ています。

村井氏の支持率は72・2%。村井氏の知事選での得票率53・42%を上回る高い水準となった。不支持率は24・3%だった。

1週間もしないのに、何でこんなに支持率が高まったのでしょう。
大衆は信じられる存在ではないと思いたくなりますね。
長野人たちだけが、理念も人情もない家畜のような存在なのでしょうか。
そう思いたい気持ちもありますが、きっと長野県民に限った話ではないのでしょう。
これが人間の性かもしれません。

せっかくの田中県政の成果が消えていくのが、私にはとてつもなく「もったいない」気分がします。
人は失ってから、その価値に気づくことが少なくありませんが、そうならなければいいのですが。

しかし冷静に考えてみた時に、滋賀と長野の話はどう違うのでしょうか。
どこに価値観をおくかで、同じ事柄もまったく反対に見えてきます。
情報がどのくらい共有化されているかが、最大の問題だと思いますが、
まだまだ情報の非対称現象はほとんど是正されていないのかもしれません。

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2006/08/13

■旅客機爆破テロ未遂事件とイスラエル非難決議

降って沸いたような「米国行き旅客機爆破テロ未遂事件(英国テロ事件)」の報道を載せた同じ新聞紙面に、「国連人権理事会、イスラエル非難決議を採択」という記事があります。
この2つの事件は無縁ではありません。
いや、最近の動きを見ていると、犯人も同じなのではないかなどと妄想したくなります。
不謹慎を承知で書けば、英国テロ事件の真実味を実感できないのです。
歴史の真実は本当に見えにくいです。

それにしても世界は混乱度をますます高めています。
ソーシャル・キャピタルが経済にどう寄与するかという問題設定ではなく、ソーシャル・キャピタルの喪失が経済をどう破壊するかという議論をしなければいけないような気がします。
全社の議論には経済界は無関心でしたが、そろそろ真剣に考えだすかもしれません。
信頼を壊すことで成長する経済パラダイムからそろそろ抜けられるかもしれません。
今回の英国テロ未遂事件は、考えれば考えるほど、興味深い事件です。
誰が仕掛けたのでしょうか。

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2006/08/12

■自民党総裁選挙の象徴性

自民党総裁選挙はすでに決着がついているようですが、そこに自民党の本質が象徴されているような気がします。
密室の談合体質。長老たちの支配体制、です。
これこそが「政治」だという人もいますが、そういう政治には多くの生活者は興味を感じないように思います。
その表れが選挙への投票率の低さかもしれません。
多様な意見を引き出す仕組みとは違って、一部の意見を際立たせる仕組みが、日本の民主主義の設計思想ではないかと私は思っています。
CWSコモンズでいつも書いているように、制度発想か個人発想かで、民主主義はまったく違った機能を発揮します。
パラダイム転換しなければ、事態はいつになっても変わりません。
いずれにしろ、万機公論を目指して立候補宣言をしている河野太郎さんたちとはまったく次元の違う舞台で議論が進められているわけです。
社会党がまだあったころ、土井さんに対して秋葉さん(現広島市長)が党首選挙で争ったことがありました。
当時の新聞に、秋葉さんはまだ若いから、という記事が出ました。
秋葉さんは私と同じ世代ですので、当時50代の後半だったはずですが、つい10年前には50代ですら一人前とされなかったのが日本の政治だったのです。
高齢社会になる前に、実は日本は今以上に高齢者支配社会だったわけです。
最近は政治の世界も大きく若返りました。
しかし高齢者支配の時代の悪しき仕組みはまだ残っているようです。

昨日、テレビを見ていて、太田総理に感心しました。
自民党の若手議員といわれる人たちにも、せめて太田さんくらいの「悩み」を持ってもらいたいと思いました。
個人としてのパッションのない、無表情の政治家ばかりになっているのがさびしい気分です。

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2006/08/11

■靖国神社宮司の人間観

靖国神社強制合祀への起訴が行われました。
テレビで裁判になったのは初めてだといっていますが、こうした動きはこれまでもありました。
私が思い出したのは、1973年の自衛官合祀拒否訴訟です。
ちょっと事情は違う訴訟ですが。
自衛官だった夫が公務中に死亡。自衛隊が妻の意志を無視して殉職自衛官として靖国神社の分身である山口県護国神社に英霊として合祀されたことを拒否した憲法裁判です。
原告は私と同じ年の女性ですが、数々の脅迫にもめげずに、裁判を続け、1982年の二審(広島高裁)で勝訴しました。
この事件は靖国が過去の問題ではなく、いまなお現実の問題として存在することを示しています。
靖国神社(護国神社)の人間観は「英霊思想」であり、国民を国家の道具(付属物)と考えています。
彼らにとっては、死者は自らの権威付けや権力拡大の道具でしかないと思えてなりません。
そもそも英霊思想とはそういうものなのです。
私にはおぞましい似非宗教犯罪団体とどこが違うのかよくわかりませんが、死者を人間として寓しない神社の存在と日本神道とは似て非なるものに思えます。
私は神社が大好きで、そこにいるだけで心洗われる気分ですが、靖国神社や護国神社はなぜかそこに入っただけでおぞましい気分に襲われてしまいます。
土地の記憶のパワーを感じます。
本殿の前に立つと伝わってくる霊気が違います。

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2006/08/10

■「貧しい豊かさ」と「豊かな貧しさ」

一昨日、大阪の貝塚に行きました。
寺田紡績という会社を訪れたのですが、その工場に行く道もとても懐かしい町並みを残していましたが、会社自体も実に懐かしい雰囲気で、感激しました。

私が会社に入社して最初に赴任したのが、滋賀の石山にある工場でした。
そこの雰囲気が私の社会の原風景なのです。
そこで感じたことを書き出したら、それこそ1冊の本になりますが、私の人生観はそこでの4年間で仕上がりました。
経済的には、貧しい時代から豊かな時代への移り目でしたが、私の価値観では、豊かな時代から貧しい時代への変わり目でした。
滋賀の工場には「豊かな貧しさ」の名残がありました。
そればかりではありません。
「変えなければいけない課題」も実感できる形で残っていました。
女工哀史の世界の象徴が、あるいは遺産が、残っていたのです。
何も知らすに会社に入った若者には十分に刺激的でした。
昨今の男女平等社会論とは違い、そこには表情のある人間が見え、現実の形でまだ残っていたのです。

昭和30年代に、日本は進路を間違った、と私は思います。
思い直すチャンスは40年代にあったように思います。その動きのすぐ近くにいながら、私は気づかずにいましたが。
私がその間違いを迷いなく自覚できたのは、入社してから20年後です。不明をはじなければいけませんが、それ以上に、一度手に入れた「貧しい豊かさ」を捨てられずにいることです。
それどころか、歳とともに、利便性を求め、怠惰さをむさぼる生活に向かっています。
そのために今もって、中途半端な生活を送っているわけです。

話がそれてしまいましたが、私が寺田紡績を訪れたのは、今度、社長になった友人に会いたかったからです。
しかし、その会社に着いて、車を降りた時の第一印象は40年前の世界へのタイムスリップでした。
とても人間的で、ホッとする風景がそこにあったのです。
書き方を注意しないと誤解されそうなのですが、ともかくこれこそが日本をいい意味で豊かにしてきたものづくり工場の原点です。
社名には紡績とありますが、今は紡績はしていません。
しかし、工場は昔の紡績工場です。
その建物をとても大事に使いながら、苦労しながら新しいものづくりに取り組んでいます。明治45年に作られた工場です。
工場を見せてもらいましたが、働いている人たちがみんなあいさつしてくれます。
いい仕事をしている証拠です。
こうした豊かな会社を私たちは壊して、わけのわからない会社を育ててきてしまっているのです。
とても豊かな気持ちになれました。
友人がとてもうらやましく思えました。

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2006/08/09

■国民祝祭日を国民黙祷日に変えたらどうでしょうか

今日の11時2分、長崎に原爆が投下されました。
その時間、神奈川県の湯河原町で迎えたのですが、屋外スピーカーからの告知があって、サイレンがなり、住民に黙祷が呼びかけられました。
私が住んでいる我孫子市でも同じことが行なわれているのかもしれませんが、今まで気づきませんでした。
こうした活動がしっかりと各地で行なわれているのです。

黙とうをしながら考えたことがあります。
国民祝祭日をやめて国民黙祷日にしたらどうでしょうか。
いや、そもそも祝祭日のいくつかは黙祷日の要素をもっていました。
先祖を思い、働くことに感謝し、健やかな子どもの育ちを祈っていたはずです。
それがいつしか、単なる休みの日になってしまいました。
祝祭日の意味が変わってしまったのです。
改めてみんなで自分たちの生き方を考え直す「国民黙祷日」にするのはどうでしょうか。
候補は、広島・長崎の日、阪神淡路大震災の日、水俣の日、サリン事件の日、盧溝橋事件の日、挙げだしたらきりがないほどあります。
暗い記念日で元気が出なくなりそうという人がいるかもしれません。
そんなことはありません。
その暗い日を切り抜けて今があるのです。
長崎の被爆者たちは、きっと長崎の日にみんなが思い出してくれることで、元気になるのです。
被爆者ではない私も、また被爆者の声を聞いて元気になれます。

好戦的な為政者が出てきても、それに抗して生きている人たちの姿は私に大きな勇気と元気を与えてくれます。

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2006/08/08

■「社会奉仕」刑への違和感

最近、懲役刑や罰金刑に代わる「社会奉仕命令」の新設が議論されだしています。
ちょっと気になることがあります。
社会活動が「刑罰行為」の一種になってしまってはたまったものではないからです。
「社会奉仕」刑は欧米では一般的になっているという報道もあります。
本当でしょうか。
似て非なるものではないかという気もしますが、
どうも最近の裁判や刑罰に関する議論は、本質をごまかしているような気がしてなりません。
教育もですが。
社会奉仕が喜びに通ずるものであれば、犯罪の結果、ご褒美をもらえることになるわけです。
一方、喜んで社会奉仕活動をしている人たちは、どう感ずるでしょうか。
前世の悪行の罪滅ぼしを今していることになるのでしょうか。
考えすぎだと思われるかもしれませんが、こうしたところから社会の価値観は崩れていくのです。
きちんとした議論が必要ではないかと思います。

ところで、長野知事選は私にとっては残念な結果に終わりました。
敗北した田中さんが、「6年の奉仕の場を与えてくれた長野県民に感謝します」と発言していましたが、私にはとても納得できる言葉でした。
田中さんに大きな拍手を送りたいです。

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2006/08/07

■根深い女性の人権蔑視の思想に立脚する刑法体系

女性の長期監禁事件やストーカーによる殺人事件、さらには子どもに向けた性犯罪事件に関して、日本の処罰体制は極めて甘いように思います。
この根底には、根深い女性の人権蔑視の思想があるように思えてなりません。
男女共生とか女性専用車とか、そんなレベルで議論をしているよりも、もっと考えるべきことがあるように思います。
この点では、女性のオピニオンリーダーの責任をかなり感じます。
今回の大阪女性監禁事件や宗教まがいの女性人権破壊活動の加害者は、これまでも繰り返し同様な行為を繰り返してきたわけですが、それを見過ごす文化が日本の社会には根深く存在するということです。
警察が動かない背景にも、そうした女性の人権を認識できない状況があります。
ジェンダーとか男女共同参画とか、そんな言葉は私にはほとんど興味はないのですが、大切なのは女性を人間と見る感覚の回復ではないかと思います。
そうした視点で考えると、性犯罪による女性の人格破壊は、殺人よりも厳罰に処するべきではないかと思います。極刑を貸すべきだと私は思っています。
しかし実際の日本の法律と裁判官たちの根強い女性蔑視の思想は、それとはまったく別の世界にあります。
今回の犯人もそうですが、また社会に復帰し、再販を繰り返す可能性が多いでしょう。
それが今の日本の犯罪管理体制です。
私は、こうした加害者は永久に社会には出てこずに、労働によって罪を償う仕組みをつくるべきだと思います。
なんと人権無視の非情で非見識な人間か、と非難されそうですが、それが正直な気持ちです。
また暴論になってしまいました。

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2006/08/06

■三毒を抑える

小沢一郎さんと稲盛和夫さんがゲストの報道2001を観ました。
少し心が落ち着きました。
とても理路整然と、わかりやすく、今の日本の状況を話してくれました。こういうしっかりした認識をお持ちの政財界人がいることに安堵したのです。
お2人のお考えはこれまでも本や新聞では読ませてもらっていますが、改めてテレビで表情を見ながら聞かせてもらうのは初めてかもしれません。
稲盛さんが「三毒」の話をされました。
僧籍もある稲盛さんならでは話です。
「三毒」とは煩悩を象徴したものですが、簡単に言えば、「貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)」です。稲盛さんはもっとわかりやすく、「欲、怒り、愚痴」といいました。
これらはすべて人間が生きるために必要なものですが、それに翻弄されないように、抑えることを学ばねばいけないというのです。
私自身も、そういえば、この三毒に翻弄されているような気がします。
心しなければいけません。

しかし、そのお2人のゲストの後に、靖国をめぐる議論がありました。
それぞれ著名の方たちの議論でしたが、小沢、稲盛の話に比べて、あまりに表層的な欲得だけの話だったので、せっかく気持ちが穏やかになりかねたのに、怒りと愚痴の世界に落ちそうになってしまいました。
やはりテレビはいけません。
三毒を振りまくメディアですね。

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2006/08/05

■加害者と同じお墓に入りたいですか

首相の靖国参拝の賛否が議論されていますが、どうもその内容があいまいなままの議論なのがもどかしいです。
小泉首相が靖国参拝したいのであればしてもらえばいいようにも思います。
大騒ぎすることはありません。
小泉首相に関しては、もっと大騒ぎすべきことはたくさんありますから。
もちろん私は首相の靖国参拝には反対ですし、それが先の戦争を正当化するものであるとの思いを持っています。
戦没者への慰霊行為と戦争の正当化行為とは全く別物です。
そして小泉首相は憲法に反してまで日本を戦争ができる国にしようとがんばっている人であり、極めて戦争好きな人間であることは明白ですから、その人を首相に選んだ国民は、いまさら靖国参拝反対などと叫んでも遅いのです。
イソップ物語のかえるの王様の話を思い出します。
こんな話です。

池でガアガア鳴くばかりのたくさんの蛙たちが、ある日、神さまに自分たちの王様を授けてくださいとお願いしました。神様は彼らが馬鹿なのを見てとって、一本の木片を沼の中に落としてやりました。その音に驚いて蛙たちは沼のそこに身を隠していましたが、木片が動かないのを知って、その上に座り込むなど木片の神様を馬鹿にするようになりました。そして、もっと違う王様がほしいと頼みました。腹を立てた神様は今度は水蛇を神様として送りました。そして蛙たちは、その神様に捕らえられてみんな食われてしまいました。池は静かになりました。

身につまされますね。

靖国は2つの意味があります。
英霊思想の象徴と先の戦争の正当化の象徴です。
靖国参拝と戦没者慰霊とは同じ話ではありません。
分かりやすく言えば、犯罪者と被害者が一緒に祀られているわけですが、その構図をあえてあいまいなままにしているのが、今の靖国論議です。
ですからマスコミでの靖国議論は内容のない議論でしかありません。
なぜ論点を明確にした言葉で議論をしないのか不思議ですが、これもまた関係者の思惑の結果なのでしょう。

戦争の犠牲者には手を合わせたいと思いますが、戦争を起こした張本人には手を合わせたくないのが人情です。
今回の流れるプールでの不幸な事故で、被害者の親が管理責任のある市や施設の責任者が葬式に参列するのを拒んでいる気持ちが、もし理解できるのであれば、A級戦犯と合祀されていることの意味がわかるはずです。
私の家族がもし靖国に慰霊されていたとしたら、とても耐えられないですね。
日本の多くの国民は、なぜそんな素朴な気持ちを忘れてしまったのか、本当に残念です。
そういう人たちと一緒に生きていることが最近は腹立たしくて仕方がないのです。
8月になるといつも気分が穏やかではなくなります。
困ったものです。

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2006/08/04

■物事を簡単に考えてしまう発想

「当たり前」発想が思考停止につながることを昨日書きましたが、それとは逆の発想があります。
「そんなことは簡単なことです」とまず思い込んでしまう発想法です。
実はこれが私の発想法なのです。

商店街の活性化、そんなことは簡単なことです。
少子化の問題解決、そんなことは簡単です。
企業の業績改善、そんなことは簡単です。
家庭農園の雑草とり、そんなことは簡単です。
などなど、
これが私の基本的な発想なのです。
そういえば、CWSコモンズに、
「企業を変えるのは簡単です」という小論も載っています。

実はこの発想が家族から大きなひんしゅくを受けているのです。
そして私の信頼感を損なっているのです。
知ったかぶりだ。
物事を簡単に考えていつも失敗ばかりしている。
簡単ならもっときちんと畑の草取りをしろ。
いやはや、困ったものです。

女房からは、
「あなたは現実を知らないで物事を簡単に考えすぎる。
そのしわ寄せはすべて家族や関係者にいっているのがわからないのですか。
現場が大事だといいながら、現場の人の大変さをどう考えているのですか」
と厳しく怒られています。
それが原因での夫婦喧嘩も少なくありません。
しかし、難しい問題をそれは難しいという発想から始めたら何もできません。
これもまた一種の思考停止発想になるのです。

何か問題解決を議論していると、
そんなことはできないとか、難しいとか、いう人が多すぎます。
そう考えていては、前に進みません。
失敗してもいいですから、まずは「そんなことは簡単だ」と声に出していいましょう。
そこから「不幸」が始まることになるかもしれませんが、
それが「人生」なのです。
声に出して、復唱してください。
「そんなことはかんたんだ」
どうですか、何か人生が開けたように気になりませんか。

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2006/08/03

■Educated Incapability症候群

今日は、新潟水辺の会の金田さんからとても良い話を聞きました。
信濃川にサケを遡上させようという話があるのだそうです。
新潟の信濃川は長野では千曲川と呼ばれていますが、昭和初期までは新潟と長野の信濃川(千曲川)でそれぞれ年間70トン程度の漁獲量があったのだそうです。
小諸や佐久でサケが採れていたのです。
ところが、昭和10年代から始まった水力発電事業によって、川がせき止められ、サケの遡上が難しくなり、昭和20年には西大滝ダムから上流には、ついに一匹も上らなくなってしまったのだそうです。千曲川からサケが消えてしまったのです。
そこで新潟水辺の会では、長野県の有志とも話し合いながら、サケの川を蘇らせるために、新潟・長野両県の人々に広く呼びかけながら運動を発展させていこうと考えているのだそうです。
ともかく、「川があるのに魚が上ったり下ったり出来ないことを、あたりまえだと考えるのはやめよう」というところから出発しているのだそうです。
とても共感できる発想です。
私たちが「当たり前だ」と思っていることの多くは、決して当たり前でないことが多いのです。
知識を学ぶことで、「当たり前」対応が多くなってきていることが残念でなりません。
「当たり前」と考えたら、そこで思考は停止します。
もし「知識量」「情報量」と「当たり前反応」に相関関係があるとしたら、有識者ほど時代の変わり目には間違いを犯しかねません。

昔、Educated Incapability という言葉を聞いたことがあります。
知識が多ければ多いほど、教育を受ければ受けるほど、現実を生きる能力、時代を開く能力が失われてしまうということです。
今日は金田さんと話していて、その言葉を思い出しました。

ちなみに、私は最近、Educated Incapability症候群に陥っています。
何をやっても社会が変わらないのであれば、まあ自分のやりたいことだけやっておこうか、という生き方に引きずり込まれそうなのです。
もしかしたら、私も「有識者」なのかもしれません。
家族から馬鹿にされるのは当然かもしれませんね。
反省。
最近はともかく反省することが多いです。はい。

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2006/08/02

■新しい観光開発への関心

日光に行ってきました。
予想に反して、観光客が少ないのに驚きました。
そういえば箱根もそうです。
箱根にしろ日光にしろ、たくさんの魅力ある資源をもっているのになぜこんなにも衰退してしまっているのでしょうか。

私は観光にはかなりの関心があります。
なぜなら観光こそがまちづくりの真髄を象徴しているように思うからです。
しかしこれまでの観光はそうではなく、まちこわしにつながる観光でした。
それでうまくいくはずがありません。
観光とは歴史や自然を伴うものです。
先週、平城京遷都1300年をテーマに小さな集まりがありました。
そこで奈良の「寝道楽」の話が出ました。
奈良は過去の観光遺産の上に寝ていても暮らしていけるという話です。
ギリシアを旅行した時に、現地のガイドさんが同じような話をしていました。
たまたま素晴らしい景勝地に恵まれたが故に、黙っていても観光客がきてくれるところもあります。
そこもきっと寝道楽人口が多いかもしれません。

3年ほど前に、房総の御宿の観光開発のアドバイザーをさせてもらいました。
残念ながら観光業界の発想は変わりようもないようです。
最近、観光地に行くたびに、気になって仕方がないのです。
実におもしろいテーマなのに、どうしてみんな真剣に取り組まないのでしょうか。

それにしても、全く関係ない話ですが、
今夜の亀田選手のボクシングの勝敗は納得できませんね。
まあ、こうしてみんな自らを滅ぼしていくのでしょうか。

心しなければいけません。

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2006/08/01

■自民党総裁選挙は国民に政策論議を呼びかけるチャンス

自民党の総裁選が動き出しましたが、どうも腑に落ちないことがあります。
たとえば河野太郎さんは早くから立候補していると思っていましたし、本人もテレビでそう発言しています.
しかし、推薦者が20人確保できないので、立候補できないようです。
政党の総裁ですから、政党の規則が優先してもいいと思いますが、
志ある人が議論にも参加できない仕組みはいかにも自民党らしく、
国民のための政策議論が行われた上での総裁候補選びではなく、
政策とは無縁の「何か」で総裁が決まることを象徴しています。

大きな時代の曲がり角であればこそ、政策論議が公開の場で行われることが必要ですが、
有力視されている人たちの側から出てくる発言は「選挙に勝つ」ことを目指す党利党略のための議論ばかりです。
若手議員ですらそうですから、高齢者議員はもっとそうでしょう。

小泉首相が自民党を壊したという人がいますが、何を壊したのか私にはよくわかりません。
官僚や財界との癒着や依存はますますひどいように見えますし、
陰湿な密室議論も増えているような気がします。いや議論の不在さえも感じます。

ちなみに、自民党を壊すなどということは瑣末な話です。
国民が自民党を見限ればいいだけの話で、
自民党を壊すなどと発言する総裁の意図は
自民党を国家政府と同じだと考えている態度の表明でしかありません。
要するに国家を私物化するという考えの露出以外の何ものでもありません。

河野太郎さんのような、少しは国家を考えている人にお願いしたいのは、
ぜひこれを機会に国民に呼びかけて、政策論議を始めてもらいたいことです。
どうせ相手にしてくれない自民党執行部やマスコミにではなく、
直接、国民に呼びかける場を全国で展開し、その広がりの中でマスコミを味方にし、
輿論を創っていくことができれば自民党も耳を傾けざるを得なくなるでしょう。
今回の総裁選は旧態依然の形で行われるかもしれませんが、
もしかしたら次回のスタイルは変わるかもしれません。
同じ土俵で行動するのではなく、土俵をもっと広く考えてほしいです。

それこそが、制度で発想するのではなく、個人で発想する時代の政治のあり方だと思います。

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