■自由と秩序
朝日新聞の連載記事「境界線で」の最終回は、国家と非国家がテーマでした。
刑務所や警察機能の民営化の話しも紹介されていましたが、
民営化から共営化へと移行させるべきだと考えている私にとっては、恐ろしい未来への懸念が高まるばかりです。
しかし、その懸念は私だけではないようです。
その連載の締めくくりの文章はこうなっていました。
見かけは小さな国家でも、コントロールが利きにくければ、力は強大になる。
自由度が増したようで、実は選択の余地があまりない。
この国は、そんな方向へ向かっているのかもしれない。
「国家が秩序を保ち、国民一人ひとりが自由を享受するには、清貧が最も有効だ」
これはマキャベリの言葉です。
『政略論』にこう書かれているそうです(塩野七生「マキアヴェッリ語録」)。
ローマも、建国後400年までは少なくとも、清貧を尊ぶ気風が充満していたのだった。 なぜならローマ市民にとって、いかなる公的地位につくにもいかなる栄光に浴すにも、貧しさが不都合なことはまったくなかったからである。 もしも、その人物が力量に恵まれてさえいれば、どんなに貧しい小屋に住んでいても、人材登用の機会にもれないという自信をもてたのだ。 だから、強いて富を求める必要もなく、欲求も生れなかったのである。 つまり、ローマ人の制度が、ローマ人自身に、富をがむしゃらに追求する気持を生れさせなかったのだった。 それどころか、畑仕事をしていたのを臨時独裁執政官に登用されたキンキナートゥスのように、立派な人物ならば、清貧もまた名誉とさえ思われていたのだ。
そして、こう書いています。
清貧を尊ぶ気風が、国家や都市やすべての人間共同体に栄誉を与えたのに反して、富追求の暴走は、それらの衰退に役立っただけなのであった。
国家のみならず、企業の経営者にもぜひ考えてほしい問題です。
今の日本は、まさに富追求の暴走状況にあるように思います。
せめて自分だけでも、そうならないように心がけていますが、心迷わす誘惑が多すぎて煩悩から脱せずにいます。
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