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2006年9月

2006/09/30

■セロのマジックはマジックを越えています

テレビでセロの2時間番組をやっていました。
セロはご存知の方も多いでしょうが、話題のマジシャンです。
そのマジックはありえないとしかいえないことを実現するのです。
説明しても意味がありませんので、やめますが、
ともかく「ありえないこと」を起こすのです。
いわゆるマジックやイルージョンとは全く違います。
ありえないことを実現するのですから。
たとえば、アジの干物に水をかけて生き返らせたりしてしまうわけですが、
それを衆人の目の前で行なうのです。
セロのマジックの謎解きに挑むブログもありますが、納得できるものはありません。
以前は実に感動して見入っていましたが、
最近はとても気持ちが悪いのです。
ありえないことが起こることは、人を感動させもすれば、不快にもさせるものです。
昨日は2時間も見てしまい、全く納得できないまま終わりました。
そのため極めて不機嫌です。

美しい国へも不快ですが、
セロも不快です。
マジックもトリックが何となく推理できるようなマジックは面白いですが、
セロのような「ありえない現象を起こすマジック」はマジックとはいうべきではありません。
と思いながらも、セロのマジックは凄いです。
彼は本当に人間なのでしょうか。
セロの物質変換マジックのトリックを知っている人がいたらこっそり教えてくれませんか。
気になって仕方がありません。
はい。

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2006/09/29

■美しい国へ

友人から電話がありました。
安倍総理の「美しい国へ」を読んで、批判本を書きたくなったと言ってきたのです。
論理的なおかしさの突っ込みと馬鹿さ加減の指摘が書きたいことのようです。
書名は「馬鹿な総理大臣へ」というのにしたいというので、それは止めて、せめて「哀れな総理大臣へ」にしたほうが良いと助言しました。
馬鹿なことにおいては、この友人も私も、決して引けはとらないからです。
大体において、誰かを馬鹿呼ばわりする人は、その相手以上に馬鹿なことが多いものです。

(武田さんの書こうとしている本への思いをCWSコモンズに載せました

さて問題は「美しい国へ」です。
私は読んでいません。読むつもりもありません。
しかし、内容を読まなくとも、いくつかのメッセージは感じられます。
まず、今の日本は「美しくない」というメッセージです。
革命を起こした人ならともかく、現政権の中枢にいる人が言うべき言葉ではありません。
10年ほど前に、「美しい会社」を目指そうとした会社があります。
その会社の人と話していて、もうじきおかしくなりそうだなと思っていたら、醜い不祥事を起こして、関係会社は消滅しました。雪印です。
「美しい」かどうかを評価するのは誰かを考える人であれば、こんな言葉は使わないでしょう。

次に、「美しい」は人によって内容が変わります。
時代によっても変わりますし、視点によっても変わります。
つまり内容の定まらない言葉です。
具体性がないですから、本当の意味での求心力にはならない言葉です。
いいかえれば、反論できない言葉です。
美しくないよりは美しいほうがいいのに決まっていますから、メッセージ性がない言葉です。

さらに、リーダーが使ってしまうと自分の考えを押し付けることになる言葉です。
まさに「タカ派」を誇る権力志向を象徴しています。

舌足らずですが、書名だけでもこれだけのメッセージをもっています。
しかし、多くの国民は、この言葉を歓迎しているようです。
なにしろ背後には、わが闘争のヒトラー戦略に学んでいる広告エージェンシーがついているのでしょうが、
内容がない言葉ほど、人を騙せるものなのです。
少なくとも、私にとっては、ますます「美しくない国へ」向かうことは間違いありません。
ソドムを脱出したロトの気持ちがよくわかります。

ちなみに、この記事は流行り言葉を題名にするとアクセスが増えるかどうかの実験もかねています。
以前、いつかやってみると書きましたので、その検証です。
それにして、今でも「アフリカではよくあること」は毎日5人前後の人がアクセスしています。
理由がわかりません。
アクセスしてくれた人も、誰も理由を教えてくれないのが残念です。
誰か教えてくれませんか。

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2006/09/28

■ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族

イスラエルのことを続けて書いたので、もう一度だけ書きます。

私が学生の頃、「栄光への脱出」という映画がありました。
離散していたユダヤ人が自分たちの国家を創りあげていくという、壮大な物語のプロローグに感動しながらも、それまで仲良く暮らしていたユダヤ人とアラブ人が対立していくエピソードに何か不安を感じました。
私が中東に関心を持つきっかけになった映画です。
特に印象に残っているのは、サル・ミネオ演ずるユダヤ過激派の若者の死でした。
その葬儀の光景が、その後ずっと頭に残っています。

この映画はなかなかテレビでの放映がありませんでした。
中東諸国への配慮からかと私は思っていましたが、どうもそうではなかったようです。
1976年に、パレスチナ過激派が飛行機をハイジャックし、イスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸した事件がありました。
イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功しました。
イスラエルの対パレスチナ強硬姿勢の原点になったといわれる事件です。
それを映画にしたのが「エンデベの勝利」です。
この映画はなぜか経団連(だったと思いますが)が、封切前に企業関係者向けに試写会を行ないました。
私も勤務時間中にそれを観せてもらいましたが、まさにイスラエル賛美の映画でした。
日本の財界はやはりイスラエル支援だったわけです。
そして今はますますイスラエル支援のように思います。

イスラエル建国の契機は、有名なバルフォア宣言です。
英国はパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを約束しながら、
アラブとも同じようにパレスチナにアラブ人の国をつくることを約束したフサイン・マクマホン協定を締結しています。
第2次世界大戦において、ユダヤもアラブも味方につけるための二枚舌外交の結果ですが、こうした植民地政策がいまだに克服されていないわけです。

先のDVDで、バレンボイムとサイード(バレンボイムと一緒にラマラ・コンサートのきっかけをつくったパレスチナ人の文学批評家)の対話の中で、「ユダヤ人もアラブ人も同じセム民族だ」という語りがあります。
見方をかえれば、みんな同じなのですが、分けて考えるのが政治の常道です。

ちなみにイスラエルの国民の1/4はアラブ人だそうです。
国家さえなければ、ユダヤもアラブも平和に暮らしていたはずなのですが。
その事実は、ユダヤ人の製作した「栄光への脱出」でもはっきりと描かれていました。

さて、日本はどうなるのでしょうか。
100年後が気になります。

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2006/09/27

■国家のアイデンティティ

安倍政権が発足しました。
マスコミはこぞって安倍政権支援のようです。
しかし、ラマラ・コンサートのDVDを観たせいか、
私にはバレンボイムが批判したイスラエル政権とイメージがだぶって仕方がありません。

教育基本法から憲法につながる「国体の基本」を変えていこうというのが安倍政権の意向のようですが、
バレンボイムとは全く正反対の方向を目指しています。
ブッシュや金正日と同じ姿勢です。
しかも、それを支援しているのが多くのマスコミと「有識者」と国民です。

バレンボイムがヴォルフ賞授賞式のスピーチで引用した、イスラエルの独立宣言をネットで探していたら、
江川紹子ジャーナルに彼のスピーチが引用されていました
その一部を引用させてもらいます。

<イスラエル国は、国民すべてを利するべく、国の発展に尽くす。イスラエルの預言者が述べたように、国民にあまねくもたらされた自由と正義、幸福の原理が我が国の基盤である。我が国では住民が、信仰、人種、性のいかんに関わらず、社会的、政治的な権利を等しく保証される。信教、良心、原語、政治、文化の自由は守られる。 皆を代表して、この独立宣言に署名する者は、平和のために尽くし、隣接する国々やその国民と友好的な関係を結ぶよう尽力することを誓う>

現在のイスラエルにとって、この独立宣言はどういう存在なのでしょうか。
イスラエルのアイデンティティは、この独立宣言の中にこそ、込められているはずです。
アイデンティティをおろそかにした国家は必ず滅びます。
ユダヤ人たちは、また離散に向かって進んでいるようにしか思えません。
たった一握りの権力者の無知と強欲のために。

日本はどうでしょうか。
私にはほとんど同じように思えてなりません。
もし違いがあるとすれば、国民が政権に与しているかどうかです。
もちろん与している国家は日本です。
ラマラ・コンサートのDVDを観て、それに気づきました。

平和憲法はいまや風前の灯です。
すでにイラク派兵や君が代強制で実態的には為政者によって憲法は踏みにじられていますが、憲法はまだ健在です。
しかし、実態にそぐわないからとか外部からの押し付けだからという理屈にもならない理屈で、その憲法が変えられようとしています。
ヨーロッパでは、第2次世界大戦の教訓はかなり活かされていますが、日本では全くといっていいほど活かされることなく、80年前と同じような道を歩いているように思えてなりません。
つまり国民が目覚めていないといっても良いでしょう。
日本もまた国家のアイデンティティを再構築できずに、離散国家に向かっているのかもしれません。
ソドムとゴモラを思い出します。

あと100年、生きられないのが残念です。
いやそれが幸せなのかもしれません。

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2006/09/26

■互いを知らなければ、何も始まらない

昨日、バレンボイムのラマラ・コンサートのDVDを観ました。
このDVDについてはCWSコモンズで紹介させてもらいました
イスラエル人とアラブ人が一緒にオーケストラをつくり、両側で演奏を続ける話です。
クライマックスはラマラでのコンサートです。
エジプトの中野さんから勧められていたのに、なかなか観る機会がなかったのですが、昨日、イラクのことを書いたら急に見たくなって、夜、観ました。
その気になれば、時間などはいくらでもできるものです。
感想はCWSコモンズのほうに書こうと思いますが、ここではその中に出てくる言葉を一つだけ紹介したいと思います。
「互いを知らなければ、何も始まらない」

1980年代末のインティファーダ(パレスチナ人の住民蜂起)以来、イスラエルとアラブは敵対関係を強め、分断されていきます。
そのため、住民の交流はなくなっていきます。
そして相互に憎しみを植えつける教育が行なわれます。
このDVDに登場した、アラブの若い女性は、兵士でないイスラエル人を初めて見たと語りますし、ベートベンをオーボエで演奏するエジプト人を見て驚くユダヤ人の存在が語られたりします。
互いの暮らしを知らないままに、憎しみと恐怖だけが育ってきている状況が実感できます。
そして、イスラエル人とアラブ人が一緒に音楽活動をしていくうちに、お互いを理解し自らの意識が変わっていく様が見事に描かれています。
「互いを知らなければ、何も始まらない」
かみしめたい言葉です。

それにしても、音楽のパワーのすごさには、改めて感動しました。
聴く人を勇気づけるだけではありません。
演奏する人も勇気づけるのです。
故国、イスラエルで音楽賞を受賞したバレンボイムが受賞のスピーチをしますが、そこで彼はイスラエルの独立宣言を引用し、現在のイスラエルの占領政策に問題提起します。
それを受けた文化大臣は、明らかな不快感を述べますが、それを受けてバレンボイムはまた静かに語ります。
こんなに凄い音楽家がいたのです。
感動して声がでませんでした。
詳しくは中野さんの報告をお読みください
やれることがたくさんあるのにやっていないことの多い私としては、とても恥ずかしい気がしてきました。
まだきっと間に合うでしょう。
いや間に合うことをやればいいでしょう。
平和のためにできることは、誰にでもたくさんあるのですから

このDVDについては、中野さんからのメッセージをぜひお読みください。

コモンズ書店からDVD購入

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2006/09/25

■繁栄と平和における死者

イラクは復興しているのでしょうか。
昨日の朝日新聞に、「アフガンとイラクでの米兵死者、米同時テロ犠牲者を超す」という記事が出ていました。
AP通信の集計によると、ブッシュ政権が派兵したアフガニスタンとイラクの両戦争での米兵の死者数が2,974人になり、9.11事件の死者数(2,973人)を超えたそうです。
イラクでの死者は2,696人だそうです。

一方、イラクの民間人の死者は、7~8月の2か月間だけで6,599人だそうです(国連発表)。
毎月、9.11事件を超える死者がでているということです。
このことがなぜ問題にならないのか、残念です。
「人道上の支援」の欺瞞を理解しなければいけません。
日本の自衛隊は、こうしたことに「貢献」しているわけです。今もなお。

イラクの死者数をもう一度、考えて見ましょう。
毎日100人を超す民間人が不条理に殺されているのです。
彼らの死はコラテラル・ダメッジとして、片付けられているのでしょうか。
少なくともそこには、イラクでの生活者の視点は皆無です。

しかし、それに近い数の人が、日本では毎日自殺しています。
この8年の日本での自殺者は、平均すれば、毎日80人を超えています。

先週、東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂幸雄さんにお会いしましたが、茂さんから8月に起こった哀しい話を聞きました。
せっかく、茂さんたちが思いとどまらせたのに、自宅に戻って、結局自殺してしまった家族の話です。
茂さんの無念さが伝わってきました。

殺される死と死なざるを得ない死。
全く違うように見えて、そこに通底するものを感じます。
国家や制度に翻弄される個人です。
そうした動きに対抗できるのは、人のつながりしかありません。

イラクでの不条理な活動を開始したアメリカでも死者は決して少なくありません。
たとえば、餓死者の急増が予想されています。
2003年のデータですが、米国民の8人に1人(約3,500万人)が貧困状態で、その内1,300万人が子供だそうです。アメリカは先進国としては最大の貧困児童数で、寿命は最低という深刻な事態になっているという報道もあります。
ブッシュ政権になって以来、格差が拡大し、富める者はますます富み、飢餓に苦しむ貧者は増加しているそうです。日本もその道を進んでいるのかもしれません。

約3,100万人のアメリカ国民が、次の食事を入手する手段を持たない「飢餓状態」にあるという報道もあります。
もしこれが真実ならば、ブッシュが非難する北朝鮮とそう変わらないわけです。
そうしたことを背景にイラク攻撃が行なわれていると考えれば、9.11事件もイラク侵略戦争もマスコミ報道とは違った見え方がするように思います。

殺される死と死なざるを得ない死。
そして、ゆっくりと進む避けられない死。
それぞれ表情は違いますが、その不条理さにおいては同じです。

こうした不条理な死がなくなることが、平和の意味ではないかと思いますが、
現代の平和論は必ずしもそうではなさそうです。

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2006/09/24

■あなたは腕時計をなぜしているのですか

私が腕時計をはずしてから、40年近くたちます。
その間、半年ほど、趣旨変えして腕時計をしていた期間がありますが、そのときはオメガから月面着陸した人が身につけていたのと同じタイプの腕時計をもらったので、うれしくて着用していたのです。
その期間を除いて、腕時計はしたことがありません。
腕時計がなくてもまったく不都合はありませんでした。
そうした立場からするとなぜみんな腕時計をしているのか不思議です。

女房は今でも出かけるときに腕時計をします。
女房は時間がわからないと困るでしょうというのですが、分刻みで生活しているわけでもないので、時計がなくても不都合は全くないはずです。
それに街中にも結構時計はあるのです。
なければ誰かに時間を訊けばいいだけです。
もっとも最近は街中の時計も少なくなりました。
これに関してはまた書きたいので、今回はパスします。

腕時計の話です。
個人が腕時計した時から人間は自分の時間を失ってしまったのかもしれません。
機械が刻む時間から解放されるためにも、皆さん、腕時計をはずしませんか。

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2006/09/23

■犯罪被疑者が子供たちを育てる国家(日の丸・君が代の強要違憲訴訟の東京地裁判決の意味)

入学式や卒業式での日の丸・君が代の強要違憲訴訟の東京地裁判決は予想に反して、「都教委の強制は違憲・違法」という原告勝訴になりました。
この問題はこれまでも何回か書きましたが、強要のやり方に恐ろしさを感じていました。
教育者の正反対にいる人たちが学校を占拠したとしか、私には思えませんでした。
そして今回の判決は、被告も原告も、おそらく思ってもいなかった結果になりました。
教育基本法の危機の中での意外な展開としかいいようがありません。

昨今の教育議論では、いずれの側にも子供の視点が感じられませんが、子供たちの視点からは今回の判決はどう見えているのでしょうか。

今回の判決は、国家にとっての基本である憲法に抵触しているかもしれない犯罪者の疑いのある人たちに、次世代を担う子供たちの教育を任せているということをはっきりと示しています。そのことをもっとみんな認識すべきです。
学校はいまや本来的な意味での教育機関ではなくなっているのです。

人生のモデルとすべき先生が、基本的な秩序やルールを破っているかもしれないという事実は、子供たちにとってはどういう意味を持つでしょうか。
日の丸・君が代事件や石原都知事の教育行政には、教育の視点がなく、イスラム世界の国家が子供たちを戦士に育てるのと同じ「洗脳」の視点しかないように感じます。

子供は大人の背中を見て育ちます。
憲法をないがしろにしたり、考えの違う人を排除したり、権力に迎合したり、そんな大人たちがはびこっており、しかも彼らは「愛国心」を押し付けています。
もし愛国心に価値があるとしたら、まずは自らが愛国心を持つべきでしょう。そうすれば少しは説得力が出てくるでしょう。
愛国心を語る人たちが国家を、文化を壊してきた歴史を少しでも知っていれば、かれらの胡散臭さはすぐに見えてくるはずです。
私たちはもっと歴史を学ばねばなりません。
しかし、日本の学校は現代史を教えようとはしてこなかったのです。

憲法違反しているかもしれない人に子供の教育を任せている不安を感じている人は少なくないでしょう。
そろそろ義務教育発想に支えられた学校制度は根本から見直されるべきではないかと思います。
教育とは何かを考える教育者が最近はいなくなってしまいました。

教育基本法の行方が心配です。
国民の手に取り戻さないと、どんどんおかしな方向に行きそうです。

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2006/09/22

■過剰摂取

過剰摂取の時代です。
なにしろ健康のためといって、散歩に精出す人がこれだけいる社会というのは極めておかしな社会です。
散歩を楽しみのためではなく、ダイエットのためというのは私にはなかなか納得できないことです。
しかし過剰摂取は何も食べ物だけに限られた話ではありません。
情報もまた過剰摂取の時代です。
好むと好まないとに関わらず、情報は毎日流れ込んできます。
私の自宅のパソコンの周りの混雑振りはもう大変です。
2~3日、気を許すと、すぐに書類の山ができます。
気をつけないと重要書類が山の下にうずもれて、対応を忘れてしまうことも少なくありません。
最近はオフィスではほとんど仕事をしなくなったので、ビジネスの資料も名刺もすべて自宅で処理していますので、まさに多様な書類が混在しています。
問題は入ってくる量と処理できる量の格差がかなり大きいことです。
もちろん入ってくる量のほうが多いのです。
これがもしお金であれば、私は大富豪になっているでしょう。
書籍も面白そうなのは購入しますが、読む時間はあまりとれません。
昔はそれなりの読書量でしたが、最近は急速に低下しています。
未読の新書が積まれていきます。
そのうち、読まずに書棚に入ります。
メールはさらにひどいです。
受信料のうち、その日に対応できるのがだいたい半分です。
残りは時間のある時に処理しますが、それでも毎日たまっていきます。
未処理が500件になると思い切って簡潔処理して削除します。
中には重要なメールもあるかもしれません。
しかし、ためていくと無限にたまりだします。
年に1回程度、すべてを削除してしまうくらいの蛮勇が必要です。

まあそんなわけで、私は情報面で過剰摂取状況に陥っています。
過剰摂取は決して健康状況ではありません。
情報未消化のまま人生を終えるのが確実になってきたのが残念です。
ともかく世界には面白い情報がまだまだたくさんあるのに、です。

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2006/09/21

■戦争を起こすのは簡単なこと

自民党総裁が決まりました。

メーリングリストでこんな言葉に触れました。
ヒトラーの右腕だったヘルマン・ゲーリングの言葉です。

「もちろん人々は戦争を欲しない。しかし結局は国の指導者が政策を決定する。そして人々をその政策に引きずりこむのは、実に簡単なことだ。それは民主政治だろうが、ファシズム独裁政治だろうが、議会政治だろうが、
共産主義独裁政治だろうが、変わりはない。反対の声があろうがなかろうが、人々が政治指導者の望むようになる簡単な方法とは・・・。
国が攻撃された、と彼らに告げればいいだけだ。それでも戦争回避を主張する者たちには、愛国心がないと批判すれば良い。そして国を更なる危険にさらすこと、これだけで充分だ。」 
 (森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力』NHK出版、34ページより)

困難な時期には必ずといっていいほど、こうした「愛国心」好きの、内容のない指導者が出てきます。
そして古代ローマは滅びました。
パンとサーカスにうつつを抜かしていた大衆は天の裁きを受けることになりますが、裁きの罪を償うのは彼らの子供や孫でした。
心が痛みます。
今日はテレビを見る気がしませんでした。

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2006/09/20

■団塊世代の関心の行方

来春の統一地方選に向け「団塊世代を地方議会に送るネットワーク」(団塊ネット)を立ち上げるという記事が新聞に出ていました。
組織から離脱を始める団塊世代の目がどこに向いていくかは社会の方向性を左右する大きな問題です。
私は団塊世代の少し上の世代ですが、我々よりも上の世代が構築した路線に乗ってしまったという意味においては、同じ仲間ですし、団塊世代の勢いに乗って、むしろ「いいとこどり」をしてきたという意識も少しあります。
私自身は、前の世代が作り上げた路線にはなじめずに、18年前にその路線から降りてしまいましたが、それでもその路線と完全に袂をわかったわけではありませんので、罪の意識はぬぐい切れません。
まあそんなわけで、団塊世代にはあるシンパシーを感じています。
ところがその団塊世代の話題が最近毎日のように出てきます。

CWSコモンズでも最近書きましたが、生産者として活躍してきた団塊世代を今度は市場として取り込もうという動きです。
生産者としての団塊世代と消費者としての団塊世代は、当然、表情が違います。
昨日、あるところで仕事の話をしていたら、団塊世代は消費者としてかなりのこだわりがあり、安ければ良い訳ではないという話が出ました。たしかに「うんちく」をかたむける団塊世代は少なくありません。
しかし、日経マスターズの元編集長からお聞きしたように、団塊世代はお金を持っていてもお金は使わない層かもしれません。
団塊世代の男性にとっては、お金は稼ぐものであって、使うものではないのかもしれません。女性はかなり違いますが。
そうしたことを考えると、経済の面では引き続き生産側に回りたがるのかもしれません。
団塊世代起業支援講座は盛んですし、私の友人もそうした本をまもなく出版します
しかも彼らが目指しているのは、NPOやコミュニティビジネスの世界です。
その世界はまだアマチュアリズムの世界ですから、活動の余地は大きいでしょう。
ただ、そこにこれまでの経済発想をそのまま持ち込んで良いのかどうかは疑問です。
経済的には成功しても、それはあまり意味のあることではありません。
それにもしそうであれば、これまでの社会の方向をさらに深化させることにもなりかねません。
団塊世代は最後まで、経済のために滅私奉公して終わってしまう恐れもあります。

しかし、団塊世代が政治に目を向けるのは、新しい風を起こすことになるかもしれません。
団塊世代はこれまで基本的には政治を観察し迎合するだけだったように思いますが、もし彼らが主体的に動き出したら、日本の政治環境は大きく変わるでしょう。
民主党の菅さんも「団塊党」を主宰していますが、そういう従来延長型ではない団塊世代の政治活動が始まったらどうなるでしょうか・
半分不安を持ちながら、期待しています。いや、不安は半分以上なのですが。

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2006/09/19

■過去にではなく未来に責任を持った取り組み

滋賀での新幹線新駅建設凍結の新知事の取り組みはさまざまな「自治体行政」の実態を明らかにしてきているようです。
たとえばある地主は坪15万円での買取を市に要請していましたが断られ続けてきたのに、不動屋さんに売却を頼んだらなぜか市に買ってもらえたそうです。数名の人が仲介人として間に入ったそうですが、頼む人によって売買が成立するわけです。
しかも、行政(正確にはたしか開発公社)が購入した価格は何と90万円だったのだそうです。
本人は15万円しかもらっていないようですから、仲介者はかなりの利益を受けたことになります。
これはテレビの報道特集で放映されていた話です。
しかし当事者が明確に発言されていましたから、事実無根ではない話でしょう。
テレビでは、10年以上、準備してきたのに、いまさら計画を白紙に戻すのは勝手すぎるという住民の発言も出てきましたが、知事(民意)が変わるということは政策が変わるということですから、こういう論理は成り立つはずがありません。
知事が民意と違うことをやりだしたら、知事を変えるべきです。
しかし日本ではお上は変えられないという潜在意識がみんなの頭の中に植え付けられているのです。

民意で知事が変わったのであれば、新しい民意でこそ動かねば選挙の意味はありません。
それにそれまでの経緯に責任を負わない新知事にはそれができるのです。
新知事が責任を持つのは過去にではなく、未来に、です。

過去にではなく、未来から考えると、
政策の評価は大きく変わるはずです。
滋賀県の人たちにはぜひとも長野県や岐阜県の二の舞をしてほしくないと思います。

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2006/09/18

■やり始めたら、とまらなくなる依存症シンドローム

コムケアの仲間が、佐藤さんの頭も劣化してきているようなので、と言って、
「文字の大きなクロスワード」創刊号をくれました。
全冊、クロスワードの本ですが、出版元の世界文化社ではこの種のワードパズル誌をすでに7種類も出しており、総計1億冊を突破したのだそうです。
クロスワードは時間つぶしのものという先入観があり、いつも時間貧乏をしている私には縁のない世界だと思っていましたが、就寝前についついやり始めたら、とまらなくなりました。
取り立てて面白いわけでもありませんし、出来たからと言って充実感があるわけでもありません。にもかかわらず一つ出来ると次の問題に取り組んでしまいたくなるのです。
問題が目の前に出されるとついつい解こうとしてしまう。
どうもそういう潜在意識があるようです。
私は模範的な工業社会労働者なのかもしれません。

「ついついやり始めたら、とまらなくなった」。
植草さんの犯罪も、飲酒運転常習者も、あるいは万引きから抜けられない人も、最初はきっと軽い気持ちで、ついついやってしまったのかもしれません。
それがいつの間にか抜けられなくなってしまった。
依存症です。
そうした依存症には誰もが陥る可能性がありますが、最近はそれがどうも広がっているようです。
個人の主体性や自立性が「人や自然とのつながり」と切り離されて語られだしている現代社会では、ますます依存症シンドロームは広がり深まるような気がします。
先日、SNSの議論をしている時に、mixyづかれの話が出ましたが、これもまたネット依存症のひとつです。依存症はどんどん若い世代に広がっているようです。
昔からにアルコールやギャンブルの依存症は問題になっていましたが、最近のネット依存症や音楽(ウォークマン)依存症もまた大きな社会問題にならなければいいと懸念しています。
かくいう私も、最近はPC依存症に陥っているようです。
なぜかPCに向かうと安堵します。
危険な兆候かもしれません。

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2006/09/17

■飲酒運転事故(事件)の実態が誰にも見える仕組みづくり

福岡での飲酒運転事件以後、テレビでは連日、飲酒運転による事故の報道があります。
この事件によって、まさか飲酒運転が増えたわけではないでしょうから、以前から毎日のように飲酒運転による事故が発生したことは間違いありません。
むしろこれだけ飲酒運転への目が厳しくなっていますから、むしろ現在以上に多かったと考えてもおかしくありません。
これまではあまり飲酒運転に社会の目が向けられていなかったために、多くの飲酒運転事故が発生していたにもかかわらず、あまり見えていなかっただけの話です。

このことは社会の実相を把握する上で、大きな示唆を与えています。
私たちは、マスコミによってつくられた社会を現実だと考えているということです。
つい最近も「子どもの事件」に関して、コメントももらいましたが、
子どもが加害者になる事件が、今の日本で増えているのか減っているのか、実はおそらく誰にもわかりません。
私の自治会の中での話であれば、私にもほぼ正確に把握できますが、社会全体は見えないのです。

統計があるといわれるかもしれませんが、統計はいかようにも編集できます。
統計が現実を正確に映し出すことはまずありません。
仕事で30年以上、マーケットリサーチや意識調査を扱ってきた者としては、統計データはちょっとした仕掛けでかなり編集できると思っています。
人口統計のように変えにくいものもありますが、それでもかなりの編集は可能です。
ちなみにかつてある政令都市では人口100万人を切らないような苦労していましたが、当の役所の中にすら実際は100万人を切っていると発言している人が複数いました。まあ、それはそう難しい話ではないでしょう。

人口統計でもそうですから、解釈の要素が入るものに関してはもっと大きく変わることが普通です。
たとえ同じ風景を見ても、見る人や見る目的によって、全く違う意味を持つことは誰もが体験することです。
私たちが見ている社会は、必ずしも現実の社会とは同一ではありません。

マスコミは、その時々の流行や事件で社会の見え方を変えていきます。
それによって、法律がうまれ、計画がつくられ、予算配分が変わってくるのはある程度仕方がないとしても、そのことをいつも頭に入れておく必要があります。

ある委員会で、ある官僚の人が、「いまは再チャレンジという言葉があると予算は取りやすい」と冗談ぽく話しましたが、それが頭から離れません。
笑い話のようですが、よく考えられると今の政府の基本姿勢を象徴しています。

飲酒運転や高金利は現在はマスコミの注目を受けていますが、一時的な流行に終わらせないようにしたいものです。
飲酒運転防止に向けて、漸く自動車メーカーも動き出したようですが、酒造業界も動いてほしいものです。そして飲酒事故の実態が常時誰にも見えるような仕組みをつくってほしいです。それこそがそうした業界に関わる企業の経営責任だと思います。
どこの経営者もまだ発言していませんが、彼らの家族が被害者にならないと動き出さないなどとは思いたくありません。

それにしても経団連の奥田さんが何も発言していないのが、残念でなりません。
形だけでもいいですから、ほんの少しだけでもCSR意識を持ってほしいものです。

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2006/09/16

■社会アルツハイマー症

若年性アルツハイマーが進行しつつある妻と妻を支える夫の暮らしぶりをドキュメントした番組を見ました。
見た感じ全く普通に見える明るい奥さんの行動が冗談にしか見えないのですが、目の前の茶筒がわからなかったり、4枚の500円玉を数えるとどうしても5枚になったりしてしまう様子がとてもリアルに描かれていました。
妻を支える夫の優しさには、自分だったら出来るだろうかととても感心しました。
女房と2人で観ていたのですが、2人とも他人事ではありません。
しかし、そうなった場合、果たしてこの夫婦のようにあたたかで幸せな関係を維持できるかどうか、心配です。

「半落ち」という映画がありました。
感動的で、私は嗚咽を我慢しなければいけないほど涙が出ました。
自分を失っても生きていくのが幸せか、生かせてやるのが愛情か、は答えの出ない問題ですが、自分がもしアルツハイマーになって、自らを失いだしたら、どうするかに関しても、答えられません。
頭では自らの意識のあるうちに人生を終わりにしたいとは思いますが、その手立てを考えると方策が思いつかないのです。

アルツハイマーとは脳が次第に萎縮していき、知能、身体全体の機能が衰えていき、ついには死に至る病です。
その番組をみていて、もう一つ考えたことがあります。
日本の社会そのものが、いまやアルツハイマー病にかかっているのではないかということです。

個人に起こっているのと同じ現象が、社会にも起こっている。
最近、そうしたことを感ずることが多くなりました。

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2006/09/15

■拉致問題と自民党の関係

CWSコモンズでも何回も紹介していますが、「軍縮問題資料」という月刊誌があります。
書名はかたいですが、とても読みやすい雑誌です。
一度廃刊になりそうになったのですが、読者の支援で回避された雑誌です。

私は毎回ほぼ全誌面を読みます。オフィスに行く往復の時間で読み終えられるほどコンパクトの雑誌です。
10月号の特集は2つありました。
「まともな首相を求める」と「9・11から5年後の世界」です。
いずれも一人でも多くの人に読んでほしい内容です。
年間1万円で購読できますので、ぜひ読んでほしい本です。
申し込みは簡単です。
http://www.heiwa.net/

今回の特集のなかの吉武輝子さんの「拝啓次期総理殿」で、衝撃的なことを知りました。

2003年衆議院選で土井たか子さんが落選しました。
全国を回って自分の選挙活動ができない土井さんに代わって、
吉武さんは支援の辻説法をしていたのだそうです。
土井さんの対立候補は、北朝鮮拉致問題一本やりの自民党の大前繁雄さんでした。
安倍晋三さんが応援演説に来た時のことです。
演説する駅頭には、(北朝鮮に拉致された日本人を)救う会ののぼりが立ち、
法被を着た人たちが神戸の住人の拉致被害者有本恵子さんの写真を展示し、署名集めをしていたそうです。

そこで有本さんの父勝弘さんが
「拉致の張本人は土井たか子である。首を討ち取ってやる」
と応援演説をし、続いて安倍晋三さんがそれに輪をかけた土井批判をしたのだそうです。

それが何だといわれそうですが、
その後、土井さんのポスターに有本さんの写真が張られたり、
有権者の家に「土井たか子が拉致の張本人であるという事実をどう考えるか」という
リサーチ会社と名乗る会社の電話がかかり続けたのだそうです。
小泉手法である「刺客派遣」を思わせます。

それがどうした、とまた言われるかもしれませんが、
もしこれが事実ならば犯罪を立件できるでしょう。
権力者の「大きな犯罪」は犯罪にならないとしても、
この種の小さな犯罪は目先の社会さえ壊しかねません。
こうした暴力的な選挙戦が行なわれているとは残念な話です。

しかし、私が衝撃を受けたのは、この件の前に、吉武さんが書いている次の文章でした。
長いですが、引用させてもらいます。

北朝鮮の拉致事件が新聞の紙面に取り上げられて数日もたたないうちに、新宿駅の西口に職が林立し、そろいの法被を着た男女が署名集めをしている姿を見た瞬間、背後に金と力のある集団が動いていることを察知し、慄然としたものでした。 永年運動サイドの人間として生きていれば、いかに市民運動が貧乏であるかを痛感しているだけに、あまりにも経済的に裕福なグループを目の当たりにすると、やたらに金の出所が気になってしまうのです。

拉致問題がある段階から全く進まなくなった理由が垣間見える気がします。
同時に、日本の行く末に関する不安が強まります。
暴かれた9.11疑惑の真相」に引用されていたヒトラーの言葉を探すために、「わが闘争」を読み始めました。

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2006/09/14

■私的所有指向の呪縛からの脱出

以前、西部劇のビデオをコレクションしていましたが、ほとんどすべて廃棄しました。
観る時間がないうちに、保存が悪くて画質が維持できなかったためです。無駄なことをしてしまいました。
DVDになり保存しやすくなったので、DVDコレクションを考えたのですが、やめました。
記録は個々人で持つのではなく、社会的に保存されたところから必要に応じて取り出せばいいのだという気に最近漸くなれたのです。
頭では以前からわかってはいたのですが、その仕組みに信頼を置けなかったのです。
しかし最近は、自分がもっているよりも、公共空間で保管しておいてもらったほうが使いやすいことを体験しだしました。
よくわかりませんが、これがWeb2.0時代なのだと、付け焼刃的に勝手な解釈をしています。

この仕組みはまだ情報分野だけのようですが、
この考え方をさらに進めると、私的所有信仰に大きな変化を与えることになるかもしれません。
成熟社会とは、そもそも私的所有概念がなくなる社会かもしれません。
たとえば銀行にあるお金を必要な人が自由に使えるような時代は来ないでしょうか。
そうなれば、世界から泥棒も戦争もなくなるかもしれません。
お金も所詮は「情報」ですから、みんなで共有してもいいような気もします。

そんな馬鹿な話はない、などと決めるのはやめましょう。
空を飛ぶなんて、そんな馬鹿なことはありえないと、つい少し前の人たちは考えていたのですから。

ともかく発想を自由にしていくことがいま求められているように思います。
911事件のことも含めて。

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2006/09/13

■改めて「共済つぶし」の動きについて

日本には古来、結いとか舫いという、相互に支えあう仕組みの文化がありました。
そこではすべての参加者が同じ目線で、まさに平等に支えあう関係が育まれていました。
みんながそれぞれに主役になれるコモンズの世界があったのです。
ところが産業化を急いで進めることになった1940年代から、
そうした文化や仕組みは「前近代的」なものとされて、捨てられてきました。
お互いに支えあうよりも、自分で完結するためにお金儲けをしようという核家族文化が広がったのです。
その結果、経済は成長し、1億総中流社会が実現しました。
わずらわしい隣近所づきあいからも解放され、核家族のなかでみんなが勝手に生きることを覚えてしまったのです。
この結果、家族はもとより、地域社会や支えあう仲間は壊れてしまったのです。

しかし、そもそも「勝手に生きること」など長い目でみたら出来るはずがありません。
そして、人はいつか不運や不幸に陥ることがあるのです。
そういう中で、改めて支え合いの仕組みの大切さが認識されだし、具体的な仕組みが生まれだしました。
その一つが「共済」の仕組みです。
とても誠実でやさしい共済制度がいろいろなところで、多様に育ちだしたのです。
「つながりこわしの時代」から「つながりつくりの時代」へと、時代は反転しだしたのです。

ところが、その「共済」の仕組みを悪用する人たちが現れだしました。
本来、「共済」は市場原理に裏付けられた金銭経済の仕組みとはパラダイムが違いますが、
コモンズ発想が確立されていない状況の中で、
それが混同され、社会的事件さえ発生しだしました。
それを口実に、共済制度を保険制度に取り込んでしまおうという動きが、現実化しました。
それもまた、米国の圧力を受けながらです。
そして、保険法改正により、10月以降、多くの良心的な日本型共済組合は活動を継続できなくなりました。
これに関しては、中途半端な書き込みをCWSコモンズのほうで行ないましたが
もっと正確なサイトがあるはずですので、それをご覧ください。

一昨日、ワーカーズ・コレクティブ共済の関係者から聞いた話ですが、
保険法を改正するに際して金融庁の担当官が取材に来たそうです。
そして実情を聞いて、「とても良い共済組合だすね」と感心して帰っていったそうです。
ところが、その共済組合もまた保険法の対象になり、継続できなくなっています。
何のための事前調査だったのでしょうか。
現場の担当官が感動した「素晴らしい仕組み」も解体されるのが、現在進められている共済壊しの現実です。

これも「民営化」の一面なのです。
「官から共へ」を標榜している私にとっては、民営化の欺瞞性を暴くべきだと思っていますが、
日本では民営化信仰があまりにも強くて、相手にされません。
「官から民へ」などという馬鹿なスローガンは時代錯誤もはなはだしいと私は思っています。
もう「官民」の時代ではないのです。
しかしまだ「お上」に支配される民でいつづけたいと思っている日本人が圧倒的に多いのです。
主体的に生きたと思っている私のような人間には、とても生きにくい社会です。

共済は「共」(コモンズ)の象徴的な仕組みの一つです。
それが壊されようとしていることがとても寂しく恐ろしいです。
手をこまねいているしか方策はないのでしょうか。

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2006/09/12

■9.11事件の真実

TBSの「N.Yテロ 5年目の真実」を観ました。
テロという言葉を使っているところに、目線の一方性を感じましたが、
もしかしたらと期待していましたが、単なる見世物でしかありませんでした。
5つの人生ドラマと内部のシーンの公開が「みどころ」でした。
他の9.11特集も似たり寄ったりでした。

「暴かれた9.11疑惑の真相」ベンジャミン・フルフォード著(扶桑社)が出版されました。
検証DVDもついています。
9.11事件陰謀説はアメリカでも再燃しているそうですが、日本でもじわじわと広がっているようです。
そうした情報を集めてくれているサイトもあります。

私も早速購入して読みました。DVDも観ました。
説得力はありますが、文章や画像は編集の仕方でいかようにも変えられますから、この本で陰謀説を確証することは出来ません。
しかし、その可能性や、そうした説が出てくる背景を確認することは出来ます。
そこにこそ、真実があるはずです。
この本は書店で10分もあれば、ぱらぱらと概要は読めますので、ぜひ見てください。
面白そうだったら購入して読んでください。
上記のサイトを読めば、この本を読むまでもありませんが。

この本の最後に、ヒトラーの言葉が引用されています。
「国民は小さな嘘より大きな嘘にだまされやすいものだ」
その系譜が、ブッシュ政権や小泉内閣に継承されているような気がしてなりません。

大きな嘘の可能性を、ちょっと考えてみると世界は違った風景に見えてきます。
これは9.11事件に限ったことではありません。
日本にもたくさん事例がありそうです。

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2006/09/11

■9.11事件で何が変わったのか

衝撃的だった9.11事件から5年目です。
あの事件で何が終わり、何が始まったのか。
5年間の経過の中でいろいろのことが見えてきました。

しかし、残念ながら日本のマスコミはまだ相変わらず表層的な議論をしているだけのような気がします。
そこから始まったイラクの現実すら、日本では「消費的な」ニュース素材でしかありません。
イラク復興などという、体のいい口実での戦争への加担の真実も、
マスコミの商業主義の流れの中で依然、闇の中に葬られたままでいます。

しかし、ネットの世界では明らかになりだしているように、真実はいろいろと露呈されつつあります。
9.11の航空機のビル突入は米国政府の仕業という話が広がりだしていますが、
それもあながち荒唐無稽な話でもありません。
エルズバーグが暴露したペンタゴンペーパーが物語るように、同じような話はこれまでもあったのです。

真珠湾の再来か、などと語られた真珠湾攻撃事件もまた、
まさに米国政府が逆活用した事件だったという見方が強まっています。
「自衛戦争」の口実を与える事件を相手が起こすように仕向けたり、起こしたように偽装したりするのは、
米国に限りませんが、戦争を始める国の常套手段でした。
日本も同じような手口の使い手でした。

9.11事件での死者に哀悼をささげると同時に、
その事件を引き起こした対象をきちんと確認し、問題を勘違いしないようにしたいと思います。
靖国問題ですら、その違いもわからない人があまりにも多いのが寂しいですが、
そこをしっかりと認識しておかない限り、歴史はとめどもなく繰り返されるのです。
そうでなければ、死者はうかばれません。

ちなみにこんな集まりもあります。
911真相究明国際会議・東京。

歴史を動かす対立軸を間違わないようにしたものです。
私が考えている軸は、いつものことながら、個人対組織です。

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2006/09/10

■商品は文化とセットです

私にはどうも好きになれない商品がいくつかあります。
古いところではウォークマンです。
i-pod につながるイヤホンで音楽などを聴く機器です。
最初に出たときには、ハインラインの「人形つかい」の世界を思い出してゾッとしました。
企業にはしっかりしたビジョンと哲学が必要だと思いました。
ウォークマンの発売以来、私の中でのソニーの評価は大幅に下がりました。
ウォークマン開発に関わった友人もいたのですが。
ウォークマンを聴きすぎると難聴になるとも言われていますが、
もっと恐ろしいのは社会的難聴、つまり周辺のことに関心を持たない社会的姿勢の習慣化がおそろしいです。
ウォークマン登場以来、電車内の風景は変わりました。
せっかく社会には素晴らしい音がたくさんなります。それを遮断してしまうのは、もったいない話です。
ソニーの経営者はそれを少しは考えたのでしょうか。
こうして「つながりこわし」の商品は市場を次々と創りだしました。
文化を創ったのか壊したのか、人によって評価は違うでしょうが、
私には井深さんの思想とは反対の方向にソニーが向いてしまったように思いました。

ビールをはじめとしたアルコール飲料も嫌いな商品です。
アルコールに弱く、下戸であることが影響しているかもしれませんが、
タバコ以上に社会に害悪を与える商品だと思っています。
酒を飲めないとは人生の喜びの半分を捨てているようなものだとよく言われました。
そういう人にとっては、アルコール飲料反対などは論外でしょう。
アメリカの禁酒法時代を思い出せば、禁酒は人間の生理に反するといわれるかもしれません。

しかし時代は変わりました。
人間の理性をおかしくするような飲み物がこれほど大手をふって市場を拡大しているのは理解できません。
飲酒運転による交通事故の責任の一半は酒を製造販売している会社が負うべきです。
その意識がほとんどなく、売らんかなばかりの広告に罪の意識のない経営者の常識を疑います。
一時期、ビールに関してもそうした議論が出始めたことがありましたが、最近はほとんど聞いたことがありません。

なぜこんなことを書き出したかといえば、一昨日、テレビで、水上バイクの事件の特集を観たからです。
それが気になって仕方がありません。
海水浴場に突っ込んで水泳客を殺傷する事故が増えているようです。
しかも高校生の生命を奪ったドライバーの罪は2年半の懲役です。
被害者の家族は納得できないでしょうね。私なら報復も考えかねません。
こんな危険な商品を製造販売し、2日間6万円で運転免許を与えるような教習所を運営している会社は、私には犯罪行為としか考えられません。
その延長で言えば、自動車メーカーもそうなってしまうわけですが。
水上バイクは製造禁止、アルコール飲料も販売禁止、などと言ったらそれこそ総スカンでしょうね。
趣味のない変人のたわごとになってしまいます。

問題は、商品は「もの」ではないということなのです。
商品を世に出すことは、文化を創ることです。
ですからその使い方や使われ方を一緒に設計し提案すべきなのです。
水上バイクもいいでしょう。だが一般の空間ではなく、競艇場のような隔離された使用場所をつくるとか、人の来ない沖合いに自由に運行できる領域を作れば問題は解決します。
それを作り出すコストも商品には入れるべきでしょう。

ビールやお酒もそうです。
その効用もあるでしょうから、酒をたしなむ文化や場所をもっときちんとつくるとともに、飲酒による事件や事故に対するしっかりした対策をメーカーとしても用意すべきです。
飲酒運転に対しては厳罰にする運動はそもそも酒やビールの会社、あるいは自動車会社が起こすべきです。
それはCSRとか社会貢献などという以前のことです。
それが出来ない会社のCSRなど信頼できるはずがありません。
ウォークマンはどうでしょうか。
これも使い方の文化がもっと考えられるべきでした。

新商品の開発には経済だけではなく文化の視点が不可欠です。
発想を変えることが必要になってきたと思います。

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2006/09/09

■「アフリカではよくあること」へのアクセスはなぜ多いのか

最近、気になっていることがあるのですが、その理由をどなたか教えてもらえないでしょうか。
気になっているのは、このブログへのアクセスの件です。
前にお話したとおり、このブログにはアクセス解析機能があります。
ですからどの項目へのアクセスが多いかがわかるのです。
以前も書いたとおり、沢蟹騒動も多いのですが、一番多いのは「アフリカではよくあること」(2006年1月30日)です。
過去4か月でのアクセスは593です。
しかも今もって毎日数件のアクセスが続いています。
ちなみに昨日は5件でした。
不思議です。
その理由が気になって仕方がありません。
ちなみに、私は軽い気持ちで、「アフリカではよくあること」というタイトルをつけたのですが、この言葉は有名なのですね。
Googleで検索したら、たくさんあるので驚きました。
ところがもっと驚いたのが、なんと2番目にCWSプライベートのこの記事があるのです。
何でこんなにマイナーのブログが出てくるのでしょうか。
検索エンジンなどはほとんど気にせずに、地味にやっているブログですが、どうして上位に入ったのでしょうか。
ほんとうに不思議です。
しかし、これが「アフリカではよくあること」への訪問者が多い理由だとは思えません。
「アフリカではよくあること」を検索して、アクセスしてくれる人が毎日そんなにいるわけではないでしょう。
せめて「ニーメラーの教訓」へのアクセスが多いとうれしいのですが、それは100件にも満たないのです。
どうして「アフリカではよくあること」が毎日アクセスされるのか、どなたか教えてくれませんか。
「アフリカではよくあること」にアクセスしてくれた人にはぜひお聞きしたいのですが。

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2006/09/08

■貸金業規制法の変質と後藤田正純政務官辞任の意味

高利金融が人を殺し、家庭を破壊することがあるとすれば、その仕組みはやめるべきです。
にもかかわらず、もしそれを法的に認めるような仕組みをつくる人がいたら、
その人は殺人ほう助罪に問われるべきでしょう。
私は金利という概念自体に違和感を持っているので、
法外な利子(たとえば年利1割以上はすべて私には法外です)に依存して利益を上げていることに賛成はできません。

自民党の後藤田正純衆院議員が5日、金融庁が同日発表した貸金業規制法などについての改正案に反対して内閣府政務官を辞任するという記事が新聞に出ていました。
久しぶりに気分が晴れる記事でした。

貸金業規制法は議員立法として1983年に制定され、
商工ローンやヤミ金対策など、これまでは議員立法で改正されてきました。
私にとっては極めて不満足な改定でしたが、少しずつ前進していたように見えていました。
金融業界にはとても異を唱えられないだろうと思っていた議員たちがほんの少しだけとはいえ、動いたからです。

その貸金業規制法の改正がまた行なわれるようです。
ところが新聞記事によれば、名称を「貸金業法」に変えて内閣提出法案として国会に出す方向だそうです。
私には発想がまた逆転したように思えてなりません。

議員立法と内閣立法は天と地ほどの違いがあります。
それを象徴するように名前も変わっています。
「規制」ではなく「支援」へと基本姿勢が変わったのです。
庶民から金を取り上げることしか能のない、金の亡者の小泉政権(この評価には異論が多いと思いますが、私にはそう見えます)を見事に象徴しています。
しかもその中心にいるのは、税金を取り立てる発想しかない、悪代官のような金融庁です。
日本は金の亡者の国になってしまいました。

後藤田さんは、そうした金融庁案に対し、
「最高裁や金融庁の有識者懇談会などが規制強化で一致しているのに、特例金利などの経過措置を9年間も残す内閣案(金融庁案)」に反対して、抗議の辞任をしたわけです。
辞任するより案を変えるべきではありますが、
それができないのが今の政府であることを彼の行動は示唆しています。

こうした小さな事件に、ことの本質が見えているような気がします。

後藤田正純。
国会議員にも「省の指示」に反発する、まともな感覚を持った人がいるのですね。
この人の名前を覚えておこうとお思います。

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2006/09/07

■一方的理解は相互理解を妨げる

いくつかのメーリングリストに参加して、いろいろな意見に触れる機会がありますが、
言葉の難しさをますます感ています。
コミュニケーションを進めていくためには、「言葉」がとても大切です。
しかし、その言葉が人によってさまざまな受け止め方がされているのです。
たとえばこんな投稿がありました。

>ポピュリズムという言葉を聴くと、大多数の民衆はバカだと言われているような気が>します。

平和を語り合うメーリングリストで、ポピュリズムへの危惧が話題になったことへの疑問として出された意見です。
こういう投稿を読むとドッと疲れが出てしまいます。
言語体系が違うのでしょうね。
にもかかわらず、何となく通じてしまう恐ろしさです。

以前も書いたかもしれませんが、バベルの塔を思い出します。
天にも届く塔を建て始めた人間たちに対して、神はたくさんの言語を与えました。
その結果、人間同士のコミュニケーションが困難になり、
結局、人のつながりが壊れだし、塔は完成せずに瓦解してしまうわけですが、とても象徴的な話です。
ホンダが宗一郎時代にKT法という手法を導入し、社内言語の共通化を図って、企業力を高めた話は有名でした。東レで時代に、担当された木村さんからその話をお聞きしましたが、
組織管理の本質を教えてもらったような気がしました。

現実からかなり自由になった現代人は、言語で思考し、コミュニケーションし、行動するようになってきました。
現場・現実よりも、言葉・概念がパワーを持ち出したのです。
コミュニケーションメディアやコミュニケーション技術が発展すればするほど、生のコミュニケーションは少なくなり、何となくの一方的理解が増え、コミュニケーションできたようで実はできていない状況がいたるところで増えているような気がします。
一方的理解は相互理解を妨げることになりますが、一方的理解でコミュニケーションが進んだと勘違いする人が圧倒的に多いのが現実です。
その結果、どうなるか。

熟年離婚も親子対立も、こうした言語だけの相互行為がもたらす破綻かもしれません。
一方的理解ではない、相互理解は、まずは言語の共有化から始めなければいけません。
私たちはもっと「生の言葉」を使わないといけないのかもしれません。
そうなるとおのずと世界との付き合い方が変わってきます。
自分自身、まだまだそうなっていないことをこの頃強く感じます。
生存の不安から解放されだした成熟社会を生きることの難しさを改めて感じます。

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2006/09/06

■政治のパラダイムの見直し

小沢さんと安倍さんのメッセージを聴いたり読んだりしていて、大きな違いを感じます。
小沢さんは、投票に行き、議会民主主義制度を活かせと国民に呼びかけ、
安倍さんは損得を超えて、国のために尽くすことを呼びかけています。
それぞれがおかれている事情が、そこには反映していますが、
その根底にある発想の起点は正反対にあるように思います。

小沢さんが制度活用の勧めをメッセージしているのに対し、
安倍さんは制度に尽くすことをメッセージしています。
つまり小沢さんは個人起点であり、安倍さんは組織(制度)起点です。
新聞などの論調では、理念の安倍構想と制度の小沢構想といわれがちですが、
見かけ上はともかく、本質は逆ではないかと思います。

組織起点から個人起点へが、私の社会を見るときの基準座軸ですが、
小沢さんの論調にわずかとはいえ、その転換の兆しを感じます。
民主党にしっかりしたビジョンがないのが残念ではありますが、
時代は少しだけ前進するかもしれません。
いや前進させるために、何が出来るかを私自身も考えたいと思います。

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2006/09/05

■子どもたちからのSOSの意味

子どもたちが加害者になる事件が増えています。
統計上は決して増えていないとよく言われますが、
テレビでは毎週のように子どもが加害者の殺人事件が報道されています。
増えていないとは思えません。
おそらく殺人にいたる前の同種の事件は、もっと多いでしょう。

なぜこんなにも増えてきているのでしょうか。
いろいろな説明ができるでしょうが、
社会のひずみが子どもたちにしわ寄せされている結果と考えるのは、さほど間違ってはいないでしょう。
いま流行の「いたみ」の増殖は、実はほとんどすべてが子どもたちに向かっているように思えてなりません。
加害者となってしまった子どもたちが、実は一番の被害者でもあると言っていいかもしれません。
ともかく怒りの持って行き場のない、とても不幸な悲しい事件が多いのです。

加害者こそが被害者という構図の事件が増えてきているということは、何を意味するのでしょうか。
私には、何かの予兆ではないかと思えてなりません。
何の予兆でしょうか。
子どもたちがSOSを発しているのではないのです。
社会そのものがきっとSOSを出しているのです。
その予兆に謙虚に耳を傾け、みんなが生き方を変えていかないと、予兆は現実になりかねません。

そうならないために、誰にでも出来ることがきっとあるはずです。
問題は決して、子どもたちだけのことではありません。
すべての人に関わる問題ではないかと思います。

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2006/09/04

■平和と戦争は同義語?

平和の結集をめざす市民の風という活動があります。
私もささやかに関わっていますが、もしご存じない方がいたら、そのホームページをぜひご覧ください
そして、出来れば活動にも参加してください。
個人のつながりの広がりで、党派を超えた平和の風を起こしていきたいという活動です。
いかなる政党活動からも自立しています。
ど真ん中にミュージシャンがいるので、私は安心して参加しています。
彼らが参加しなくなったら、私も脱会すると思いますが、ミュージシャンが考える平和は信頼しやすいです。
バレンボイムのラマラ・コンサートの例を持ち出すこともないでしょう。

ところが党派を超えた個人の集まりというのは、脆さと強さの両方を持っています。
そのネットワークの運営委員のメーリングリストがあるのですが、
そこで2週間前にちょっとした事件が起こりました。
おそらく不注意な人間的ミスによる間違った投稿が、
しかも運営委員ではあるはずのないアドレスから投稿されたのです。
私はよくあるミスだと思っていたのですが、それをめぐる難しい議論が展開されだしました。
そしてだんだん感情的な発言が出始めました。
見るに見かねて、そうした議論の危険性を投稿しましたが、議論というのは動き出すととまらなくなるものです。
話はどんどん広がり、そのやり取りに嫌気をさしてメーリングリストから抜ける人まで出てきてしまいました。
結果的には、さまざまな意見の素直な表明を経て、
問題はうまく収束し、ある意味では前進の契機にもなったのですが、
その経緯を見ていて、平和の崩壊はいとも簡単なことなのだと改めて実感しました。

戦争のきっかけはきっと瑣末な問題なのでしょうね。
しかも、それが表情を持った人のつながりのない無機質な情報空間での手続き的な議論を起点にして、どんどん対立の構図が拡大していく。
もし十分に拡大できない場合は、誰かがそれを加速する仕掛けをして、戦争を回避できないものにしていくのでしょうか。
メーリングリストでのやり取りに、戦争勃発のメカニズムを垣間見た気分です。
戦争回避を目指す「平和主義者たち」が戦争の引き金になってしまうこともきっとあるのではないかと末恐ろしくなりました。

平和活動の難しさをいま実感しています。
「平和」と「戦争」は同義語ではないかと、この頃つくづく感じます。

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2006/09/03

■省の指示に従う義務

以前、雨森さんからたまには明るい楽しい話題を書くようにと言われているため、
何かいい話を書こうと思っているのですが、どうも楽しい話題が見つかりません。
困ったものです。
今日もまた、ネガティブな話です。

この頃、とても気になる政府・行政関係者の発言が増えています。
言葉尻を捉えた批判ではないかと言われそうなのですが、やはり気になります。
たとえば、昨日の朝日新聞に水俣病懇談会の提言に関する記事がありました。
そこにこういう記述があります。

環境省と委員との意見の対立の場面で)言うことをきかない委員には「環境相の要請を引き受けたのだから、省の指示に従う義務がある」と言い放った。

この懇談会は、環境大臣の私的懇談会ですから、
それがおかしいというわけではないのですが、しかし、とても気になります。

ちなみに、この懇談会の座長は有馬朗人さん(元文部大臣)、
提言の起草委員長は柳田邦夫さんで、元水俣市長の吉井さんも委員の一人です。
座長と起草委員との間の発想の格差はきっと大きかったでしょう。
この懇談会の議事録は面白いです。

省の指示に従う義務」。とてもいやな言葉です。

こういう発言に、新聞やテレビで毎日のように接するのですが、私の感覚がおかしいのでしょうか。
権威や権力の指示に従って生きるのが賢明なのでしょうか。

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2006/09/02

■非対称コミュニケーションであることの認識

先日、病院で体験した話です。血液検査の採血場所がいつもかなりの混雑です。
今回も15分ほど待つ時間がありましたが、そこで窓口の受け答えや採血の様子がよく見えます。
作業の進め方はシステム化されており、安心して待っていられます。
採血する人たちはみんな親切そうで、患者と談笑しながら作業をしています。とてもいい感じです。
ここでは患者とのコミュニケーションが重視されているのがよくわかります。受付の対応も親切なのです。
ところが、たまたまある患者が受付に何かを相談したら、受付の人が
「それは医師に訊いてください。ここではそこまでは面倒みられません」
と答える声が聞こえてきました。

「面倒みられません」。
その言葉が、いやに耳に残りました。
質問の相手を間違えたという点で、原因は患者にあると思いますし、受付の人には悪意はなかったのでしょうが、質問した患者にとってはどう受け止められたでしょうか。
「それはここではわからないので、担当の医師にきいてください」
といえば、印象は全く変わったでしょう。
立場が対等でない人あるいは組織のコミュニケーションは、対等な立場の人を前提としたコミュニケーションとは全く異質なものです。

アメリカの大学には、教授と学生の恋愛禁止ルールがあるそうですが、とても納得できます。
日本でも大学は自己ルール化すべきです。
「非対等な主体間のコミュニケーション」は意外と研究が進んでいない分野だと思いますが、
たとえば病院でインフォームド・コンセントを進めるのであれば、この問題は無視できません。
病院側の人と患者の立場は全く対等ではありません。

そもそも実際には、病院に限らず、世の中には対等の人間関係などはほとんど存在しません。
家族においてもそうですし、地域社会においてもそうかもしれません。
にもかかわらず、対等な立場を想定したコミュニケーションが行なわれがちです。
そこで悲劇が発生することも少なくありません。

昨日の朝日新聞に、生活保護の拒否の66%は「違法」の可能性があるという日弁連の調査結果が出ていました。
北九州市での具体的な事例も紹介されていますが、これも非対称コミュニケーションの結果でしょう。
学校での先生と生徒の関係も同じです。
さらに学校と文部科学省の関係にも同じ上下関係が成り立っています。
周りの見回すとそういうことばかりではないでしょうか。
家族の中でも夫婦関係や親子関係は間違いなく非対称であり、不平等構造になっています。

我が家の場合は、不当に父親と夫の地位が低いと私はひがんでいますが、
これもこれまでの非対称コミュニケーションへの私自身の認識不足の結果で、自業自得でしかありません。はい。

ところで、病院の話に戻ります。
受付の人のその一言で、それまで見えていた風景が一変しました。
採血作業の人はこれだけの人が待っているのだから、もっときびきびと作業を進めるべきではないか。
ちょっとのんびりやりすぎているのではないか。
などという気がしてきて、
それまでの好印象が少し曇ってしまいました。

ちょっとした一言が、世界の風景を一変させることがあるのです。
人間とはどこまでも勝手なものです。

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2006/09/01

■田中康夫さんへの感謝

さまざまな話題をつくり、日本社会に大きな問題提起をしてきた田中康夫さんの長野県知事の任期がとうとう終わりました。
心底、ご苦労さん、そしてありがとうといいたい気分です。

田中さんが知事を継続しなかったことに関して、とても共感できるブログを教えてもらいました。
ちょいマジ掲示板の、「あえて勝利第1主義を採らなかった田中流選挙の美学と達観」です。
そこにはこんな記述があります。

自公政権打倒の全国政治の面からも、全国民衆と活動家の志気の面からも、今回の田中知事落選は大きな損失であり、残念でならない。

私もそう思いますが、田中さんの処し方にも共感します。
詳しくはそのブログを読んでください。

田中さんの表面的な言動や風貌の奥に込められたメッセージを真剣に考えて人はどのくらいいたのでしょうか。
田中さんからのメッセージは、もっときちんと考えなければいけなかったと思います。
脱ダム宣言の意味を一体どのくらいの人が真剣に考えたのか。
そういえば、以前、民主党が高速道路無料化の提案をした時に、多くの人がまじめに取り合わなかったことがありましたが、中途半端な知識で提案を判断する有識者が日本には多すぎる気がします。
新しい問題提起にはもっと真剣に耳を傾けるべきです。
私たちは、こうして「大切なもの」を捨ててきているのかもしれません。

田中康夫さんに、私は感謝しています。
形だけの改革を唱える知事が多い中で、
真の問題提起をしてくれたような気がします。
ありがとうございました。
次の活躍の舞台に期待したいと思います。

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