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2006年10月

2006/10/19

■このブログの書き込みを少し休みます

朝早く起きて日の出を見ました。
あいにく日の出の時間は雲があって、太陽は見えませんでしたが、
しばらくしてから太陽が見え出し、よどんだ雰囲気は一変しました。
「太陽のように明るい人」という言葉を思い出しました。

昨日はついつい「自画自賛文」を書いてしまいましたが、
その反動で今日はちょっと暗い気分です。
しかし太陽を見ていると元気が出ます。

最近、ブログを毎日書いてきました。
突然ですが、ちょっとしばらくブログを休ませてもらいます。
いつも読んでくださってありがとうございました。
また書く気になったら不定期に書き込むかもしれません。

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2006/10/18

■地域学に関する昔の講演の自画自賛

今日は自画自賛です。

20日に札幌で「地域学のすすめ」をテーマに講演をさせてもらいます。
最近いろいろと事情があって、準備する暇が全くありませんでした。
昨日から準備を始めました。
なぜこのテーマで頼まれたかというと、私が1999年に行なった講演の記録を北海道生涯学習協会の課長が読んでくれて私にアクセスしてきてくれたのです。
当時私は地域学に興味を持っていくつかの地域にささやかに関わっていました。
山梨学や西海文化研究会は私にも思いのある地域学でした。
しかし、今回調べてみましたが、いずれも発展はしていませんでした。
それ以外も当時は盛んだったいくつかの地域学も活動の継続の気配があまり感じられませんでした。
まちづくりは30年と考えている私にとっては、とても残念なことです。
最近は直接関わっている地域学がないものですから、思いあぐねて、前には何を話したのかを読むことにしました。
今日、講演録を読み直しました。

さていよいよ自画自賛です。
読んでみるとなかなか良いのです
これ以上のものを話せるかどうか不安になりました。
ついでにもう一つ見つかったので読んでみました。
これは何と同じタイトルで、宮城大学で話したものです。
これもなかなか良いのです。

私は講演が苦手なのですが、たまには良い講演もあるのです。
とまあ、2つも読んでしまったら、自信がなくなってしまいました。
20日の講演がとても心配です。
前の講演をテープにとっておいたら、今回はテープを送るだけでよかったかもしれません。
それにしても同じタイトルで繰り返し話をするのはこれからやめたほうがよさそうです。
二番煎じはうまくいかないものですから。
明日、1日かけて、何を話すかを考えようと思います。
良い案が見つかるといいのですが。

内容のない支離滅裂な自画自賛文になっていますが、
まちづくりに関心のある方に、私が自画自賛した講演録を読んでもらえるとうれしいと思い、書きました。
もし関心を持ってもらえたら読んでください。
長いのが難点ですが。

これからのまちづくりと公民館の役割(1999年11月)
地域学のすすめ(2000年8月)

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2006/10/17

■「拉致」放送命令への異論

政府がNHKに「拉致」放送の命令を検討しているという記事が先日流れました。

とても気になる情報です。

先日テレビで、拉致問題担当の中山首相補佐官が、
この4年はどうでしたかと聞かれて、
「アッという間の4年でした」と応えました。
唖然としました。
この人はやはり観察者だったのだという気がしたのです。
当事者にとっては、この4年はとてもとても長い4年だったでしょう。
中山さんという人の本質が見えて一瞬でした。
私もまた、当事者ではなく観察者ですから、これは私の勝手な主観でしかありません。
しかし、少なくともこの人は私とは別の世界の人だと思いました。

15日に配信された救う会全国協議会ニュースに

「脱北者の証言等によると、北朝鮮幹部等の中でNHK国際放送を密かに聴取している者はかなりいるという。事は人命にかかわる。総務省、NHK等関係者は、拉致被害者の安全確保のために、為し得る事はすべて行なうという姿勢をとっていただきたい」

とありました、
全く同感です。そう考えるとNHKへの「拉致」放送命令も良いではないかという気がしないでもありません。
なにしろ最近のNHKからは責任感と理念が失われているとしか思えないからです。

しかし、待てよという気もします。
戦時性奴隷制をさばく女性国際法廷のNHK番組の内容に関して、
安倍首相(当時官房副長官)がその内容に介入したと報道した朝日新聞とNHKが対立した事件がありました。つい最近のことです。
この朝日新聞虚偽報道問題は結局は朝日新聞が取材の不十分さを認める結果で終わりましたが、
事の真相は藪の中です。
詳しくはウィキペディアをご参照ください。

また朝日新聞の言い分もぜひお読みください。経緯も詳しく書かれています。
ちなみにこの裁判の主催者の一人は、朝日新聞の元記者だった松井やよりさんです。
私はお会いしたことはありませんが、北沢洋子さんと並んで信頼できる女性ジャーナリストとして信頼していた人です。
安倍さんは松井さんを個人的に攻撃していたという話も聞きました。
マスメディアの政府広報機関化を垣間見させた事件でした。

この事件を考えると、やはり政府が放送命令を出すのは危険な気がします。
それにNHKはすでに政府広報機関化しているのですから、何かもっと大きな意味があるようにも思えます。
やはりここは危険な要素を重視すべきでしょうか。

しかし大切なのはおそらくそんな問題ではないのです。
解決するために何が必要なのか、その戦略と責任感の不在が問題なのではないかと思います。
こうした小手先の施策で目くらまししてほしくはありません。

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2006/10/16

■人の悲しみの上に自分の幸せは築けない

「幸せ」論の続きです。
たけしのアンビリバブルで感動的なドラマを見ました。
2004年2月12日に放映された「奇跡の愛 51年目の再会」の再放送です。
話の内容は、アンビリボーのサイトで探してください。
バックナンバーで、2004年2月12日を開いてください。

その最後に出てくる言葉が心に残りました。
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せでないと自分の幸せはない」という言葉を、私は生々しく実感していますが、周りの人にはなかなか伝わりません。
きれいごととしか思ってもらえないのです。
しかし、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
という言葉であれば、実感してもらえるような気がします。
いかがでしょうか。
そして、この言葉の延長に、宮沢賢治の言葉があるのです。

この言葉をかみしめながら、この2日間、「幸せ」を意識しながらすごしたのですが、
フッと気づいたことがあります。
もしかしたら、今の社会は、
「人の悲しみの上に築く幸せ」競争をしているのではないかということです。
哀しい気づきです。

そういえば、ゼロサム時代の利益競争という考えが広がった時期もありました。
誰かが得をしたら、誰かが損をする、という構造は受け入れやすい考え方です。
もしそうであれば、利益は誰かの犠牲を意味します。
その発想に立てば、幸せもまた誰かの悲しみの上に成り立つことになります。
昨日の議論にもつながりますが、
理想は、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
しかし現実には、
「人の悲しみの上にしか自分の幸せは築けない」
ということにもなりかねません。
おそらく「人の悲しみの上に築いた幸せ」は、決して幸せなどではないでしょう。
しかし昨今の私たちの幸せは、間違いなく「人の悲しみ」に成り立っています。
ただその犠牲になって悲しんでいる人たちの顔が見えないだけの話です。

昨日見た「幸せの風景」の向こうに、誰かの悲しみがあるのかもしれない。
こんなことを考えていたら、とてもやりきれない気になってしまいました。
まだまだ宮沢賢治の言葉をしっかりと消化していない自分に気づいて唖然としました。

誰かが得をしたら、みんなが損をする。
それが私が目指す「コモンズの社会」です。
私の頭の中では、そんなことは当然のことなのですが、
どうも現実はそうなっていないようです。
私はどこで間違っているのでしょうか。

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2006/10/15

■幸せの風景と家族の変容

近くのミニスーパーに女房が花を買いに行くので付き合いました。
彼女が花を探したり買い物をしたりしている間、
そばのベンチで座って何となく風景を見ていたのですが、
夫婦連れが多いのに気が付きました。

そのお店はスーパーとしてはやや高いですが、品質は定評があるお店です。
30年ほど前に開発された大規模団地の近くに立地しています。
その団地の住民もかなり高齢化して、企業を定年退職した人も多いはずです。
入り口ではいつも草花を販売しています。

私が座っていたのは15分くらいでしかありませんが、
歩いてやってくるシニアの夫婦がとても多いのです。
そしてみんなお店に入る前に花を見て、半分くらいの夫婦が花を購入しています。
いずれも会話は多くはありませんが、とても和んだカジュアルな雰囲気です。

何気なくそうした風景を見ているうちに、
「幸せ」というのはこういうことなのだろうなととても納得できました。
夫婦でこうした和んだ時間を過ごせることこそ最高の幸せなのです。

世代からして買い物も決して多くはありません。
量は少なくてもいいから安心して美味しく食べられるものを一緒に探すのに向いている規模のお店なのです。
そして心和ます花。
イトーヨーカ堂やイオンのような広いスーパーとはかなり雰囲気は違いますし、
纏め買いではなく最寄店感覚で毎日買いに来ているシニア夫婦も少なくないでしょう。
そこでは買い物さえもがとても幸せな風景になっています。
海外旅行が幸せとは限りません。
65歳になると、そういうことが実感できてきます。

先日、大企業の部長層のみなさんと話をしていて、
休日などに奥さんと一緒に買い物に行きますかと質問させてもらいました。
そうしたら全員が行くと答えてくれました。
みなさん忙しい方ばかりですので、意外な気がしました。
しかし間違いなく夫婦の関係は変わってきているのでしょうね。
私が見た幸せそうな夫婦の光景は、ますますこれから増えていくようです。

前にも書きましたが、私は核家族化こそが家族を崩壊させ、
社会を貧しくした大きな原因だろうと思っていますが、
もしかしたら核家族での幸せの形もあるのかもしれません。
しかし、それでいいのか、少し気になる幸せの風景です。

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2006/10/14

■理想と現実のつながりの認識

昨日、企業の管理職の皆さんにお話しする機会がありました。
「アントレプレナーシップを持って企業価値を高めませんか」
というのがメッセージです。
話の後、意見交換する時間がありました。
話には共感し、腹に落ちるのだが、といいながら、
次のような発言がありました。

「理想はわかるが現実は難しい」 「職場にはそんな裁量権はない」 「言いだしっぺが損をすることが多い」 「いまの企業には受け入れる素地がない」

日本の企業人のモティベーションは世界で最も低いといわれます。
30年前とは全く違います。
まさにそれが実証された感じです。
後ろ向きの発想が企業の管理者には充満しています。

「理想は現実とは違うから意味があり、実現しようとしないのであれば理想ではない」 「職場の裁量権がなくていいのか。それを変えようと思わないのか」 「言いだしっぺが損をするのではなく、得をするのが本当の提案。自分でやりたい内容でなければ良い提案とはいえない」 「その素地を創っていくことが大切なのではないか」
というような答をしましたが、 どうもみんな疲れていて、前向きではありません。 「難しい」「やれない」というところから出発してしまっては、何も始まりません。

しかし、異口同音にこういう言葉が出てくることからも、
日本の大企業のおかれている現状がよくわかります。
NPOやベンチャー企業とは正反対です。
現状を変えていくという姿勢ではなく、現状に適合しようという姿勢が強いのです。
みんな疲れているのかもしれません。
そういえば、ある人が、
「最近の日本人は歩くのが遅くなってきている」
といいました。
かつては一番早足だった日本人の歩き方が遅くなっているのは、
どうもスローライフのためではなく、疲労のためなのかもしれません。

理想や夢は実現しなければ意味がありません。
理想は理想、夢は夢、とおもうのは生半可の世俗通の大人の論理です。
理想と現実はつながっているのです。
理想をしっかりと持って、現実を見ると、見え方が変わってきます。
そして自らの動き方も変わってきます。
それをしないのは生き方もあるでしょうが、
同じ一生であれば、私は主体的に生きたいと思います。

こうした声はいろいろと聞いてきました。
ある町で仕事していたときには、
佐藤さんの言うことは理想だが、
そんなことをしていては仕事にならないという声を聞いたことがあります。
仕事とは何かを全く理解していない人の発言だと私は思います。
その人は課長職でしたが、とても残念な思いでした。
その町の仕事はやめました。
理想を目指さない仕事は私には時間の無駄でしかありません。
誰かがやってくれるでしょう。

理想から出発し、
いかにしたらそれに近づくことができるか。
まずは実現できると考える。
そういう生き方をしたいと思っています。
その気になれば、必ず道はあるものです。
万一なかったとしても、人生に悔いは残らないでしょう。

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2006/10/13

■常識人たちが進める戦争への道

北朝鮮の核実験に関しては、その後のあまりに見事なブッシュ政策の展開を見ていると、
やはりブッシュと金正日とは連携しているのではないかと思えてなりません。
直接の連携はないかもしれませんが、お互いの背後にある産軍官連合体によるシナリオを感じます。

今月7日に、9.11事件の真相を考える集まりが東京で行われました。
私は参加しませんでしたが、400人を越える人たちが参加し大盛会だったそうです。
9.11事件の陰謀を確信した参加者も多かったと思います。

さらにその後、それを傍証する情報はいろいろと出てきていますが、
それらをつなぎ合わせるととても説得力のあるシナリオが浮かび上がってきます。
そしてそれを延長させて、今回の核実験を見ていくととても納得できるシナリオが見えてきます。
真の主犯者はブッシュ政権ではないかと思います。
金正日は下請け業者のような存在に思えます。
日本の小泉・安倍政権は何なのかは、言いよどみますが、
きっと30年後には明らかになるでしょう。
かれらの愛国心の実体が見えてくるはずです。

まあこれは私の直感ですが、9.11事件のときに直感したことが、
その後少しずつ真実性を増してきていることを考えるとあながち笑ってすませることではないような気がしています。
この核実験によって、もっとも大きな利益を上げたのはおそらく米国の軍需産業です。
そして彼らが強力に実現を支援したであろう安倍政権の成立に合わせて、この事件が起き、
日本は米国の軍需産業の市場として自らを開放しつつあることは、私にはとても偶然とは思えません。
偶然にしてはできすぎています。
いささか急ぎすぎですので、私のような素人にさえ、見えてくる構造ですが、
それだけ日本の国民は甘く見られているのでしょうか。

日本のマスコミは完全に金銭に支配された産軍官連合体の走狗に成り果てていますので、
ジャーナリズム精神などは期待できません。
ネットで飛び交っている情報のほうが断片的ではありますが、真実に迫っています。
惜しむらくはそれを編集する仕組みが不在のことです。
もちろん編集しないからこそ意味があるのですが、このジレンマはいつか乗り越えられるでしょう。

以上は私の妄想です。
常識人であれば一笑に付してしまうことでしょう。
ただ、そうした常識人たちが70年前に戦争への道を進めてしまったのです。
その教訓は忘れるべきではありません。
戦争が狂気の行為であれば、常識的な判断では必ずしも対抗できないのです。

いや時代の狂気は、往々にして時代の常識が生み出してきたのです。

いずれにしろ、「戦争のできる国」に向けての日本の前進は加速されました。
多くの国民は軍備化に納得しだしています。
平和のために戦争ができる国になるなどというのは、
少し考えたらおかしい話であることに気づくはずですが、
その知性さえ日本人は失っているとしか思えません。
罪深いテレビ関係者の洗脳の結果です。
彼らは犯罪者と思えてなりません。

しかしもしそうであれば、今の日本社会は犯罪者の集まりなのかもしれません。
もちろん私を含めてです。
だからこそ懺悔し身を清めなければいけません。
生き辛い時代になってしまいました。
そう思うのは私だけなのでしょうか。

私は現代の社会の構造を「組織と個人」の対立軸でとらえています
しかし昨今の動きを、「国家」対「世界企業」の対立軸で読み取る人もいます。
そうした人からのとても刺激的な「時代の読み取り」もあります。
たとえば週刊オルタの発行人である西川澄夫さんは、
「国家から多国籍企業への「統治権」の移行が進んでいる」
と現代を読み解いています。
私は賛成しませんが、反対もしません。
それもまた歴史の一つの次元だからです。

しかし歴史はもっと大きく動いているような気がします。
いや、そういう気がしていましたが、どうもまだ前兆で、本
当に動き出すまでにはまだ100年はかかるのかもしれません。
今生では体験できそうもありません。
100年後にまた生まれ変わらなければいけません。さて。

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2006/10/12

■お金と幸せの反比例

またCWSコモンズからの再録です。

女房と娘が花や野菜を買いに行くというので同行しました。
茨城県の利根町のカノンです。
前に一度私も行ったことがありますが、近くのお店と違い家族経営のあまりお店らしくないお店なのです。

前に来たときに、たしか脱サラで開店したと聞きましたが、今回もみんな忙しそうに手入れをしていました。
もう少し展示の見栄えを良くしたら高く売れるだろうにと思うほどに、雑然と自然形で並んでいます。
しかも実に安いのです。そしてその育て方を質問すると丁寧に教えてくれるのです。

安い例を書けば観賞用のとうがらしが10ポットくらいで157円なのです。
私も冬コスモスを250円で購入しました。
こんなに安くしてやっていけるのでしょうか。心配です。

しかし、親子3人(たぶん)で働いている姿を見ると実に幸せそうなのです。
私たちは物質的に豊かになるにつれて、物を入手することの喜びを失いだしています。

喜びや幸せ感は状況によって全く違ってきます。
砂漠の中での水との出会いは最高の感謝になるでしょうし、
ダイエットしなければいけないほどの飽食の人には松坂牛のビフテキにもたいした感激ではないでしょう。

そう考えると、お金持ちがかわいそうです。
お金持ちになるにつれて、彼らは喜びを失っていくのでしょう。
それどころかさまざまな悩みまで増やしていくのです。
カノンの家族の皆さんの幸せそうな表情が印象的でした。
さて、私に今の生き方は果たしてどちらを向いているのでしょうか。

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2006/10/11

■アンナ・ポリトコフスカヤさんへの追悼

10月8日の朝日新聞に、「チェチェン紛争告発の女性記者射殺される」という記事が掲載されていました。
チェチェンといえば、多数の子どもたちが殺害されたべスラン学校占拠事件がまだ記憶に生々しいです。
またチェチェンはよく映画の題材にも取り上げられますので、
チェチェンと聞くだけで陰謀や権力構造をイメージしてしまいます。記事の一部を引用します。

チェチェン紛争でロシア当局による過剰な武力行使や人権抑圧を告発したロシアの女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが7日、モスクワの自宅アパートのエレベーター内で銃で撃たれて死んでいるのが見つかった。
ちなみに10月7日はプーチン大統領の誕生日です。
アメリカ以上にロシアの権力構造はすさまじそうですが、その一端を垣間見る思いがします。
アンナ・ポリトコフスカヤの著書が2冊翻訳出版されていますが(「チェチェン やめられない戦争」「プーチニズム」)、内容の凄さが伝わってくるので、まだ読めずにいます。
チェチェン総合情報のサイトに詳しい記事があります。

日本とは無縁な事件のようですが、
じわじわと日本にも押し寄せてきている動きの先を予感させる事件のような気がします。

明日(10月12日)には文京区でアンナ・ポリトコフスカヤ緊急追悼集会があります。
私もいま時間調整していますが、もし参加できれば参加する予定です。
世界で何が進んでいるのかを垣間見ることができるかもしれません。

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2006/10/10

■野田のイメージ

今日から自動車のナンバープレートに「柏」が加わりました。
いわゆる「ご当地ナンバー」として、人気のある地域が17か所加わったのです。
これまで千葉県の東葛地域は「野田」ナンバーだったのですが、新たに「柏」が加わったのです。
ところがこの「柏」ナンバーへの切り替えも含めて、「柏」の人気は高いのだそうです。
先日の朝日新聞では、金沢や仙台よりも高人気とありましたが、「野田」から「柏」の切り替える人も少なくないそうです。

その理由は「野田」のイメージのせいのようです。
我が家は「野田」ですが、わが娘も「野田」のイメージは「野や田んぼのイメージが強く好きでない」といいます。
特に自動車には合わないと思っているのかもしれません。
どちらかというと自然派のわが娘もそうなのかといささかがっかりしましたが、どうやらこれが今の多数派のようです。

私は「野田」という言葉にとてもいいイメージを持っています。
野原と田んぼ。風景が浮かんできます。
確かに自動車とはつながりませんが、「品川」や「湘南」よりはよほど良いです。

環境への意識が変わりだしているといわれていますが、どうもあまり確信が持てません。
そういえば、私が名前に惚れて付き合いだした茨城県の美野里町も、市町村合併で「小美玉市」になりましたし、
ちょっと関わっている谷和原村も「つくばみらい市」になってしまいました。
住民はともかく、行政関係者や地方政治家の「環境意識」には危うさを感じます。
自然や歴史や地域の文化に愛着を持たずして、環境意識など育つはずがないように思います。

みなさんの「野田」のイメージはいかがですか。
ちなみに、我が家はもちろん「野田」ナンバーを継続します。
娘も賛成です。

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2006/10/09

■住民たちの意見を聴くという意味

長野県の知事が変わって1か月以上がたちましたが、
新聞情報によればどうもまた旧態依然の利権行政に戻っていってきているようです。
そうした状況を報告している朝日新聞の記事にこんなくだりがありました。

村井知事の売りは、周囲との協調と対話。 組織・団体とことごとく敵対した田中氏とは対照的に、村井知事は積極的に陳情を受ける。すでに20回を超えた。 知事室前には、田中県政前にはあった来客用の待合スペースも復活。

田中さんも村井さんも住民の声を一生懸命に聴こうとしていることにおいては、同じかもしれません。
問題は「住民」とは誰かです。

田中さんにとっての住民は額に汗して働いている納税者であり、
村井さんにとっての住民は納税者の税金を使う人たちなのです。

全く意味合いが違うのです。
正反対の内容になるでしょう。
ですから村井さんには陳情に来る人が後を絶たないわけです。
行政も税金を使う立場ですから、行政職員も仕事がやりやすくなるでしょう。
「住民参加」や「住民の声に耳を傾ける」などという言葉は全く意味のない言葉なのです。

しかしこれほど急速に元に戻るとは思ってもいませんでした。
ホームページからは田中県政時代の記事が削除されつつあるという記事もありましたが、
まさに歴史の改ざんにつながる話です。
企業ではよく行なわれる話ですが、
自治体行政でもそんなことが行なわれるのかとは驚きでした。
長野県政もまた、経済界のドンたちによって私物化(民営化)されているようです。

それにしても、知事や首長が変わると政策が一変するのはどう考えるべきでしょうか。
脱ダム宣言が否定されるのと滋賀県の新幹線駅建設が否定されるのと同じではないかといわれそうですが、話はそう簡単ではないように思います。

確かに否定の対象は「政策」です。
しかしその背後には、もっと大きな違いがあるように思います。
それは、その政策決定ないしは政策見直しが、だれの声によって行なわれたかです。
あるいは誰のために行なわれたか、といっても良いでしょう。
難しい言葉を使えば、ガバナンスの問題です。

ガバナンスの主役は、
額に汗して働いている納税者なのか、
納税者の税金を使う人たちなのか、
そのパラダイムがいま変わろうとしているのです。

「住民の声に耳を傾ける」などという言葉で議論していては、
そのパラダイムの違いに気づきません。

村井さんがこれほどまえに急いで否定したくなるほどの実績を残した田中知事のすごさを改めて評価したいと思います。

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2006/10/08

■哲学者が減りました

これはCWSコモンズからの一部修正した上での再録です。
広く読んでもらいたいと思ったからです。
CWSコモンズよりも最近はこちらのブログのほうがアクセスが多いのです。

先日、少しだけ女房の畑仕事を手伝いました。
といっても雑草とりと冬大根を蒔くための畝作りです。
それでも柔な老体にはきつい仕事です。
喉が渇いたら畑にできているミニトマトをとって食べるのですが、
これがまたすごくおいしく、幸せを感じます。
どこの食卓の料理より、私にはおいしいです。

ところで、こうした1時間ほどの畑仕事で考えることはたくさんあります。
食に対する考えもそうですが、雑草とりをしながら考えることは少なくありません。

雑草と野菜や花とはどこが違うのか、
野菜はケアしないと枯れてしまうのに、なぜ雑草は抜いても抜いても出てくるのか。
実をならした後の野菜は抜かないとどうやって朽ちていくのか。
収穫されることなく捨てられる遅れて結実した茄子やトマトは幸せなのか。
作業をしながら、そんなさまざまなことが頭に浮かぶのです。

我が家の畑の道路側は通行人のための花畑です。
その花をまだ咲いているのに抜き取ることを農園主の女房から指示されました。
まだ咲いている花を抜くことにも抵抗を感じますが、花好きの女房は見事に決断します。
そのほうが良いのだそうです。
そういえば樹木の剪定もそうですね。思い切ったほうがいいのです。

しょうもないことを書いていますが、
こうした仕事の中に、私はプラトンの哲学書よりも深遠な知恵を感ずる気がします。
そうした「大きな哲学体験」を日々している農業者はすごい哲学者なのではないか。
いつもそう思います。

農業者に限りません。職人も商店で物売りをしている人たちもです。
そうした哲学者が最近は減ってしまいました。
それが社会の荒廃に影響しているのではないかと、この頃、痛感しています。

国会での安倍首相の答弁を聴いていて、本当に情けなく思いました。
安倍さんにもぜひ農業をやってもらいたいです。
我が家の家庭農園に手伝いに来てくれたら、うれしいのですが。

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2006/10/07

■国会(の議論)の存在価値

少しだけ時間ができたので衆議院の予算委員会の実況を1時間ほど見ました。
枝野さんと志位さんの部分です。
枝野さんの指摘は経済問題でした。
最初は太田弘子大臣が答弁しましたが、的確な答弁でした。
太田さんとは昔研究会でご一緒したりしたことがありますが、
高市さんや小池さんとは違う姿を感じさせてくれました。

枝野さんの指摘にうなずいていたのも印象的でした。
また枝野さんの質問画面の後ろには、
早稲田商店会のいなげやの店主、安井議員の姿が映っていました。
安井さんはきっと枝野さんの指摘に同感されていたと思います。
安井さんには山形のリサイクル商店街サミットに来てもらいましたが、とても誠実な生活者です。
きっと政治の世界にあきれているのではないかとも思います。

志位さんは歴史観をテーマにしました。
総理の答弁は相変わらず「自分の言葉」のない答弁でした。
コンピューターの合成音声のようにも聞こえましたし、
「麻原答弁」を思い出すほどのむなしさも感じました。

こんなブログがありました。

『美しい国へ』を読んでしまった。(しかし 私もかなり暇だなぁ~~~。)あまりに簡単で内容の無い情緒的な世間話本だったので 1時間で読めてしまった。 ところで、『美しい国へ』を記したこの人は 頭が少し弱いのだろうか。とにかく彼の致命的な欠陥は数字に弱いことである。
実に納得してしまいました。

いずれにしろ、コミュニケーションは全く存在していない答弁でした。
政治討論とは一方的な発言の応酬でしかありません。
彼らにはコミュニケーションしようなどという発想はないのでしょうか。
せっかく莫大な費用をかけて行なう議論であれば、もっと建設的な議論をしてほしいものです。

批判と弁解は何の役にも立ちません。
議論してお互いの考えを見直していく。
コミュニケーションとは、議論とは、まずは自らを変えることです
その姿勢がないのであれば、国会は不要な存在です。
国会の議論を聞いているといつもそう思います。
日本では議論とは対立や説得だと勘違いしている人が多すぎるようです。
国会中継を見るといつもむなしくなります。

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2006/10/06

■古着の活用への提案

昨日に続いて、またリサイクル話題です。
今日は古着の話です。
最近、古着の国際的なリサイクルの動きがまた広がっているようです。
国内バザーなどでは古着は受付拒否の憂目にあいますが、
そのため古着はたいていの場合、ごみ処理されがちです。
女房はそれがとても受け入れられずに、何かいい方法はないのかといつも言っているのですが、
古着をきちんと受け付けて、再活用処理を施して海外に送ったりする活動が広がっているとラジオで聴いたそうです。

以前、イランに観光で旅行した時に、観光会社から可能な範囲で古着を持参してほしいと頼まれました。
イランの地震のあった直後だったのです。
みんなが少しずつ持ち寄りましたが、ツアー全体ではかなりの量になり、
食事の時に受け取り側の人が感謝のスピーチまでしてくれました。
その勢いで、イラク支援のためにと、買おうとも思っていなかったじゅうたんを1円も値引き交渉せずに購入したのはいささかの失敗でしたが、
それも含めて何かとても幸せな気分になったものです。
人に感謝されることが最高の幸せと言った人がいますが、本当にそう思います。

ところで古着の話です。
女房と話していて、古着1枚に、たとえば100円を添えて提供するのはどうだろうかというアイデアが浮かびました。
家電リサイクルの場合は、費用がとられるのですが、
これは効果的に使ってありがとうという感謝を込めてのお礼です。
コモンズ通貨のジョンギでの体験がヒントです。
いつもは私の提案に厳しい女房も、この提案にはめずらしく賛成しました。
100円で、物を捨てる時の罪悪感から解放されるのであれば、みんなきっと喜ぶでしょうし、
100円が集まれば効果的な活用策を考えることもできるでしょう。

もう一つのアイデアは、北朝鮮への寄付です。
古着であれば、政府高官や特権階級の人には行かずに、
まさに生活に困窮している人たちに配布されるでしょうから、目的が達成されるはずです。
古着をやるとは見下しているなどという人には北朝鮮の実際の映像を見てもらえば良いでしょう。

だれがやるか、ですが、さてそこが問題です。
口だけの提案ではなく、お前が実際にやれば良いではないかといわれそうですが、
そう言われてもどう動いたらいいか分かりません。
実践者でないものの弱みですね。
でも誰かやってもらえないでしょうか。協力ならできるかもしれません。

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2006/10/05

■家電商品の無料引取り業者への不信

難しい話が続き読者の不興を買いそうなので、今日は軽い話です。
テレビとビデオデッキが不要になりました。
あまり具合もよくなかったので廃棄することにしました。
クリーンセンターに持っていくとリサイクル費用がかかるので、無料回収しますと放送しながら時々自動車で回ってくるリサイクル回収の人に頼むことにしました。
運良く先週の土曜日に無料回収の車が回ってきたので、立ち寄ってもらいました。
対象物を見るなり、それは古いので有料ですといわれました。
その態度がいかにもだったので、それでは結構ですと言ってしまいました。
お金を出せば、引き取ってくれたのでしょうが。

まあ、これだけの話なのです。
しかし後で考えたら、これもまた一種の詐欺行為ではないかと思い出しました。
最初は無料と言って声をかけさせ、実際には有料ですといえば、大体の人は面倒なのでお金を払って引き取ってもらうでしょう。
それできちんと処理されればいいですが、処理されずに不法投棄などされるかもしれません。
リサイクル費用を節約しようなどというケチな考えを持ってはいけません。

といいながら、その2つは廃棄せずに再使用することにしました。
かなり具合が悪いのですが、節約家の私としては捨てるのがもったいなくなってしまいました。

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2006/10/04

■人間的発展と経済的発展

センのシリーズをもう1回だけ続けます。
センが重視しているのが、「人間の安全保障」です。
それにつながる補完概念として、センは「人間的発展」を取り上げています。
「人間的発展」は、パキスタンの経済学者のマーブブル・ハクが提唱した概念で、
「人間としての自由を高め、潜在能力を身につけそれを活用できるようにしていくこと」だそうです。
一昨日話題にした「教育」の本質そのものといっても良いかもしれません。

この概念は、商品の生産消費に偏りすぎていた人々の目を、人間の生活の本質と豊かさに向けさせたとセンは評価します。
いわば経済的発展から人間的発展へと視野が広がったといっていいでしょう。
最近の日本の社会を見ていると、このセンの指摘はとても理解しやすいのではないかと思いますが、
相変わらず経済的発展思考だけの人が多いのが不思議です。

経済的発展至上主義はいつから生まれたのでしょうか。
アメリカ移住民たちにとっては、アメリカ世界は歴史のない世界でした。
アメリカのネイティブたちにとっては、豊かな歴史があったのですが、
移住民たちにはそれは見えなかったのです。
そこで彼らはネイティブを動物のように抹殺し(一説には98%のネイティブが殺害されたといわれますが、
もしそれが事実であれば、ジェノサイドといってもいいでしょう)、フロンティアなどと称して西部を開拓していったのです。
そうした世界では、物質的発展は見えやすく手応えがありますし、
何よりもややこしいしがらみや文化がありませんから自由に展開できるダイナミズムが楽しめるのです。
経済的発展至上主義は、歴史のない白人アメリカ社会であればこそ生まれたのではないかと思います。
歴史のあるヨーロッパでは生まれようがないのです。

こうした状況は、第二次世界大戦後の日本が置かれた状況につながります。
時の為政者やリーダーたちによって、日本は伝統と価値観を白紙にしてしまいました。
そして取り入れたのがアメリカの思考法です。
そして見事にアメリカ型経済的発展を遂げたのです。
そこで大切にされるのは、GNPであり偏差値です。
文化がない世界では評価基準は簡単なのです。
物理的もしくは構造的暴力が世界を支配するのです。

アマルティア・センの生まれたインドはしがらみが多すぎました。
文化が発展しすぎていました。
ですから経済的発展に乗り遅れました。

しかし、ホモエコノミストの時代は終わろうとしています。
経済のパラダイムシフトが求められているのです。
経済的発展を基軸にするのではなく、
人間的発展を基軸にする社会が近づいてきているように思います。
私たちも暮らし方を変えられる時代になってきたのです。
私も小さな一歩を踏み出していますが、踏み出すと世界は違ってみえてきます。

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2006/10/03

■文明の衝突と個人の連帯

昨日、アマルティア・センの著書に触れましたので、ついでにその本で共感したことを書きます。

日本でも話題になった、米国の政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」に言及して、こう書いています。

文明にもとづく分類は希望のない歴史であるばかりでなく、人びとを狭義のカテゴリーに押し込め、「文明ごとに」はっきりと引かれた境界線をはさんで対峙させ、それによって世界の政情不安をあおり、一触即発状態に近づけるでしょう。(「人間の安全保障」33ページ)

多元主義国家だったイギリスでさえ、宗教ごとの学校ができてきていることをセンは嘆いています。
ハンチントンの「文明の衝突論」は9.11事件の露払いだったのかもしれません。
あんな本がなぜ話題になったのかわかりませんが、退屈な本でした。
しかし、世界はますます「文明の衝突」に向かって進んでいます。
センのこの言葉にとても共感できます。

しかし、その一方で、ラマラ・コンサートに見るように、個人のつながりが衝突を回避する希望を見せだしています。
文明を超えて、人類はつながっていることを意識することこそが、いま求められているのです。

情報社会は大きな2つのうねりを生み出しています。
歴史観のパラダイムを、組織起点から個人起点へと変えていくことが必要ではないかと思います。
国家の主役は、権力者ではなく生活者に変えていかねばいけません。
それに成功すれば、国家は新しい組織に進化するでしょう。
失敗すれば消滅するでしょう。
その結果が見えるのがおそらく100年後なのが少し残念です。

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2006/10/02

■未来を収奪しようとしている教育改革

教育基本法が変えられようとしています。
自民党では3年かけて議論してきたし、7割の国民が賛成しているといっています。
そうでしょうか。
もし仮にそうであるとしても、これは大きな問題です。
憲法改正よりも大きな問題かもしれません。

教育とは何かを語りだすとまたきりがありませんが、
教育こそが最大の経済発展の礎であり、社会安定の要であることは、もっと認識されていいでしょう。
最近の日本社会のほとんどの問題は、教育の失敗に関わっていると思います。
だれが失敗させたか。
いうまでもなく文部省であり、産業界だと私は思いますが、
それも含めて責任は私たち自身にあります。

ノーベル賞を受賞したインドの経済学者、アマルティア・センは、
基礎教育の重要性を訴えている人ですが、彼はこういっています。

日本は19世紀の半ばすでに、教育改革の必要性をしっかり見抜いていました。明治維新から間もない1872年に、教育の基本制度である学制が公布され、「邑(地域)に不学の家なく、家に不学の人なからしめんことを期す」と、社会の責任が明示されました。抗して、教育の格差が縮まり、急速な経済成長をとげる日本の目覚ましい歴史が始まったのです」(「人間の安全保障」13ページ)

日本は「教育の成功」を体験した国です。
もっと正確に言えば、それは何も明治維新から始まったわけではなく、
江戸期に培われた文化なのです。

センは、アジア経済発展の特徴として、
学校教育の普及・医療の充実といった人間的発展の実現をあげています。
まず経済発展ありきでその後に人間的発展を促すモデルとは異なり、
経済発展よりも人間的発展を重視し国家と市場が補い合うことにより「東アジアの奇跡」は実現した、
というのがセンの考えです。

つまり社会のパラダイムがちがっていたのです。
しかし、日本は戦後、アメリカモデルに切り替えました。
それにしたがって、教育もまたパラダイムシフトしてしまったのです。
学校は学びや教育の場ではなく、訓練や管理の場になってしまいました。
その結果、理系はともかく文系での教育レベルは一番低いレベルと評価されるほどになってしまいました。
誰が評価したのかといわれそうですが、
OECDなどの調査結果を見るまでもなく、1日テレビを見ていたらそのことは一目瞭然です。
教育を受けなかった人たち(テレビ局や大企業の経営幹部たち)が制作しているテレビは
おぞましいほどに痴的です、

英語教育を小学校の必修科目にするかどうか、が話題になっていますが、
そんな瑣末で答も明確な問題に目をとられずに、
教育の本来的な意義や役割を再考するべき時期にあると思います。
教育改革の方向性を間違えれば、未来の展望はなくなります。
「改革」がいつでも良いものだという発想は捨てなければいけません。

私たちの未来を収奪しようとしている教育改革の動きが高まっているのが不安です。

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2006/10/01

■法律は誰のものか

殺人罪の時効成立後に犯人が犯行を自白した事件は、刑事事件としては時効成立のため不起訴になり、民事事件でも一昨日、損害賠償請求権の消滅が判決で出されました。
刑事も民事も、多くの生活者たちの日常感覚には合わないように思います。
明確な殺人の物証と自発的な自白があり、にもかかわらず何の処罰も行なわれない法体系では実質的な規範意識は広がらないでしょう。
やや論理を飛躍させれば、こういうパラダイムが飲酒運転犯罪者のひき逃げを助長しています。
逃げ得が日本の文化になってしまっているのです。岐阜県の裏金事件もそうしたことの現れです。
おてんとうさまが見ているという「恥の文化」は、日本からはなくなったのでしょうか。

そもそも「法律」の存在意義が、パラダイムシフトしたと私は考えています。
法律は「誰のためのものか」で全く変わってきます。
権力者、支配者の専横を防ぐための、「民のもの」か、
権力者、支配者が統治するための「官のもの」か。
それによって、意味合いも運営の仕方も全く変わってきます。
近代国家においては、法は後者のものだと私は考えています。
有名なマグナカルタは国王の権力を制約するためのものでしたが
誤解してはいけないのは、同時にそれは諸侯たちの支配のためのものでした。
決して「民のもの」ではありませんでした。
フランス革命後の法も、アメリカ独立戦争後の法も、
決して民のものでなかったことは歴史を学べばすぐわかります。
イスラエルの独立宣言も、その一例です。
いくら言葉を着飾っても、法の本質は変わりません。
それに言語とは多義的なものですから、解釈がいくらでも可能なのです。

しかし近代国家はそろそろ役割を終えて、
新しい生活者たちの柔らかな組織化が始まっているように私には思えます。
あえて歴史をさかのぼれば、ギリシアのポリス国家に近いものがイメージできます。
SFでいえば、かつてアーサー・クラークが書いていた個人を軸にした社会です。
市民社会論は、それに向けての試行形態かもしれませんが、
「市民」という目線の高さが、私には違和感があります。

ややこしい話はともかく、
時効の存在をしっかりと考え直すべき時期です。
日本の法体系は、法曹界の怠慢と権力癒着の中で、明治以来、ほとんど見直されていないように思います。
唯一の例外は憲法の一部の条文です。しかし、それと日本の法体系思想とは相容れないが故に、日本では憲法は法律体系の中で勝手に切り刻まれてきたわけです。
今の憲法改革の動きは、法体系の名実ともなる復古をはかっているといって良いでしょう。

また話がややこしくなりました。
私は日本の法曹界に憤りを感じているので、どうも司法の話になると感情的になってしまうのです。
法の根幹の思想や枠組みをそのままにして、裁判員制度などという馬鹿なことにうつつを抜かしている輩に、愛想を尽かしているわけです。

話が進みませんね。
すみません。
時効が今日のテーマです。
何のために時効制度はあるのか考えたらとるべき課題は明確です。
制度は理由があって意味を持ってきます。
法律に書かれているから意味があるのではありません。

長い割には内容のない記事になりました。
本当は法律のパラダイムシフトについて書きたかったのです。
私は、法律は「官のもの」でも「民のもの」でもなくて、「共のもの」になっていくだろうと思っています。
私にとっての本来的な意味でのリーガルマインドの醸成です。
官と民で社会を考える時代は、終わりにしたいものです。

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