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2006/10/16

■人の悲しみの上に自分の幸せは築けない

「幸せ」論の続きです。
たけしのアンビリバブルで感動的なドラマを見ました。
2004年2月12日に放映された「奇跡の愛 51年目の再会」の再放送です。
話の内容は、アンビリボーのサイトで探してください。
バックナンバーで、2004年2月12日を開いてください。

その最後に出てくる言葉が心に残りました。
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せでないと自分の幸せはない」という言葉を、私は生々しく実感していますが、周りの人にはなかなか伝わりません。
きれいごととしか思ってもらえないのです。
しかし、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
という言葉であれば、実感してもらえるような気がします。
いかがでしょうか。
そして、この言葉の延長に、宮沢賢治の言葉があるのです。

この言葉をかみしめながら、この2日間、「幸せ」を意識しながらすごしたのですが、
フッと気づいたことがあります。
もしかしたら、今の社会は、
「人の悲しみの上に築く幸せ」競争をしているのではないかということです。
哀しい気づきです。

そういえば、ゼロサム時代の利益競争という考えが広がった時期もありました。
誰かが得をしたら、誰かが損をする、という構造は受け入れやすい考え方です。
もしそうであれば、利益は誰かの犠牲を意味します。
その発想に立てば、幸せもまた誰かの悲しみの上に成り立つことになります。
昨日の議論にもつながりますが、
理想は、
「人の悲しみの上に自分の幸せは築けない」
しかし現実には、
「人の悲しみの上にしか自分の幸せは築けない」
ということにもなりかねません。
おそらく「人の悲しみの上に築いた幸せ」は、決して幸せなどではないでしょう。
しかし昨今の私たちの幸せは、間違いなく「人の悲しみ」に成り立っています。
ただその犠牲になって悲しんでいる人たちの顔が見えないだけの話です。

昨日見た「幸せの風景」の向こうに、誰かの悲しみがあるのかもしれない。
こんなことを考えていたら、とてもやりきれない気になってしまいました。
まだまだ宮沢賢治の言葉をしっかりと消化していない自分に気づいて唖然としました。

誰かが得をしたら、みんなが損をする。
それが私が目指す「コモンズの社会」です。
私の頭の中では、そんなことは当然のことなのですが、
どうも現実はそうなっていないようです。
私はどこで間違っているのでしょうか。

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