■法律は誰のものか
殺人罪の時効成立後に犯人が犯行を自白した事件は、刑事事件としては時効成立のため不起訴になり、民事事件でも一昨日、損害賠償請求権の消滅が判決で出されました。
刑事も民事も、多くの生活者たちの日常感覚には合わないように思います。
明確な殺人の物証と自発的な自白があり、にもかかわらず何の処罰も行なわれない法体系では実質的な規範意識は広がらないでしょう。
やや論理を飛躍させれば、こういうパラダイムが飲酒運転犯罪者のひき逃げを助長しています。
逃げ得が日本の文化になってしまっているのです。岐阜県の裏金事件もそうしたことの現れです。
おてんとうさまが見ているという「恥の文化」は、日本からはなくなったのでしょうか。
そもそも「法律」の存在意義が、パラダイムシフトしたと私は考えています。
法律は「誰のためのものか」で全く変わってきます。
権力者、支配者の専横を防ぐための、「民のもの」か、
権力者、支配者が統治するための「官のもの」か。
それによって、意味合いも運営の仕方も全く変わってきます。
近代国家においては、法は後者のものだと私は考えています。
有名なマグナカルタは国王の権力を制約するためのものでしたが
誤解してはいけないのは、同時にそれは諸侯たちの支配のためのものでした。
決して「民のもの」ではありませんでした。
フランス革命後の法も、アメリカ独立戦争後の法も、
決して民のものでなかったことは歴史を学べばすぐわかります。
イスラエルの独立宣言も、その一例です。
いくら言葉を着飾っても、法の本質は変わりません。
それに言語とは多義的なものですから、解釈がいくらでも可能なのです。
しかし近代国家はそろそろ役割を終えて、
新しい生活者たちの柔らかな組織化が始まっているように私には思えます。
あえて歴史をさかのぼれば、ギリシアのポリス国家に近いものがイメージできます。
SFでいえば、かつてアーサー・クラークが書いていた個人を軸にした社会です。
市民社会論は、それに向けての試行形態かもしれませんが、
「市民」という目線の高さが、私には違和感があります。
ややこしい話はともかく、
時効の存在をしっかりと考え直すべき時期です。
日本の法体系は、法曹界の怠慢と権力癒着の中で、明治以来、ほとんど見直されていないように思います。
唯一の例外は憲法の一部の条文です。しかし、それと日本の法体系思想とは相容れないが故に、日本では憲法は法律体系の中で勝手に切り刻まれてきたわけです。
今の憲法改革の動きは、法体系の名実ともなる復古をはかっているといって良いでしょう。
また話がややこしくなりました。
私は日本の法曹界に憤りを感じているので、どうも司法の話になると感情的になってしまうのです。
法の根幹の思想や枠組みをそのままにして、裁判員制度などという馬鹿なことにうつつを抜かしている輩に、愛想を尽かしているわけです。
話が進みませんね。
すみません。
時効が今日のテーマです。
何のために時効制度はあるのか考えたらとるべき課題は明確です。
制度は理由があって意味を持ってきます。
法律に書かれているから意味があるのではありません。
長い割には内容のない記事になりました。
本当は法律のパラダイムシフトについて書きたかったのです。
私は、法律は「官のもの」でも「民のもの」でもなくて、「共のもの」になっていくだろうと思っています。
私にとっての本来的な意味でのリーガルマインドの醸成です。
官と民で社会を考える時代は、終わりにしたいものです。
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