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2006年11月

2006/11/30

■手賀沼がきれいになってきています

利根川から手賀沼を通過して、大堀川という支流にサケが遡上したというニュースが昨日テレビで放映されました。
我が家は、その手賀沼の近くですが、手賀沼も少しずつ、きれいになってきています。
数年前までは、日本1汚染度の高い湖沼でした。
今年はトライアスロンも行なわれたのですが、以前と比べると水質もかなりよくなってきています。
浄化の最大の要因は、利根川からの取水の増加のようですが、つまりは自然の循環がいかに大切かということです。
しかし、サケが遡上するということは思っても見なかったことです。
見る目には、手賀沼は相変わらず汚いですし、まさかこの手賀沼をサケが泳いでいるとはとても思えません。
しかし、人間の目などと違い、サケには汚染度がホリスティックにわかるのでしょうか。生命の力にはいつも驚かされます。

昨日、ホリスティック医療に取り組まれる帯津良一さんにお目にかかりました。
帯津さんの優しい表情をみていて、
ホリスティック医療とは世界をまるごと受け止めることなのだとようやく気づきました。
手賀沼へのサケの遡上は、私自身の健康につながっていることを実感させてもらいました。
地球は今、元気になろうとしているのかもしれません。
そう考えると最近の異常気象もとても素直に受け入れやすい気がします。
異常気象を防ぐだけが良い訳ではないような気がしてきました。
すべてに、何らかの意味があるのでしょうから。

社会の動きも、そうかもしれません。

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2006/11/29

■「最後まで、楽しい生活、支える歯」

歯医者に行きました。
天井にポスターがはってありました。
そこにこんな標語か書かれていました。
「最後まで、楽しい生活、支える歯」
これはやはり、
「いつまでも、楽しい生活、支える歯」
にしてほしいと思いました。
私が「最後」に近づいているからかもしれませんが、
最近、こうしたことがとても気になっています。
友人が「エンディング」をテーマにイベントを開催したいと言っています。
主旨にはとても共感できるのですが、「エンディング」という言葉に拒否反応が出てしまいます。
まあ、これは個人によって受け取り方は違うでしょうが、言葉というものの持つパワーを最近痛切に感じます。
言葉は使い手の思いではなく、聞き手の思いで、意味を持ち出すことが多いように思います。
それをしっかりと認識した上で、使わなければいけないと、最近、反省しています。
このブログも、毒のある言葉が多すぎますので。

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2006/11/27

■大人のまねはしないで

今朝の朝日新聞朝刊に、とても共感できる記事がありました。
「いじめている君へ」というシリーズ記事ですが、今日はジャーナリストのむのたけじさんが書いていました。
ネットでは読めないのが残念ですが、むのさんのメッセージの表題は「大人のまねはしないで」です。このタイトルだけですべてが伝わってきます。
むのさんは、まず「最近の小中学生」を「今までの日本人の歴史の中で、最高にすばらしい世代」と言っています。これはむのさんが実際に小中学生と話をして実感したことのようです。
そして、最後にこう書いています。
「大人たちがどうあろうとも、みなさんは、自分たちのよいところをつらぬいてください。それが大人たちを変える力になっていくでしょう」
ようやく共感できるいじめ論に出会った感じがします。
今日もまた大人の世界では、いじめと嘘の話題ばかりですが、この小論のおかげで気持ちの良い1日をすごせました。
そういえば、昨日の朝青龍の優勝後の感想も良かったです。
福岡の人はみんな優しく迎えてくれる、と笑顔で話していました。
とても気持ちのいい会見でした。
朝青龍の笑顔は実に無邪気です。
1時代前の横綱たちとは対照的です。
もっとも私は強すぎる朝青龍は好きではありませんが。

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2006/11/26

■社会が壊されていくことへの麻痺

連日、同じようなニュースが繰り返し飛び込んできます。
たとえば県の不正事件ですが、次々と新しい県で同じような事件が話題になります。
どこの県でもやっている話のはずで、少し関わった人ならすでにわかっていることでしょうし、社会保険事務所のときのように、全国一斉にきちんと調べたら一括処理できるはずだと思いますが、なぜかそうなりません。
裏金工作や談合関与のなかった県などはあるはずがないでしょう。それがかつての文化、あるいは常識だったのですから。
それが悪いのではなく、問題化した時に放置したり隠したりすることが悪いのです。
その意味では、これらは「過去の問題」ではなく「現在の問題」です。
いじめ問題で、傍観者の責任が問われだしていますが、それと同じく、現在の問題をもし傍観してしまうのであれば、傍観者もまた責任を逃れられないでしょう。
つまり、これらは今の時代を生きる私たちすべての問題です。

学校でのいじめや自殺問題、児童虐待などの報道も多いですし、飲酒運転による交通事故も多いです。
これらも本気でなくそうと思うのであれば、方法はあるはずですが、本気で取り組もうという動きはありませんし、考えようという人もあまりいないようにも思います。
今朝の新聞で、いじめ問題に関しては全国調査を行なうと報道されていましたが、問題はその方法です。
現場にいる人たちは事実を知っています。必ず当事者がいるのですから、各シオうせるはずがありません。新聞で話題になる事件のほとんどは現場周辺の人には予めわかっていたことがほとんどのはずです。
そんなことは誰もが知っているはずですが、大人たちは知らないように振舞います。まさに「裸の王様」の世界が大人の社会なのです。心当たりはないでしょうか。私もその一人であることを白状しなければいけませんが。

巨額な財政赤字に象徴されているような次世代からの借金。
蔓延する組織犯罪を傍観している罪。
経済的にも倫理的にも、私たちは大きな重荷を背負わされてしまっています。
しかし、その重荷を実感することがないのはなぜでしょうか。
そこに問題の深さがあるのかもしれません。

しかし毎日、こうも同じような事件の報道が続くと感覚が麻痺してしまいます。
そうこうしているうちに、教育基本法も共謀罪も、次々と成立しそうです。
気がついたら憲法も変わり、日本も「普通の国」になっているのでしょうか。
なにやら強制収容所にいるような気もします。
その暮らしも慣れればなんでもないのかもしれません。

慣れたくないのであれば、何かをしなければいけません。
いや何かをすればいいのです。

一度は、ブログをやめて、自分の暮らしに埋没しようと考えましたが、やはりブログは続けることにしました。
せめて強制収容所での日記は書き続けたいと思い直しました。
それにいつかまた行動できる時が来るかもしれませんので。

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2006/11/25

■天の声に従わなければいじめにあって死に追いやられる時代

宮崎談合事件で関係者が、天の声に従わなければ生きていけなかった、という趣旨の発言をしていました。
天の声とは、いうまでもなく「お上の声」です。
知事や首長、あるいは政治家の一声で、道理に反する落札が行われても、それに異を唱えては生きていけないというのが建設業界の常識でした。
いや、今でも常識なのでしょう。

そうした構造や「常識」は日本社会を覆っています。
たとえば、郵政民営化を進める「時の権力者」に異を唱えると政治家としては生きていけなくなることを私たちは今見せられています。
関係者双方の無様さは見るに耐えないほどですが、それが現実なのでしょう。

異を唱えることが許されない状況をつくることは、私には犯罪的行為としか思えません。
やや飛躍があるかもしれませんが、子どもたちのいじめと自殺を支援する状況を作っているとしか思えません。
そう思いたくなりたいほど、醜い動きが今の政治家の言動です。
私たちの代表である政治家には、もっと胸をはった生き方をしてほしいものです。

「お上の声」を「天の声」などと思わずに、本当の天の声を聴いてほしいですね。
天の声は、お上の声とちがって、私たち一人ひとりの生を支えてくれるはずです。
学校でのいじめや自殺がまた話題になっていますが、
子どもたちの世界は私たち大人の生き方の相似形でしかありません。
正すべきは私たち大人の生き方ではないかと思います。
お上の声を天の声などと勘違いする愚挙は避けたいものです。

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2006/11/24

■マスコミの評価犯罪

昨日、「マスコミの犯罪」という表現を使いました。
これは私がずっと思っていることですが、
マスコミが起こした人の死や不幸な事件は決して少なくありません。
マスコミには人の死をももたらす暴力性があるからです。
しかし、その意識がマスコミ関係者には希薄です。
自動車が殺人凶器になることを軽視している自動車メーカーの経営者と同じです。
さらにいえば、飲酒運転する人と同じ危険性を持っている存在とさえいえるかもしれません。
よほどの自覚と自制力が求められるはずです。

ところで、最近、様々なところで「評価」という言葉が聞かれます。
私にはどうも違和感のある言葉です。
一番の違和感は「評価」の目的と評価基準です。
評価自体が目的になったり、
基準が明確でなかったりすることが多いように思います。
評価は評価される人にとっても歓迎できるものでなければいけないと私は思っていますが、もしそうであれば、そもそも「評価」なる言葉が不適切なのかもしれません。
私は行政評価などでは「共創型評価」発想が必要だと考えていますが、
これはなかなか受け入れてもらえませんでした。
以来、「評価」嫌いになっています。
評価に関心のある人たちは、みんな現場に関心のない管理志向ではないかという不信感さえ感じています。
管理は大切ですが、基軸にはならないというのが、私の意見です。

いずれにしろ、最近は「評価」ばやりです。
みんな自分のことは棚に上げて、誰かを評価することが大好きなのです。
多くの場合、評価の対象と目的は自分ではありません。
自己評価という言葉はありますが、目的は自分の外にあることがほとんどです。
ですからどうしても無責任になりがちです。
それに評価の基準は人によって違うことが多いように思います。
そして目線の高い評価が多いのも気になります。
マスコミは、まさにそうした「評価」の舞台です。

1週間ほど前に、北九州市の学校の校長が自殺した事件がありました。
報道では「いじめ隠し」を避難されていましたが、
実態はそうではなかったようです。
マスコミの犯罪の典型例かもしれません。
こうした「評価犯罪」がいたるところで展開されています。

マスコミで情報を流す人は、常に「評価」をしています。
私たちは、その記事を読んで、事件やその関係者を評価します。
そして、ともすると「評価犯罪」の片棒を担ぐことも少なくありません。
そうならないために、
私たち一人ひとりが、しっかりしたビジョンと価値観を持たねばなりません。
マスコミを鵜呑みにするのではなく、自らの生活に立脚して、マスコミ情報を読み取ることが必要です。
そうでないと、マスコミの犯罪はますます広がっていくでしょう。
マスコミが発信してくる「評価」を安直に信ずるのはやめたいものです。

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2006/11/23

■「改正」とは「正しさを改めること」

教育基本法改正が実現しそうです。
憲法は実質的に「改正」されだしました。

最近はさまざまな「改正」が行なわれています。
あるいは「法治国家」としての「法の整備」が進められています。
「不備」が「改正」や「整備」によって改善されることは歓迎すべきことです。
但し、問題はどの立場から、どのような価値観によって考えるか、です。
それによって、その意味合いは全く変わってきます。
北朝鮮の金正日にとっての「改正」や「整備」は、
支配下にある国民にとっては「改悪」であり「選択肢の縮小」かもしれません。
北朝鮮ほど事態が明確であれば、みんなそれに気づきますが、日本ではなかなかそれが見えません。
しかし今の政権がやっていることは、北朝鮮以上の「改正」と「整備」ではないかと私は思います。

たとえば、次の記事を読んでください。
介護保険制度見直し「軽度者」に貸し出しダメ 

小泉政権以来の「改正」の犠牲になって、死んだ人がどのくらいいるでしょうか。
しかし彼は罰せられることはありません。

岩波書店の「世界」の12月号も衝撃的です。
特集は「これが「負担増」だ! 脅かされる生存権」です。
その解説を引用させてもらいます。

「改革には痛みが伴う」――それが小泉前首相の決まり文句だった。 一般論としては、誰しもそれを否定できない。国民は異を唱えなかった。 小泉政権が終わったいま、企業は空前の利益を上げ、景気の「いざなぎ」超えを謳歌している一方で、経済的な弱者にすさまじい痛み(負担)がのしかかってきた。一つ一つはわずかな金額、支給カットかもしれないが、ギリギリの生活、療養をするものにとって、それは生存権すら否定されるような「負担増」になる。高齢者、病者、障害者、介護保険受給者、生活保護受給者……。経済的、社会的に弱いものは、声も挙げにくい。 なぜこのような事態に立ち至ったのか。政府の考え方、方法とは何なのか。 福祉とは、社会保障とはそもそも何か。誰がどのように費用を負担すべきか。これらの問いは、その社会の根本原則を問うものである。私たちの社会は、人権を無視し、弱いものを踏みつけにして省みない社会になったのだろうか。

東大名誉教授の多田富雄さんの「リハビリ制限は平和な社会の否定である」という論文も衝撃的です。
そこに出てくる短歌にこういうのがあります。

「政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ 生きぬく道のありやなしやと」

これは11年前に脳出血で左半身麻痺となりながら、
たゆまぬリハビリ訓練により精力的な著作活動を続けてきた鶴見和子氏が遺した短歌の一首です。
鶴見さんは7月30日に亡くなりました。
ぜひ鶴見さんの無念の気持ちを「世界」で読んでください。

こうしたことは医療制度改正で進められてきたことの一部です。
心ある人間のやることではないと思いますが、これらのことが「改正」「改革」「整備」などという言葉によって、国民の支持を受けて進められているのです。
しかも私の税金もそれに使われているのです。
最近の日本の首相はドラキュラに血を吸われてしまったとしか思えません。

そして、教育基本法「改正」。
みなさんは何が問題なのかをご存知でしょうか。
内容をきちんと読まずに、「改正」だから、そして今の学校は問題が多いから、良いのではないかと思ってはいないでしょうか。
もし時間があれば、ぜひ次のサイトをご覧下さい。
教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会
他にもたくさんのサイトがあります。

最近、学校関係の自殺報道が多いのも、
もしかしたらこの「改正」を通すためのマスコミの犯罪の一つかもしれないと私には思えてなりません。

いずれにしろ、「改正」を語る人たちを私は信頼できません。
「改正」と称して、私欲のための改悪が多すぎます。
改正とは「正しさを改める」ことなのかもしれません。

時代により、社会により、言葉の意味は変わるものです。
それをしっかりと踏まえておかねばなりません。

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2006/11/22

■人を育てる場から人を壊す場になってしまった企業

企業で働く人のモチベーションや働き甲斐が最も低い国の一つが日本だそうです。
さまざまな調査結果がそれを示しています。
CWSコモンズでも時々書いていますが、大企業の経営幹部の関心事は「部下の元気」です。
自らも含めて、みんな疲れてしまっています。

企業業績はよくなっているといわれますが、
従業員の労働時間は多くなり時間当たり給与はむしろ下がっているかもしれません。
何が業績向上だといいたいところですが、
アメリカ型経営思想の中ではそれが評価されるのです。
「株価資本主義」はますます広がっています。

企業の実体をつくっているのは「従業員」です。
従業員の元気こそが会社の元気の源泉です。
だからこそ、経営の根幹は「人づくり」です。
企業は「人を育てる場」だったのです。

しかし最近は、その企業が「人を壊す場」になってしまっています。
働き甲斐を失うだけでなく、精神的なトラブルが急増していることでは、日本は世界で一番高いかもしれません。いろいろな調査データでも精神的問題の急増が示されています。

企業は「仕事」を壊しただけではなく、「人」まで壊しだしました。
そろそろ働く場の仕組みを変えなければいけません。

19日にインキュベーション型コムケアフォーラムを開催しました。
自分たちで働く協同労働の場が育っていかなければ社会はますますゆがむような気がします。
団塊世代が企業の呪縛から解放されて、
自らが輝く働きの場を創り出していくことを期待しています。
19日のフォーラムでは「団塊世代インキュベーションネットワーク構想」も発表されました。

組織に使われる時代は終わりにしなければいけません。

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2006/11/20

■利が理を制した沖縄知事選

沖縄知事選は平和を目指す統一候補として、非自民の全野党が一本化したにも関わらず糸数候補が敗れてしまいました。
利が理を制する流れは、ここでも食い止められなかったのです。
利が理を制する。
これが昨今の日本の状況です。
かつて世界から賛美された「美しい国」はますます遠のきました。

理では生きていけない、エゴに生きる住民は利を選ぶ。
理をえらぶ賢い市民がまだ日本では育っていない、という人もいます。
私は市民を信じない人間ですので、その意見には与しません。
日本には欧米的な市民よりも、もっと理に生きている常民や住民がいたのです。
自ら理を捨てた有識者たちが、そうした存在を無視し、社会を壊してきたのではないかという疑念を否定し切れません。

ところで重要なことは、
利は決して住民に還元されることが無いということです。
基地がなくなれば経済的自立ができなくなるという強迫観念は、作られた強迫観念です。
その強迫観念で、北海道と沖縄は、権力や有識者の利の源泉に置かれています。
住民たちはその仕掛けを支える存在にさせられているように思います。
利は一部のものに集中します。
それが利の本質です。
利とは絶対水準ではなく相対関係だからです。
格差こそが利なのです。

郵政民営化もそれによる利益は権力者や金持ちに行くのであって、利用者や国民の多くは利を奪われることになりだしています。パイが同じなのですから、それは少し考えたらすぐわかることなのですが、それに気づかない人がなぜか多いのです。思考停止しているからでしょうか。

理はどうでしょうか。
理はその本質上、すべてのものに行き渡ります。
なぜなら理はすべての関係性に立脚しているからです。
宮沢賢治がいうように、隣に不幸な人がいたら、理は成り立ちません。

利が理を制する社会。
生きにくい社会になりました。
今朝は憤りよりも寂しさでいっぱいです。

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2006/11/15

■貸金業法改正とNPOバンク

また書いておきたいことが出てきました。
すでに話題になっているので、私が書くまでもないのですが、
出来るだけ多くの人に知ってほしいと思ったのです。
それに加えて、ちょっと私の私見も書きたいと考えたのです。

以前も一度書き込みましたが、「貸金業法」の改正が国会で審議中です。
これについては、相変わらずの胡散臭さを感じていますが(つまりその後ろにいる金融業界の思惑です)、
それとは別に、NPOバンク関係者からの問題提起が行われています。

NPOバンクとは、簡単に言えば、
市民事業の支援や顔の見える範囲での助け合いのために、
市民がお金を出し合い、無担保低金利で融資をしている小規模な非営利金融です。
頼母子講や結いにつながるものであり、私のビジョンにもつながりますが、
念のために言えば、私の思いとは似て非なるものです。
私のビジョンには「利子」という概念は皆無です。
利子を埋め込んだ途端に産業のジレンマを呼び込むことになるからです。

ちなみに、今年度ノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行もNPOバンクの一種だそうです。
私自身はNPOもNPOバンクも、過渡的なものと位置づけていますが、
もしそうであっても、利権型の産業界や政治の世界からは歓迎されないだろうとは予想していました。
それは「地域通貨」と同じく、権力構造に管理される世界には大きなノイズになるからです。
しかも危険なノイズです。見過ごすわけにはいかないでしょう。

その走りとしての市民バンクを支援した永代信用組合は強制破綻させられてしまいましたが、
もしかしたら、市民バンクのせいだったのではないかとさえ思いたくなります。
まあ、さすがにそんなことはないと思いますが、この事件は訴訟になり、私の友人たちも関わりました。
私は参加していませんが、訴訟原告団のサイトをご覧ください。

ところで、貸金業法の改正がなぜNPOバンクに関係しているかですが、
それは、財産が5000万円以下しかない貸金業は認めないということになりそうだからです。
「みんなで少しずつお金を出し合って、自分たちの周りを豊かにしていこう」
というNPOバンクにとって5000万円の財産要件は大きな壁になりかねません。
詳しくは次のサイトを読んでください

そこで、問題になり出したのです。国会でも審議されだしています。
また、全国NPOバンク連絡会では今度の土曜日に緊急フォーラムを開催しますので
ご関心のある方はご参加ください。

この問題は昨今の「改革」の本質を象徴するとても重要な問題提起をしていますし、
「貸金業者」とNPOバンクとは全く別のものという、
全国NPOバンク連絡会の主張には与したい気もするのですが、
その主張には完全には共感できずにいます。

どう共感できないか。
それは、いつまでもなぜ今の経済パラダイムの枠の中に安住しつづけようとしているのか、という疑問があるからです。
「利子」という発想を捨てられない以上、今の拝金主義からは抜け出せないでしょう。
利子が高い低いなどというのは同じパラダイムの内部の話です。
利子はゼロかマイナスにしてこそ、NPOバンクは新しい世界の主役になっていけるでしょう。

金を貸すのではなく、提供すれば良い話です。
もしそれで成功したのであれば別の困っている活動に提供すればいいだけの話です。
そんな夢物語を語るなと怒られそうですが、夢が無いのであれば、NPOなどに取り組む必要はありません。
パラダイムを変えられないNPOは、企業の変形でしかないのではないかと私は思っています。

そろそろ既存社会のサブシステムとしてのNPOから卒業すべき時期ではないでしょうか。
少なくともビジョンとしては。

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2006/11/01

■高校での履修漏れ問題の捉え方

このブログはしばらく書くまいと思っていたのですが、連日、気になる問題が起きています。
気になるのは、問題そのものよりも、マスコミの捉え方ですが。
黙っているのは精神的によくないので、方針を破って書くことにします。
CWSコモンズに書いたように、ちょっと反省もしています。

まずは、高校の必修科目履修漏れ問題の捉え方です。
私はこんな事実は昔から文部科学省も教育委員会も知っていたと思います。
こんなに広がっている事実を知らないはずがありません。
仮にもしそうだとしたら、学校という世界は北朝鮮以上に権力による情報管理が行き渡っている世界ということになります。そんなはずはありえません。いや、ありえないと思いたいです。
にもかかわらず、そうした報道は全くありません。
マスコミが報道しているのは、相変わらず絵空事の世界です。
いい加減にしてほしいと思います。
現場を回って的確な質問をして取材した記者が一人でもいるのかという気がします。
あるいはデスクが握りつぶしているのでしょうか。
先入観で取材するので現実が見えなくなることは少なくありません。
いずれにしろ、建て前だけで報道するマスコミの体質は全く変わっていません。

それに、知っているのに「知らない」というのは、組織人の常識になっています。
そして、「おかしい」と思いながらも、「おかしい」といえないのも、組織人の特徴です。
「組織起点発想の時代」には、個人は組織のためにあったからです。
多くの人が「おかしい」と思いながら、そして知っていながら、「知らない」ふりをしていたのです。

なぜ今回のようなことが起こったかも理由は簡単です。
産業界の働きかけであり、子どもたちを商品として扱ってきた産業主義の結果です。
個々の学校の教師たちの問題ではありません。
日本の文部行政や学校制度が間違った方向に向いているのです。
厚生労働省がそうであるように、文部科学省も財界に従属しているのです。
経済発展イデオロギーのための存在になっているのです。

それを正すのは、これも簡単なことです。
学校を子どもたちが主役の場にし、文部行政を教育行政に変えればいいだけです。
学校の主役を子どもたちにするには、「学校に子どもたちを合わせる」のではなく、
「子どもに学校を合わせる」というパラダイム転換で有名な、きのくに子どもの村学園が一つのモデルかもしれません。
パラダイムを変えれば、学校は全く別の空間になります。

これは文部行政と教育行政の違いにも通じます。
私が懸念するのは、学校が完全に教育の場ではなくなっているということです。
最近作られた教育再生会議のメンバーを見れば、
教育などとは全く無縁なメンバーが集まっていることがわかります。
産業主義の視点で労働者と消費者を育てる世界の人たちもいます。
彼らのような人が教育をだめにし、学校を利己的に活用してきたのです。
彼らはますます日本の学校と教育をおかしくしていくでしょう。

学校が教育の場でないのなら、一体、どういう場なのか。
今回の事件はそれを如実に示していると思います。
いろいろと考えていくと恐ろしくなる実態が垣間見えてくるように思いますが、どうでしょうか。

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