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2006/11/01

■高校での履修漏れ問題の捉え方

このブログはしばらく書くまいと思っていたのですが、連日、気になる問題が起きています。
気になるのは、問題そのものよりも、マスコミの捉え方ですが。
黙っているのは精神的によくないので、方針を破って書くことにします。
CWSコモンズに書いたように、ちょっと反省もしています。

まずは、高校の必修科目履修漏れ問題の捉え方です。
私はこんな事実は昔から文部科学省も教育委員会も知っていたと思います。
こんなに広がっている事実を知らないはずがありません。
仮にもしそうだとしたら、学校という世界は北朝鮮以上に権力による情報管理が行き渡っている世界ということになります。そんなはずはありえません。いや、ありえないと思いたいです。
にもかかわらず、そうした報道は全くありません。
マスコミが報道しているのは、相変わらず絵空事の世界です。
いい加減にしてほしいと思います。
現場を回って的確な質問をして取材した記者が一人でもいるのかという気がします。
あるいはデスクが握りつぶしているのでしょうか。
先入観で取材するので現実が見えなくなることは少なくありません。
いずれにしろ、建て前だけで報道するマスコミの体質は全く変わっていません。

それに、知っているのに「知らない」というのは、組織人の常識になっています。
そして、「おかしい」と思いながらも、「おかしい」といえないのも、組織人の特徴です。
「組織起点発想の時代」には、個人は組織のためにあったからです。
多くの人が「おかしい」と思いながら、そして知っていながら、「知らない」ふりをしていたのです。

なぜ今回のようなことが起こったかも理由は簡単です。
産業界の働きかけであり、子どもたちを商品として扱ってきた産業主義の結果です。
個々の学校の教師たちの問題ではありません。
日本の文部行政や学校制度が間違った方向に向いているのです。
厚生労働省がそうであるように、文部科学省も財界に従属しているのです。
経済発展イデオロギーのための存在になっているのです。

それを正すのは、これも簡単なことです。
学校を子どもたちが主役の場にし、文部行政を教育行政に変えればいいだけです。
学校の主役を子どもたちにするには、「学校に子どもたちを合わせる」のではなく、
「子どもに学校を合わせる」というパラダイム転換で有名な、きのくに子どもの村学園が一つのモデルかもしれません。
パラダイムを変えれば、学校は全く別の空間になります。

これは文部行政と教育行政の違いにも通じます。
私が懸念するのは、学校が完全に教育の場ではなくなっているということです。
最近作られた教育再生会議のメンバーを見れば、
教育などとは全く無縁なメンバーが集まっていることがわかります。
産業主義の視点で労働者と消費者を育てる世界の人たちもいます。
彼らのような人が教育をだめにし、学校を利己的に活用してきたのです。
彼らはますます日本の学校と教育をおかしくしていくでしょう。

学校が教育の場でないのなら、一体、どういう場なのか。
今回の事件はそれを如実に示していると思います。
いろいろと考えていくと恐ろしくなる実態が垣間見えてくるように思いますが、どうでしょうか。

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