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2006年12月

2006/12/31

■コモンズとしての愛国心

今年はいろいろと思うことの多い年でした。
昨日まで実はかなり元気をなくしていたのですが、今朝、5時に目が覚め、「希望」という言葉が急に頭に浮かびました。
それから1時間、いろいろなことが頭に去来しました。
隣で寝ていた女房を起こして、一緒に日の出を見ました。
ちょっと高台にあるおかげで、寝室から少し無理をすれば、手賀沼の対岸に日の出が見えるのです。
今日は今年最後のブログですが、「愛国心」について書くことにしました。
それは希望を語ることでもありますので。

今年は「愛国心」論議が盛んに行われました。
国家の品格が流行語になり、教育基本法が改悪されました。
日本はついに、愛国心を教え込まなければ維持できない国になってしまったのかもしれません。
しかし、愛国心のない人たちが愛国心を語り、品格のない人たちが品格を語るほど見苦しいことはありません。
フセインのイラクはどうだったのでしょうか。

愛は自動詞の言葉です。
愛を育てるのであれば、愛される実体が大切です。
実体を二の次にして、愛を育てることは洗脳か強要でしかありません。

品格もまた自動詞の言葉だと思います。
人の品格を論評する前に、まずやるべきことは自らの品格を正すことですが、そういう意味で、品格を他人事に語る人の品格は疑わなければいけません。

自動詞の言葉が、他動詞で語られるのが、今の日本の社会です。
実体がない、言葉だけの社会といえるかもしれません。

ところで愛国心ですが、私は昨日までは「愛国心」という言葉に拒否感を持っていました。
しかし今朝、考え直しました。
国家というものがある限り、愛国心は大切なことかもしれないと思い直したのです。
問題は、その愛国心の意味です。
国家にとっての平和が、国民の非平和を意味することが多いように、愛国心もまた多義的な言葉です。

独立インドの憲法を起草したアンベードカルは不可触民でした。
彼は不可触民制度をなくそうとし、ガンジーは不可触民の生活向上に努力しました。
そのアンベードカルがガンジーに対して、「私には祖国がありません」と鋭く迫る場面があります。そこに2つの愛国心のモデルを感じます。

愛国心には育つ愛国心と育てられる愛国心があります。
日本政府や有識者たちは、日本の現状では愛国心は育たないことを知っているのでしょう。
愛される国家づくりではなく、国家による愛国心づくりに取り組むことにしたようです。
なにやら北朝鮮やイラクを思い出します。

しかし本当にそうなのか。
政府や東京都庁のトップが語るように、愛国心は失われてしまったのか。
彼らに都合の良い愛国心がないだけではないのか。
有識者と目される人が語るように、本当に日本は品格がない国家なのか。
品格なき国家しか見えていないのは、著者自身の品格のなさの反映かもしれません。
私が、最近の日本社会に失望しているのは、間違いなく私自身への失望であるのと同じです。

コムケア活動やまちづくり活動で、さまざまな現場とささやかに付きあって見えてくることは、現場の人々の優しさや思いやりです。
その一方で、マスコミを通じて入ってくる裁判の動き、法整備の動き、経済界の動き、国会や自治体の動きなどは、未来には希望はないなと思わせるものばかりです。
この違いが問題です。
それらは別の社会なのかもしれません。主役が違うのです。
自らが体感できる現実に立脚して未来を見ていけば、愛すべき、信頼すべき国家が見えてくるのかもしれません。
私にもささやかに見えている、そうした国家がたしかにあります。
その場合、「国家」の意味合いはかなり違っていますが、それもまた国家です。
アンベードカルは、そうして積極的な活動を維持できたのでしょう。
ガンジーとは違う意味での愛国心と国家が、彼にはあったのです。

私の平和活動は「大きな福祉」を目指す生き方です。
人のつながりが育っていけば、不条理な争いはなくなるでしょう。
戦いで人を殺傷することなど出来なくなるはずです。
そしてみんながその状況を大切に思うようになるでしょう。
そこに「コモンズとしての愛国心」が見えてくるように思います。

出発点は私自身の生き方です。
毎年同じような言葉になってしまいますが、来年はもう少し前に進もうと思います。

今年1年、読んでいただき感謝します。
希望とアンベードカルについては、CWSコモンズにも書くつもりですので、年が明けたらCWSコモンズも読んでみてください。
ありがとうございました

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2006/12/30

■フセインの死刑執行の不快感

フセイン元大統領の死刑が執行されました。なにかとても不快感の残る1日でした。
なぜでしょうか。
この裁判にどれほどの公正さがあったかはともかく、
やはり勝者のおごりを感じます。
ブッシュはなぜ裁判にかからないのか。
なぜ彼は死刑にならないのか。
事情をあまり知らない私にとっては、この2人の違いがあまりわかりません。
神の恩寵が、ほんの少しだけフセインに加担したら、ブッシュは死刑になったのでしょうか。
せめて公開の場で、フセインとブッシュの議論を聞きたかったものです。
そうすれば、もう少し歴史の真実とフセイン時代のイラクの実態が理解できたでしょうし、戦争のメカニズムも解明できたように思います。
よほど早くフセインを抹殺したい人たちがいたのでしょう。

国際政治における軍事裁判と国内統治のための裁判とは全く論理を異にするでしょうが、
前者における死刑執行の論理が私には理解できません。

とてもいやな1日でした。
それにしても、どうしてこんなにいやな気分になってしまっているのか、私自身も意外なのですが。

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2006/12/28

■存在感が希薄になった民主党

民主党の存在感がこのごろあまりありません。
どうしたのでしょうか。
自民党と民主党は、そもそも政策的にはそう違いませんし、いずれも政策集団というよりも権力欲望に汚染された烏合の衆というのが実態でしょうから、存在感が見えてこないのも無理はないのかもしれません。
しかしこれほどの自民党の独裁状況に対して、なぜ行動を起こさないか不思議です。
今の状況は、国会から「議論」がなくなっている状況ですから、国会機能を回復するためにも何かすべきでしょう。
いや未熟な安倍政権の迷走に対して、本来であればしっかりとした主張に基づく存在感をアピールできるはずです。
なぜ存在感を出せないのか。
一言で言えば、理念や志がないからでしょうが、中には少しはまじめな議員もいるのではないかと思います。
私の知人も何人かいますが、いずれも言行不一致の人たちですので、私は信頼していません。この記事が読まれるとまずいですが、事実ですから仕方がありません。それにこれまで接点のあった国会議員はいずれも目線が高く、国民のほうを向いているようには感じませんでした。向こうの世界で茶番劇をやっている雇われ人という感じでした。
どうしたら存在感を出せるのか。
答は簡単なように思います。
国民の中に出てくればいいのです。
やらせのタウンミーティングではなく、グラスルーツの寄り合いの場に出てくればいいのです。
残念ながら、これまで政党は社会の現場には目を向けていませんでしたから、それができないのでしょう。党員の目はみんな中央を向いているのです。
しかし、社会の現場には当事者を中心にした「ひとのつながり」や「問題のつながり」が育ち始めています。
私が取り組んでいるコムケアネットワークも、その一つだと自負していますが、そことの付き合い方がわからないのかもしれません。
民主党がもし政権交代を真剣に考えているのであれば、活動の枠組みを変える必要があるでしょう。発想を変えれば、存在感を出せる時代です。
そろそろ視座と発想のベクトルを変えるとともに、メソドロジーも根本から変えるべき時期に来ています。
それができないのであれば、自民党と合体して、日本をまた大政翼賛会国家にしていく路線を正直に顕在化させるべきではないかと思います。
民主党には失望を超えて、呆れるしかありません。
組織にもなっていないように見えてならないからです。
前にも行ったとおり、解体出直ししたら流れは変わるかもしれません。

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2006/12/27

■目黒区議員の勘違いから見えてくること

目黒区区議たちの政策調査費の不正使用に端を発して、自治体議員の経費の見直しが広がっています。
まあ、国会議員になった新人が、議員とはグリーン車に無料で乗れて、待望の外車を購入できて、しかも料亭遊びができると大喜びするほどに、議員職は堕落した職業になっていますので、それをモデルにした地方議員の実態はさらにひどいものだと推測できます。権力構造は下部に行くほど、金銭的には腐敗するものです。
私は、今の日本の地方議会のあり方には大きな違和感を持っています。
国会と基礎自治体議会とは本来全く意味合いが違います。
国会は公の世界の機関であり、統治のための調整機関の意味合いが大きいですが、基礎自治体は共(コモンズ)の世界の仕組みであって、当事者たちの協議の場であるべきです。これは自治体から講演を頼まれた時にいつも話すことなのですが。
英米の基礎自治体の議会のように、それは住民たちのボランタリーな社会活動でこそ機能します。しかもそれは議員以外の住民にも開かれた運営がなされるべきでしょう。
しかし、日本のそれは国会をモデルにしていますから、過剰武装されており、給料まで払っているのです。その上、政策調査費。馬鹿げた話です。
都道府県の議会はコモンズの仕組みではなく、国家政府の下部機関ですから、国会をモデルにしてもいいでしょうが、そもそも都道府県という中間自治体は存在意義が問われだしています。
つまりいずれにおいても存在価値がない組織であり存在であり、
だからこそ「不正」が充満しているのです。
県知事などは、価値を創出するという意味での仕事はたぶんしていないでしょう。
ですから談合とか税金の無駄遣いとか、いくらでもできるわけです。
もし知事職や都道府県機関が実質的に仕事しているのであれば、今のようないい加減な運営で継続できるはずはありません。
基礎自治体の議会にいたっては、百害あって一利なしでしょう。
私の友人知人にも国会議員や地方議会議員が少なくないので、怒られそうですが、私はずっとそう思っています。
国会議員たちが自らのステータスを高め、処遇を高めるために構築した無駄な仕組みです。ですから地方議会にまで正当が口出ししてきます。
政党に属している地方議員に、主体的な仕事が出来るはずがありません。
実際の議員は自らの存在意義があると確信して、真剣の仕事に取り組んでいる人も少なくありません。
しかし、今回の目黒区の議員の当初の反応をテレビでもし見た人がいたらわかってもらえると思いますが、彼らは自らを選ばれた権力者と考えていますので、政策調査費はなんに使っても良いと考えているのです。自らがルール、というわけです。
確かに彼らが主体的に行動できるのは、無駄に政策調査費を使うことくらいかもしれません。
そろそろ地方議会を解体し、コモンズ立脚の寄り合いに変えていくべきです。
住民参加とか協働のまちづくりなどという、欺瞞に満ちた活動から足を洗うべき時期に来ています。
かなり書きすぎたでしょうか。
いや書き足りないでしょうか。

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2006/12/26

■姉歯事件の決着の続き

前の記事の補足です。
いま7時半です。

この事件の報道をテレビで見ました。
いずれも5時から7時すぎにかけてのニュースです。
当該マンションの元住人のコメントが出てきましたが、民放各社とNHKで、その編集の仕方が見事に違っていました。材料はたぶんいずれも同じです。同じ人が出てきましたから。
どう違っていたかといえば、民放は、「この判決よりも、事件の本質を問題にしてほしい」という部分に焦点がありましたが、NHKのニュースは2人を紹介しましたが、姉歯被告の罪の軽さへの批判の発言だけでした。登場した人は、もっと本質的なことに目を向けてほしい旨の発言を続けてしているのですが、そこはカットされていました。見事な編集です。NHKの本質が少し見えました。彼らも一蓮托生なのかもしれません。
NHK受信料を払いたくない人の気持ちも少しわかります。
NHKのガバナンスをもっと公開型にすべきですね。受信料を強制的に取るのであれば。

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■姉歯事件の決着

耐震偽装事件の判決は姉歯被告の懲役5年で決着がつきました。
まさに大山鳴動ねずみ一匹です。
何が変わったのでしょうか。
こんなことをいうと顰蹙を買うでしょうが、この事件のおかげで悲惨な事件が未然に防げたともいえますし、杜撰な行政の検査体制が明確になったわけですから、姉歯被告に感謝しなければいけない面もあるような気がします。
少なくとも問題発覚の発端をつくったイーホームズの藤田社長には感謝したいという気にもなります。
しかし、きっとそうなっては困る人たちがいたのでしょうね。
問題は完全にすりかえられたような気がします。
いつも悪人はつくられるものなのです。
そしてキリストのように罪を背負っていくわけです。
もちろん姉歯被告や藤田社長が悪事を働いたことは否定できませんし、それに応じた罰を受けるのも当然です。
しかし、その一方でもっと悪質な罪を犯しながら、罰も受けずにいる人たちのあまりの多さに、なかなか納得できる気にはなりません。
しかも、これほどまでに責任を負わないのが行政であり公共機関であることが明白になってきているのに、なおまだ「お上信仰」はゆるぎません。
お上につながる人たちは、お互いに守りあっていますから、よほどの正義感がなければ罰せられることはないでしょう。
不条理な社会です。
閻魔様にしっかりと見ておいてほしいものです。
こうした事件の判決が出るたびに、割り切れない気分になってしまいます。

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2006/12/25

■「先入観からの自由」の回復

一昨日、テレビの太田総理スペシャルをちょっとだけ見ました。
消費税の議論をしていましたが、あまりのばかばかしさにすぐ見るのをやめてしまいました。
よくもまあ、こんなに脳天気な連中を集めたことかと思われるほどのメンバーでしたが、
半分くらいの人が「消費税率はいつかは上げなければやっていけない」という前提で話しているのです。
忘れてしまいましたが、他にもまだそうした「前提」を語っている人がいたような気がします。
そんな前提があるはずがありません。

数学の公理ではあるまいし、現実の社会にそういう絶対的な前提などあろうはずがありません。
知性のなさというか、知識のなさというか、呆れ果てた議論をしているのです。
いや、呆れ果てているのは私だけかもしれませんね。いやはや。

しかし最近の多くの議論は、ある前提に立脚して論理を組み立てているものが多いように思います。
前提が間違っていれば、議論は全く意味を持ちません。

CWSコモンズのフォーラムのコーナーにコメントがありました。
古舘さんや議員に期待するのは「無理かもしれない」というのです。
もしよろしければコメントを読んでください。

これは、このブログへのコメントなのですが、
スパムメールの来襲を避けるためにアドレス表示しなくても書き込めるCWSコモンズに投稿されたのだそうです。
このことも私はいろいろ思うことがあるのですが、まあそれはまたいつかということにします。

コメントしてくれた向阪さんも「キャスターや議員に期待しても無理」という前提に縛られています。
どうして大人たちは、そうした前提や常識や「見識」に拘束されてしまうのでしょうか。
1回しかの人生であれば、もっと自由に発想し行動していってもいいと思うのですが。

子どものような素直さでみんなが生きだすと社会は輝きだすでしょうね。
そうしないために「学校教育」はあるのかもしれません。

あれあれ、思ってもいなかった結論になってしまいました。
困ったものです。はい。

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2006/12/24

■教育基本法のどこが悪いのか

一昨日の記事に関連して、教育基本法を改正してどこが悪いのかという質問を受けました。
学校は荒れ放題ではないかというのです。

確かに今の学校は、子どもたちが安心して学べる場所ではありません。
私も地元の学校の集まりに自治会長として参加しましたが、子どもたちの親たちと先生との信頼関係も希薄ですし、第一、教師側に主体性を感じられませんでした。
というよりも、現在の状況の中では主体性を持ち得ないのでないかと思いました。
学校にどの程度の権限が与えられているのか気になりました。

学校が荒れてきたのはこれまでの教育行政の結果だと思います。
そうであれば、基本法を改正して、学校改革に取り組むべきだということになります。
実はこの枠組みが問題なのです。
以前も書きましたが、改革にはいろいろな意味があります。
平和憲法に合わなくなってきたから憲法を変えようという改革もあります。
郵政省では産業界には利益が持っていけないから民営化して自分たちの自由になるようにしようという改革もあります。
個人の育てる学校では管理できないから国家に従順な人間を育てる学校にしようという改革もあります。
その改革の中身を吟味する人はほとんどいないのが実態です。

私は企業経営コンサルタントとして、企業改革の仕事に取り組んできましたが、ほとんどの企業では、どこからどこへ向かう改革なのかがあいまいなままに改革を標榜していますので、まさに同床異夢の改革遊びになってしまうわけです。
行政も同じです。
今の行正確や行政評価は全くといっていいほど無駄な作業の繰り返しをしているように思います。

話がそれましたが、教育基本法のどこが悪いかです。
関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さんの講演録の存在をメーリングリストで教えてもらいました。
とてもわかりやすいです。
いまだと無料で読めます。
少し長いですが、ぜひお読みください。
教育基本法の問題が少しわかってもらえるかもしれません。

文部科学省と教育委員会が根本から改組されない限り、日本の学校は変わらないのかもしれません。
個々の先生にはいい人もいるとよく言われますが、そんな言葉で騙されてはいけないほど、学校は深刻なような気がします。

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2006/12/23

■ノロウイルスによる「風評被害」

ノロウイルスによる「風評被害」が出始めているようです。
たしかに我が家でも、先日、鍋をしましたが、蛎が入っていませんでした。
蛎だけではなく、生ものは我が家の食卓からは消えつつあります。
昨年はインフルエンザの流行が話題になりましたが、
新たな病気の流行は最近では恒例行事になったような気がします。

マスコミでの被害情報や広がり予測は本当にきちんと吟味されてのものなのか、いささかの不信があります。
生きた鶏たちが大量に処分されるようなことが許されて良いのかにも大きな疑問があります。
いったい誰が意思決定しているのか。
その基準は何なのか、公的な検査機関への信頼感を失っている私としては、いつもそうした情報には疑念を持ってしまいます。

もっともこういう話は、予防的な意味もありますので、
少しくらい不確かな情報でも流すほうがいいとは思うのですが、
大騒ぎした割には何も起こらないと(大騒ぎしたからこそ何も起こらなかったともいえますが)、
あれは何だったのかなどと考えてしまうのが人間です。
そのうちに情報に麻痺して、「狼少年」の話のようにもなりかねません。
「風評免疫学」のようなものがあるのかもしれません。
「風評被害」の研究に取り組んでいる友人に、一度、訊ねてみたいと思います。

最近の情報流通の仕組みは、10年前とは様変わりしています。
マスコミは、そのパワーを集中する方向を強め、ガバナンスを失ってしまいました。
しかもインターネットが世界を一気につなげる情報ルートを構築し
、しかも偶然に選ばれた情報を一挙に増幅し、過度に編集する仕組みに仕立て上げました。
単細胞のコンピューターが支配管理することが可能になってきたということです。
情報の増幅拡大機能が飛躍的に増強されたのです。
しかもガバナンス不在です。
おそろしい「非情報化革命」が現実のものとなりました。

今回の「風評被害」の記事を読みながら、それに対する対抗力のなさを嘆きたくなります。
情報社会とは何なのかを、もっとしっかりと読み解いていくことが必要です。

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2006/12/22

■教育改革の鍵を握っているのはテレビ番組

日本の子どもたちのテレビを見る時間は平均すると1日2.7時間だそうです。
学校は休日もありますので、年間になおすと学校で授業を受けるよりも長い時間、子どもたちはテレビを見ているのだそうです。
昨日出席したある委員会でお聞きした話です。
このことの意味は真剣に考えてみる必要がありそうです。

いま教育のあり方が問題になっていますが、
この問題の鍵を握っているのは、学校改革などではなく、テレビ番組のあり方なのかもしれません。
テレビは子供たちのみならず、大人にも大きな影響を与えますから、
いまやまさにテレビこそが「みんなの学校」になっているのかもしれません。
そういえば、最近は学校の授業まがいの番組も多いです。
ところで、テレビ番組の内容を決めているのはだれでしょうか。
スポンサー企業の影響力は大きいでしょう。
よくまあ、こんな番組をスポンサーしているなと呆れる企業も少なくありませんが、彼らはおそらく視聴率というフィクションに影響されているでしょうから、広告代理店の存在も大きいでしょう。
いずれにしろテレビ番組の内容は、経済主義でしか評価されていない状況です。
番組審議会のようなものはありますが、毒にも薬にもならない存在でしょう。

ではどうするか。
各地の教育委員会の検討対象を学校からテレビに変えたらどうでしょうか。
今の教育委員会の存在は、学校にとって役立っているかどうか私にはわかりませんが、ないほうがいいような気もします。
まともな教育委員会の話は、最近は聞いたことがありません。
むしろテレビ番組をしっかりと監視し、そのスポンサー企業にアドバイスしていくことを教育委員会の使命にしたらどうでしょうか。
暴論ですね。はい。

しかし、教育の現場は学校だけでありません。
いいかえれば、そういう社会状況になったわけですから、
学校のミッションは根本から見直さなければいけないのです。
それに取り組まない学校改革や教育改革はありえません。

ちなみに、新しい教育基本法はこんなことは全く考えていない世界の話です。
これで日本の学校はすべて変質してしまい、破綻していくでしょうが、
そうであればこそ、もうひとつの学びの場、教育の場を真剣に考え直す価値があるように思います。

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2006/12/21

■廃墟からの脱出に取り組んだアンベードカル

娘に誘われて、都美術館で開催しているエルミタージュ展を観に行きました。
ポスターにゴーギャンの「果実を持つ女」が使われていたので、なんとなく明るい作品を期待していたのですが、前半の作品がどれもこれも暗いのです。
18世紀から19世紀の時代の重苦しさが伝わってきます。
とりわけ18世紀の作品に廃墟がたくさん描かれているのも印象的でした。
廃墟は当時の人々の暮らしの舞台だったことがよくわかります。

最近、塩野七生さんの「ローマ世界の終焉」と五木寛之さんの「仏教への旅」を読んだ影響もあるのですが、
歴史というものはシュメールから始まって今なお滅びへと向かっているような気がして仕方がありません。
廃墟の中での暮らしの絵画を観ているうちに、1000年以上経過した廃墟になってもなお、人々の暮らしを支え、文化の香りを失っていない建造物を生み出した文化の大きさを改めて感じました。
歴史は退歩していることがよくわかります。
今もなお、私たちは廃墟の中で暮らしているのかもしれません。
そろそろ新しい思考の枠組みに移住したいものです。

ところで、「仏教への旅」を読んでいて、アンベードカルという人のことを知りました。
ガンジーに反対して、不可触民解放運動に取り組んだ人です。
とても興味を持ちました。
この人に関する簡単な紹介はここをクリックしてください。
CWSコモンズにも少し書きました

廃墟を壊そうとしたのは、ガンジーではなく、アンベードカルだったのかもしれません。
パラダイムを変えるということは、実に至難なことです。

重苦しい社会を開いていく人は必ずいるものです。
いまの日本の、この重苦しい状況を打破してくれるのはだれなのでしょうか。
きっとどこかですでに活動を始めているのでしょうね。
どなたかご存知であれば教えてくれませんか。
そうした動きに気づくだけの感受性が、最近の私にはどうやら欠落してしまっています。
あまりにも質の悪い情報に浸りきってしまっているからでしょうか。

毎日が、ともかくも重苦しいのは、決して私の個人事情だけではなさそうです。
みんなどうして、その重苦しさを感じないのでしょうか。
私が精神的に病んでいるのか、みんなが病んでいるのかの、いずれかもしれません。
いや、いずれもが病んでいるということもありますね。

ローマ世界では、すべてが病んでいたような気がします。
塩野さんは「寛容」といいますが、気が病んでいると怒りやすくなるとともに、寛容にもなれるような気がします。
つまり、どうでもいいという気分が横行するのです。
ローマはそうして滅んだのでしょうか。

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2006/12/20

■国民年金基金のひどい内容

娘のところに厚生労働省年金局監修の「国民年金基金のお知らせ」が届きました。
むすめが、こんなのに入るわけがないと言っているので、案内のパンフレットを読ませてもらいました。
唖然としました。
皆さんは読んだことがありますか。
私も保険をかけるほうでなくて、保険事業を行なうほうになりたいです。
悪質商法とは言いませんが、実質的にはそれに近いような気がします。
私の読み違いかもしれませんが、パンフレットを読む限り、そう思います。
これでどれだけの人が不当利益を得ているのでしょうか。
案内書に寄れば、年金基金の内容はこういうものです。
たとえば、40歳の人であれば、60歳までの年金月額が26,070円です。
65歳から終身年金が受け取れますが、その金額は月額30,000円です。
インフレ補正は明記されていませんので、単純計算できます。
20年の保険料総額は約625万円です。
一方、当人が現在の平均寿命といわれる85歳まで生きたとして、受け取れる年金総額は720万円です。
仮に平均寿命を全うできれば、100万円たくさんもらえるではないかと思うかもしれません。
しかし、納入時期と支給時期には25年間の開きがあります。
仮に大きな社会変化がないとしても、物価上昇のインフレは避けがたいでしょう。
厚生労働省も年金の検討には物価調整率を加味していますが、中長期的には1%と考えているようです。
625万円を年率1%で増加すれば、25年後には800万円を超します。
つまり平均寿命を全うしても、負担額よりも年金額は少ないのです。
私の理解に間違いがあるかもしれませんが、パンフレットを読む限りはそうなります。
誰が得をする仕組みでしょうか。
いうまでもありませんが、この制度を動かす関係者です。
これは評判の悪い「ねずみ講」の一種なのです。
しかも、この案内書にはプロゴルファーの宮里藍さんがモデルに使われています。
彼女は自らがこうした詐欺まがいの仕組みに利用されていることなど知らないでしょう。
国家が詐欺などやるはずがないと多くの人は思っていますが、詐欺をしようという人たちにとっては、国家とは便利な仕組みであり、信頼性を勝ち得るブランドなのです。
むすめがまた言いました。
こういう資料をどれだけの人に毎回出状しているのだろうか。それだけの費用が余っているのであれば、保険料を少し低くしてほしい。
同感です。
国民年金基金の仕組みを見て、年金関係者は詐欺集団だなと確信しました。
ノンバンクもひどいですが、年金関係者も同じ穴の狢なのかもしれません。
お金は本当にこわいものです。
金融業が大きな割合を占める社会は健全にはなりようがないのかもしれません。
守銭奴の社会が広がっているのが恐ろしいです。

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2006/12/19

■本間さんと安倍さんの見識

本間正明政府税調会長の官舎入居事件は、政府に雇用されている御用学者たちの生き方を象徴しているのでしょうが、いかにもお粗末なお話です。
しかし、まあこんな話はそれほど珍しいことではないでしょうから、驚きもしなかったのですが、驚いたのは昨日、テレビで見た安倍首相のコメントでした。
本間会長の「見識」を高く評価し、「批判は承知しているが、本間氏は職責を果たすことで責任を果たしてほしい」と述べたのです。
今回の事件は、明らかに本間教授が「見識」のない人間であることを露呈した事件です。
税金を私的に、しかも社会的に許されないであろう行為に使うような人に、見識があるとはとても思えません。少なくとも私の税金についてはとやくいってもらいたくないと思うのは私だけでしょうか。
こういう破廉恥な行為を行なう大学教授は本当にたくさんいますが、みんな即座に大学教授の座から退出してほしいものです。人を育てたり、教えたり、社会に意見を言う資格など、あろうはずがありません。
本人も税調会長を辞任する意図はないようですが、まあそれは本間教授の生き方からして当然のことでしょう。それが御用学者の生き方なのですから。
しかし許せないのは、安倍首相の「見識」です。
本間教授には「見識」があると評価したのです。
安倍首相の考える「見識」とは一体どういう見識なのか。
理解に苦しみます。
彼らの「見識」と私が考える見識は、どうやら全く違うもののようです。
制度を悪用し、社会の常識に反する行為を行う小賢しさが「見識」だとすれば、新たな税制度は「脱税」を奨励する制度を目指すとしか思えません。
いや、もしかしたら、これまでも日本の税制度とはそういうものだったのかもしれないとさえ思います。
なにやら税金を納めるモチベーションが下がってしまいそうです。
税金がしっかりと活用されるのであれば、税金を納めることが楽しくなるはずなのですが、どうも今の日本はそうではありません。
本間教授は、そうした状況をさらに悪い方向に向けてしまいました。
そのことに気づかれているのでしょうか。
可哀相な人です。

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2006/12/18

■議員のみなさん、国民のなかに出てきたらどうですか

本来はそうした活動を国会議員などがしなければならないのですが、彼らはおそらく例外なしに保身だけにしか興味はないでしょう。
まともな議員ならば、バラエティ番組でへらへら笑っているのではなく、もっと真剣に国民の呼びかけてくるはずです。
そうした国会議員は残念ながら見当たりません。
一度、民主党にも提案したことがありますが、国会だけが彼らの活動の場ではありません。
国民に呼びかけて、国民世論を高めることこそが、野党の基本姿勢でなくてはいけません。国民に呼びかけない国民代表はありえないと思うのですが、どうでしょうか。
国民世論を高め、流れを大きく変えるチャンスはこの数年だけでも何回もありましたが、野党はそういう動きには無縁でした。
むしろ与党が広告代理店にお金を積んで、そうした真似事をしましたが、それは本当の世論ではありません。
タウンミーティングの実態が明らかになったように(やらせ実態は世間の庶民のほとんどは感じていたと思いますが)、カネで動かせる世論もありますが、そうでない世論もあります。
歴史を変えていくのは、おそらくそうした本当の世論ではないかと思います。
その世論が、いまの日本ではほぼ完全に壊されてしまっているのかもしれません。
新教育基本法や共謀罪などの仕組みを通して、回復できないほどにまだまだ壊されていきそうですが、まだ間にあうかもしれません。
国会議員の人たちは、国民のなかにもっと出てきてほしいものです。
それこそが本当の保身につながるはずですよ。

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2006/12/17

■古館さん、もっと現場に出て行動を起こしてください

不思議に思うのは、今回の教育基本法の変更に関して、その内容にも決め方にも異論を持つ人がたくさんいますが、大きな運動が起きないということです。
人気報道番組のキャスターの筑紫さんも古館さんも、それ以外の多くの報道番組のキャスターも、将来への危惧を持っているように聞こえるのですが、私の誤解でしょうか。
これだけ多くのキャスターたちが危惧しているのであれば、もっと報道内容も変わったはずですし、そもそもこんな事態にはならなかったとも思いますが、いつものことながら、後になって異論を唱えるのが、キャスターや新聞の論説委員の得意技なのかもしれません。
私がそれを実感したのは小選挙区制にまつわる有名な論説委員の発言でした。
確かあるテレビでご一緒したのですが、雑談中に彼は自分は小選挙区制に反対だったというのです。
彼の属する朝日新聞は決して反対の論調をとってはいませんでした。
少なくとも成立するまでは。
テーマ担当の論説委員が反対しているのに新聞紙面は賛成論を広げるなどというのは、私の理解を超えていました。
過去の話はともかく、問題はこれからです。
もしキャスターの皆さんがおかしいと思うことがあるのであれば、もっと行動を起こすべきです。
新教育基本法反対のさまざまな動きをほとんど報道もせずに、異論を語るのはやめてほしいものです。
古館さん、もっと現場に出て行動を起こしてください。
マスコミを舞台に活躍しているキャスターの皆さんは、私たちとは違って大きなメディアを使える立場にあるのです。
もし演技でなく、本気で現状を憂い、怒っているのであれば、メディアを私的に独占するのではなく、社会に向けてもっと活かしてくれませんか。
メディアの中に閉じこもっていては、結局は何も変わらないのではないでしょうか。

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2006/12/16

■教育基本法改悪で日本は曲がり角を曲がってしまいました

教育基本法がついに変えられてしまいました。

ある人は、こうメールしてきました。
「私たちのための教育から、国家のための教育へ。」
今朝の朝日新聞の見出しには、
「個」から「公」重視へ
とあります。
正確には
「個」から「官」重視へ
でしょう。
日本における「公」は、パブリックとしての「公」ではなく、
統治者としての「官」なのですから。

いずれにしろ、日本という国家は、再び曲がり角を曲がってしまったような気がします。
しかも、国会という議論の場は、ついに裁決の場になってしまいました。
破壊したのは小泉純一郎と安倍晋三です。
「改正」「改革」「民営化」というマジックワードで、彼らは日本の社会をずたずたにしてしまいました。
もっとも路線は敷かれていましたから、真犯人は別にいますから、
哀れな実行犯の役割を担わされたのかもしれません。
しかし、ほんの少しでも「愛国心」があるのであれば、
こんな極悪非道なことはやれないでしょうが、彼らには「愛」という概念は微塵もないのでしょう。

あまりの腹立たしさに、いつも以上に口汚くののしりたくなってしまいました。
小泉元首相も安倍元首相も、犯罪者としか思えません。

これでまた何人の教師や子どもたちが死に、平穏な家庭が壊されていくのでしょうか。
「教育」の問題に関心を失ってしまった日本国民がもたらした悲劇でしょうか。

教育の概念が変われば、社会が崩れるのは不可避です。
未来を支えるのは間違いなく子どもたちなのですから。
その子どもたちを「現実」に縛り付けてしまっては、未来は開けようがないのです。
曲がった社会で、どう暮らしていくか。
難問です。

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2006/12/15

■松坂選手の61億円の使途

私は野球が好きではありません。
ですから、そう思うのかもしれませんが、
松坂選手の契約金が61億円という数字にはとても哀しい思いがします。
ニュースを見ていた女房は、
その一部を飢餓に苦しむ人たちや世界が抱える問題に寄付してほしいとつぶやきました。
松坂選手の家族思いはわかるとしても、
10回の渡米費用や生活支援費といったことしか頭にないのだろうか。
61億円のほんの一部を提供するだけで、たくさんの人が救えるだろうに、というのです。

全く、同感です。
松坂選手の人格を疑うわけではありませんが、友達にはなりたくない人です。
まあ、これは単なるひがみに聞こえるかもしれませんが(まあその要素もあるのですが)、
こういうニュースが多すぎます。
日本は完全に守銭奴の人たちの国になってしまいました。
その一因が、有名人の所得の急上昇です。
有名人だけではなく、企業経営者の報酬も急上昇しています。
そうした動きが、企業を蝕んでいることもまた否定できないでしょう。

格差が広がったかどうかという議論がありますが、そんな議論は無意味です。
格差が価値を持つ社会になったことは紛れもない事実です。
それが大きな問題を起こしていくこともまた間違いないでしょう。
ビル・ゲイツのように、億単位の資金を自らの小さな満足のためにではなく、
もっと大きな幸せのために無条件で寄付する日本人はいないのでしょうか。

もし私に3億円くれたら、コムケア活動が思う存分展開できるのですが。
松坂さんは3億円くれないでしょうか。
そうしたら、不承不承ですが、友だちになってもいいのですが。
いや野球が好きになってもいいのですが。

あれれ。
どうやら守銭奴菌は、私までも蝕みつつあるようです。
困ったものです。

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2006/12/14

■犯罪へのけじめのつけ方

三菱自動車虚偽報告事件の無罪判決には驚かされましたが、
その報道記事の中に、同社販売会社の元営業マンの言葉がのっていました。

「裁判で勝った、負けたじゃない。問題はプロセスです」

この人は5ヶ月前まで三菱自動車の販売会社の営業マンでした。
入社直後の研修で、
「車は人生で家の次に高い買い物です。だから皆さんも自信を持って売って下さい」
と幹部から言われ、
いつかトップセールマンとして表彰されたいとがんばってきたのだそうです。
しかし、三菱自動車のリコール隠し発覚後、次々と同僚が転職。
彼も転職を考えたそうですが、「お客さんが文句を言える相手」としての立場を放棄できずに踏みとどまってきたのだそうです。
月給は三分の一にまで減り、ボーナスも無くなり、
家族の生活のために会社には内緒で、深夜のファミリーレストランでアルバイト。
次第に家族との会話も減り、離婚。
結局、「また欠陥が出たら何を言われるのだろうって、売るのが怖くなって」今年7月に退職したのだそうです。

社会的事件の背景にはこうした話はたくさんあるでしょう。
そして裁判がどうなろうとも、こうした人たちが失ったものは戻ってはこないのです。
現在の裁判のあり方が基本的に間違っているのは、そうしたことへの配慮が不在だからです。

母親を殺害したにもかかわらず、数年で社会に戻り、全く無縁の姉妹を殺害した人の事件も、
そうした間違った裁判制度や司法制度の結果だと思います。

社会の仕組みと裁判のミッションが変化してきていることを踏まえて、
司法制度そのものの見直しが必要です。
最近の裁判所の判断(判決)には、自分が被害者だったら、到底納得できないというものが多すぎます。
裁判官はそういう思いを持たないものでしょうか。
社会的に見ても、犯罪のけじめとしての納得性がないものが多いように思います。
裁判員制度などという馬鹿げた制度を導入するようなことを考える前に、
裁判のあり方を根本から正さなければいけません。
私の友人知人にも、裁判員制度づくりに関わっている人が2人もいますが、とても残念な話です。
個人的な友人知人としては、とてもいい人たちなのですが。

それはともかく、企業を隠れ蓑にした経営者や企業人の犯罪は、もっと厳罰に処すべきでしょう。
もちろん政府を隠れ蓑にした犯罪は、もっと厳罰にしてほしいものです。
しかし多くの政治家は犯罪(本人にはその感覚がないのかもしれませんが)を犯すために政治家になるのでしょうから、それは無理なことかもしれません。

同じ新聞の一面には、タウンミーティングのやらせ事件(れっきとした犯罪です)に関連して、
当時官房長官だった安倍首相が、その責任をとる「けじめ」として、
首相報酬のなかから約100万円を返納したという記事が出ています。
この人には知性というものがあるのだろうかと呆れますが、
これもそれも小泉首相が始めた「嘘を奨励する社会」の中での日常的なことなのかもしれません。

100万円でけじめがつけられるのであれば、私もそうした犯罪に加担したくもなります。
まあそれはともかく、お金でけじめをつけるという発想の卑しさには情けなくなります。
いずれも犯罪実行者が「犯罪」と思っていないところに問題がありますが、
もうすこしまともなけじめのつけ方があるのではないかという気がします。

哀しい時代になってきました。

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2006/12/13

■今年の漢字は「命」だそうですが

「今年の漢字」というのがあることを知らなったのですが、今年は「命」に決まったそうです。
流行語大賞もありますが、こうしたことを決めることの意味が私には理解しがたく、だから何なのだといいたいですが、まあせっかく決めたのであれば、決めて終わりではなく、関係者はそこから何か(商業活動ではない)活動を始めてもらいたいと思います。

私にとっても、今年は「命」の問題に目覚めた年でした。
もちろん生きている以上、私たちは常に「命」に直面していますが、普段はあまり意識せずにいます。
生きつづけることがすべての前提だからです。
毎日のように報道される交通事故死は、全く命を考える余裕もなく、突然に「命」を失なうわけですが、当事者はもとより、家族や関係者の「断絶感」は想像を絶しています。
テレビで時々紹介される遺族の声は、とても他人事には聞けません。

あまりにも安直に、人の命を終わらせる行為が多すぎます。
「自殺」という言葉がありますが、東尋坊の茂さんが著書で書いているように、自ら死にたくて死ぬ人はいません。自殺もまた、誰かによる殺人の一種といっていいでしょう。
事故死も偶然に起こるわけではありません。そのほとんどが誰かの不注意や不正によって起こります。
飲酒運転による他人の殺傷事件は殺人事件と区別する理由が私には理解できません。

しかし今の日本の法体系では、そうした「見えない殺人行為」はほとんど罰せられないか、罰せられても軽微です。人を殺傷しておいて、10年程度の懲役で許されるなどというのは被害者の立場では納得しがたいことでしょう。
「命」を奪った以上は、「命」以上のものであがなうのは当然の話です。
それがたとえ事故であろうと原則は同じはずです。

今年の漢字として「命」を選んだのであれば、改めて「命」について真剣に考えてほしいものです。
それにいても、この言葉を選んだ人たちの思いはなんだったのでしょうか。
「命を軽んじろ」なのか「命を重んじよ」なのか、どちらなのでしょうか。
愚問だといわれそうですが、「今年の漢字」などという質問よりはましのような気がします。

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2006/12/12

■貧困は平和への脅威

今年のノーベル平和賞は、貧困に苦しむ女性の自立を支えるバングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創始者であるムハマド・ユヌス氏(66)に贈られましたが、ユヌス氏は受賞演説で「貧困は平和への脅威だ」と語ったそうです。
グラミン銀行は、NPOバンクについて書いた時に言及した新しいパラダイムの銀行です。

ユヌス氏はこの演説で、最近の大国の政治の動きが「貧困への闘い」から「テロへの戦い」に転じていることに異議申し立てしたわけです。
ユヌス氏の「貧困のない世界をつくることはできる。なぜなら、貧困は貧しい人々によってつくられたものではないからだ」という指摘は、私たちがともすると忘れてしまう真理です。

ユヌス氏はまた、貧困など社会問題の解決を最優先する事業を「ソーシャル・ビジネス」と表現し、そこへの支援を呼びかけています。これは現在の産業パラダイムの転換の提案といってもいいでしょう。

平和の捉え方は様々ですが、そもそも貧困の存在自体が「非平和」状況と考えてもいいでしょうし、平和に反する様々な事件は貧困状況を維持し拡大することを目的としていると言えるかもしれません。
いや貧困を維持し拡大する方策は、何も戦争だけではありません。
平和そのものもまた、貧困の維持拡大の手段になりえます。
ローマ帝国における「パンとサーカスによる平和」は多くの貧困者の苦しみの上に成り立っていたのかもしれません。

家畜たちの平穏な暮らしと野生種の緊張感あふれる暮らしと、どちらが平和なのか、そして貧困が少ないのかは判断に迷いますが、ユヌス氏の「貧困は貧しい人々によってつくられたものではない」という指摘は、ことの本質を示唆しています。
「つくられた貧困」こそが問題なのです。
その対極には「つくられた豊かさ」が存在しますが、それももしかしたら「大きな貧困」の変種なのかもしれません。
その2つの「貧困」を私たちはなくしていかなければいけません。

ちょうどいま、「世界から貧しさをなくす30の方法」(合同出版)が話題になっています。

個人でもできることがあることがわかります。

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2006/12/11

■豊洲の街

昨日、豊洲の芝浦工大で学生まちづくり学会の集まりがあり、参加させてもらいました。
その報告はまたCWSコモンズに書かせてもらいます。
今日は久しぶりに歩いた豊洲の街への感想です。

先日も書きましたが、最近の東京の街並みは私には大きな違和感があります。
豊洲はいま開発ラッシュで、どんどん高層ビルができています。
そこには芝浦広大の新校舎もありますが、とても立派な高層ビル大学です。
その大学の高層階から見る豊洲の風景は未来都市を思わせます。
駅から大学に歩く途中の違和感は、私の歳のせいかと思っていたのですが、
集まりに参加した現代美術に関わっている40代の人も、大阪から来た20代の学生も違和感をもったそうです。
40代の人は足がすくむと表現し、20代の人は人間の気配を感じないとお話になりました。

集まりにはここの高層マンションに住む方たちも参加されていました。
まちづくりに関心をお持ちの方たちです。

東京はこの10年で全く表情を変えました。
1960年代から始まった土地の記憶の破壊はここに来てすさまじさを感ずるほどです。
日本社会がまたバブルに向かっていることがよくわかります。
ところで、こうした「未来都市」に生まれた時から育つ子どもたちはどういう意識をはぐくんでいくのでしょうか。
こういう空間で大学生活をすごす若者たちはどういう未来展望を持っていくのでしょうか。
昨日はそれがずっと気になって仕方がありませんでした。

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2006/12/10

■報道されないもう一つの社会の動き

昨日、アミネ一家のことに触れましたが、
新聞やテレビに情報源を限定したいたら、たぶん私も見過ごしていたことかもしれません。
私がこの事件を知ったのは、あるグループのメーリングリストからです
2004年4月のことですが、以来、私も友人知人に情報発信もしていますが、なかなか運動の輪は広がりません。

ところが、たとえば難病手術のための募金活動などはテレビで取り上げられるとアッという間に1億円以上が集まるほど情報は広がるのです。
アミネ一家事件ももう少しきちんとマスコミが取り上げてくれるといいのですが、
問題の性格上、その意味がなかなか伝わらないのかもしれません。

この事件に関して言えば、マスコミも取り上げていますが、
なかにはマスコミがとりあげてくれないものもあります。
たとえば、いま教育基本法改悪反対のヒューマン・チェーン活動が国会前で展開されていますが、
テレビや新聞などではあまり報道されていないように思います。
12月6日には5000人の参加者があったそうです

次回は12月13日です。
http://give-peace-a-chance.jp/118/061213.html
それぞれのサイトをぜひご覧ください。

昔、CWSコモンズに書きましたが、
世界各地での反戦デモをテレビで見ていた女房が、なぜ日本ではみんなデモをしないのだろうかと言い出しました。
たまたま2001年の9.11事件を契機に、日本でテロ対策特措法が成立した頃でしたが、
その反対デモの誘いがあったので女房を誘いました。
寒い日でしたが、初めてそうしたデモに参加した女房は日本でもこんなにみんなが熱心に異議申し立ての活動をしているのかと感心していました。
しかし不思議なことに、そんなデモ活動があったなどということは新聞にもテレビにも出ませんでした。
それで女房は少しだけ日本のマスコミの実態を理解したようです。

マスコミが情報発信する情報は誰が選択し編集しているのでしょうか。
マスコミが報道しない社会の動きのほうが多いことを私たちはもっと認識していいように思います。

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2006/12/09

■アミネ一家の不幸は他人事なのでしょうか

今朝の朝日新聞朝刊に小さく出ていた記事です。

イラン人一家を退去処分 法相の在留許可下りず 最高裁で家族全員の国外退去処分が確定した群馬県高崎市のイラン人、アミネ・カリルさん(43)一家が8日午前、東京入国管理局に出頭した。法相が特別の事情をくんで国内在留を認める「在留特別許可(在特)」は下りず、一家4人の国外退去を命じた。

アミネ・カリルさんは、1990年、日本がまだ好景気でバブルに湧き、イランとの間でビザなし渡航を維持していた時期に、移住労働者として日本に入国。他の多くのオーバーステイの外国人と同様、役所に行って外国人登録もし、子どもたちは公立の学校に入学し、日本人の友達と共に、日本人と同じように生活してきました。
ところが、1999年、APFS(Asian People's Friendship Society)という外国人支援団体が、日本人と同化した子どもたちを抱えるオーバーステイの家族に在留特別許可を求める一斉行動を提起したのをきっかけにして、逆に違法滞在が問題視され、アミネさん家族は特別許可が下りずに裁判になってしまったのです。
詳しくはAPFSのサイトをご覧ください。

日本の裁判所や行政のご都合主義というか、管理志向がよくわかります。
この問題に関しては、APFSが積極的な活動を展開してきましたが、残念ながら国外退去という事に向かっています。
不法滞在者の国外退去事件などと軽く考える人もいるかもしれませんが、彼らにとっての国外退去は生命の危惧さえあるものです。
アミネ一家が15年以上、滞在しているという事実を考えれば、それこそ「時効の法理」が適用されてもいいように思いますが、明確な証拠がある殺人罪に時効が成立するのに、こうした事実には適用されないということも法律に疎い私などには全く理解できません。
国家とは何かを疑わざるを得ない事件です。
国家の品格などという(私にとっては)無意味な議論が世間に横行していますが、大切なのは品格ではなく、国家の存在目的ではないかと私は思います。
国家は誰のためにあるのか、何のためにあるのか。
それによって「品格」の評価基準が全く違うのです。

それにしても、アミネ一家の不幸は他人事なのでしょうか。
明確には説明できませんが、私の暮らしの隣にあるような恐ろしさを感じます。

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2006/12/08

■「よこはま乳腺と胃腸の病院」拒否判決

昨日の朝日新聞からの引用です。
長いですが、

横浜市の医療法人が病院名を「よこはま乳腺と胃腸の病院」という名称に変更しようとしたところ、市が「『乳腺』は、医療法の規定では広告できる診療科名と認められていない」として認可しなかったことの是非が訴訟に持ち込まれた。法人側は「表現の自由の侵害で違憲だ」として不認可処分の取り消しを求めたが、一、二審で敗訴。上告したが、最高裁第一小法廷(横尾和子裁判長)は7日、「医療法の規定は合憲」として棄却する判決を言い渡した。病院側の敗訴が確定した。

第一小法廷は、医業などについての広告を規制した医療法の規定について「広告することのできる診療科名を客観性、正確性を維持できるものに限定した」と解釈。広告できる診療科として同法施行令が列記した診療科名は、例示ではなく、限定的に列挙されていると解釈すべきだとする一、二審の判断を維持した。


とても気になる判決です。
まず法律解釈の姿勢の問題です。施行令が列記する診療科名以外のものは認めないとは驚愕の判決です。利用者の視点は全く無視されています。内科だとか外科などという、訳のわからない表現こそ正すべきでしょう。この裁判官たちは病院にいったことがないのでしょうか。決められた法文にしか従わない思考力の無い人なのでしょうか。私が司法試験を受けたくなくなったのは、そうした人しか司法試験には受からないと勘違いしたからですが、もしかしたらそれは勘違いではなかったのかもしれないと思いたくもなる事件です。
次に「広告」ということへの理解です。
私自身は広告や広報は取引コストの縮減のためのものだと思っていますので、相互理解が効果的に行なわれることが大事だと考えています。ですから「規制」すべきことではなく支援すべきことだと考えています。もちろん、実体との乖離や虚偽の表現の使用を対象とすべきであり、むやみな誇大宣伝は規制すべきですが、基本は支援です。
現場、あるいは実態からの発想ではなく、管理からの発想も気になります。
現場や実態からの発想には表情があり、例示はあっても言葉での規定はありえません。しかし管理発想では言葉に依存した包括規制しか生まれません。
悪しきものと善きものを区別する眼がなくなって、すべてを一括規制する動きがともかく広がっています。
この判決もそうした動きを象徴するものの一つではないかと思います。
事件の詳細を知らずにコメントするのは不安ですが、最近の社会の動きが業種されているような事件ではないかと思います。
こうした事件が多すぎます。

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2006/12/07

■豊作になると野菜が廃棄される経済

豊作のためにキャベツや大根の価格が下落し、農家は自らが育てた野菜をトラクターなどで踏みにじって廃棄しているニュースが連日放映されています。
たとえば、キャベツは廃棄するとキロ27円が政府や農協によって補償されるそうですが、販売するとキロ31円なのだそうです。
4円の上乗せしかできないのであれば、廃棄したほうが利益にはなるでしょう。
でも、そこで納得してしまってはだめなのだろうと思います。
たしかに経済計算ではそうなりますが、キャベツやレタスが踏みにじられるように廃棄される映像を見ていると、廃棄しているのは野菜だけではないことに気が付きます。いや、気づかなければおかしいのです。

何が廃棄されているのか。
たとえば「食べ物を大事にするという価値観」「労働に対する誇り」などは、間違いなく廃棄されているように思います。
この映像を子どもたちに見せながら、食べ物を大事にしようとか働くことの大切さを説くことはできないでしょう。
つまり社会の大切な価値観を廃棄しているのです。
キャベツで言えば、廃棄される量を上回るキャベツが海外から輸入されているそうですので、それもおかしな話ですが、いまの経済論理からいえば、それも「合理的」なのでしょう。

しかし、日本による食料の輸入は、必ずどこかの国の飢餓につながっているはずです。
食料には経済を超えた価値があります。
しかしお金は手段でしかありませんから、本源的な価値はありません。
ところが、今の経済社会は本来的な価値ではなく、手段としての価値しかない貨幣を軸に動いてしまっているのです。
こんな経済システムが正しいはずがありません。
そう思えてなりません。

我が家は30坪程度の家庭菜園で野菜をつくっています。
素人農法ですが、野菜ができすぎることがあります。
もちろん廃棄などせずに、隣近所に差し上げます。
そのお返しに、今度は庭でなった柿やミカンをもらったりしています。
お金を入れてしまうとどこかでおかしくなるように思います。

貨幣を手段にする市場原理への信仰をそろそろやめるべきではないでしょうか。
新しい経済を構想するべき時代ではないかと思います。
貨幣から開放されると豊かな生活の展望が開けてくるのかもしれません。

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2006/12/06

■アーサー・C・クラークの警告

昨日、シマックに触れたせいか、急に昔読んだ作品が読みたくなりました。
あいにく手元にシマックは見当たらず、出てきたのはアーサー・クラークの「都市と星」です。
これも1950年代の作品です。初めて読んだ時の不思議な感動を覚えています。
書き出しで、またとまってしまいました。
引用します。

その都市は輝く宝石のように、沙漠の懐に抱かれていた。 かつては、そこにも変化や移り変わりがあったが、今ではそこは時の流れと無関係だった。 夜や昼が沙漠の上を通り過ぎていったが、ダイアスパーの通りにはいつも午後の陽射しがあり、夜の帳が下りることはなかった。 この都市には、暑さも寒さもなかった。そこには、外界と何の接触もなく、それ自身が一つの宇宙だったのである。
ダイアスパーは、銀河帝国が崩壊して、さらに10億年もたった地球の都市です。

この描写を読んで、私はすぐさま六本木のビル街を思い出しました。
最初に読んだ学生の頃には、その都市のイメージが広がらなかった記憶がありますが、今回は現実感を強くもてました。
私は六本木ヒルズには2回しか行ったことがありませんので、間違ったイメージかもしれないのですが、会社と同じく、都市もまた死に向かっているような気がします。

結局、この書き出しで少し感傷にふけってしまい、読むのをやめてしまいました。
昨今の日本の社会の実態は、すでに50年前にSF作家たちが警告していたのかもしれません。
そして、そうした作品に浸っていた私は、かなり洗脳されてしまっていたのかもしれません。
最近の日本は、昔体験した社会のような気がするのです。

久しぶりに学生の頃に戻ったような気がしています。

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2006/12/04

■シマックの予言

最近、たまっている資料や記録を整理し、思い切って廃棄しています。
私は書籍や資料をともかく保管する傾向があるのですが、自分の時間軸を考えるとそろそろ廃棄しだすころだろうと実感しだしたのです。
もちろんただ廃棄するだけでなく、当時のことを思い出しながら、自らの生きてきた時間を思い出しながらの廃棄ですので、なかなか進みません。
しかし、その過程で様々な気づきがあります。
今日も書庫にある資料を整理していたら、メモが出てきました。
クリフォード・シマックというSF作家の「シティ」という作品の中の文章の書き抜きです。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、このような都市の狭い地域の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような都市を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

シマックは私の好きな作家の一人でした。
この作品は1952年の作品です。壮大なおとぎばなしです。
当時のSFは、まだ明るさとユーモアがありました。特にシマックには牧歌的なやさしさや個人の視点がありました。
もっとも私がSFについていけたのは1970年頃までです。1980年代に入るともう全く違う世界に感ずる作品が多くて、以来、ほとんど読むのをやめました。

それはともかく、引用したシマックの文章が、最近の企業にあまりに当てはまることが気になりました。
ちょっと「都市」と「会社」を置き換えて見ましょう。

「高度の神経系統を具えた生物ならば、今のような会社の狭い組織の中に生存することは不可能である」
「やがては大量の神経症患者を出して、かような組織を作り上げた当の文化を自らの手で破壊するくらいがおちだろう」

どうでしょう。
違和感がないのは私だけでしょうか。
破壊の対象が組織(文化)であればまだいいですが、自分たちになることもありえます。

新しい会社のあり方が求められています。
そして、新しい兆しがさまざまなところで動き出しているように思います。
それが見えるかどうか。
シマックには半世紀前に見えていたのです。
私たちには見えているでしょうか。

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2006/12/03

■自治会を通した情報ネットワーク

自治会の会長を引き受けて驚いたことの一つは回覧物の多さです。
市役所はもとより、警察や消防署や学校や社会福祉協議会などから、毎週2~3種類の印刷物が届きます。
中には福祉施設関係の通信販売のパンフレットの回覧を頼まれることもあります。
すべてを回覧しているときりがないので、会長の責任において回覧の是非を決めようかとも思いましたが、これが結構むずかしいのです。
住民の多様性を考えると回覧をやめる決断ができないのです。
しかし、この回覧の仕組みは素晴らしいですね。
2週間もあれば、ほぼすべての住民に告知ができるのです。
もっとも現在回覧されているもののほぼすべてが、読もうと思う気にはさせられないような印刷物です。行政の無駄な仕事を実感させられることも少なくありません。
しかし、この仕組みをうまく活用したら、凄いことができそうな気もします。
自治会やそれを通した情報ネットワークは大きな社会資源です。
もっと効果的な活用策はないものでしょうか。

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2006/12/02

■コモンズの幸福

「コモンズの悲劇」という有名な話があります。
生物学者、G.ハーディンが1968年に「サイエンス」誌に発表した、「誰でも自由に利用できる共有資源は乱獲によって枯渇してしまう」という話です。
詳しくはウィキペディアを読んでください

これに関しては、このブログやCWSコモンズでも何回か触れています。
たとえば、個人の利益と社会の損失の非対称にも書きました。

現実にはコモンズの悲劇的現象は世の中に充満しています。
最近の給食費不払いの話などはまさにそうした事例の一つです。
年金問題もそうかもしれません。
しかし、組織発想から個人発想に替えることで、パラダイム転換できる話だと私は思います。
つまり、発想を変えれば、コモンズの悲劇はコモンズの幸せになるはずです。
これもどこかに書いたような気がしますが、今回はもう一つの側面を書きます。
「消費発想」から「創造発想」に変えることで、コモンズの悲劇はたぶんなくなります。
つまり、コモンズ(みんなのもの、共有地、共有資源)を消費の対象とするか、
創造あるいは育ての対象とするかということです。

最近の社会はよく言われるように、「消費社会」です。
「生産」もまた「消費発想」になっていることは、以前、「消費機関としての企業」に書きましたが、
生産よりも消費に軸足を置いているのが今の産業社会です。
その枠組みで考えれば、有限のコモンズを消費する以上、どこかで悲劇は起こります。
しかし、発想を逆転し、「消費」もまた「創造」だと考えれば、話は全く変わります。
消費には限界がありますが、創造には限界がないからです。

コモンズは「みんなで消費するもの」ではなくて、
「みんなで育てていくもの」と考えると悲劇ではなく幸せが見えてくるはずです。
私は東レ時代にCIに取り組みましたが、会社の企業理念に「価値の創造」という言葉を選びました。
当時、この言葉を掲げていたのは上場企業ではたぶん「キリン」だけでした。
似た言葉だったので私はキリンの担当者に事前に了承を得にいったのを覚えています。
たかだか20数年前の話ですが、当時はそういう時代でした。
しかし、その後、多くの会社が「価値の創造」をうたいだしました。
そして「価値を消費」しだしたのです。
言葉を掲げると事態は逆に動き出す。
皮肉な話です。

会社を辞めて20年近くになりますが、会社を離れてみると、
会社が創造していることと消費していることが良く見えてきます。
そして大きな流れが、創造よりも消費に向いているのがわかります。
しかし、消費発想から創造発想へと切り替えると、
全く新しい経済システムが見えてくるような気がします。
税金を徴収されるのではなく、税金を納める社会。
義務教育ではなくて、権利教育。
社会の仕組みも変わってくるはずです。

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2006/12/01

■社会の突然の変化

我孫子駅前の銀行ATSに月末のせいか、長い行列ができていました。
そういえば、先週の24日も、駅前を2回通ったのですが、毎回、10人以上の人が並んでいました。給料日だったからでしょうか。
15年ほど前だったと思いますが、ある雑誌から、顧客満足を高めるために銀行店内での待ち時間を短縮することの大切さのようなテーマで寄稿を頼まれたことがあります。当時は、利用者を待たせないための銀行のサービスが課題なっていたような気がします。ところが、ある時から突然にATS窓口に並ぶことにみんな不満を言わなくなりました。しかも外で並ぶのです。雨の日も寒い日も、暑い日も、です。なにやら宮沢賢治の詩にでてくるような感じがしますが、今ではみんな、それが当然のように受け入れています。そして、そうした機械任せであるにもかかわらず、手数料はどんどん高くなりました。それにもみんなあまり文句を言いませんでした。
私にとっては、なぜ急にみんなが変質したのかわかりませんが、こらえ性の無い私は、今でも並ぶことには大きな抵抗があります。どう考えてもおかしな話です。

このように、ある時突然、社会の文化が変わることがあります。
時々、自分がタイムスリップしたのではないかと思うことがあるのです。
そんな体験はないでしょうか。

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