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2007年1月

2007/01/31

■法に違反していなければ胸をはれるのか

相変わらず国会の議論では、違法なことはしていないとか、法の範囲でやっているとか、大の大人が恥ずかしげもなく、答弁しています。
柳沢大臣の発言は、別に法に反していたわけではありません。
だから許されるのでしょうか。
そうした実例が、いま目の前にあるにもかかわらず、事務所経費に関する答弁では、相変わらずそんな答弁が行われているわけです。
彼らの頭は一体どうなっているのでしょうか。
少しは知性とか思考力とかいうものがあるのでしょうか。
これは「恥の文化」とか「罪の文化」とかいう以前の問題です。

企業でもコンプライアンスとか遵法精神とか盛んに言われていますが、ともすると、それは法に抵触せずにどれだけ悪さができるのかということに知恵を出すことの意味になりかねないのが、いまの日本社会です。
だからこそ、今回の司法改革でも「大きな司法」が話題になっているわけですが、いかにも残念で仕方がありません。
遵法などという、いわずもがなのことをいう企業は信頼できませんし、違法行為はしていないと抗弁する人はそれだけで信頼に値しないでしょう。
法には反していないという言葉は、やましいことのある人の常套句でもあります。
やましいことがなければ、むしろ「法に反しているかもしれないが」というような気もします。
つまり、法とやましさの階層構造でいえば、本来は後者のほうこそが上位概念ではないかと私は思います。
それでは秩序維持が難しくなってきたので、やむを得ず判断のよりどころとしてルール化したのが法律ではないでしょうか。
その構造が逆転しているのが今の日本社会です。

それにしても、国会の議論は本当に無意味な時間の浪費ですね。
あんな形で意味のある議論ができると、一体誰が思っているのでしょうか。
小学校の話し合いでも、もう少しは真実味があるのではないでしょうか。
いや、最近の学校の議論は国会並みの低次元になっているかもしれませんね。
テレビの影響は本当に恐ろしいです。

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2007/01/30

■死んだ学力と生きた学力

たまには社会と無縁な世界の話を書きます。

今日、水谷千秋さんの「謎の豪族 蘇我氏」を読んでいて、
葛城氏は「氏制度」が広がる前の豪族なので、その実態が把握しにくいという文章に出会いました。
それで、鳥越憲三郎さんの「葛城王朝」を思い出しました。

もう30年以上前の本ですが、鳥越さんの著書「神々と天皇の間」のなかに出てくるのが「葛城王朝」です。
この言葉に出会った時に、すごくわくわくしたのを今でも覚えています。
王朝交代の歴史にはドラマがあります。
その本の数年後に、鳥越さんは「大いなる邪馬台国」という本を出されました。
それは「物部王朝」の物語でした。
大和朝廷以前に存在した、もうひとつの日本の王朝です。
とても説得力がありました。

そして、その後、葛城王朝や物部王朝を統合した「蘇我王朝」があったと私は思っていますが、
万世一系の天皇家の歴史と考えるよりも、
こうしたさまざまな王朝の物語の集積として、日本の古代史を読み解いていくと歴史はわくわくするような輝きを感じさせてくれます。

しかも、その広がりは日本列島に留まるものではありません。
いま以上に、古代の日本はアジアとの交流が深かったという前提で考えると、
古代史の物語はさらに壮大に広がります。

聖徳太子が突厥の人という説もありますし、
天武天皇は高句麗の王子、天智天皇は百済の王子という説もあります。
物語の舞台は、日本列島などには閉じ込められてはいないのです。
言い換えれば、昨今のように国家などという枠にはこだわっていないのです。

これが世界の古代史になると、もっと壮大です。
文明はシリウスから来たという話もあります。

こういう壮大な話を読んでいくと萎縮した頭脳が活性化されるのです。
私たちが学校で学んだ歴史は、その後、大きく変化しています。
大化改新の存在も危うくなり、志賀の島から発見された金印も偽造説が出ています。
物部氏が仏教に反対したことも否定されだしていますし、山背大兄王の人格には疑問が出ています。
スフィンクスの建造も1万年前にさかのぼりそうですし、シュメールの文化はまだまだ奥が深そうです。
人類の誕生物語も変わってきています。

とまあ、こうして学校で学んだ常識的歴史観をはずしてみると、歴史の風景は大きく変わります。
それがどうしたといわれそうなので、蛇足をつけます。

学校で教える知識には行動を抑制する機能と行動を支援する機能があります。
試験のための知識は、与えられた正解に呪縛されるため世界を見る目を曇らせる恐れがあります。
しかし、学び方(生き方)を支援するための知識は、学ぶ面白さを教え、世界を見る目を輝かせます。
その好奇心を鼓舞し、世界を見る目を養うことを「学力」というべきではないかと思いますが、
今の「学力」は呪縛される知識を覚えることなのです。

柳沢厚生労働大臣の言葉を借りれば、子どもたちは「知識を詰め込む機械部品」なのかもしれません。
学ぶことが楽しくなるはずがありませんし、学校は工場のようになってしまいます。

最近の教育再生会議の提案は、どこを目指しているのでしょうか。
およそ教育とは無縁の人たちが多いですから、
今の学校からは「自由」になれるのかもしれませんが、視点において呪縛されているような気がします。
この提言を実現したら、きっと学校は効率の良い工場に変わるのかもしれません。
彼らが目指している生き方のように。
死んだ学力は向上するかもしれませんが、生きた学力はどうなるのでしょうか。

学ぶことの楽しさや喜びを広げていけない学びの場になっていることが、
今の日本の最大の問題のように思えてなりません。
みんな、学力をはき違えているのではないでしょうか。

あれ、今日は社会と無縁な話をする予定でしたが、いつの間にかまた社会問題になってしまっています。
なかなか社会の呪縛からは自由になれません。

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2007/01/29

■久間発言事件をどう考えるか

角田義一参院副議長が政治資金不記載問題で副議長職を辞職しました。
国会が開催される、まさにその時という、絶妙のタイミングに問題が顕在化したわけですが、
これは偶然ではないでしょう。
角田さんは、誰も引き受け手がいない連合赤軍事件の国選弁護人として彼らの弁護士役を引き受けた人だそうです。
いわゆる「左派」に属する人です。

それはそれとして、国会議員にまつわる問題指摘は、
実に見事なタイミングで行われることが多いように思います。
同じような問題を抱えている人が少なくないなかで、ある人に目標が絞られ、追い込められていく。
つまり、これは社会操作の典型的な事例ではないかと思えて仕方がありません。
企業不祥事などでも、そういう印象を持つことは少なくありません。

ところで、久間章生防衛相の最近の発言が話題になっています。
24日にはイラク戦争を起こしたのは間違いだったといい、
27日には普天間飛行場問題でアメリカ批判をしました。
この意味はなんなのでしょうか。
いろいろなことが考えられます。
昔、「陰謀のセオリー」という映画がありましたが、
最近の日本の政治状況を見ていると、何かそんな裏話を疑ってみたくなることが多いです。

もしそれが考えすぎであるとすると、
また別の意味で、久間発言事件は考えさせられることが多いです。

一言で言えば、日本の政治空間には「自分の意見を言う自由」がないということです。
先の郵政民営化問題は、その象徴的な事件でした。
しかし自由の議論ができないのであれば、議員などは不要だと思うのですが。

毎日新聞によれば、安倍首相は「対米関係上、久間氏の発言を不安視している」そうです。
それもまた象徴的な話です。
自らの主張を述べることが、社会的抹殺や生物的抹殺につながるのが、今の日本社会だとは思いたくありませんが、そんな事件が増えているように思います。

ちなみに、考えすぎだと思われていた「陰謀のセオリー」の主役のタクシードライバーは、結局は正しかったのですが、私の考えすぎは間違いであることを願っています。

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2007/01/28

■希望と生命:「希望サロン」の呼びかけ

今日はちょっと「暗い書き込み」です。
昨日、「パサジェルカ」に言及したのですが、正確だったかどうかが心配になり、確かめたくなりました。
私の記憶はかなり最近危ういですので。
手元にあるDVDで画面を探したのですが、確かにユダヤ人たちは整然とガス室に入っていくのです。
まあ、これは映画ではありますが。
希望がないと死は怖くはないのです。
だから自爆テロもできるのでしょうか。
そこでは「死」が「生」に転化するのかもしれません。

映画ついでに「ソラリス」のことも書きます。
ロシアのSF作家スタニスラフ・レムの「ソラリスの陽のもとに」の2回目の映画化作品です。
原作の小説は、私がSFに目を開かれた作品で、私には思い出深い作品なのです。
最近映画のリメイクが増えていますが、私の感覚がついていけないのか、退屈なものが多いです。
リメイク版のほうが面白かったのは、「オーシャンズ11」くらいでしょうか。
他は愚作としか思えないものばかりです。
「ソラリス」も最初の作品のほうが面白かったですが、
最近、テレビで「ソラリス」が放映されたの、ついつい見てしまいました。

ところが、見終わった後、またまたアウシュビッツを思い出してしまいました。
いいかえれば「希望」の意味を考えさせられたということです。
私の勝手な解釈ですが、人は「希望」が見えなくなると「生命」への執着がなくなってしまうということです。
その時点で「生命」の輝きも消えてしまうのかもしれません。

逆に希望が芽生えると、生命を超えて、生きてしまうというようなことが起こってしまうのです。
意味不明で何を言っているのかわからないという方は、ぜひリメイク版「ソラリス」を見てください。

今年は、「希望の年」にしようと決めたのですが、
希望とは結局、生きるということではないかと気付きました。
言い換えれば、相手から「希望」を奪ってしまえば、自在に操作することができるということです。
また、自らの「希望」を捨てれば、主体的には生きられない存在になってしまうということです。

どうも回りくどい言い方になってしまいましたが、
もしかしたら、いま私たちは「希望」を奪われ、
「希望」を捨ててしまっているのではないか、という気がしてきました。
どうやら私だけが「希望」を見失っていたのではなく、
社会が「希望」を忘れてしまっているのではないか、
そんな気がしてきました。

小難しいことを書いてしまいました。
「希望」を語り合うサロンをやはり開きたいと思います。
どなたか一緒にやりませんか。
しっかりと自らを生きるために。
連絡をお待ちします。

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2007/01/27

■鳥インフルエンザの犠牲になる鳥たち

また、宮崎県で鳥インフルエンザによる大量死が起こりました。
調査結果次第では、殺処分するなどの防疫措置としてまだ元気な大量の鳥が処分されることになります。
この数年、病気を理由にした家畜の大量殺処理が頻発しています。
そのニュースを聞くたびに、悲しくなるだけでなく、恐ろしさを感じます。
人間の場合は罹病すると治そうと努力してもらえますが、家畜は処分されるのです。
身の毛の立つほどの恐ろしさを感じますが、それが堂々と報道されるのです。

まだ罹病していない鳥や牛が防疫のために殺される。
これをどう考えるべきでしょうか。
私には答が見つかりませんが、しかし、殺すことはないだろうと思ってしまいます。
同じ「生命体」として、生命を活かすことをベースに考えられないものでしょうか。

私がこうした大量の家畜の処分や野菜の廃棄に恐ろしさを感ずるのは、
生命を粗末にする社会は、自らの生命をも粗末にすることにつながるのではないかと思うからです。
宮沢賢治の「世界中みんなが幸せにならないと自分の幸せはない」という時の、「みんな」には鳥やキャベツの幸せは含まれないのか。

テレビでそうしたニュースをみる度に思い出すのが、アンジェイ・ムンクの遺作映画「パサジェルカ」の一画面です。
収容所のユダヤ人たちが列を組んで、静かにガス室に入っていく光景です。
人間も時には処分されてきました。
いや過去形で語るべきではないかもしれません。

アメリカ大陸の「開拓時代」に白人によってネイティブのアメリカ人の98%が殺されたということを昔呼んだことがあります。
98%というのはいかにもすごい数字ですので、私の記憶違いかもしれませんが、
かなりのネイティブ、いわゆるインディアンが殺されたのは事実でしょう。
南米でもアフリカでもオセアニアでも、かなりの人が殺害されました。
家畜の処分と同じだとは言いませんが、違うとも言い切れません。
私たちはいまもこういう、防疫処分行為を続けているのかもしれません。
ブッシュがその推進者というのは論理の飛躍でしょうが、何か無縁でないような気がして仕方がありません。

家畜の大量処分ニュースを聞くたびに、こんなことを考えます。
そして家畜や野菜を育ててきた人たちの哀しさに手を合わせています。
どこかで何かが間違っているような気がしてなりません。
この先に、自分たち自身を処分する私たちの歴史が見えてくるのは、私だけでしょうか。

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2007/01/26

■介護の社会化の虚構

高齢社会の到来に向けて20年ほど前から「介護の社会化」が主張されだしました。
その一つの成果が「介護保険制度の導入」といっていいでしょう。
介護問題はいまのような核家族社会の中での家庭では解決しようがなく、しかもその負担が女性に覆いかぶさるということで「介護の社会化」が勢いをつけてきたわけですが、それに関しては否定しようがないことだったと思います。
しかし、「介護の社会化」の唯一の方策が、今の介護保険制度や福祉制度であるわけではありません。
そもそも「社会化」などというあいまいな言葉は気をつけておかないと危険です。
介護の社会化を大義にした介護保険制度に関しては、たとえばこんな意見もあります。

実際に施行され、その全体像が浮き彫りになってくるにつけ、この介護保険は、われわれ国民を「介護の社会化」という幻想をダシに、高齢者や低所得者などの弱者を切り捨てたとんでもない制度であることが現場で介護に携わる者には明らかになってきた。ホームヘルパーをはじめ介護現場では江戸時代につくられた「生類憐れみの令」以来の悪法とさえ囁かれているというが、家族介護者にとっても近年にない不公平・非効率の悪法と言わざるを得ない。
「現金給付を求める家族介護者の会」世話人の松井省吾さんのホームページからの引用です。書かれたのは2002年です。 続きを読みたい方はぜひホームページにアクセスしてください。


「生類憐れみの令」以来の悪法とは、さすがの私も驚きましたが、共感できるところも少なくありません。

「社会化」とは何か。
単なる問題解決をするために制度をつくることではありません。
「介護の社会化」に関して言えば、「介護問題を解決できる社会をつくること」だと思います。
社会は人の集まりです。
私の知人の川本兼さんは「2人いれば社会が生まれる」という視点で、新しい「新社会契約説」を唱えています。(「どんな世界を構想するのか」明石書店)とてもわかりやすい本ですので関心があればお読みください。

家庭も地域社会も「社会」です。
昔はそうした社会で、子育ても高齢者介護も障害支援も行われていました。
つまり福祉とか介護はもともと社会的に行われていたのです。
それが人間という種が他の生物を押しのけて大きな存在になってきた大きな理由ではないかと私は思っています。
つまり、愛を制度化したのです。
ところが、この50年の日本はそれを壊してきました。
徹底的に壊れたのはおそらく1990年ごろからでしょう。
最後まで何とか残っていた企業と行政が壊れてしまったのです。
1990年頃を境に、日本の企業も行政も変質してしまったような気がします。

「社会」を壊しながら、解決できなくなった個別問題に対処する制度をつくり、そこにビジネスを発生させる。まさに「産業のジレンマ」の典型的な事例です。
最近、老老介護の厳しい現実が良く話題になりますが、その基本にあるのは、家族や血縁社会、地域社会などといった、人間的なつながりを軸にした社会の崩壊です。
その問題に目を向けることが大切です。
その問題から解いていけば、きっと他の問題、たとえば教育の問題も今とは違った「再生のシナリオ」が見えてくるはずです。
介護保険制度もきっと今とは違うものになっていくでしょう。

そういえば、学校もまた、本来は人間的なつながりを軸にしたあたたかな社会だったのではないかという気がします。

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2007/01/25

■学校を良くする方法

一昨日の記事にコメントがありました。
コメントはなかなか読んでもらえないこともありますので、ここに勝手に再録させてもらいます

私も今ある学校の推進委員というのをしているのですが、そこで見る現場の先生は、仕事が多くて消耗しているサラリーマン、という印象でした。 こんなに余裕が無くて、一人ひとりの生徒に目配りする余裕があるものだろうか、と疑問に感じました。 さらに、たとえ先生にやる気があって、生徒のプラスになることをしても、それが必ずしも先生の評価につながらないような仕組みも問題だと思いました。 いろいろな「悪い仕組み」をどうやって作り変えるのか?とても難しい問題です。

そのヒントになることを、ある委員の大学の先生が教えてくれました。
ある風紀が乱れた学校で、親たちが立ち上がり、全生徒の家庭を訪問し、そこの親に一緒に子供の指導をしっかりやりましょうと話し込んでいったとか、それで数ヶ月で学校が見違えるようになった。というような話でした。
親が本気になること、というのが解決の糸口なのかもしれません。


とても納得できる話です。
こういう動きは、もしかしたら各地にあるのかもしれません。
しかしテレビではあまり報道されないような気がします。
私の見落としかもしれませんが、こういう事例こそをテレビはもっとどんどんと伝えていってほしいです。
悪い情報だけではなく、良い情報のほうを、最近みんなは求めているのです。
例外的な事件が多くの場合、ニュースになります。
例外現象と標準現象が、いまや今や逆転しているのです。
その変化に気づいてほしいです。

これは女房から聞いた話です。
女房の友人が娘の学校の授業参観に初めて参加したら、授業中に生徒たちが席を立って、勝手に動いているのだそうです。先生が注意しないので、驚いたそうです。
私は親が注意すればいいだけの話だと思いますが、親も注意しなかったのでしょうか。
もし私が、そうした授業に参観したとして、離席したのが自分の子どもでない場合、注意したでしょうか。
注意すると胸をはって答えたいですが、実際の現場になると100%の自信はありません。なにしろ電車の中での隣席の女性の化粧行為にも注意できないでいますので。
みんな問題の解決を誰か他の人に期待してしまう。
これが最近の動きかもしれません。

まずはそうした生き方から抜け出そうと思っています。
化粧行為への注意は今やできなくなってしまいましたが(今や車内の化粧は「常識」になってしまっているようですので)。

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2007/01/24

■そのまんま東さん知事就任への賛否

■そのまんま東さん知事就任への賛否(2007年1月24日)
そのまんま東さんが宮崎県の知事になりました。
出馬した時に私は大きな違和感を持ちましたが、
最近の報道情報から時間をかけてしっかりと取り組まれてきたことを知りました。
しかし、にもかかわらず違和感は消えませんでした。

今日、家族でテレビを見ながら、もし私が県の職員で突然に彼が知事としてやってきたら、おそらく辞表を出すだろうと、ついつい発言してしまいました。
テレビでは、東さんの挨拶を神妙に聞いている県庁職員の姿が映っていましたので、ついでにこの人たちも心の底ではそう思っているだろうなと、これまた余分なことを言ってしまいました。
その途端、女房と2人の娘から手厳しい反論が出てきました。
タレントという職業を差別している。
目線が高くて、自分だけが正しいと思っているのではないか。
この数年の彼のまじめな取り組みを知っているのか。
職員の気持ちまで決め付けるのは傲慢だ。
などなど。
いやはや、徹底的に3人からやり込められました。
30分近くの大論争になってしまいましたが、結論的には私が完敗してしまいました。
かなりむきになって反論してしまったのですが、女房からもう少し冷静になったらといわれました。
冷静になるまで10分くらいかかりました。
いやはや困ったものです。
わずかに賛成してもらったのは、お父さんなら辞めるだろう、ということだけでしたが、それも私への批判的な意味での賛成です。私の生き方への批判のようにも聞こえました。
父親の権威はどうやらまた大きくダウンしてしまいました。いやはや。

ところで、私の違和感の理由は、テレビで大きな影響力を発揮できる立場にいた時に、何をしていたかということと、これから立ち向かおうという仕事への思いの格差なのです。
タレントが悪いわけではありませんが、もし世直しや社会変革を考えるのであれば、それぞれの立場でできることはたくさんあります。
特にメディアでメッセージを送れる立場にある人たちが、もし「政治」への関心を持っているのであれば、自らのテレビでの言動に思いを込めるべきです。
そして行動を起こすべきです。
テレビの番組でも、充分に社会活動も政治活動もできると思うのです。
しかし、先ずタレントで知名度を上げてから、政治の世界に入るという発想は、どこかに違和感をもってしまいます。
タレントという職業を蔑視しているわけではありません。
タレントでも知事でも政治家でもキャスターでも、それぞれの分野でもっと誠実に、真剣に、社会活動をし、政治活動をしてほしいと思うのです。
娘が、タレントが政治家になるのよりも、政治家がテレビでタレントまがいをしているほうが問題ではないかといいました。もちろん私もそう思います。
タレント議員よりも、議員タレントのほうが、私にも違和感は大きいことは、これまでも書いたことがあります。
しかし、有名なタレントが選挙に出ることには大きな違和感があります。
どう考えてもフェアな選挙にはならないような気がするのです。
みなさんはどうお考えでしょうか。

ちなみに、宮崎県民の選択は納得できます。
私も県民であれば、そのまんま東さんに投票したでしょう。
しかし、県庁職員であれば、・・・・・。
冷静に考えると、迷いますね。
この文章を書き出したときには、まだ辞めると書ききるつもりだったのですが。

とここまで書いたところに、女房がやってきました。
辞めるよりも、新しい風を起こしたいのならば、
知事を活かす努力をすることこそが、あなたがいつも言っていることではないのか。
というのです。
はい、そうでした。忘れていました。
事実をきちんと受け止め、変えられない事実は活かしていくこと
それが私の目指す生き方でした。
言っていることとやっていることが違うと、また娘たちから糾弾されそうです。

というわけで、今日は娘たちと女房に教えられました。
このブログも、どうやら私の一人よがり記事が多いかもしれませんね。
自信をなくしそうです。

ところがよくしたもの?で、夕方、ある大企業の部長からメールが来ました。
そこにこう書いてあるのです。

CWSプライベートを81歳になる私の父に読ませたところ、感激していました。 これからも思っていること、怒っていること、考えていることをどんどん載せてください。父とともに楽しみにしております。
すぐその気になるのが、私の良いところです。 懲りずに書き続けることにします。はい。

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2007/01/23

■学校の先生をなぜみんな信頼しないのでしょうか

私が物事の真偽を評価する時の基準は簡単です。
当事者が本当に関わっているかどうかです。
ですからたとえば、昨日の「司法改革」で、
日弁連が「民の司法」と表現している時に、「民」のだれが直接参加しているかが、私の評価の基準です。
当事者が参加していない場合は、疑いを持って吟味します。
「○○のため」という輩は、これまでの私の体験ではほとんどが信頼できません。
「社会のため」「会社のため」もそうです。

そういう視点で考えると、いま話題の「教育再生会議」の議論は茶番劇にしか見えません。
教育改革を考えている人たちは、子どもたちのことをどのくらい知っているのでしょうか。
学校のこともですが。
それにいくら立派な政策を打ち出しても、
現場で子どもたちに接する先生たちに共感を持ってもらえなければ、実効はあがりようがないはずです。
そんなことすら考えずに、教育改革などを唱える人たちの目的は明確です。
子どもたちのためではないのです。
もし本当に学校を変えていきたいのであれば、
学校の現実をしっかりと把握することから始めるべきです。
有名人であるだけで選ばれた委員は誠意があるのであれば辞退すべきです。
それこそがこの国をまともにするための第一歩です。

いじめが問題になると、決まって校長は否定しますが、
いじめを直視している先生の声はきっと抹殺されているのでしょう。
現場でしっかりと子どもたちに付き合っている先生であれば、わかるはずです。
もし仮に本当に誰にもわからないのであれば、それはその学校の仕組みが悪いのです。
その悪い仕組みをなくすることから始めればいいのです。
仕組みを変えられるのは、それぞれの学校の現場の先生たちのはずです。
改革には難しい議論や仕組みは不要です。
しっかりした方向性を打ち出し、現場の人たちがその実現に向けて本気になれる状況をつくればいいのです。

しかし、親たちもなぜ子どもを預けている先生を信頼しないのでしょうか。
親と先生の間に信頼関係がなければ、
学校が子どもたちにとって安心できる空間になるはずがありません。
学校改革、教育改革の主役は、親と先生です。
つまり昔風に言えば、PTAです。
PTAが出てこない教育改革案は実効性がないと思います。

私は日教組には特別の感情はありませんが、
学校の現場で汗している先生たちが主役になっての改革でない限り、
改革などは絵空事でしかありません。
現場情報を一番持っている先生たちが中心になって、
子どもたちも参画したかたちでの教育再生プロジェクトが実現しないものでしょうか。
現場を知らない有識者たちの机上の議論は、そろそろやめられないものでしょうか。

日教組はもっとがんばってほしいものです。
もっとどんどん情報発信していってほしいものです。
どうせこれからは納得できる教育は行えなくなるのですから、
解雇される前に学校の現実をもっと社会に公開していくことはできませんか。
社会のためでも、子どもたちのためでもありません。
あなた自身の人生のために、です。

タウンミーティングではなく、もっと開かれた公開フォーラムを毎週、学校で開催したらどうでしょうか。
PTAが協力したら、いくらでもできると思うのですが。

渦中の人が主役になって動き出さないと改革は起こりません。
「改革」もまた「自動詞」で語る言葉だと思います。

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2007/01/22

■「司法改革」(朝日新聞社)を読みました

いま日本の司法制度が大きく変わろうとしています。
関係者によれば、明治維新、戦後改革に匹敵するほどの改革だそうです。
その改革に大きな影響を与えたのが日本弁護士連合会(日弁連)です。

日本の司法制度改革の幕開きは1990年だったそうです。
その5月に行われた日弁連の定期総会で「司法改革に関する宣言」が採択されたのです。
私は法曹界とは裁判官も検事も弁護士も同じ仲間だと考えていましたが、
どうもそうではなく、その宣言のはるか前から、日弁連は司法権独立の強化と民主化促進に取り組んできており、しかも「法曹一元化」を提案しつづけていたようです。
これは私の認識不足でした。

日本の法曹界は裁判官を頂点にして、自らの権益を守り、
汗して働いている国民のことなどは真剣に考えていない人たちが主流を占めているものとばかり思っていました。
日弁連が、戦後すぐに司法改革に取り組んできたとは知りませんでした。
反省しなければいけません。

このことを最近出版された「司法改革」(大川真郎著 朝日新聞社)を読んで知りました。

「司法改革」の著者の大川さんは、私の大学の同窓生です。
私は検事になりたくて法学部に入りましたが、
司法試験の無意味さを、少し早とちりしてしまい、その道を早々と放棄した、いわば脱落生です。
その対極にいたのが、大川さんです。

大川さんと再会したのはつい数年前です。
当時、大川さんは日弁連の事務総長でした。
まさに司法改革の中心で激務に取り組んでいた時だったのです。
その時も「司法改革」に取り組んでいる話はでましたが、
どうせ行政改革や政治改革のような実体のないものだろうと私は思っていました。
法曹界の既得権者たちが「改革」に取り組むはずがないと考えていたのです。

私は裁判官はもちろんですが、弁護士にもかなりの「偏見」を持っていました。
弁護士の友人知人は少なくないのですが、付き合いたくないという思いがどこかにありました。
しかし、最近、たてつづけに感動的な弁護士に何人かお会いする機会がありました。
どうも私の弁護士嫌いは学生時代からの先入観だったのかもしれません。
何しろ私は検事志望だったのです。

しかし、裁判員制度に関しては、私は反対論者です。
大川さんともそんな話をしたこともあります。
そのせいでしょうか、大川さんが「司法改革」を送ってきてくれたのです。
ちょうど受け取った日に、このブログ「司法権の独立と刑法のパラダイム」にトラックバックがありました。
裁判員制度徹底糾弾というブログです。

それもあって、ブログに「司法時評」というジャンルを新設しました。
過去に書いた司法関係の記事を、改めて自分でも読み直してみました。
よくまあ口汚く書いているなあと我ながら少し反省する一方で、
大川さんにも感想を聞きたいと彼のことを思い出していたのです。
まさにシンクロニシティです。

そんな状況だったので、すぐに読み出し読了しました。
いかにも大川さんらしく、主観的評価を抑えて具体的かつ資料的な司法改革の経緯を誠実に書いています。
そのため、正直に言えば、法曹界以外の人には難解で退屈なのですが、
その分、大川さんの情念や思いが見えてきます。
視点はいうまでもなく、日弁連の視点ですが、
自らに対しても厳しい事実や資料もきちんと掲載しています。
とてもフェアで好感が持てます。
司法改革の本質が少し垣間見えたように思います。
そういう意味ではとても示唆に富んでいる興味深い本です。
大川さんは、おわりに、こう書いています。

司法改革は、ある特定の組織や勢力がすべて計画し、遂行したのではなかった。(中略)司法にかかわる様々な組織・機関、さらには個人が、21世紀のあるべき司法を目指して、さまざまな立場でせめぎあい、最終的には妥協し、改革の中身が決まったのであった。(中略)しかし、日弁連が司法改革にこれほどの取り組みをしなかったとしたら、できあがった改革の中身は、相当ちがったものになったと思われる。

本書を読むと、その意味がわかります。
そして彼はこう続けています。

日弁連の目的は、すべての人々が個人として尊重される社会を目指し、そのために「法の支配」を社会の隅々まで及ぼすことにあった。この点で日弁連が牽引車として大きな役割を果たしたからこそ、抜本的な改革がなされ、「市民のための司法」がここまで実現したといってよいであろう。
本書の副題は「日弁連の長く困難なたたかい」です。 日弁連の中心になって、改革に取り組んだ弁護士の苦労は大変なものだったことがわかります。

「市民のための司法」。
それがどういうものか、私にはまだわかりませんが、
しかし、否定的に見るだけではなく、もう少し改革の実体を理解してみようと思います。
司法を私たち生活者のためのものにするには、肝心の私たちがその気にならなければいけません。
単なる批判からは何も生まれないからです。

ただ、今の段階では、これまで書いてきた司法批判は撤回する気にはなっていません。
裁判員制度も大反対であることには変わりはありません。

ちなみに、この本はじっくりと読むと面白いと思います。
大川さんの前著「豊島産業廃棄物不法投棄事件」(日本評論社)もそういう本でした。

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2007/01/21

■政治的に正しい表現運動への違和感

人にはさまざまな違いがあります。
平安な社会では「違い」は個性として活かされ、競争社会では「違い」は差別につながっていきます。
差別をするのは多くの場合、多数派です。
人は自らを基準にものごとを評価し、社会の意識は構成員の評価基準の集合ですから、多数派と違う少数派は多くの場合、垂直的な差別の対象になります。
しかし、少数派が、権力や資産、知恵を背景に差別する側になることも少なくありません。
政治や経済の基本構造は、むしろこうした少数派による差別構造に立脚しています。
そこではさまざまな手段によって、差別が不可視化され無意識化されます。
時には被差別者を差別側に取り込んでしまうこともあります。
むしろ「支配構造」はそうしてつくられます。
北朝鮮の政治体制はわかりやすい実例です。
日本も今、そうした構造が広がっています。
アンタッチャブル層の虚構の創出も政治家がよく使う手です。
かつての「部落問題」ほどではないですが、今の日本の格差社会化の背景にも、そうした動きが垣間見えます。

最近良く使われる差別を隠蔽する方法の一つが、言葉狩りです。
この数十年で、タブー語として排除された言葉は少なくありません。
排除すべきは言葉ではなく実体ですが、言葉が実体を持続させるという論理で言葉が捨てられています。
それによって問題は見えなくなりがちですが、一時の満足感は得られます。

アメリカでは1980年代にPC語運動が広がりました。
PCとはパソコンの意味ではなく、Political Correctness(政治的に正しい表現)の略です。人種、性、身体、精神などの差別につながると思われる言葉を正しい言葉にしていこうという運動です。
有名なのは人類をmankindではなくhuman-beingsに置き換えた例です。businessmanもbusinesspersonに代わりました。障害を持つ人はchallengeする人になりました。
幸いに日本語はそうした「差別性」の少ない言語ですので、私たちは単なる言葉の問題だと思いがちですが、これはおそらく文化の問題です。
もっとも日本でのタブー語批判は、言葉だけのような気もしますが。

文化の問題は言葉や文学に象徴されます。
童話に関する新しい解釈の本が最近いろいろと出ていますが、これはとても示唆に富んでいます。自らの価値観を問い直す契機にもなります。
たとえば「白」と「黒」という言葉と色があります。
童話では必ず「白」が正義を示し、「黒」が悪を示します。
白雪姫は決して黒雪姫にはなりません。
スターウォーズのダース・ベーダーは黒装束です。
暗黒という言葉はありますが、暗白という言葉はありません。
もしかしたら、黒人の世界では、暗白という言葉があるかもしれませんが。

ところで、政治的に正しい表現というときの「政治的」とはどういう意味なのでしょうか。
ピアスの「悪魔の辞典」によれば、政治とは「仮装して行う利害得失の争い」「私欲のため国政を運営すること」とあります。とても納得できますが、そうは思いたくありません。
私は大学では岡義武教授の政治学を学びました。試験は「優」でしたが、余りわかりませんでした。
政治とは何か、に関する議論はこれまでも何回か起こっているようですが、定義議論こそが政治をだめにするという論もあるそうです。
定義はともかく、政治、politicの語源が古代ギリシアのポリスにあることを考えると、人間の共同体を維持するためのものであることは間違いなさそうです。
英和辞書によると、politicには「賢明な」と「狡猾な」という意味が出ています。他にも「適切な」「便宜的な」「思慮分別のある」「策を弄する」などがあげられています。実に意味の深い言葉ですが、なにやら胡散臭さを感じます。それが政治の本質かもしれません。

長々と書いてしまいましたが、今回、私がメッセージしたかったのは、「政治的に正しい表現」ではなく「政治的に正しい実体」に関心をもっと向けるべきではないかということです。
CWSコモンズの「折口日記」の最新記事に、先日八尾市で起きた「幼児投げ落とし事件」についての報道についての言及があり、そこに折口さんが、

「知的障害」がなんであるのかを知らぬまま、また「知的ハンディ」を持つ人とのかかわりさえ持たぬ人達が平気で発言する言葉の一人歩きが心配です。
と書いています。 本当にこうしたことが増えています。 問題がノーマライズした結果かもしれません。 教育再生会議の中間報告にも、それを感じます。

今日は、差別意識を消すもっともいい方法は、自分がその立場に立ってみることだということを書こうと思っていたのですが、いつものように最初の思いとは違う内容になってしまいました。これだけ長く書いてもそこにたどりつきません。困ったものです。

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2007/01/20

■司法権の独立と刑法のパラダイム

最近、刑事事件などの刑が軽すぎるのではないかと思っている人が増えているように思います。
犯罪者が数年して刑を終えて、その直後にまた犯罪を繰り返すというようなケースも増えているように思います。
生活の苦しさを考えると軽犯罪を犯して禁固刑になったほうが良いというような冗談もあるくらいです。
国民の多くが納得できない刑罰の制度は規範性を持ちえません。

なぜそうなっているのかについて、しっかりと議論すべきではないかと思います。
それは「法とは何か」という問題につながってきますし、社会の構成原理にもつながっている問題です。
もっと平たく言えば、法は誰のためにあるのか、という問題です。
これに関しては断片的にですが、何回か書いてきました。
誰のための法かによって、解釈も内容も変わってきます。

刑法を例に取りましょう。
かつての日本では、権力的な官憲による不条理な処罰が少なくありませんでした。
その名残は今でもかなり残っています。
刑事事件における冤罪はかなり多かったはずです。
そうした状況の中では、「疑わしきは罰せず」の法理と容疑者保護の仕組みが必要です。
したがって、処罰の刑量も上限を決めることが望ましいわけです。
法は、権力者に対する規制になるわけです。
いいかえれば、刑の上限が決められている法体系は強い権力者が社会を牛耳っている社会のものであるといえるかもしれません。

しかし、司法権が独立し、権力者の所属物でなくなり、
社会のメンバーが自立した存在になっている社会では、法のパラダイムが変わります。
主眼は容疑者保護ではなく、被害者保護になるはずです。
そこでは刑の上限ではなく、下限が基本になるはずです。
死刑の意味も変わってくるでしょう。
そして同時に、司法の世界の透明性や公開性、公正性や開放性が重要になってきます。

余談ですが、その段階で初めて裁判員制度は検討課題になるのだと思います。
今のパラダイムの中での裁判員制度は百害あって一理なしです。
社会の構成原理との形式的類似性はありますが、
司法制度のパラダイムとは逆に食い違っていますから、
ホリスティックな整合性がないのです。
昨今の制度改革は、そうしたことが多いのですが。

おそらく現在は、そうした社会のパラダイム、
あるいは法原理のパラダイムが過渡期にあるのではないかと思います。
そのため刑罰が軽すぎるというケースが増えてきているのです。

いま交通事故による傷害致死事件の刑罰の上限が少し重くなる議論が出ていますが、
そうした小手先の対処では効果は出てこないでしょう。
法の規範性がますます失われるだけです。
法原理のパラダイム議論をしっかりとするべき時期に来ているように思います。


なお、新たに「司法時評」というカテゴリーを設定しました。
広義の司法問題をまとめました。
お時間のある方はまたレビューしてください。

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2007/01/19

■2つの価格方程式と不二家事件

不二家のように、コストダウンのための不適切な経営行動に陥ってしまう企業が最近増えてきていますが、この一因は商品(サービス)の価格決定の考え方にあるのではないかと思います。
現在のビジネスの根底には、顧客満足と市場主義がありますが、その影響が価格決定方式にも影を落としています。
いや、そこにこそ、現在の経済システムあるいは経済学や経営学の問題が象徴されているようにも思います。

価格とコストと利益の関係は2つの対照的な方程式が成り立ちます。
20年前まで一般的だったのは、
コスト+利益=価格(価格方程式1)
でした。
これはフルコスト発想という考え方です。
私が会社に入った頃の価格決定の主流がこれでした。
コストをかけるほど、良い品質のものができ、利益も上がるという時代でした。
コストをかけても売れなければいけませんので、コストパフォーマンスが重要になります。
つまりこの方程式は、価格が「価値」に見合うかどうかがポイントなのです。

ところがある時期から、この価格方程式は通用しなくなりました。
代わって登場した価格方程式は、
価格-利益=コスト(価格方程式2)
です。
価格はコストと関係なく、市場の厳しい競争のなかで所与的に決まります。
そしてそこから利益を引いた範囲で商品をつくらなければならなくなりました。
そうしないと市場での価格競争に敗れるからです。
そしてコストダウンが最重要の戦略課題になってしまったのです。
ちなみ、行政や公益事業でも経営発想が必要だといわれだした当初の「経営発想」はコストダウンでした。
今でもそう考えている人は少なくありません。
いうまでもありませんが、コストダウンと経営とは全く違う概念です。

価格方程式2の場合に、どのようなことが起こるでしょうか。
ここでは価格方程式1の場合と違い、コストとパフォーマンス(品質)は切り離されてしまいます。
ともかく安くすること、所定のコストに押さえることが至上命令になります。
そこに耐震偽装事件が起こる素地が生まれます。
雪印の時も、日本ハムも、今回の不二家のケースも、こうした枠組みの中で意思決定が行われてしまうわけです。

おそらく不二家の事例は氷山の一角です。
価格競争の対象になった商品やサービスの世界では、同じようなことが多くの企業で行われているのではないかと思います。
そこから抜け出すためには、価格方程式を2から1に戻すべきです。

適正なコストと適正な利益。
これをみんなで守ることが大切ですが、そのためにこそ企業は透明性を高めるとともに、社会の評価を受けやすくしていくことが必要です。
それこそが本来のCSRであり、ブランディングではないかと、私は思っています。
その仕組みを創ることは、そう難しいことではないと思うのですが。
残念ながら時代の流れは、どうも違う方向を向いてしまっているようです。
まもなくまた壁にぶつかるのでしょうか。

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2007/01/18

■未開は文明から生じたもの

文明退化論というのがあります。
ムー大陸を提唱したチャーチワードが有名ですが、他にも様々な論者が展開しています。
ムー大陸理論は大陸移動説など地球物理学の視点から今ではほとんど否定されていますが、全く否定されているわけではありません。
私は充分にありえる話だと思っています。
デニケンやウィルソン、最近ではグラハム・ハンコックなどの著作もまた、そうした論の一つといってもいいでしょう。
いい加減な話もありますが、すべてを否定する気にはなりません。
日本でも世界でも、超古代史の世界が大好きな私としては、いわゆる反「進歩主義」とは違う、文明退化論に大きな魅力を感じます。

私は、もっと短い私自身が実感できる「人生時間」においても、進歩よりも退化を実感しますが、進歩と退化は同じ事実の両面なのかもしれません。
チャーチワードは「未開は文明から生じたのであり、文明が未開から生じたのではない」と主張しています。
たしかに歴史的事実としても、アフガンやイランに見るように、あるいは南北アメリカに見るように、文明がある域を超えて破れると未開状況が発生しています。
一見、それは近代化の波に乗らなかった世界の状況との表層的類似点があるために、トルーマン以降の「開発」史観は、その文明を「未開」と一括してしまいましたが、表情の豊かさにおいては、そちらのほうがよほど豊かだったのかもしれません。
大文明が滅んだ時に、生き残った人たちが自分で生活する術を知らなかったから、わずかに残った道具にすがりながら、生き抜くしかなかった、というのがチャーチワードの考えです。
たしかに、各地に残るさまざまな遺跡を読み解く上では、こうした考えは有効です。
オーパーツという、歴史的にはありえない存在(たとえば古代ギリシア時代のコンピューターや南米の墓石に描かれた宇宙船、南極を正確に描いたピリ・レイス地図)もまた、その存在が納得できます。

パラダイムの転換とか発想の転換という言葉があります。
言葉はありますが、実際にこれを行うことは、そう簡単ではありません。
なぜならば、否定されている「非常識な前提」を受け入れるところからパラダイムシフトは始めなければいけないからです。
「常識」とは、思考を縮減するための知恵だと私は思っていますが、その「常識」を疑うことは行動の拠り所を自らが引き受けるということでもあります。
つまり自らが問われるということです。
それは結構大変なことなのです。
しかし、その一歩を歩みだすと、意外と新しい世界が開けることも事実です。
地球文明は私たち人類の祖先が育てたものという常識から自由になって発想してみると歴史がとても面白く見えてきます。いまの文明の危うさも見えてきます。

常識から解放される。
いま私たちに求められているのは、それではないかと思います。
そうすれば、不二家の問題も政治家の問題も、教育の問題も談合の問題も、すべてが素直に見えてきます。
裸の王様が素直に見えてくるのです。
そして社会が劣化し、私たちが退化していることもあながち否定できないことに気づくかもしれません。
そして、「進歩」に焦点を当てずに、「退歩」に焦点を当てると、新しい問題解決策が見えてくるように思います。
新しい文明は辺境から生ずるとよく言われますが、その意味もわかってきます。
常識の呪縛から解放されてみると、人生がとても楽しくなってきます。

ちなみに、コリン・ウィルソンの「アトランティスの遺産」(角川春樹事務所)の表紙に湖沼に浮かぶスフィンクスの絵が描かれています。
この本には、古代エジプト文明の前に、エジプトで栄えた「新文明」の話も載っていますが、この絵を見ているだけで、かつての超古代の世界が見えてくるような気がします。
私は時々、この絵を見ては、超古代から元気をもらっています。
いささか危ない話ですが。

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2007/01/17

■シニアライフをどう生きるか

九州のKさんがまたどっさりと野菜を送ってきてくれました。
大企業に勤めていたのですが、定年退職後、郷里に戻り、百姓生活をしているのです。
今回は何と関鯵の天日干しまで入っています。
手紙によると自分で釣りあげた鯵を自分で干したのだそうです。
Kさんは毎年、アサリもどっさり送ってくれます。
これも自らが浜で採集してくるのだそうです。
CWSコモンズでも紹介したことがありますが、野菜も中途半端ではなく、実に立派です。女房が今回も感動しています。
いつもレシピまでついています。

Kさんは農業だけをしているわけではありません。
地域活動にも取り組み、行政とも付き合っています。
もちろんしっかりした主体的な視点をもってです。
こうしたシニア層が増えてきました。
お金のためではなく、仕事(人生)のために生きる人たちです。
私とは仕事の関係で付き合いが始まったのですが、仕事を離れてもこういうお付き合いができるのがうれしいです。

定年後にどういう生き方をするか、そこにその人のそれまでの人生が感じられるものです。
昨日お会いしたAさんの生活も感動的なほど、豊かです。
もう70才近いのですが、私の娘のスペインタイルの教室に通ってくださっているのです。
たまたま昨日、いらしていたのですが、私も自宅にいたので、教室終了後、コーヒーをご一緒しました。コーヒーが大好きなのです。
この人も大企業の役員だったのですが、そんなことは微塵も感じさせない、見事な人です。
退職後、仕事は一切やめて、自分の世界を楽しんでいます。
たとえばヘブライ語の勉強や陶芸などをやっているのですが、昨年からスペインタイルも学びだしたのです。そんなわけで、私の娘が「先生」なのです。
たまたまその人と私に共通の友人がいることがわかり、私もお付き合いさせてもらうようになりました。
お話をしていて、アッカド学などという話が、ごく自然に出てくるのです。
いま大学で学生たちと一緒に学んでいるのだそうです。
ともかくそういう学びの時間が至福の時間なのだそうです。
「社会には役立ちませんが」とおっしゃるのですが、実はこういう生き方をしていることこそが、もしかしたら社会に大きなお役立ちをしているように思います。
NPOだけが社会ではありません。自らの暮らしぶりからの情報発信もあるのです。
最近はシンプルな生活を目指し、自動車はもちろん自転車もやめたそうです。
歩いているといろいろなことがわかるし、いろいろな人に会えます、とおっしゃいます。
同感です。

高度経済成長時代を生み出し、そこを生き抜いてきた体験を踏まえて、どんな生き方をしていくか。
私の周りで、実に様々な生き方が広がりだしていますが、KさんとAさんの生き方は全く違うようで、私には同じ生き方のように見えます。
お2人は自らが納得した生き方をしているだけでなく、社会のあり方に強いメッセージを送り出しているように思うのです。
私はまだ、お2人の域には達していませんが、学ぶことがとても多いです。

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2007/01/16

■社会奉仕活動の義務化

教育再生会議は、その第1次中間報告に、
高校で社会奉仕活動を必修化するよう明記する方針を固めたそうです。
子どもたちが社会との接点を体験するということはとても良いことですが、
あえて「必修化」といわなければいけない現実が問題なのでしょう。
それに、「社会奉仕活動」と、あえて「奉仕」という文字をなぜ使うのかも気になります。
「社会活動」ではいけないのでしょうか。
こうしたところに、問題の本質が見えているように思います。

子どもの頃から社会活動を「奉仕」の視点で義務化されてしまうことに危惧を感じます。
そこからは「楽しい」イメージはでてきません。
社会活動は本来楽しいものであり、喜びにつながる要素を持っています。
そうでなければ継続はしないでしょう。
教育再生会議のメンバーたちは、社会活動をしたことがあるのでしょうか。

私自身は「奉仕」という言葉が好きになれません。
「滅私奉公」の偽善を思い出してしまうのです。
「奉仕」は自らが「するもの」であって、
他人に「させるもの」でも「勧めるもの」でもないと思います。
ましてや素直な子どもたちに押し付けるものではありません。
大人たちが自らそうした行為をしていれば、
素直な子どもたちは義務化されずとも自然とそうした行動をしていくものです。
必修化してできるものではありません。

企業はよく「社会貢献活動」と言う言葉を使います。
これも白々しい言葉です。
以前も書きましたが、「社会活動」で充分でしょう。
自分たちが、社会を構成している一員であることを自覚していたら、
「貢献」とか「奉仕」などという言葉は使わないように思うのですが、どうでしょうか。

こういうことを20年前からいろいろなところで話しているのですが、なぜかほとんど理解されません。
私が間違っている可能性もありそうです。

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2007/01/15

■戦争を直視する姿勢

ドイツと日本の戦後教育の違いはよく指摘されることです。
子どもの教育は20~30年後に結果として出てきます。
今の社会の状況は、20~30年前の子どもへの教育の結果でもあります。

古い話ですが、1991年11月8日号のニューズウィーク誌は、真珠湾50周年特集を組みました。
そこに次のような記載がありました。

「ドイツが戦後の教育で自国の戦争犯罪を戒めてきたのに対し、日本では文部省の方針によりタブー視され、戦争を直視する姿勢がない。こうしたことの反省の弱さは若年層のナショナリズムをあおる土壌になっている」

最近、こうした指摘が日本人からよく出されていますが、遅きに失しています。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判がどう違っているのか、私は不勉強で知らないのですが、少なくとも東京裁判にも広田弘毅さんのような人もいました。
戦争をきちんと総括しようという人はいたのです。
しかし私たちはドイツのように現代史をきちんと教えることを避ける為政者の下で、教育を受けてきました。

ニューズウィーク誌が予言したように、今の日本は危険な状況になってきているように思います。
私たちの親が体験した戦争の実態をもっと真摯に直視すべきだと思います。

ちなみに、雑誌「軍縮問題資料」ではいま、「法廷で裁かれる日本の戦争責任」を連載しています。
学校では決して学ばなかった事実が語られています。
ぜひ読んでほしいと思います。
そうしたら防衛庁を防衛省にすることの恐ろしさも実感できるかもしれません。

ちなみに、教育改革が話題になっていますが、こうした視点をしっかりと入れて議論すべきではないかと思います。
「改革」には歴史観がなければいけません。
昨今の「改革」は、すべて欲得視点の小手先の詐欺でしかありません。
ちょっと言いすぎでしょうか。

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2007/01/14

■ニーメラーの教訓と家永三郎さんの選択

ニーメラーの教訓に関して、何人かの方からメールをもらいました。それで思い出したのが、家永三郎さんです。
教科書検定が憲法違反だという訴訟を起こした、家永三郎さんです。

家永さんは、法廷で次のように語ったといいます。

「私は戦争中に、わずかに個人的両親を守ることにのみ専念して祖国の破滅を傍観するあやまちを犯した。私は力の弱い一市民ですが、戦争に抵抗できなかった罪の万分の一でも償いたいという心情から、あえてこうした訴訟に踏み切った次第であります」
3回にわたる家永教科書裁判はいずれも敗訴しましたが、 この裁判のこともあって家永さんはノーベル平和賞の候補にもなりました。

家永さんの訴訟は大きな話題になり、大きな論争を起こしましたが、
残念ながら時代の流れは変わりませんでした。
いま、家永さんがご存命であれば、何をしたでしょうか。

家永さんのような、行動を起こしている人は今も決して少なくありません。
しかし、なぜ流れを変えられないのか。
きっとどこかに間違いがあるのでしょうね。
それが何かがわかるといいのですが。

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2007/01/13

■猟奇的事件の過剰報道

最近、いろいろな人と話していると、テレビのニュースを見たくない、という話がよくでます。
いまやテレビすらが、悪趣味の週刊誌のように、猟奇的な事件をしつこく報道するようになってしまいました。
テレビからも社会性が失われてきているのでしょうか。
自殺やいじめもそうですが、マスコミの報道は暴力的な効果を発揮することが少なくありません。事件を相対化するのではなく、突出させながら普遍化していくのが最近のマスコミの姿勢ですが、その刺激が状況をあおったり、判断を偏向させたりしていく可能性は小さくはないでしょう。
それにしても、どうしてこれだけ猟奇的な事件を、しかも画像で細かく執拗に報道するのでしょうか。
マスコミが取り上げる事件は、時代の象徴であるとともに、時代の解釈でもあります。
最近のテレビのニュース関連の編集に当たっている人たちは、すべてが偏執狂ではないのでしょうが(そうであってほしいと思います)、おそらくかなりの人たちは異常な事件に触れているうちに、少し異常値を高めているのだろうと思います。
そうでなければ、こうした事件にこれほどの社会的(報道的)意義を感じないでしょうし、執着しないでしょうし、報道の仕方もこれほどまでに犯罪支援的な視点を持ち得ないでしょう。
そうした人たちは、ぜひ家族との団欒を思い出してほしいと思います。
そして、自分がとりあげているニュースが、愛する家族たちに見せたいニュースなのですか、と自問してほしいです。

テレビに限りませんが、マスメディアは社会を動かしていく大切なものです。
人々を元気にし、生きる力を与え、社会的な問題を解決していくこともできます。
しかし、それは両刃の剣でもあります。
資本の論理(視聴率)や利権確保のために悪用されることがあれば、極めて危険な存在になるでしょう。
ヒットラーはそれで権力を掌握し、ベッカーは300億円を獲得しました。
猟奇的事件をこれほどしつこく報道することの背後に何があるのか。
いささかの恐ろしさを感じます。

テレビの報道局のみなさん。
1週間休みをとって、家族と一緒に自らの生き方を考え直してみませんか。
そして、もう少し、みんなを元気にするニュースに目を向けてくれませんか。
自分の人生もきっと楽しくなりますよ

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2007/01/12

■不二家事件の意味:「恥の文化」から「罪の文化」へ

また企業の不祥事件です。今度は不二家が期限切れの牛乳でシュークリームを製造していたことを隠蔽したという事件です。
雪印の時と同じく、「期限切れ原料の使用」とその隠蔽と二重の意味での反社会的行為が行われたわけです。
隠蔽の理由が、「期限切れの原料使用がマスコミに発覚すれば、雪印(乳業)の二の舞いとなることは避けられない」ということだそうですが、すでに「雪印の二の舞い」をやっていることに気づかないことに驚きを感じます。
しかし、これはいまの日本社会を象徴する事件です。

「見つからなければいい」という文化が日本を覆っています。
かつて「恥の文化」だった日本社会も、いまや「罪の文化」の社会に変質してしまったのでしょうか。
そういえば、複数の閣僚の事務所経費問題が話題になっていますが、当事者である閣僚の説明を聞いていると、これもまた同じ線上にあるように思います。
最近の政治家の不祥事をみるにつけ、健全な政治家などいないのではないかと思いますが、「マスコミに発覚しなければよい」というのが、いまの日本の権力者の常識なのかもしれません。
経済界も政界も、行政の世界も、です。

どうしてこんな社会になったのでしょうか。
私が子どもの頃は、「お天道様が見ている」ということが社会の規律を維持していたように思います。それこそがソーシャル・キャピタルだったのですが、いまやみんな「罪の文化」に逃げてしまっています。
しかも、それを先導しているのが、私と同じ世代の人たちだというのが、なんとも悔しくて哀しいです。

「罪」は受動的な概念であり、「恥」は主体的な概念です。
主体性のない人たちは「積み」を基準に生き、恥には関心を示しません。
企業のコンプライアンスが責任転嫁の論理であることに気づかなければいけません。
電車の中で化粧をする無恥な女性たちと同じなのです。

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2007/01/11

■「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」

最近、年賀メールにしています。
反応がビビッドで、やりとりができるからです。
ただあまり長いメールだと読んでもらえないので、メールそのものは短くし、私のホームページで少し長いあいさつ文と近況を読んでもらうようにしています。
今年はアドレス帳が壊れていたので、半分以上の人に発信できていないのですが、いまアドレス帳の修復に取り組んでいます。これがまた大変なのです。

ところで、年始メールでいくつかのことに気づきました。
まずアドレスを変える人が多いということです。
発信した5%くらいの人からアドレス不明で戻ってきました。
最近のスパムメールなどのためにアドレスを変えることも少なくないと思いますが、新しいアドレスの通知がなかなか徹底しないのだろうと思います。
かつての手書きの住所録管理の時とは違い、発信先が桁違いに増えているでしょうから、修正も難しくなっているでしょう。注意していないといつの間にか「つながり」が切れてしまっています。

次に、先方から連絡を受けたアドレスなのに、なぜか跳ね返されてくるものが時々あるということです。
これは理由がわかりません。繰り返し送るのですが、届きません。
連絡の方法もないので困りますが、結局は放置です。
私のアドレスが受信拒否になっている可能性もあります。
私の所に私のアドレスで、スパムが届くことが以前何回かありました。
それでうっかり受信拒否手続きをしてしまったら、私が自己発信したメールも届かなくなり、あわてて拒否解除をしたことがありますが、自分のアドレスでなければ拒否したままになっているでしょう。
私と同じアドレスで発信できるということは最初理解できませんでしたが、プロバイダーの担当者に苦情を申し入れましたが対策不能ということでした。
メールアドレスでのつながりは、とても脆いものだということを感じました。
創りやすいが壊れやすいのがメールのつながりです。

もう一つ気づいたのは、多くの人が(私も含めて)発信に重点があるということです。
改めて年始メールは読まれないものであることを実感しました。
時代そのものが「情報発信の時代」になっていると思いますが(つまり情報共有ではなく、情報の一方的発信に偏重している時代という意味です)、そうした時代状況がここにも出ています。
みんな発信したがっているのです。このブログもそうですが。

そんなことから、「脆いつながりの時代」と「一方的な情報発信の時代」を改めて実感しています。
この2つは深くつながっています。

しかし悲観的なことだけではありません。
中にはていねいに読んでくれて、いろいろと生きた言葉を送ってくださった方もいます。
これは年賀状ではなかなか難しいことです。
もちろん電話を使えばいいことですが、電話とメールでは行動を起こすバリアは全く違います。
昨年一度しかお会いしたことのない人と何回かのメール交換ができたケースも3人もあります。
思わぬことをお互いに気づきあうことも少なくありません。
情報交換コストがほとんどかからない時代になったことを実感します。

使いようによっては、開かれた対話の時代の到来を予感できます。
情報社会の本質はなかなか見えてきませんが、改めて情報リテラシーの大切さを痛感しています。

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2007/01/09

■郵政民営化の成果が見えてきました

あまり利用されない郵政公社のATMが次々と撤去されだしています。
当然のことですが、その影響は極めて大きなものがあります。
昨年秋くらいから、マスコミでも問題にされだしていますが、困る人が増えていくでしょう。
しかし、そんなことは最初からわかっていたことですから、困った人のほとんどは自業自得です。
これからこうしたことが続出するでしょう。
最悪の内閣だった小泉内閣が残した負の遺産は想像を絶するほど大きいように思います。
小泉内閣を支持した人たちはみんな苦汁を飲まされることでしょう。
ざまあ見ろ、といいたい気分も皆無ではありません。
私も最近、かなり性格が悪くなりました。反省。

郵政民営化が時代に逆行していることは少し思考能力のある人なら誰でもわかることです。
以前も書いたように、民営化とは権力者と悪徳資本家が儲ける仕組みなのですから。
もっとも今までの郵便局も、これまた悪徳権力者と悪徳資本家が跋扈していた世界かもしれません。
つまり、問題の立て方は正しかったのですが、解決策で小泉某という悪質な人物に騙されただけの話です。

しかし問題は郵政民営化に賛成した無知な国民が不便になって、経済的に損失を大きくするというだけの話ではありません。
明治維新以来、先人たちが構築してきた社会の仕組みを壊してしまったということです。
民営化するくらいなら廃止して、完全に民間企業にすれば良い話なのですが、自分たちの利権世界を育てるために、社会的なインフラストラクチャーともいうべき郵便の仕組みを金儲けの世界にただ同然で投げ出してしまったのです。
この意味は極めて甚大です。
古来からの地名を変えた浅薄な官僚がいましたが、それと同じくらい罪深い行為です。
その被害の大きさを考えれば、世間に広がっている詐欺行為など可愛いものです。
もし彼らが罪に問われるのであれば、郵政民営化に加担した経済官僚や政治家は重罪に処すべきだと私は思ってしまいます。
歴史が苦労して創りあげてきた社会資本ともいうべき、そうした仕組みや文化が次々と金儲けしか頭にない人たちによって、壊されていくのがとても寂しいです。

それは経済システムや社会システム、伝統文化だけではありません。
平和も同じです。
憲法9条は日本の宝だという、かつては政界や財界で活躍した老人が少なくありません。
その発言は傾聴に値します。
しかし、まてよ、と私は思います。
あなたたちが、それを壊してきたのだろう。
何をいまさら寝ぼけたことを言っているのだ、と思ってしまうわけです。
最近、急に、日本はおかしくなってしまったと、テレビや新聞で発言する人も増えてきていますが、社会が壊れていく時の現象なのでしょうか。
今の社会に責任を持ってもいいだろうと思う人までそういう言葉を発しているのを聞くと、老人は信頼できないなと思ってしまいます。

と、こんなことを書いている私もまた、その一人かもしれません。
がんばってもっと権力や財力を持つ存在になっていればよかったと悔やまれますが、そうしたことに半分背を向けて生きてきたために、社会的にはほとんど影響力がありません。
しかし、その世界に入ったら、今のような納得できる生き方は出来ていないでしょうね。
やはり私もまた、自分のことしか考えずに生きてきた、悪質な老人の一人かもしれません。

あれれ、書き出した時に考えていた内容と全く違う内容の話になってしまいました。
当初はもっと大切なメッセージを書くつもりだったのですが、困ったものです。
このブログは、思いに任せて書きなぐっているために、こういうことが多いのです。
今日は実は、社会が壊れていくことへの警告を書くつもりだったのですが、老人批判になってしまいました。
すみません。
私も老人の一人なので、自己批判と受け止めてください。

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2007/01/08

■絶望を知っている人間が希望を語る資格がある

私の新年の挨拶を読んで、ある人がメールで、
12月27日の毎日新聞の夕刊のインタビュー記事を教えてくれました。
「この国はどこへ行こうとしているのか」という題の、
理論社の創業者で作家でもある小宮山量平さんのインタビュー記事です。
出だしの小見出しが、

「絶望を知っている人間が希望を語る資格がある。だから、絶望を感じないといけないんだ」です。
心がえぐられるようなメッセージです。
その記事によれば、90歳になった小宮山さんは、これから長編小説の執筆を始めるのだそうです。
題は「希望=エスポワール」。完成は2年先らしいです。
ぜひ読んでみた本です。
小宮山さんのインタビュー記事はとても刺激的です。
まだ毎日新聞のサイトで読めますので、ぜひお読みください。

ところで、絶望を知らない人は希望を語れないのか。
私はそうは思いませんが、この言葉にも共感できます。
人は自分の体験した世界しか語れないことを最近痛感しているからです。

では、絶望を知った人は希望を語れるのか。
絶望と希望は、もしかしたら同義語なのではないかという気がしています。
うまく説明できませんが、いまの私には同義語に近いのです。
希望があるから絶望できる。
絶望したから希望が見えてくる。
なにやら禅問答のような話ですが、
私の今の心境です。
気楽に他の人に「希望」を持て、などとは言ってはいけないと改めて自戒しています。

今日はちょっと重くて暗い話になってしまいました。
我孫子の空はとても青くて美しかったのですが。

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2007/01/06

■ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク

ホワイトエグゼンプションが日本でも導入されるというのでいろいろなところで話題になりだしています。
何をいまさらという気がしないでもありません。
この10年の企業経営の動きから考えれば当然の帰結であり、
反対するのであればもっと早く対応すべきだったように思います。
ニーメラーの教訓は、平和だけではなく、こうした分野でもあてはまります。

もっとも、私自身はこの制度に必ずしも反対ではありません。
もちろんいまの状況の中での導入は賛成できません。
制度の発想の起点が違うからです。
日本の企業経営者や経営学者の間違いは、
個別制度だけしか考えずに、その拠って立つべき全体のパラダイムを無視してきたことです。
これまでどれだけの欧米の経営制度が導入され、見事に失敗したかを思い出さなければいけません。
コンサルタントの仕事は失敗すればするほど、仕事が増えるという構造を持っていますから、
それは彼ら(私も本業は経営コンサルタントですが)にとっては好都合なのかもしれません。

さて、ホワイトエグゼンプションのことです。
現在の雇用契約体制の枠組みの中でホワイトエグゼンプションを考えるか、
ホワイトエグゼンプションを起点に雇用契約を再構築するかによっても、
その意味合いは変わるでしょう。
私自身は、もはやこれまでのような管理型雇用労働の時代は終わり、
個人を起点にした組織原理やマネジメントへと移行することで
新しい事業主体が元気になってくると考えていますので、
うまく設計したらそれこそ三方良しの経営のポイントになるのではないかとも思っています。

問題は、いまの企業経営の実態が「経営不在」であることです。
サルでも経営できるのが今の大企業の実態だと思いますが、
経営者自らは管理だけで責任をとらず(管理責任は取りますが、そんなことは誰でもやることです)、
個々の従業員にホワイトエグゼンプションという形で責任を押し付けて、
経営の重点を移していくのはどう考えてもおかしな話です。

いまの大企業の従業員は、アントレプレナーシップはあまりないでしょうが、
これからの企業を元気にしていくのは、社内アントレプレナーです。
彼らは言われなくてもホワイトエグゼンプションをいまでもやっています。
ただ、そのモティベーションはお金ではなく自らの夢の実現、希望の実現です。
ところが今の組織原理はそれが認識できませんから、
たとえば青色ダイオード訴訟裁判のような、寂しい事件が起こるのだと思います。
ホワイトエグゼンプションが悪いのではなく、その展開の仕方が間違っているのです。

ところで、ディーセントワークという考え方が数年前から広がりだしています。
私もこれまで何回か言及してきましたが、これは仕事の価値を重視しようという考え方です。
定訳はまだありませんが、私は「納得できる仕事」と読み替えています。
労働時間短縮は、仕事に価値がないという前提にたっています。
労働よりも余暇に価値があるなどという発想は、私には全く理解できませんが、
これまでの労働実態を考えるとあながち否定はできません。
だとしたら「余暇」などというひどい言葉を使うのはやめたほうがいいはずですが、
余暇政策もまた労働政策であった日本では、何の疑いもなく余暇という言葉が広がりました。
まあ、これはまた別の問題ですので、いつか書きたいです。

成熟社会では仕事の価値が問われなければいけません。
それが従業員のモチベーションを高め、社会にも受け入れられるはずなのです。
近江商人の経営の原点も、ここにあったはずです。
日本の企業人たちのモチベーションの低さは、仕事に価値が見出せなくなったからです。
ちなみに仕事の価値は社会状況によって変わってきます。

ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク。
この二つをつなげて考えていけば、
新しい組織原理や経営の本質が少し見えてくるように思うのですが、どうでしょうか。

新しいマネジメントスキーム作りの仕事を私に任せてくれる会社はないでしょうか。
成長はともかく気持ちの良い会社を実現できると思うのですが。

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2007/01/05

■「安直な諦め」ではなく「希望」からの発想を

3日のNHKテレビで、五木寛之さんと塩野七生さんの対談がありました。
ちょっと噛みあわない感じもしましたが、そこがまた面白かったです。

ところで、そこで、塩野さんが「パレスチナでは目の前に死があるから、親殺しもいじめも自殺もない」というような趣旨の発言をされました。
五木さんもほぼ同意されていました。私もそうだろうと思います。

戦争における死も不条理な死ですが、
戦争に巻き込まれていないにもかかわらず、今の日本には不条理な死が多すぎます。
塩野さんは、それは「平和のつけ」だと言い、五木さんは「見えない戦争」だと言いました。
(記憶違いがあるかもしれません)
ここにも実に大きな示唆が含意されているように思いますが、
それはともかく、なぜ目の前に死があるかないかで、こんなにも違うのでしょうか。
パレスチナには「希望」があるでしょうか。
自爆テロに志願する人には希望があるのか、ないのか。

ある人からもメールをもらいましたが、
「希望」について考えた時に思い出したことの一つが、アウシュビッツです。
希望を持てた人は生き残り、希望を失った人は持ちこたえられなかったといわれています。
しかし、なかには自らが隣人のために死を選んだコルベ神父のような人もいます。
コルベ神父は希望を持っていたはずです。
この場合は、希望があればこそ、死を選べたのかもしれません。
自爆テロ志願者も、そうなのでしょうか。

「希望」という切り口から、時代の動きや世界の事象を見直してみると、
さまざまな気づきに出会います。
なんと「安直な諦め」が横行していることでしょう。
自らの生き方も、きっと同じなのです。
パンドラの箱の底に残されたという「希望」を、私たちはもっと大切にしなければいけません。

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2007/01/04

■希望の年

CWSコモンズのほうに、新年の挨拶として、
今年は「希望の年にしたい」と書きました。
私自身にとって、昨年は「希望」を見失いがちな年だったからです。
私だけではありません。
日本社会が見失ってきたのも「希望」だったかもしれません。

最近の日本に欠けているものは「希望」です。 「品格」も「成長」も「改革」も、希望の前には瑣末なことです。 希望があれば、学校も変わり、経済も政治も変わるでしょう。 この数十年、私たちは「希望」を壊し続けてきたのです。 自らの希望とコモンズの希望を。

全く予想していなかったのですが、何人かの方からメールをもらいました。
思いがけない反応で、半分うれしく、
半分はやはり希望がなくなっている時代なのだと思い知らされて寂しい気分でした。

ある友人はこう書いてきてくれました。

”希望”という力づよい言葉を、久々に眼にしました。 誰にとっても、希望の1年でありますように。 “希望”とは、 hopeでもない、wishでもない、desireでもない、requestでもない、expectationでもない、prospectでもない、 名利とは無縁の、智恵子が望んだ、阿多多良山の上に毎日出ている青い空のようなものですか? “品格”も“成長”も“改革”も、東京に空がないといった、智恵子の見たくない東京の空の一部かもしれません。

あまり会う機会はないのですが、
私のことをかなり冷ややかに、そして温かく見守ってくれている、40年来の友人です。
彼は、ある時、思い立って百名山を短期間に踏破したのですが、こうも書いてきました。
無断引用ですみません。

ぼくも、山の上の青い空がすきです。 たった一人ではるか遠くの山の頂へたどりつき、水平線のかなたから、“勇気”というものを貰うことにしています。 夏バテした人間が、秋風をきいて、急にシャンとなるくらいの、ささやかな気力を貰うに過ぎませんが。 “希望”と“勇気”。   しかし、その目指すところは同じような気がします。

そう思います。
希望と勇気とはコインの表裏のような気がしています。
昨年の私には勇気が失われていたのです。
小賢しくなっていたのかもしれません。
みなさんからのメールでいろいろと考えさせられました。

よかったら私のホームページの新年の挨拶も読んでみてください。

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2007/01/01

■しきたりや年中行事をもっと大切にしたいものです

今年は幸いなことに初日の出が見られました。
30日にも早く起きて日の出を見たのですが、
なぜか30日の朝と今朝では印象が違います。不思議です。
初の祝い膳の後、近くの子の神様に初詣をしました。

日本には古来、さまざまなしきたりや行事があります。
そうしたことが急速に失われたのが、この30年です。
驚くほどの速さで、なくなってきたように思います。
加速した人がいたのです。
そうしたしきたりの節目になる祝祭日も、いまや「連休」政策のもとで毎年動くようになってしまいました。
今年の成人の日は8日だそうですが、政府は成人の日を休日としか考えていないことが象徴されています。
成人の日に若者が荒れるのは当然のことでしょう。
歴史的な意味のある祝日はさすがにまだ勝手な変更はなされていませんが、時間の問題かもしれません。
歴史や文化、しきたりや慣習をおろそかにすることの意味をもっと私たちは考えるべきでしょう。

神仏の前での祈りの瞬間は、多くの人にとって「祈り」の時間であり、平穏な時間です。
少なくとも1年に一回、こうして自らの生き方を問い直し、懺悔し、祈りをささげることの意味は決して小さくないはずです。
1億人の国民が、もし初詣で、平和や安寧を祈るならば、ものすごいエネルギーになるはずです。
毎日のように起こる殺傷事件や不祥事件もなくなるかもしれません。

日本には、初詣に始まって、実に様々な年中行事がありました。
それに支えられて、世界から「美しい国」と讃えられた社会があったのです。
それを壊してきたこの数十年の政策や経済活動を改めることが大切です。
しかしそれは誰かがやってくれるわけではありません。
まずは、私たち一人ひとりが、そうした歴史や文化への関心を高めていくことから始めなければいけません。

初詣がまだの方は、ぜひ神社で手を合わせてきてください。
喪中の方は別ですが。

年中行事や古来のしきたりが回復してくれば、社会は変わっていくはずです。
私たちの生き方が変わるのですから。
年中行事や古来のしきたりをもっと重視していきましょう。
もちろん産業化や愛国心教育の対象としてではありません。
私たち一人ひとりの豊かな人生のために、です。

ちなみに、
靖国参拝などは、そうした文化に根ざす行事ではありません。
騙されてはなりません。
そうやって、古来大切にされていた文化が壊されてきたのですから。

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