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2007/01/21

■政治的に正しい表現運動への違和感

人にはさまざまな違いがあります。
平安な社会では「違い」は個性として活かされ、競争社会では「違い」は差別につながっていきます。
差別をするのは多くの場合、多数派です。
人は自らを基準にものごとを評価し、社会の意識は構成員の評価基準の集合ですから、多数派と違う少数派は多くの場合、垂直的な差別の対象になります。
しかし、少数派が、権力や資産、知恵を背景に差別する側になることも少なくありません。
政治や経済の基本構造は、むしろこうした少数派による差別構造に立脚しています。
そこではさまざまな手段によって、差別が不可視化され無意識化されます。
時には被差別者を差別側に取り込んでしまうこともあります。
むしろ「支配構造」はそうしてつくられます。
北朝鮮の政治体制はわかりやすい実例です。
日本も今、そうした構造が広がっています。
アンタッチャブル層の虚構の創出も政治家がよく使う手です。
かつての「部落問題」ほどではないですが、今の日本の格差社会化の背景にも、そうした動きが垣間見えます。

最近良く使われる差別を隠蔽する方法の一つが、言葉狩りです。
この数十年で、タブー語として排除された言葉は少なくありません。
排除すべきは言葉ではなく実体ですが、言葉が実体を持続させるという論理で言葉が捨てられています。
それによって問題は見えなくなりがちですが、一時の満足感は得られます。

アメリカでは1980年代にPC語運動が広がりました。
PCとはパソコンの意味ではなく、Political Correctness(政治的に正しい表現)の略です。人種、性、身体、精神などの差別につながると思われる言葉を正しい言葉にしていこうという運動です。
有名なのは人類をmankindではなくhuman-beingsに置き換えた例です。businessmanもbusinesspersonに代わりました。障害を持つ人はchallengeする人になりました。
幸いに日本語はそうした「差別性」の少ない言語ですので、私たちは単なる言葉の問題だと思いがちですが、これはおそらく文化の問題です。
もっとも日本でのタブー語批判は、言葉だけのような気もしますが。

文化の問題は言葉や文学に象徴されます。
童話に関する新しい解釈の本が最近いろいろと出ていますが、これはとても示唆に富んでいます。自らの価値観を問い直す契機にもなります。
たとえば「白」と「黒」という言葉と色があります。
童話では必ず「白」が正義を示し、「黒」が悪を示します。
白雪姫は決して黒雪姫にはなりません。
スターウォーズのダース・ベーダーは黒装束です。
暗黒という言葉はありますが、暗白という言葉はありません。
もしかしたら、黒人の世界では、暗白という言葉があるかもしれませんが。

ところで、政治的に正しい表現というときの「政治的」とはどういう意味なのでしょうか。
ピアスの「悪魔の辞典」によれば、政治とは「仮装して行う利害得失の争い」「私欲のため国政を運営すること」とあります。とても納得できますが、そうは思いたくありません。
私は大学では岡義武教授の政治学を学びました。試験は「優」でしたが、余りわかりませんでした。
政治とは何か、に関する議論はこれまでも何回か起こっているようですが、定義議論こそが政治をだめにするという論もあるそうです。
定義はともかく、政治、politicの語源が古代ギリシアのポリスにあることを考えると、人間の共同体を維持するためのものであることは間違いなさそうです。
英和辞書によると、politicには「賢明な」と「狡猾な」という意味が出ています。他にも「適切な」「便宜的な」「思慮分別のある」「策を弄する」などがあげられています。実に意味の深い言葉ですが、なにやら胡散臭さを感じます。それが政治の本質かもしれません。

長々と書いてしまいましたが、今回、私がメッセージしたかったのは、「政治的に正しい表現」ではなく「政治的に正しい実体」に関心をもっと向けるべきではないかということです。
CWSコモンズの「折口日記」の最新記事に、先日八尾市で起きた「幼児投げ落とし事件」についての報道についての言及があり、そこに折口さんが、

「知的障害」がなんであるのかを知らぬまま、また「知的ハンディ」を持つ人とのかかわりさえ持たぬ人達が平気で発言する言葉の一人歩きが心配です。
と書いています。 本当にこうしたことが増えています。 問題がノーマライズした結果かもしれません。 教育再生会議の中間報告にも、それを感じます。

今日は、差別意識を消すもっともいい方法は、自分がその立場に立ってみることだということを書こうと思っていたのですが、いつものように最初の思いとは違う内容になってしまいました。これだけ長く書いてもそこにたどりつきません。困ったものです。

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