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2007/01/05

■「安直な諦め」ではなく「希望」からの発想を

3日のNHKテレビで、五木寛之さんと塩野七生さんの対談がありました。
ちょっと噛みあわない感じもしましたが、そこがまた面白かったです。

ところで、そこで、塩野さんが「パレスチナでは目の前に死があるから、親殺しもいじめも自殺もない」というような趣旨の発言をされました。
五木さんもほぼ同意されていました。私もそうだろうと思います。

戦争における死も不条理な死ですが、
戦争に巻き込まれていないにもかかわらず、今の日本には不条理な死が多すぎます。
塩野さんは、それは「平和のつけ」だと言い、五木さんは「見えない戦争」だと言いました。
(記憶違いがあるかもしれません)
ここにも実に大きな示唆が含意されているように思いますが、
それはともかく、なぜ目の前に死があるかないかで、こんなにも違うのでしょうか。
パレスチナには「希望」があるでしょうか。
自爆テロに志願する人には希望があるのか、ないのか。

ある人からもメールをもらいましたが、
「希望」について考えた時に思い出したことの一つが、アウシュビッツです。
希望を持てた人は生き残り、希望を失った人は持ちこたえられなかったといわれています。
しかし、なかには自らが隣人のために死を選んだコルベ神父のような人もいます。
コルベ神父は希望を持っていたはずです。
この場合は、希望があればこそ、死を選べたのかもしれません。
自爆テロ志願者も、そうなのでしょうか。

「希望」という切り口から、時代の動きや世界の事象を見直してみると、
さまざまな気づきに出会います。
なんと「安直な諦め」が横行していることでしょう。
自らの生き方も、きっと同じなのです。
パンドラの箱の底に残されたという「希望」を、私たちはもっと大切にしなければいけません。

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