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2007/01/20

■司法権の独立と刑法のパラダイム

最近、刑事事件などの刑が軽すぎるのではないかと思っている人が増えているように思います。
犯罪者が数年して刑を終えて、その直後にまた犯罪を繰り返すというようなケースも増えているように思います。
生活の苦しさを考えると軽犯罪を犯して禁固刑になったほうが良いというような冗談もあるくらいです。
国民の多くが納得できない刑罰の制度は規範性を持ちえません。

なぜそうなっているのかについて、しっかりと議論すべきではないかと思います。
それは「法とは何か」という問題につながってきますし、社会の構成原理にもつながっている問題です。
もっと平たく言えば、法は誰のためにあるのか、という問題です。
これに関しては断片的にですが、何回か書いてきました。
誰のための法かによって、解釈も内容も変わってきます。

刑法を例に取りましょう。
かつての日本では、権力的な官憲による不条理な処罰が少なくありませんでした。
その名残は今でもかなり残っています。
刑事事件における冤罪はかなり多かったはずです。
そうした状況の中では、「疑わしきは罰せず」の法理と容疑者保護の仕組みが必要です。
したがって、処罰の刑量も上限を決めることが望ましいわけです。
法は、権力者に対する規制になるわけです。
いいかえれば、刑の上限が決められている法体系は強い権力者が社会を牛耳っている社会のものであるといえるかもしれません。

しかし、司法権が独立し、権力者の所属物でなくなり、
社会のメンバーが自立した存在になっている社会では、法のパラダイムが変わります。
主眼は容疑者保護ではなく、被害者保護になるはずです。
そこでは刑の上限ではなく、下限が基本になるはずです。
死刑の意味も変わってくるでしょう。
そして同時に、司法の世界の透明性や公開性、公正性や開放性が重要になってきます。

余談ですが、その段階で初めて裁判員制度は検討課題になるのだと思います。
今のパラダイムの中での裁判員制度は百害あって一理なしです。
社会の構成原理との形式的類似性はありますが、
司法制度のパラダイムとは逆に食い違っていますから、
ホリスティックな整合性がないのです。
昨今の制度改革は、そうしたことが多いのですが。

おそらく現在は、そうした社会のパラダイム、
あるいは法原理のパラダイムが過渡期にあるのではないかと思います。
そのため刑罰が軽すぎるというケースが増えてきているのです。

いま交通事故による傷害致死事件の刑罰の上限が少し重くなる議論が出ていますが、
そうした小手先の対処では効果は出てこないでしょう。
法の規範性がますます失われるだけです。
法原理のパラダイム議論をしっかりとするべき時期に来ているように思います。


なお、新たに「司法時評」というカテゴリーを設定しました。
広義の司法問題をまとめました。
お時間のある方はまたレビューしてください。

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