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2007/01/06

■ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク

ホワイトエグゼンプションが日本でも導入されるというのでいろいろなところで話題になりだしています。
何をいまさらという気がしないでもありません。
この10年の企業経営の動きから考えれば当然の帰結であり、
反対するのであればもっと早く対応すべきだったように思います。
ニーメラーの教訓は、平和だけではなく、こうした分野でもあてはまります。

もっとも、私自身はこの制度に必ずしも反対ではありません。
もちろんいまの状況の中での導入は賛成できません。
制度の発想の起点が違うからです。
日本の企業経営者や経営学者の間違いは、
個別制度だけしか考えずに、その拠って立つべき全体のパラダイムを無視してきたことです。
これまでどれだけの欧米の経営制度が導入され、見事に失敗したかを思い出さなければいけません。
コンサルタントの仕事は失敗すればするほど、仕事が増えるという構造を持っていますから、
それは彼ら(私も本業は経営コンサルタントですが)にとっては好都合なのかもしれません。

さて、ホワイトエグゼンプションのことです。
現在の雇用契約体制の枠組みの中でホワイトエグゼンプションを考えるか、
ホワイトエグゼンプションを起点に雇用契約を再構築するかによっても、
その意味合いは変わるでしょう。
私自身は、もはやこれまでのような管理型雇用労働の時代は終わり、
個人を起点にした組織原理やマネジメントへと移行することで
新しい事業主体が元気になってくると考えていますので、
うまく設計したらそれこそ三方良しの経営のポイントになるのではないかとも思っています。

問題は、いまの企業経営の実態が「経営不在」であることです。
サルでも経営できるのが今の大企業の実態だと思いますが、
経営者自らは管理だけで責任をとらず(管理責任は取りますが、そんなことは誰でもやることです)、
個々の従業員にホワイトエグゼンプションという形で責任を押し付けて、
経営の重点を移していくのはどう考えてもおかしな話です。

いまの大企業の従業員は、アントレプレナーシップはあまりないでしょうが、
これからの企業を元気にしていくのは、社内アントレプレナーです。
彼らは言われなくてもホワイトエグゼンプションをいまでもやっています。
ただ、そのモティベーションはお金ではなく自らの夢の実現、希望の実現です。
ところが今の組織原理はそれが認識できませんから、
たとえば青色ダイオード訴訟裁判のような、寂しい事件が起こるのだと思います。
ホワイトエグゼンプションが悪いのではなく、その展開の仕方が間違っているのです。

ところで、ディーセントワークという考え方が数年前から広がりだしています。
私もこれまで何回か言及してきましたが、これは仕事の価値を重視しようという考え方です。
定訳はまだありませんが、私は「納得できる仕事」と読み替えています。
労働時間短縮は、仕事に価値がないという前提にたっています。
労働よりも余暇に価値があるなどという発想は、私には全く理解できませんが、
これまでの労働実態を考えるとあながち否定はできません。
だとしたら「余暇」などというひどい言葉を使うのはやめたほうがいいはずですが、
余暇政策もまた労働政策であった日本では、何の疑いもなく余暇という言葉が広がりました。
まあ、これはまた別の問題ですので、いつか書きたいです。

成熟社会では仕事の価値が問われなければいけません。
それが従業員のモチベーションを高め、社会にも受け入れられるはずなのです。
近江商人の経営の原点も、ここにあったはずです。
日本の企業人たちのモチベーションの低さは、仕事に価値が見出せなくなったからです。
ちなみに仕事の価値は社会状況によって変わってきます。

ホワイトエグゼンプションとディーセントワーク。
この二つをつなげて考えていけば、
新しい組織原理や経営の本質が少し見えてくるように思うのですが、どうでしょうか。

新しいマネジメントスキーム作りの仕事を私に任せてくれる会社はないでしょうか。
成長はともかく気持ちの良い会社を実現できると思うのですが。

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