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2007/01/04

■希望の年

CWSコモンズのほうに、新年の挨拶として、
今年は「希望の年にしたい」と書きました。
私自身にとって、昨年は「希望」を見失いがちな年だったからです。
私だけではありません。
日本社会が見失ってきたのも「希望」だったかもしれません。

最近の日本に欠けているものは「希望」です。 「品格」も「成長」も「改革」も、希望の前には瑣末なことです。 希望があれば、学校も変わり、経済も政治も変わるでしょう。 この数十年、私たちは「希望」を壊し続けてきたのです。 自らの希望とコモンズの希望を。

全く予想していなかったのですが、何人かの方からメールをもらいました。
思いがけない反応で、半分うれしく、
半分はやはり希望がなくなっている時代なのだと思い知らされて寂しい気分でした。

ある友人はこう書いてきてくれました。

”希望”という力づよい言葉を、久々に眼にしました。 誰にとっても、希望の1年でありますように。 “希望”とは、 hopeでもない、wishでもない、desireでもない、requestでもない、expectationでもない、prospectでもない、 名利とは無縁の、智恵子が望んだ、阿多多良山の上に毎日出ている青い空のようなものですか? “品格”も“成長”も“改革”も、東京に空がないといった、智恵子の見たくない東京の空の一部かもしれません。

あまり会う機会はないのですが、
私のことをかなり冷ややかに、そして温かく見守ってくれている、40年来の友人です。
彼は、ある時、思い立って百名山を短期間に踏破したのですが、こうも書いてきました。
無断引用ですみません。

ぼくも、山の上の青い空がすきです。 たった一人ではるか遠くの山の頂へたどりつき、水平線のかなたから、“勇気”というものを貰うことにしています。 夏バテした人間が、秋風をきいて、急にシャンとなるくらいの、ささやかな気力を貰うに過ぎませんが。 “希望”と“勇気”。   しかし、その目指すところは同じような気がします。

そう思います。
希望と勇気とはコインの表裏のような気がしています。
昨年の私には勇気が失われていたのです。
小賢しくなっていたのかもしれません。
みなさんからのメールでいろいろと考えさせられました。

よかったら私のホームページの新年の挨拶も読んでみてください。

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