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2007年2月

2007/02/28

■お金で豊かさを買うのではなく、豊かさでお金を買う社会

もう一度だけ、生き方について書きます。お金と豊かさの関係です。
私たちは、豊かな暮らしのためにお金を稼ごうとしています。
確かにお金があれば、美味しい食事も楽しい旅行もでき、豊かな時間がすごせるかもしれません。
しかし、その一時の豊かさの時間のために、どれほどの豊かな時間や気持ちを注ぎ込んだことでしょうか。
豊かではないたくさんの時間を、わずかな豊かな時間を手に入れるために使っているのではないでしょうか。
お金で快適な家を手に入れることが出来たとして、その家でゆっくりと豊かな時間を過ごすことができている人がどのくらいいるでしょうか。

お金があれば何でも買えるという若者もいましたが、お金で買えないのが「豊かさ」ではないかという気がします。
まあ、「豊かさとは何か」という定義にもよりますが。
お金の多さこそが豊かさの高さを示すのではないかという人もいるでしょうが、豊かではない金持ちも、豊かな生活をしている貧乏人もいます。

私たちの最近の生活は、「お金で豊かさを買う」のではなく、むしろ「豊かさを犠牲にしてお金を稼ぐ」生活をしているのではないかという気がします。
いずれにしろ、お金と豊かさが交換されているわけですが、消費の局面ではなく、労働(生産)の局面で交換されていると考えると新しい風景が見えてくるような気がします。
お金がないから豊かではない、のではなく、本来は豊かな暮らしが出来るはずなのに、それを犠牲にして、その対価としてお金を得ているのが、最近の多くの人のワークスタイルです。
そして、その延長として生活的にではなく、経済的に消費行動をしているのが、若者たちの生き方かもしれません。私には、最近の消費もまた経済活動に組み込まれた貧しさを感じてしまうのです。つまり、消費の局面でも実は豊かさを犠牲にする仕組みが広がっているように感ずるのです。

お金で豊かさを買っていたつもりが、実は豊かさでお金を買っていた。
そう考えてみると、きっと違った風景が見えてくるような気がします。

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2007/02/27

■「社会のため」という大義の意味不明さ

私には理解できない言葉がたくさんあります。
たとえば、「社会のため」という言葉です。
私の言動はすべて「私のため」です。
社会のためという意識はありません。
きわめて利己的なのです。

しかし、利己的であることは利他的に通じます。
近江商人が行き着いた商人道、あるいは宮澤賢治の「世界みんなの幸せがあって自分の幸せが実現する」という世界観のように、社会がたくさんの「私」で構成されているのであれば、「私のため」こそが社会を構成しているのです。
「社会のためにやっています」などという言葉は、私には理解しにくい言葉です。
第一、「社会」ってなんでしょうか。
見る視座や視野によって、全く内容は違ってくるでしょう。
そういう言葉が多すぎるのが現代かもしれません。

社会の最小単位は家族だろうと思います。
その原点はもちろん夫婦ですが、その夫婦や家族がいま大きく変わろうとしています。
男女共同参画は今の夫婦や家族関係を壊そうとしていますし、現代の経済システムもまた、これまでの家族関係が阻害要因になってきているのかもしれません。

いずれにしろ「家族」はいま、危機に瀕しています。
少子化の原因は夫婦や家族の制度の崩壊に起因していると私は思っています。
児童手当などはそれを加速するだけでしょう。
家族のあり方を、改めて考えなおすべき時期にきているような気がします。
家族を軽視して、社会のあり方は見えてきません。
もちろんここでいう「家族」は血縁家族に限っているわけではありませんが。

昨日、「女房のため」と書いたら、女房から「家族のため」ではないのかと指摘されました。
「女房のため」か「家族のため」か、あるいは「自分のため」か。
そうしたところから考えた上で、「社会のため」を語ることが大切ではないかと思います。
自分も家族も、社会の構成要素なのですから。

最近、人生について、いろいろと考えることが多いのです。
歳のせいでしょうか。
いや年甲斐もなく、でしょうか。

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2007/02/26

■あなたは誰のために生きていますか

みなさんは誰のために生きているのでしょうか。「何のために」ではなく「誰のために」です。
「何のために」は手段概念であり、「誰のために」は「生きる」ことに内包された目的概念だと考えています。
生命や生活を支えるのは、きっと「何のため」ではなく「誰のため」です。

昨年、東尋坊で自殺予防の活動を続けている茂さんにお会いした時にもそう感じました。茂さんは著書「東尋坊 命の灯台」でこう書いています。(94ページ)

東尋坊で崖の上から身を投げようとするとき、人は孤独です。 でも、そこに辿り着く前に、とっくに人は孤独になっているのだと思います。(中略) 「あなたは孤独だ。あなたは生きる資格がない」  一度その声が聞こえ始めると、容易には振り払えない。
孤独とは社会的な死かもしれません。 自殺する人は、その前に死を体験しているのかもしれません。 自殺予防の鍵は、そこにあるのかもしれません。

孤独のなかで社会的に大活躍している人がいるではないかといわれそうですが、その人の心の中にはきっと「誰か」がいるはずです。
そうでなければ活動は持続できないのではないかと思います。
あるいは、落語「粗忽長屋」にあるように自分が死んでしまったのに気づかないだけの話かもしれません。

「誰のために」の「誰」を見つけるのは簡単です。
うれしいこと、悲しいことがあった時に、みなさんは先ず誰に話したくなるでしょうか。
その人が「誰」その人なのです。
どんなに大成功しても、有名になっても、それを分かち合える人がいなかったら、喜びも半減するでしょう。
見ず知らずのたくさんの人が喜んでくれるよりも、身近な誰かが喜んでくれるほうがうれしくはないでしょうか。
分かち合ってくれる人がいなければ、悲しさも倍増します。
人は決して一人で完結しているのではありません。
自立とか自律とかいう言葉がありますが、人は関係性の中においてしか自立も自律もできないのです。

あの人のために生きているという思いこそが、人の生命を支えています。
それがなかったら、人はもっと簡単に死んでしまえるでしょう。
死を阻んでいるのは、死への恐怖ではなく、自分でない誰かへの優しさなのではないでしょうか。

自分の生命を支えてくれる誰かの先には、また同じようにその人を支えている誰かがいます。
そうして支えのつながりは、植物の根のように絡み合いながらどんどん広がっています。
そうしたつながりが育ってくると、社会から自殺も殺人も戦争も貧困もなくなるはずです。誰かを傷つけることは、結局は回りまわって自らの生命を傷つけることになるからです。

問題は、生命を支える、そうした「誰」かが見えにくくなってきたことです。
その一因は、お金かもしれません。
誰かのためではなく、お金のために生きる人が増えているのが寂しいです。
お金は決して、私たちの喜びや悲しさを分かち合ってはくれません。

私の生命を支えてくれているのは女房です。
私は女房のために生きています。
そして女房の先にあるたくさんの人たちのためにも、です。
そこにはおかしな話ですが、自分も含まれています。

みなさんは誰のために生きていますか。

追記
この記事にトラックバックがついていますが、ぜひその記事も読んでください
そのブログも面白いので、他の記事もお薦めです。

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2007/02/25

■結果としての格差社会、構造としての格差社会

格差社会論や格差是非論が飛び交っていますが、
そんな退屈な議論とは関係なく、さまざまな格差が不幸な事件を起こしていることは否定できません。
たとえば一昨日のあずみ野観光バスの死傷事故
家族経営による無理な過剰労働が起こした悲劇です。
経営に問題ありと断罪するのは簡単ですが、
過当な競争状況の中で事業を継続していくには身を粉にして働かなければならなかったのかもしれません。
その一方で、不当労働で高利益を得ている人がたぶんいるはずです。
つまり仕事が二重構造になっているのです。
当然、その背後には非連続な権力構造があります。
国際貿易の中でのフェアトレードが問題になっていますが、それと同じ構造が国内にもあるわけです。
問題は結果としての格差ではなく、構造としての格差があることです。

今月北海道で起こったフリーダム十勝の理事長夫妻の悲劇も同じ構造が見えてきます。
この事件は、障害者の自立支援に誠実に取り組んできた夫婦が、
自立支援法によって展開してきた施設の運営が継続できなくなり、
その悩みから夫が妻を殺害し自らも死ぬという惨事です。
フリーダム十勝のホームページをみると、その悲劇がますます哀しく感じられます。

自立支援法に限りませんが、最近の福祉行政にはいろいろの問題が付きまとっているようです。
そこではNPOが格差構造の一翼を担うことがないわけではありません。
サブシステムとして、NPOが便宜的に使われているわけです。
いずれの事件も、当事者たちが疲れきっていたことが象徴的です。

アミネ事件は少し違うような気もしますが、
基準があいまいで、恣意的に結果を出せる不条理な権力構造があるということは、
やはり構造としての格差を感じます。
その構造が経済的な格差を現出することはいとも簡単なことです。

力の格差を解消する方向で進んできた社会が、この数年、逆転してきていることに大きな問題があります。
所得格差などは結果としての瑣末な現象でしかないように思います。
ここでも多くの誠実な生活者は目くらましにあっているような気がします。

いずれにしろ、この国は誠実に生きている人にはとても住みにくい国になってきているのではないかと思わざるをえません。
誠実に生きることを放棄する人が増えてきても仕方がないのかもしれません。
誠実に生きることが難しくなってきているのですから。
もちろん私はそういう生き方が幸せだとはまったく思ってはいませんが。

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2007/02/24

■地域社会は自らを元気にする力を備えています

青森県の三沢市で行われた住民主催の公開フォーラムに参加させてもらいました。
三沢市ではこれまで5年間、行政が補助金を出して、花と緑のまちづくり活動を展開してきたのですが、来年度から補助金がなくなることになったのです。
しかし活動を継続したいという住民たちと行政の一致した思いから、行政からの呼びかけで、どうすればいいかを考える住民委員会が作られました。
私は、その活動のアドバイザー役として、昨年2回、委員会に参加させてもらいました。
その活動発表会として、公開のフォーラムが22日に開催されました。
CWSコモンズにも書きましたが、予想を上回る住民が参加し、これからの住民主役で活動が楽しみです。
私は、今回は3回目の参加ですが、その途中で、住民たちの表情と発言がどんどん変わってきたのが感動的です。
最初の委員会では行政への要望や陳情的な発言が多かったのですが、2回目には自分たちはこんなことが出来るというような前向きの発言が増えてきました。
それと同時に表情が輝きだしてきたように思います。
委員会の前後に住民の人たちと話しても、1回目とは違って楽しそうなのです。
そして今回。3つの部会に別れて提案をしたのですが、いずれも行政や誰かに何かを頼むのではなく、自分たちはこんなことをするという提案がほとんどです。
受付などをやっている住民たちも楽しそうでした。
会場からも前向きの発言が多かったのも印象的でした。
夕張市の事例もありますが、住民たちみんなは本当は自分たちのまちを自分たちでよくしたいと思っているのです。
それに住民たちの中にはさまざまな専門家もいるのです。
そうした人たちが、お互いに活かしあうつながりを育てていけば、お金などなくても、まちは育っていくのです。
極端に言えば、これまでの行政は、そうした自発的なまちそだちの力を押さえ込んできたのです。

フォーラムの様子は、三沢市のホームページにも書かれていますので
ぜひお読みください。

私は、国土交通省の地域振興アドバイザー制度に基づいて参加したのですが、その国土交通省の勉強会でも、地域を元気にしたいのであれば、霞ヶ関は何もしないほうがいいという話をしてしまったことがあります。

もちろん何もしないほうがいいというのは、今のような発想であれば、という意味です。
現場を支援するという視点であれば、いくらでもやることがあるのに、今やっていることは現場を支援する形にはなっていないような気がします。
それが漸く夕張市の事例で顕在化してきたように思います。
夕張市から、きっと新しいまちづくりの歴史が始まるでしょう。

これは何も地域を元気にするという分野だけの話ではありません。
学校もそうですし、NPOもそうです。
「支援」と「阻害」はコインの裏表であることを忘れてはいけません。
持続可能な楽しい活動は「支援」からは生まれません。
行政が助成金をばら撒いている状況は、とても寂しい気がします。

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2007/02/17

■不法と違法

アミネ事件の決着は私にはなかなか納得できませんが、一家にとっては最悪の事態は避けられたのかもしれません。
アミネ一家を支援してきているAPFSから次のようなメールが届きました。

アミネさん一家のようなケースは後をたちません。 私たちAPFSは今後とも長期にわたり日本で暮らした非正規滞在者の合法化-在留特別許可取得のため全力を尽くしていく所存です。
「非正規滞在者」。 新聞などでは「不法滞在」と書かれています。

今朝の朝日新聞に、「違法スレスレ 銀行セールス」という記事が出ていました。
銀行は最近、定期預金の満期直前の顧客を狙って、年金保険などの販売をしているのだそうですが、これは顧客情報を保険販売に使うこと禁じている法律に違反していないのかどうか、微妙なのだそうです。
違反しているのは明らかだと思いますが、アミネ一家とは違い銀行は黒でも白といえるほどの力があるのかもしれません。

ところで、「不法」と「違法」とはどう違うのかが気になってきました。

集英社の国語辞典によれば、「不法」は法に反すること、人の道に背くこと。「違法」とは法律に背くこと。とあります。
「法」と「法律」の違いもありますが、どうやら「不法」のほうが実体的な生活概念、「違法」は規制的な管理概念のようです。
そういう視点で、改めてアミネ問題を考えると、やはり納得は出来ません。
不法行為なのでしょうか。

「不正」「非行」という言葉もあります。
これも前者は実体概念、後者は管理概念だと思いながら、辞書を調べてみました。
同じ辞書によれば、「非行」とは不正な行い、特に青少年の社会規範・法律に反する行為、とあります。「不正」は道義上または法律的に正しくないこと、とあります。
私は「非行」ということばは管理概念の言葉と思っていましたが、不正と同じような意味のようです。

どうでもいいような話を書いてしまいましたが、
こうした言葉を私たちはもっとしっかりと理解しておくべきではないかと、改めて思いました。
言葉で私たちの意識は大きく変えられてしまうからです。
言葉をたくみに操る権力者には注意しなければいけません。

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2007/02/16

■個人情報保護に関する勘違い

あるところで、最近は個人情報保護で会員の名簿すら作れないという話を聞きました。
そういえば、こういう話が良く話題になります。
今週だけでも2回目です。

私自身もいくつかの体験をしています。
名簿を作ろうとすると誰かが大丈夫かというのです。
イベントなどをやった時も、参加者名簿は配布しないほうがいいのではないかと言われたこともあります。
学校からボランティア参加者の名簿を作りたいのだが、自治会内のボランティアの人に了解を取って名簿を提出してくれないかと頼まれたこともあります。
私が自治会長だったからですが、最初から学校でボランティア登録してもらった、名簿を作ればみんなで協力できるはずなのです。

なにかおかしいです。みんな萎縮しているのです。
悪いことをしようというのならともかく、そうでない人が困ってしまうことはないのです。
もっと堂々と名簿を作ればいいのです。

個人情報とは、氏名や生年月日や住所など、個人を識別できる情報のことであって、プライバシー情報とは違います。
昔は電話帳に住所も載っていましたし、同窓会名簿や人名録で生年月日なども載っていました。
氏名は人に知らせるためのものですから知られて当然のことなのです。
ネットではハンドルネームなどを使うのが常識になっていますが、
私には違和感があります。
なぜ実名を出せないのか。
実名で語らない人の記事は私には関心がまったくありません。
名前を言わないのであれば、内容にも「実」はないでしょう。

なぜ隠さなければいけないのか。
ITの発展によって情報社会になったからこれまでとは違うというのが大方の考えですが、
問題は情報保護ではなく、個人保護であって、使い方の規制のはずです。
あるいは悪用する人たちの規制です。
個人情報保護法が出来たことで、悪用しようと思っている人たちはむしろ喜んでいると私は思います。
いかにも中途半端な情報管理体制が現実ですから、その気になればいくらでも集められるでしょうし、
その分、悪さは大規模化するはずです。
管理統制すれば、必ずその抜け道を探した犯罪が起こるものです。

女性に歳を聞いてはいけないという、まさに女性蔑視の「常識」がかつてはありましたが、
それ以外はすべて大らかに社会に出回っていた情報を、
なぜ法律までつくって「保護」するようになったのでしょうか。
その理由を考えてみる必要があります。
うがった見方をすれば、情報産業支援と行政の責任逃れです。
さらにいえば、犯罪者支援もあったかもしれません。

個人情報保護法が対象とすべきは、
個人情報を集積している行政や公的機関であり、
情報の悪用を考えている業者でなければいけません。
私たち生活者が、活動しにくくなるような個人情報保護の動きは本末転倒なのです。
しかし、現在の状況はその本末転倒が起こっているのです。

どんどん名簿を作りましょう。
イベント参加者の横のつながりを作るために、どんどん参加者名簿を流しましょう。
市民活動を規制するような法律は、つまるところ「個人情報」保護の名目で、「個人」保護を軽視しているのです。
個人情報保護などという名目での管理体制化の動きに騙されてはいけません。
個人情報は知られてこそ、意味があるのです。
山奥でこっそり暮らしたいのであれば別ですが、そうでないのであればどんどん個人情報は露出していくのが良いように思います。
それが「つながり」を育てることになるはずです。

それに、個人情報を隠そうとする人を、皆さんは信頼できますか。
私はあんまり信頼できません。

またまた暴言になってしまいました。

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2007/02/15

■「障害」を意識しない社会

昨日、盲ろう者の星野さんからとても面白い話を聞きました。
盲ろう者(視覚障害と聴覚障害を持っている人)の集まりがあるのだそうですが、そこに行くと自分が盲ろう者であることを忘れてしまうというのです。
視聴覚障害に限って言えば、みんな相互に理解しあえるからだろうと思います。
つまり違いに違和感を持たないわけです。
日本人の中にいると、だれも自分を日本人と意識しないというのと同じことかもしれません。
おそらくそこで星野さんが意識する「違い」は、それぞれの個性や意識でしょう。
「盲ろう者」という抽象概念ではなく、表情のある「自分」なのです。
その「違い」はきっと肯定的な「違い」なのです。元気の素になる「違い」です。
この話にはとても大きな意味があるような気がします。
その話を聞いてから、その「大きな意味」は一体何だろうとずっと考えているのですが、のどまで出てきているような気がしながら、それが何かまだわかりません。

視覚障害や聴覚障害は、外部からも知覚できますから、客観化しやすいですが、知的な面や精神的な面になると、その違いはなかなか客観化できません。
発達障害や精神障害は、なかなか外部からは見えませんし、自らもまたそれを自覚しにくいはずです。
もし同じような仲間の集まりであれば、そうした障害を意識しないかもしれません。

しかしいずれの場合も、「障害」は存在しているわけです。
つまり「障害」の有無と関係なく、顕在化する場としない場があるということです。

このことを踏まえて視座を逆転させれば、「障害」を意識しない日常生活の中でも、私たちは言葉としては概念化されていないかもしれませんが、それぞれの「障害」を持っているといってよいでしょう。
その「障害」をある人は否定的に捉え、ある人は肯定的に捉えるわけです。
女は社会によってつくられるというボーヴォワールの発見は、障害にも当てはまるわけです。すべての概念は社会の産物です。

「障害」という表現を使ってきましたが、「違い」と置き換えても良いでしょう。
「障害」はどこに基準を置くかで変わってくるからです。
たとえば人は自力では空を飛べませんから、空を飛べないことは「障害」とは意識されません。しかしもし人間と鳥が同じ仲間として暮らすようになれば、空を飛べないことは「障害」になります。

「障害」はつまるところ「違い」ですし、個性や能力とつながっている概念です。
逆の言い方をすれば、人はみんな、何らかの違いを持っていますから、それぞれに「障害」をもっているわけです。
それを「個性」や「能力」と考えるか、「障害」と考えるか。
それによって世界は大きく変わってきます。

「違い」を活かしあう社会を目指したいと思っている私としては、星野さんの話がずっと気になっているのですが、まだそれが含意するメッセージに行き着けません。
しばらく悩まなければいけなさそうです。

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2007/02/14

■「無知のベール」のもとでの視界の広さ

アミネ一家の強制退去が決定したようです。
アミネさん自身は、留学を目的にした再入国が検討されるようでが。

以前も書いたように、国家が法を根拠に、こうした平和な家庭を壊すことには不安がありますが、
ブログにコメントしてくれた人のように、違法な入国者を認めることのほうが不安だという人もいるでしょう。
もっとも、このブログで何回も書いているように、
違法かどうかはかなり恣意的なものですし、法の精神こそが重要だと思います。
法は問題解決のツールでしかないからです。
それはともかく、この報道を聞いて、改めてロールズの「無知のベール」のことを思い出しました。

自分自身の位置や立場について全く知らずに(それを「無知のベール」と呼びます)判断を下すことで、自分だけの利益に基づいて判断することを避けることができ、それによって社会全体の利益に向けた正義が実現できるようになる、というのがロールズの正義論です。

もし自分の家族がアミネ一家と同じような状況に置かれたらどう考えるか。
そうした想像力が、さまざまな人が一緒に暮らしていく社会ではとても大切です。
国家や宗教は、そうした想像力を遮断しがちです。
内と外とを峻別してしまうからです。
敬虔なクリスチャンがアメリカのネイティブを殺害できたのも、逆に宗教のせいだったのかもしれません。
異教徒への想像力を抑制してしまうことで、仲間内の「無知のベール」の想像力を高め、仲間のつながりを強めることが出来たのかもしれません。

しかし、いま必要なのは、国家や宗教などのサブシステムを超えた、もっと大きな生命の想像力ではないかと思います。
アミネ一家の事件に限りませんが、私たちは国家や宗教などという人為的な制度に呪縛されずに、一人の人間として、「無知のベール」の世界を広げていくことができれば、きっと世界(人生)はもっと豊かになるような気がします。

テレビや新聞で、さまざまな事件が報道されますが、自分が被害者だったら、あるいは加害者だったら、どうするだろうかと時々考えます。
よかったら皆さんもそうした「無知のベール」ゲームをやってみてください。
事件の評価が、ちょっと違ってくることが、きっとあるはずです。

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2007/02/13

■パノプティコン型社会とお天道様型社会

昨日、このブログへのアクセス数が900に達しました。
毎日、100くらいのアクセスで、多くても200を少し超えるくらいなのですが、
あまりの異常値にちょっといやな気分がします。
おそらく誰かが一挙にすべての記事にアクセスしていったのだろうと思うのですが、なぜでしょうか。

ある人からブログはいろいろな人がチェックしているから、気をつけたほうが良いといわれました。
無防備すぎるというのです。
しかし、だからといって、書くのをやめたり、内容を自粛したり、実名を消したりすることは、私の信条に反します。

いま共謀罪や思想チェックの風潮が強まっているといわれます。
であればこそ、実名で堂々と意思表示していくことが大切です。
そうでなければ、共謀罪反対とか管理社会反対などという意味がありません。
自分で、そういう社会を呼び寄せているわけですから。
つまり共謀罪や監視カメラは、そういう人には不要なのです。
そういう自己規制している必要とは、もはや自由を放棄しているわけですから、
そうした法律や監視体制が出来ても何も困らないでしょう。
むしろそうした体制を支援している存在になっているのです。

これに関しては、パノプティコン(一望監視装置)の話がとても示唆に富んでいます。
ミシェル・フーコーは、ジェレミー・ベンサムが考案した「パノプティコン」を引き合いに出して、
新しい権力観を説明しています。
「パノプティコン」に関しては、ウィキペディアに紹介されていますが
簡単に言うとこんなことです。

パノプティコンは、円形に配置された独房で、入り口は円の中心に向けられています。
その中央部は監視室になっており、そこから各独房の内部が見えるようになっていますが、独房からは見ることができません。
そのため独房の囚人は常に監視されている気になり、監視の目を内面化して、自ら行動を律するような「主体」化に迫られています。
そして自己規制して生きていくことになります。

なんだか、最近の日本社会を思わせます。
もちろんフーコーもまた、現代の社会を断じているわけですが。
私のまわりのほとんどの人が、すでにこういう意味では囚人化しているような気がします。
もちろん私自身も、です。

実はこのブログやCWSコモンズのホームページは、
こうしたフーコーのメッセージを少しだけ意識して、監視室の実態を探りたいという意図もあるのです。
まあ、ささやかな囚人のあがきでもあります。

このブログは、書き手の私のことは読み手にはわかっているわけですが、
読み手に関しては私にはほとんど見えてきません。
つまり、私は「パノプティコン」の独房にいるような状況なのです。
そこに自らを置くことは、実は自分自身でもまた自らを監視することができるようになります。
管理室を気にする自分、自己規制しようという自分、など、さまざまな発見があります。

しかし、最近、もっと面白いことに気づきました。
日本文化には「お天道様が見ている」という文化があります。
最近はなくなってきたようにも思いますが、私たちの世代であればきっとどこかに埋め込まれているはずです。
この意識が社会の秩序を維持し、管理コストを縮減し、信頼関係を育ててきたように思うのですが、
この「お天道様」と「パノプティコンの管理室」とはどこが違うのでしょうか。
私はパノプティコン社会に拒否感を持っており、お天道様社会に憧れているのですが、
この二つは結局は同じなのではないかという気がしてきたのです。
なにをいまさら、と笑われそうですが、どうして今まで気づかなかったのか不思議です。

この問題はもう少し考えてみたいと思っています。

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2007/02/12

■拉致問題と核問題のどちらが重要か

北朝鮮による拉致問題の進展がとまっています。
そのうえ、6者協議では日本が拉致問題にこだわっていることが核問題解決の足を引っ張っているというような声もあるようです。
そこで今日は、生活者的感覚による、拉致問題と核問題のどちらが重要かについての私見です。

前にも書きましたが、私は重要なのは拉致問題解決だと思っています。
その理由はこうです。
「北朝鮮の核武装」はなぜ問題になるのでしょうか。
問題は「新たに核武装」することでしょうか。
しかし、米ソをはじめとした、いわゆる「大国」は核武装しておきながら、なぜ新たな核保有国を認めないのでしょうか。
核拡散条約そのものも、既存の核保有国が核廃棄するということがあればこそ意味を持つはずではないでしょうか。
その動きがない以上、ある国家が新たに核保有することを止めることは、論理的ではありません。
拠り所は核拡散防止条約ですが、国際法の規範性は保証されているわけではありません。現に地球環境問題に関わる条約は米国によって拒否されています。
先ずは自らが核放棄してから、新たな核保有に異議申し立てすべきです。
とまあ、その道の素人である私は素朴に考えます。

もしそうであれば、問題は「北朝鮮」が核保有することが問題ということになります。
ではどうして、北朝鮮であれば、これほどの反対が出てくるのでしょうか。
それは、北朝鮮は国際ルールを尊重しないし、第一、何をやるかわからない国家だから、そんな国家には核を持たせたくないということでしょう。

なぜ北朝鮮はそう思われるのでしょうか。
偽ドルを印刷し、麻薬を生産し、他国の人を誘拐するような国家だからです。
国家が、というよりも、そこの今の為政者ないしは政権がというべきでしょう。
つまり、北朝鮮の為政者ないしは政権が信頼できないということです。

もしそうであれば、その為政者を変えることが問題解決につながります。
つまり、核開発が問題なのではなく、拉致問題のような行為を改めようとしない政権が問題なのです。

となれば解決策は明快です。
金政権を倒せば良いだけの話です。
それは内政干渉だということになるでしょうが、そもそも他国の人を誘拐するのは内政破壊ですから、干渉どころの話ではないのです。
窮鼠猫をかむように、暴発するかもしれないという危惧もありますが、噛まれるマイナスよりももっと大きなプラスをこそ目指すべきです。ねずみに噛まれたところで、たいしたことではありません。予防策だって、いくらでもあります。

だんだんまた暴論になってきましたので、批判されそうですが、誘拐犯人や偽札作り犯人を放置しておいて、何が国際平和だと、素人で無分別な私などはどうしても思ってしまうのです。
しかし、何もフセインのように金正日を死刑にしろといっているわけではありません。
せめて政権維持につながるような支援はやめたらいいということです。
政権を支援しなくとも、北朝鮮人民を支援する方法はいくらでもあるはずです。

つまり問題の設定が間違っているのです。
拉致問題を正さずして、核開発をやめさせても、問題は何も解決しないのです。
拉致問題と核開発。核などという言葉に脅かされてはいけません。
私たちにとっては、拉致問題のほうがずっと深刻な問題ではないかと思います。

私の問題の立て方が間違っているのでしょうか。

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2007/02/11

■団塊シニアの地域デビューで思うこと

ボランティアフォーラム2007TOKYOにパネリストとして参加してきました。私が出た分科会は「第二の人生 あなたはどう描く」で、定年を迎える人たちのボランティア入門編です。いわゆる「シニアの地域デビュー問題」です。
時々、こういうセッションでの話を頼まれますが、いつも参加者のほとんどが当事者ではなく、団塊シニアの社会活動を仕組む側の人たちなのです。
今回もそうでした。
行政や社会福祉協議会、あるいはNPO支援組織などが、NPOやコミュニティビジネスに関わる研修セミナーを開催する場合も、集まるのは当事者というよりも仕掛ける側の人のほうが多いような気もします。
その多くは行政の助成金で行われますから、参加者を集めるために動員すら行われています。
これが多くの自治体で行われているNPO支援活動です。
税金の無駄遣いとしか思えないのですが、もしかしたら今度は価値のあるプログラムかなと期待して、時に参加を引き受けることがありますが、いつも失望して、また当分は参加したくなくなるわけです。
今回は行政ではなく、東京ボランティア・市民活動センターの主催ですから、ちょっと違うかなと期待していたのですが、残念ながら今回もまた、参加者の多くは「仕掛け側」の人でした。
まあ、それが悪いわけではありません。
ただそうであればテーマやスタイルを変える法が効果的でしょう。そういう意味では、ちょっと残念でした。
2時間のセッションのあと、何人かの人がやってきました。
いろいろとやっているが参加者が集まらない。どうしたらいいか。
これが多くの人の悩みです。
この問題は解決するのは極めて簡単です。
面白くなく、役に立たないから、参加しないのです。
それにそもそも「集めよう」などと思う姿勢が間違っています。
だいたい、あなたが企画側でないとしたら参加しますか?
と質問したいのですが、それでは実も蓋もありませんから、さすがの私も初対面の人にはいえません。
それにそういうひとたちはみんな誠実でまじめなのです。
ではどうするか。
自分がやりたいことをやるか、誰か楽しそうに遊んでいる人を見つけて、彼もしくは彼女を支援すればいいのです。それが出来なければやめたらいいだけです。実に簡単な話なのです。
小賢しい仕掛けや小手先の技法など約にはたちません。
団塊シニアを馬鹿にしてはいけません。
企画者たちよりも、よほど厳しい状況の中で仕事をしてきた人たちです。
甘言で騙されるような人たちではないのです。
しかし、みんなどうしたら人が集まるのかという技法論に走ってしまうのです。
昨今のボランティア活動やNPO活動のセミナーなどで話している人たちのほとんどが、そういう発想の持ち主のような気もしますが、それでは効果があがらないのではないかと心配です。
ともかく企画する本人が楽しいと思うことをやればいいのです。
参加者が集まるかどうかなど気にすることは全くありません。
その結果、誰も集まらなくても自分が楽しめればそれでいいのです。
そもそも「社会のため」とか「団塊シニアの第二の人生のため」などという発想自体、目線が高い「お上発想」なのです。
団塊シニアをお客様と考えるのは、行政が住民をお客様と考えるような傲慢さの延長なのです。ちょっと挑発的な言い方ですが。
とまあ、こういうことを伝えたいのですが、私の発想はちょっと論理的でないためになかなか伝わりません。
しかし、長野市のある若い男性が、「誰も集まらなくてもいい」という、私の言葉に感心してくれました。
今日はこの若い人に少し理解してもらえたことで、半日を費やした価値がありました。
ところで、こういう発想でありながら、私自身もこれから「団塊シニアインキュベーションコンソーシアム」のような緩やかな仕組みを創りたいと思っています。
どこかに自己矛盾がありそうな気もするのですが、そうでないような気もします。
この構想はCWSコモンズのサイトで時々書いていますが、仲間を探しています。
関心のある方はぜひご連絡ください。

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2007/02/10

■「戦争への道を許さない!」のリレートーク

「諦めは戦争協力の第一歩!」を合言葉に、26年間、力強く、華やかに、反戦、護憲の祈りを花開かせるために活動している「戦争への道を許さない女たちの連絡会」というのがあります。
そのメンバーが中心になって、昨年12月16日に「戦争への道を許さない!歌い、語る 女たちのつどい」が開催されました。
新聞でも、ほんのわずか報道されましたので、ご存知の人もいるかと思います。
私の愛読誌である「軍縮問題資料」3月号に、そこでの参加者のリレートークが採録されていました。

昨日の記事の中で、

最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
と書いたら、早速、お叱りのコメントをもらいました。

さてまた同じ轍を踏みそうですが、昨日の記事の補足を込めて今回も女性問題です。
私は社会を変えるのは女性たちだと思っています。
いつかも書きましたが
映画「ターミネーター2」で、主人公の少年の母親が言った
「男たちは壊すことしかできない、創るのは女性たちだけだ」
という言葉に真実を感じます。
しかし、もちろん「壊すこと」もまた「創ること」ですから、逆の言い方もできるわけですが、出産という現実と子どもとの一体感という点でのつながりという点では、やはりある種のハンディを私たち男性は持っているように思えてなりません。
だからこそ、
「最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません」
と書いたのです。
無理かもしれませんが、主旨を読み取ってもらえれば幸いです。

私にとっては女性はそもそも信頼できるのです。
いや信頼したいというべきでしょうか。
何しろ未来を生み出している人たちなのですから。
そして、生活を基盤にしながら(つまり国家を基盤にするのではなく)言動している人たちがたくさんいるからです。
このリレートークの皆さんの発言を読みつないでいくと、大きなメッセージになってきます。
ネットで読めないかと探してみましたが、まだどこにも掲載されていません。
できれば多くの人たちに読んでほしいです。

この会に、山田邦子さんが入会したそうです。
マスメディアで活動している人が、政治家になるのではなく、こちら側で、つまり生活の側で活動し出したら、社会は変わるように思います。
山田さんの寄稿も同誌に掲載されています。
とても元気になれます。

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2007/02/09

■「過労死は本人の自己管理の問題」

言葉の問題で国会が機能していない現状を見ていると言葉を議論したくない気もするのですが、
どうしてこう毎日毎日、責任ある人たちからとんでもない言葉が出てくるのでしょうか。
今度は奥谷さん(労働政策審議会分科会委員)の発言です。
「過労死は本人の自己管理の問題」
この発言は奥谷さんの発言全体を踏まえて理解すべきことかもしれませんが、
これに関してすぐ思い出したのが、
日本ヒーブ協議会の、たしか15周年記念フォーラムで講演させてもらった時のことです

ある女性が、「過労死できるほど仕事に熱中できる男性がうらやましい」と本気で主張したのです。
つまり女性は、そういう仕事をやらせてもらえないという指摘をしたのです。
何のためのヒーブかと唖然としましたが、
心の狭い私としてはその女性の会社も日本ヒーブ協議会も以来、全く信頼できないどころか、嫌いな組織になってしまいました。
哀しい女性が多すぎます、などと発言すると、私自身の良識が疑われますが、
最近の政治に関わる女性たちにはどうも信頼感がもてません。
しかし、彼らはジェンダー問題も男女共同参画に関しても、全くその本旨を理解できないでいるように思います。
悪貨が良貨を駆逐するような問題解決の道具にすることは許されることではありません。

人は一人では生きていけません。
昨日話題にした「生・権力」に関して、以前、一度ここでも書いたことがある「社会の喪失」(中公新書)の中で、
著者の杉田敦さんは、

「一部の人間が死ぬことによって多くの人間を活かそうというのが、生・権力の核心ではないか」

と書いています。
これを自動詞で語れば自爆テロであり、他動詞で語ればコラテラルダメッジです。

さて、過労死とはなんでしょうか。
自死とどう違うのか。
果たして社会的な意味があるのか。
それに関してはいろいろな意見はあるでしょうし、状況によって違いもあるでしょう。
しかし、それらが社会の問題を顕在化させる予兆であることは間違いありません。
せっかくの予兆を、個人の問題にしてしまう。
それこそが「組織起点発想」の落とし穴ではないかと思います。

社会のあり方を起点にして個人のあり方を議論するのではなく、
個人の生き方を起点にして社会のあり方を議論することが、大切です。
今はそういう時代なのだと思います。

しかし、こうした問題を議論する人たちのほとんどすべてが、
既存の社会のあり方の上にのって成功した人たちですから、そもそも発想の起点も状況認識も違うのです。
社会の体制から落ちこぼれたしまった者の僻みなのかもしれませんが。

馬鹿は死ななきゃ治らないという言葉がありますが、
利口もまた、死ななきゃ治らないのです。
そして、利口は決して馬鹿の上位概念ではないのです。

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2007/02/08

■柳沢発言と生権力と成長パラダイム

柳沢発言に関して、問題の大本を考えなければいけないと書いたら、その大本とは何だという質問がありました。
それは今の日本社会のパラダイム(基本枠組みの起点にある考え方:社会構成原理)です。
小難しい話ですが、少しお付き合いください。

近代に入り、権力のあり方が変わったといわれます。
ミシェル・フーコーによれば、「死なせるか生きるままにしておくという古い権力に代わって、
生きさせるか死の中へ廃棄するという」新たな権力が登場したのです。
つまり、それまでの権力は人々の生殺与奪の権利を持っていました。
「いのちを奪い取る権力」です。
しかし、近代では「いのちを産出する権力」が重視されてきます。
いわゆる「生めよ増やせよ」です。

その根底には「成長」の思想があります。
国家権力(あるいは組織権力)を高めるためには、人口(組織メンバー数)を増やすことが基本です。
人口こそが国家(組織)の権力や富の源泉だからです。
国王が住民を殺すことは自らの権力を弱めることになる、という発見が行われたのです。
事実、過去においてもそうしたことで滅んだ国家は少なくありません。

以来、国力増強は人口増が基本になりました。
しかし、単に人口を増やせば言い訳ではありません。
働ける人口でなければ、余り意味がないからです。
そこで、「生き方」に関する働きかけが行われだします。
フーコーが「規律=訓練」と呼んでいる、個人を「従順な身体」と化すための管理テクノロジーの展開です。
ジェンダー論や男女共同参画論も、この問題につながっています。
また、「時間」が重要な意味を持ち出します。
時間の意味合いが変わったのです。

時間に関する書き込みが中断していたのを思い出しました。
また書きます。

いま問題になっている出生率などの人口政策や社会政策も重要になってきます。
個々人の問題ではなく、人口的に社会全体の「健全さ」(これも柳沢発言に出てきます)を保ちながら成長を確保していくことが目標になります。
健康管理も食育政策もそうですし、もしかしたら「介護の社会化」も、その流れとして捉えられます。
少子化対策はそのものずばりです。

この二つを合わせて、フーコーは、「生・権力」と呼んでいます。

安倍政権の根底にあるのは「成長思想」です。
いや、今の日本は成長パラダイムの社会といって良いでしょう。
そこから出てくる生・権力の政策を象徴しているのが、
柳沢発言であり、少子化政策であり、福祉政策と考えれば、その問題点も見えてくるように思います。

ちなみに、生・権力の権力者は誰かということです。
生殺与奪の権力を持っていた国王は、その原初的な段階においては、
社会の仕組みとして権力の象徴である国王の生殺与奪の権利を持っていました。
状況次第では国王殺しが制度的に行われたのです。
権力の暴走を規制する仕組みが内在されていたのです。
しかし、新しい生・権力においては、権力の所在が見えにくいために、
それが難しく、最悪の場合は、国民殺しになってしまいます。
つまり社会全体の自死現象です。

柳沢発言からは、こうした社会の実相が見えてきます。
それが悪いわけではありません。
それを好む人も少なくないでしょう。
でも、私にはなにか違和感があります。

だからどうするのか。
自らの生き方を確立することが出発点だと思いますが、
オルテガが言うように、
「私は、私と私の環境である」としたら、
こうした大きな時代状況に抗して、自らの生き方を全うすることは世俗を捨てるということになりかねません。
実質的な意味で、そういう生き方に転じている人たちも少なくありませんが、私にはどうもそれができません。
かといって、社会変革を志すわけでもなく、何とかこのブログなどで自己満足的な帳尻合わせをしているわけです。
生き方としては、あまり好ましい生き方ではありません。
いつかこの状況から抜ける日がくるような気はしているのですが。

今日は、ややこしい話を自己反省的に書いてしまいました。
すみません。

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2007/02/07

■痛みを分かち合うための条件

またブログへのコメントに触発されての記事です。
今日は小川さんのコメントです。

その作業がどんなにつらくても、その先に「希望」を抱くことができれば、それは耐えられるものなのでしょうが、 それを描くことができないから(あるいは信じることができないから)、きっと逃げ出したくなるのでしょう。
小泉首相は「痛みを分かち合って」とよく言いました。 痛みを分かち合うには、未来も分かち合わなければいけません。 それはセットのものです。つまり「痛みを分かち合う」ことは手段概念なのです。 痛みの先にある未来が納得できるものであれば、痛みは耐えられます。 つまりこの言葉は、「夢を分かち合う」ということがあって、成り立つ言葉なのです。 しかし当時、小泉首相は夢を語ったでしょうか。確かに抽象的には語りましたが、みんなが理解できるような形では夢も未来も語りませんでした。 ただ「痛みを分かち合う」ことの大切さを呼びかけたのです。

手段概念と実体概念の混同に関しては、これまでも何回か書きましたが、手段概念のほうが具体的なことが多いので、それが目的概念化されやすいのです。
そこにこそ統治や支配、管理のポイントがあるのですが。

似たことばに「協働」という行政が好きな言葉があります。
私も「協働のまちづくり」の活動に関わったりしていますので、いささか気が引けるのですが、「協働」もまた夢やビジョンがあってこそ成り立つ言葉です。しかし多くの場合、そうした夢やビジョンは抽象的にはともかく具体的な形では存在しないままでの協働が多いように思います。これでは単なる行政の下働きとしての住民活動になってしまいかねません。
ですから私は「協働」という言葉がとても嫌いです。

こうしたことから浮かび上がってくるのは、
お上(官)の指示で闇雲に働かされている民の構図です。
こうした「官民構造」を変えていくことこそが、これからの課題なのではないかと思います。

先がしっかりと見えていれば、私たちの生き方は大きく変わっていきます。
いま問題になっているかなりの問題が解決されていくように思います。
今の日本にないのは、未来に向けてのビジョンかもしれません。
それがないと組織は崩れます。
家庭も地域社会も崩れます。
みんなをわくわくさせるようなビジョンを打ち出さない限り、政権交代は単なる名前の変更だけになるでしょう。
自治体の首長選挙もビジョンがなければ、消去法の選挙になってしまい、結局は何も変わらないでしょう。
時代を変えるためには、ビジョンが不可欠であることを認識すべきではないかと思います。
それは個々人の生活においても同じです。
自らの生活の主役になっていくためには、自らのビジョンが大切です。
それも「希望」を生み出すビジョンが望まれます。
私が今年を「希望の年」にしたのは、そういう思いからです。
しかし「先」を描いて、ビジョンを持つことの難しさを、いま実感しています。
時にはめげそうになりますが、めげれば「希望」はさらに遠くに逃げていってしまいます。
小川さんの痛みがよくわかります。
小川さん。
めげずに前に進みましょう。
お互いに。

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2007/02/06

■先制攻撃型国家への一歩

野党不参加のままで進められている補正予算ですが、
ここに重要な内容が盛り込まれているというメールが流れてきました。
要旨は次の通りです。

軍事費が合計711億円と過去最大規模となっていること。 特に、北朝鮮のミサイル・核実験を受けての対抗措を理由に、「専守防衛」の建前を覆し、先制攻撃型へと変質させる内容が含まれていること。 そしてその詳細は、軍事機密を口実にブラックボックスに入っていること。
防衛庁が防衛省になり、日本も戦争をしかける「普通の国家」に変質する準備は着々と詳細は、 「核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」のサイトをご覧ください。

民主党の小沢さんはこうしたことには賛成なのでしょうね。
だから審議拒否しているなどとは思いたくありませんが、
民主党の小沢さんや前原さん、あるいは岡田さんは、こうした予算は歓迎かもしれません。
彼らのこれまでの言動は、安倍さんと同じく戦争支援者であることを示唆しているように思います。

みんなの目が違うところに向けられている間に、こうして着々と社会は変質していくのです。
そして気づいたら、再びの敗戦。
そんなことにならなければいいのですが。

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2007/02/05

■国会審議拒否の是非

多くの野党が欠席したまま、国会での補正予算審議が進んでいます。
この状況を国民がどう評価するかは、
愛知県や北九州市の選挙結果などから読み解くのはとても妥当とは思いませんが、
幸か不幸か、その結果は一勝一敗の終わり、いずれにも大義を与えませんでした。

わが国の最高決議機関は国会であることを考えると、
野党の多くが審議参加をボイコットすることは、
議会政治というか、わが国の政治体制の危機というべきだと思いますが、
そうした危機感はどこにもないのがとても不思議です。
要するに国会は不要なのかもしれません。

たしかに、与党が過半数の議席を持ち、党議拘束という仕組みによって、その与党に意見は一元化されており、
しかも、その与党を管理(代表というよりも昨今の内閣は与党管理型です)する内閣そのものが対話よりも主張を強行しようとする指向が強いという状況の中では、
国会審議の意味はあまりないといってもいいかもしれません。
小泉政権以来、国会は変質しました。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

野党の審議拒否は論理的には説明可能ですし、戦術としては成立するでしょう。
しかし、今のような社会状況の中で、多くの国民の共感を得ることはできないように思います。
私はこの戦術は明らかにマイナスであり、
せっかく野党のほうに向きかけた風の流れをまた変えてしまったように思います。
党利党略ではなく、生活感覚で考える多くの国民は、
野党のボイコット行為を頭では理解しても共感はしないでしょうし、
せっかくの議論の場をみすみす無駄に捨ててしまっている野党への信頼感を低下させていると思います。

柳沢大臣の発言は決して個人的な思いの吐露などではありません。
批判している大勢の野党議員にしても、つまるところそうは大きな違いはないように思います。
こんなことを言うと批判されるかもしれませんが、
これは個人の問題というよりも、今の社会体制の根底にある考え方なのです。
そこを履き違えては、事実は見えてこないように思います。
私たちの頭のどこかにある経済優先の発想を、みんなで克服しなければいけません。
柳沢大臣個人の問題に帰すべきことではない、大きなパラダイム次元の問題なのです。

野党も含めて、今の政治家は国民の中には入ってきていません。
中学生の頃、「ナロードニキ」運動を知り、
「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という言葉に出会ったときの感動が、今でも鮮明に残っています。
「人民の中へ」という発想がなければ、社会のパラダイムは変えようがありません。
いまの野党に欠けているのは、その発想ではないかと思います。

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2007/02/04

■「産む機械」発言を生んだ問題の立て方

先日、このブログに大西さんが次のようなコメントを寄せてくれました。

少子化が困るのは、経済成長にとってマイナスと考えられているからですよね。(ほんとうはプラスにできるかも) それはそれとして、今求められているのは、人々がこどもを楽しく育てたくなる幸せな社会を創るにはどうしたらいいかということじゃないでしょうか。 それは「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」です。 女性就労のサポートだけじゃなく、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を、 みんなで考えなければならないと思います。
「少子化対策」ではなく、「幸せ化施策」。 問題の立て方が間違っているというご指摘ですが、全く同感です。

「問題の解き方」と「問題の立て方」とどちらが大切でしょうか。
それらは別の次元の話で、比較するべき話ではないという人もいるでしょうが、両者は深くかかわっています。
さらにいえば、問題をどう設定するかをしっかりと議論していけば、その過程で答が見えてくることも少なくありません。
問題を立てること自体が、実は問題を説くことである場合が少なくないのです。

私の本業は、企業や行政のコンサルティング、昨今の言葉ではソリューションビジネスですが、
そこで一番重要なのは「問題の明確化」です。
ところが残念ながら、日本の社会はそうしたところには対価を払う文化がなく、
問題解決にお金を払いますから、私のビジネスはなかなか成立しないのです。
困ったものです。
脱線してしまいました。すみません。

いずれにしろ、問題がなかなか解けないとしたら、それは問題の立て方が間違っているからです。
そう考えてみると、そもそも「少子化対策」などという問題設定が間違っていることに気が付くはずです。
「少子化」は何らかの問題の結果であり、あるいはシグナルなのです。
大西さんが指摘するように、
「少子化対策」という問題設定をしてしまうと、「女性は産む機械」という考え方が出てきてしまうのはそれほどおかしなことではありません。
そして問題設定が間違っていますから、いつになっても事態は変わりようがないのです。

こうした事例は他にもたくさんあるように思います。
もし「少子化社会」を変えたいのであれば、
大西さんが指摘されるように、男たちが会社生活から家庭生活へ軸足をシフトするための施策を考えていくことだろうと私も思います。
男女共同社会参画の「社会」は会社ではないのですから。

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2007/02/03

■裁判員制度よりも裁判の透明性の実現を

内閣府の世論調査によれば、
「裁判員制度について8割の人が制度が始まることを知っていたが、3人に1人が「義務でも参加したくない」と答え、参加に消極的な人が8割近くを占めた」そうです。
タウンミーティングの「やらせ」でも裁判員制度は多かったようですが、
産経新聞などのマスコミも同じようなことをやっていたようです。
まあ予想されたこととはいえ、そこまで落ちたとは哀しいです。

裁判を職業裁判官の閉ざされた空間から引き出し、
「開かれた裁判」にしていくということは極めて納得できることです。
官の司法から民の司法への司法改革にとっても重要な課題です。
しかし、だからといって、それが裁判員制度であるかといえば、もう少し真剣に考えるべきでしょう。
国民の多くが消極的なのには、それなりの理由があるはずなのです。

よくいわれるように、職業裁判官以外の人を裁判に参加させる方法には、陪審制度と参審制度があります。
私はこの前提がすでに間違っていると思うのですが、それはともかく、いま実現に向かっている裁判員制度は、一般市民である裁判員が裁判に参加する参審制度の一つです。その長所は、たとえば次のように言われています。
①裁判に国民の声が反映される。
②市民が法的責任感を強める。
③裁判をわかりやすくする。
④裁判(裁判官)をコントロールする。
⑤当事者が判決を受け入れやすくなる。
⑥司法に対する市民の信頼を確保する。
平成法窓界サイト

しかし、いずれもほとんど根拠がありません。
私などはむしろ、反対ではないかと思うほどです。
その理由をお話しすることもできると思います。

逆に、もしこれらのことを実現したいのであれば、裁判員制度など導入しなくても簡単です。
裁判を公開にし、そこに傍聴者の意見が言える仕組みをつくればいいだけです。
複雑な裁判員制度など導入する必要など全くありません。
裁判の透明性が高まり、様々な目にさらされれば、裁判の公平性は高まるはずです。
これもまあ根拠はないかもしれませんが、
たくさんの目でチェックされることで間違いは排除される可能性は高まるでしょう。

公開の場では自由な議論はできないとよく言われます。
まして個人のプライバシーが問われる場ではないかという人がいるかもしれません。
教育再生会議もそうした理由で、公開にはなっていません。
しかし、公開の場で発言できない発言というのは一体なんでしょうか。
たしかにそういうことが全くないとは言いませんが、
もしあれば、その場合だけ例外をつくればいいのです。
もちろん例外にする理由は公開にし、その理由も大方の賛成を得なければいけません。

冤罪の場合はどうなるのか。
報道被害や風評被害が加速されないか。
問題を挙げだしたらきりがありませんが、そうしたことも含めて透明性を高めることは可能です。
隠すから報道被害や風評被害が起きるのです。

但し、「司法」の概念を広く捉える必要はあります。
警察行政や検察活動までも透明性の中に加える必要はあります。
司法は「裁判」に凝縮されますが、その前後の透明性も不可欠なのです。
捜査と透明性は両立しないといわれそうですが、
何でもかんでも透明にすれば良いという話ではありません。
反対者の使うゼロ100論理に騙されてはいけません。

今の裁判は、余りにブラックボックスが多すぎます。
第一、裁判官の服装自体も権威的でブラックボックスを演出しています。
よくまあ恥ずかしげもなく、あんな服装を続けていると私などは思いますが、
自らを人を裁く神と勘違いさせなければ、
自らも、そして被告や原告をも説得できないのかもしれません。
そういう意味ではああした形式も意味を持つのでしょう。

しかし、もしそうであれば、そもそも裁判員制度には無理があるのです。
人は人を裁けません。
その前提で司法は構想されなければいけません。

国民の多くが裁判員制度に消極的なのは、とても素直な反応なのではないかと思います。
そこから出発することこそが、「市民のための司法」に向かう道ではないでしょうか。

その意味で、日弁連は勘違いしているような気がしています。
私のほうが勘違いしているのかもしれませんが。
弁護士の方が、どなたかご指摘いただければうれしいです。

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2007/02/02

■自由の牢獄

ミヒャエル・エンデといえば、「モモ」や「エンデの遺言」で有名ですが、彼の小品に「自由の牢獄」という作品があります。

インシアッラーという盲目の乞食が、イスラムの教主に語った体験談の話です。
彼は若い頃、ギリシャ哲学に心酔し、イスラムの戒律を守らず、ラマダンの最中も勝手気ままに飲み食いしていたために、召使たちに逃げられてしまいました。
その彼の所に、ある日、悪魔がやってきます。
そして気がつくと彼は丸天井に覆われた広大な円形の部屋の中にいました。
部屋には窓がなく、代わりに同じ形の111(オリエント数学で狂気を意味する)の扉で囲まれています。
そして悪魔の声が聞こえてきます。
「ある扉の向こうには楽園が、別の扉の向こうには財宝が、また別の扉の後ろには食人鬼がいるかもしれない。どの扉を開いて、外に出るかはお前の自由だが、どれかを選んだ途端に、他のすべての扉は永遠に閉ざされる。つまり他の扉の後ろに何があるか永遠に分からなくなる」

あなたならばどうしますか。
生命さえも賭けなければならない自由とは難しいものです。
インシアッラーは選ぶ決心がつかず、数日がたちます。
日がたつにつれて扉の数が毎日一つ減っていくことに気がつきます。
早く選ばなければ扉はどんどん減るぞ、という悪魔の呼びかけにもかかわらず、彼は決断ができません。
そしてついに扉は1つになってしまいます。
しかし、今度は開けるべきかいなかの決断ができません。
111であろうと1つであろうと、実は同じことなのです。
それに気づき、結局、インシアッラーは扉を選ばないで、その場所に残ることを決めるのです。
そして翌日、目覚めると、扉は一つもなくなっていたのです。
そして、彼は初めて彼はアッラーに帰依します。
たくさんの扉があれば選べず、一つしかなくても開くべきか留まるべきか選べず、ついに扉がなくなり選択の自由がなくなったときに初めて心の平安を得たのです。
インシアッラーはこう言います。
「完全な自由とは完全な不自由なのだ」
その次の瞬間、彼は盲目になってバクダッドの門の前にいる自分に気づくという話です。
紹介の仕方があまりうまくないのですが、10数年前に読んだ時からずっと頭に残っている話です。

私たちはいま、無数の扉のある「自由の牢獄」にいるのかもしれません。
扉を開く勇気を持たなければいけません。
もし神に帰依しないのであれば。

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2007/02/01

■柳沢大臣の発言が意味すること

柳沢発言事件をめぐる国会議員の発言で気になることがたくさんなります。
たとえば、首相は「不注意な発言をしないように」と閣僚に注意したそうです。
どこか違和感のある発言です。
大本を正すことなく、発言に注意せよというわけです。
言い方を変えれば、「うまく騙せよ」と奨励しているわけです。
ここにすべての問題が象徴されているような気がします。

柳沢大臣の辞任や解任を求める議員の発言も、私にはなにやら違和感があります。
たとえば、「女性を代表して」という辻本さんの発言には素直にはうなずけません。
わざわざ代表する必要はありません。
こういう発想が個人を傲慢にさせます。
彼女は前回の自らの事件の意味を全く理解していないのでしょう。
それに代表するにしても、なんで「女性」なのか。
つまりこの発言は「女性を侮辱した」発言だと受け止めているようです。
たしかにそうですが、それだけではないでしょう。
そうした発想と柳沢発言のもとにある発想はつながっているような気もするのです。

こういう大臣がいる限り、国会審議には応じられないというのもよくわからない議論です。
もちろん、議論するのにふさわしくない相手とは議論しない、というのは理解できますが、この場合は当てはまらないでしょう。
それにこの問題もただ「辞任」を唱えるだけではだめでしょう。
何が問題かが、明確にされていません。
こうした事件が起こると、野党は必ずといっていいほど、抗議的な姿勢で権力闘争に持ち込みます。
問題の議論はほとんどすることがありません。
与党もまた選挙対策の視点からしか問題を受け止めません。
いずれの側も問題の大本などは関心がなく、波風が立ったことを利用しているだけの話です。
ですから事態はなにもかわりません。
そして形式的な男女平等参画とか少子化対策とか、ほとんど意味もない法律や政策提言を出しつづけるわけです。
本気で、問題の大本を議論しようなどという人はいないのでしょうか。

ところで、こうした批判は、私自身にも向けられています。
娘から、男性たちで本当に怒っている人はどのくらいいるか。お父さんだって、こういう発想がゼロではないでしょう、といわれました。それも具体的な私の言動を例示してです。心外ですが、冷静に考えれば娘の指摘は正しいのです。
もしかしたら、女性だってどうかわかりませんね。

みなさんはどうでしょうか。
そもそも少子化問題の最初の取り上げ方は、労働人口と消費人口が企業経営にマイナスだというところからだったと記憶しています。
今もその延長で議論されていますから、柳沢さんの考えは決して特殊例外ではないのです。
長く男性社会といわれる状況が続いていましたし、実態としてはいまなおその要素はかなり残っています。
そうした環境で育っていると、どうしてもみんなの発想の大本に女性蔑視の視点がうまれるのかもしれません。
それをうまく使い込んで成功する女性たちも少なくないわけですから、それがすべて男性を利しているわけではありません。

しかし、たぶんそうした社会はそろそろ限界に来ているように思います。
少子化は、その一つの現れでしょう。
社会原理の大本から変えていかなければ少子化の流れは変わらないように思います。
児童手当を増額したり、保育支援の仕組みを充実したりすることも大切ですが、社会のあり様を真剣に考えることも大切です。

先ずは自らの生き方を見直してみることから始めるのがいいです。
さて今日は家の掃除から始めましょうか。

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