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2007/02/15

■「障害」を意識しない社会

昨日、盲ろう者の星野さんからとても面白い話を聞きました。
盲ろう者(視覚障害と聴覚障害を持っている人)の集まりがあるのだそうですが、そこに行くと自分が盲ろう者であることを忘れてしまうというのです。
視聴覚障害に限って言えば、みんな相互に理解しあえるからだろうと思います。
つまり違いに違和感を持たないわけです。
日本人の中にいると、だれも自分を日本人と意識しないというのと同じことかもしれません。
おそらくそこで星野さんが意識する「違い」は、それぞれの個性や意識でしょう。
「盲ろう者」という抽象概念ではなく、表情のある「自分」なのです。
その「違い」はきっと肯定的な「違い」なのです。元気の素になる「違い」です。
この話にはとても大きな意味があるような気がします。
その話を聞いてから、その「大きな意味」は一体何だろうとずっと考えているのですが、のどまで出てきているような気がしながら、それが何かまだわかりません。

視覚障害や聴覚障害は、外部からも知覚できますから、客観化しやすいですが、知的な面や精神的な面になると、その違いはなかなか客観化できません。
発達障害や精神障害は、なかなか外部からは見えませんし、自らもまたそれを自覚しにくいはずです。
もし同じような仲間の集まりであれば、そうした障害を意識しないかもしれません。

しかしいずれの場合も、「障害」は存在しているわけです。
つまり「障害」の有無と関係なく、顕在化する場としない場があるということです。

このことを踏まえて視座を逆転させれば、「障害」を意識しない日常生活の中でも、私たちは言葉としては概念化されていないかもしれませんが、それぞれの「障害」を持っているといってよいでしょう。
その「障害」をある人は否定的に捉え、ある人は肯定的に捉えるわけです。
女は社会によってつくられるというボーヴォワールの発見は、障害にも当てはまるわけです。すべての概念は社会の産物です。

「障害」という表現を使ってきましたが、「違い」と置き換えても良いでしょう。
「障害」はどこに基準を置くかで変わってくるからです。
たとえば人は自力では空を飛べませんから、空を飛べないことは「障害」とは意識されません。しかしもし人間と鳥が同じ仲間として暮らすようになれば、空を飛べないことは「障害」になります。

「障害」はつまるところ「違い」ですし、個性や能力とつながっている概念です。
逆の言い方をすれば、人はみんな、何らかの違いを持っていますから、それぞれに「障害」をもっているわけです。
それを「個性」や「能力」と考えるか、「障害」と考えるか。
それによって世界は大きく変わってきます。

「違い」を活かしあう社会を目指したいと思っている私としては、星野さんの話がずっと気になっているのですが、まだそれが含意するメッセージに行き着けません。
しばらく悩まなければいけなさそうです。

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コメント

佐藤さん

星野さんの言葉に、触発をいただけましたようで、何よりでございます。

また、四谷でのミーティングのコーディネートを頂き、深く御礼を申し上げます。

上記の記事は、15日に早速、社内のメンバーにも、ご紹介させていただきました。

誠に、ありがとうございます。

投稿: 田辺 | 2007/02/19 12:27

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