■「社会のため」という大義の意味不明さ
私には理解できない言葉がたくさんあります。
たとえば、「社会のため」という言葉です。
私の言動はすべて「私のため」です。
社会のためという意識はありません。
きわめて利己的なのです。
しかし、利己的であることは利他的に通じます。
近江商人が行き着いた商人道、あるいは宮澤賢治の「世界みんなの幸せがあって自分の幸せが実現する」という世界観のように、社会がたくさんの「私」で構成されているのであれば、「私のため」こそが社会を構成しているのです。
「社会のためにやっています」などという言葉は、私には理解しにくい言葉です。
第一、「社会」ってなんでしょうか。
見る視座や視野によって、全く内容は違ってくるでしょう。
そういう言葉が多すぎるのが現代かもしれません。
社会の最小単位は家族だろうと思います。
その原点はもちろん夫婦ですが、その夫婦や家族がいま大きく変わろうとしています。
男女共同参画は今の夫婦や家族関係を壊そうとしていますし、現代の経済システムもまた、これまでの家族関係が阻害要因になってきているのかもしれません。
いずれにしろ「家族」はいま、危機に瀕しています。
少子化の原因は夫婦や家族の制度の崩壊に起因していると私は思っています。
児童手当などはそれを加速するだけでしょう。
家族のあり方を、改めて考えなおすべき時期にきているような気がします。
家族を軽視して、社会のあり方は見えてきません。
もちろんここでいう「家族」は血縁家族に限っているわけではありませんが。
昨日、「女房のため」と書いたら、女房から「家族のため」ではないのかと指摘されました。
「女房のため」か「家族のため」か、あるいは「自分のため」か。
そうしたところから考えた上で、「社会のため」を語ることが大切ではないかと思います。
自分も家族も、社会の構成要素なのですから。
最近、人生について、いろいろと考えることが多いのです。
歳のせいでしょうか。
いや年甲斐もなく、でしょうか。
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