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2007/02/07

■痛みを分かち合うための条件

またブログへのコメントに触発されての記事です。
今日は小川さんのコメントです。

その作業がどんなにつらくても、その先に「希望」を抱くことができれば、それは耐えられるものなのでしょうが、 それを描くことができないから(あるいは信じることができないから)、きっと逃げ出したくなるのでしょう。
小泉首相は「痛みを分かち合って」とよく言いました。 痛みを分かち合うには、未来も分かち合わなければいけません。 それはセットのものです。つまり「痛みを分かち合う」ことは手段概念なのです。 痛みの先にある未来が納得できるものであれば、痛みは耐えられます。 つまりこの言葉は、「夢を分かち合う」ということがあって、成り立つ言葉なのです。 しかし当時、小泉首相は夢を語ったでしょうか。確かに抽象的には語りましたが、みんなが理解できるような形では夢も未来も語りませんでした。 ただ「痛みを分かち合う」ことの大切さを呼びかけたのです。

手段概念と実体概念の混同に関しては、これまでも何回か書きましたが、手段概念のほうが具体的なことが多いので、それが目的概念化されやすいのです。
そこにこそ統治や支配、管理のポイントがあるのですが。

似たことばに「協働」という行政が好きな言葉があります。
私も「協働のまちづくり」の活動に関わったりしていますので、いささか気が引けるのですが、「協働」もまた夢やビジョンがあってこそ成り立つ言葉です。しかし多くの場合、そうした夢やビジョンは抽象的にはともかく具体的な形では存在しないままでの協働が多いように思います。これでは単なる行政の下働きとしての住民活動になってしまいかねません。
ですから私は「協働」という言葉がとても嫌いです。

こうしたことから浮かび上がってくるのは、
お上(官)の指示で闇雲に働かされている民の構図です。
こうした「官民構造」を変えていくことこそが、これからの課題なのではないかと思います。

先がしっかりと見えていれば、私たちの生き方は大きく変わっていきます。
いま問題になっているかなりの問題が解決されていくように思います。
今の日本にないのは、未来に向けてのビジョンかもしれません。
それがないと組織は崩れます。
家庭も地域社会も崩れます。
みんなをわくわくさせるようなビジョンを打ち出さない限り、政権交代は単なる名前の変更だけになるでしょう。
自治体の首長選挙もビジョンがなければ、消去法の選挙になってしまい、結局は何も変わらないでしょう。
時代を変えるためには、ビジョンが不可欠であることを認識すべきではないかと思います。
それは個々人の生活においても同じです。
自らの生活の主役になっていくためには、自らのビジョンが大切です。
それも「希望」を生み出すビジョンが望まれます。
私が今年を「希望の年」にしたのは、そういう思いからです。
しかし「先」を描いて、ビジョンを持つことの難しさを、いま実感しています。
時にはめげそうになりますが、めげれば「希望」はさらに遠くに逃げていってしまいます。
小川さんの痛みがよくわかります。
小川さん。
めげずに前に進みましょう。
お互いに。

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コメント

佐藤さん、ありがとうございます。
読んだとき、涙が出そうになりました。
自分は、全く希望を見失いかけているなぁということをしみじみと思って。
また、私はいろいろなものを諦めてきましたが、もしかすると、諦めてはいけないものまで諦めてしまったのかもしれない、という深い後悔にも襲われてしまいました。

組織にビジョンがないということについては、たまたま本日、職場の何人かでそんなことを議論していました。
組織のトップにビジョン(目標)が必要だ、ということについては、皆、異論はないのですが、組織の一員については「ルーティンワークだけをする人には、目標設定は必要ない」という人がいたので、私はその意見に反対しました。
広い視野で物を見て大きなものを動かすべき場所に立っている人とそうではない人では自ずと他人への影響の大きさは違ってきますが、どんな立場にあっても、それぞれの立場におけるビジョンは必要だと思うのです。
組織も社会も、我々一人一人が構成員なのですから。誰かの責任にするだけではやっぱり解消できない問題だと思います。

ま、ただ、そんなことを言っている私自身がビジョンを持っているか、というと、実はかなり情けない状態にあります。
仕事に関するビジョンはありますが、自分の人生のビジョンが描けないでいるからです。
仕事も私事もいずれも自分自身ですから、これらを切り離して仕事だけを追いかけようということは全くナンセンスな発想ですし。
そうは言っても、人生の希望、ビジョンというものは、「持たなければならない」なんて気負うものでもないと思いますが。
日々、生きることに感謝することから始まるのだろうな、と何となく思っています。
それは、自分を生かしてくれている者(物)に対する感謝です。もっと積極的に言うなら、愛情です。
私の父は、朝目覚めて「今日も生きていた」とほっとするという闘病の日々を送っていましたが、最後まで人生を投げませんでした(常に未来のことを考えていた)。
今となっては、確認する術はないのですが、「自分を支えてくれる家族への感謝」(振り返り)という意識よりも、「自分が家族を支えたい」と思っていたからこそ、未来のことを考え続けていたのかもしれないと思います。

頭の中の整理もせず、なんだか、長く書いてしまいました。すみません。
頑張りましょう。励まし合う相手がいるというのは、とてもよいものですね。

投稿: 小川美鈴 | 2007/02/08 03:42

小川さん
ありがとうございます。

ルーティワークであればこそ、ビジョンが大切だと、私は思っています。
ただビジョンというのは、そう難しい話ではなくて、こうしたいという自分の意思が基本にあれば、誰でもが持っているものではないかとも思います。

次の日曜日にあるボランティアの集まりで、
第二の人生の生き方をテーマにした話し合いがあるのですが、
そこで社会のビジョンと自分のビジョンの大切さを少し話してこようと思っています。

お父上の件、小川さんの推察の通りだと思います。
私の女房が、いままさにそういう生き方をしています。
支えられているのは、実は私たち家族です。
とりわけ私です。
そして、私は自らのために彼女を支えているわけです。

こうした人のつながりが広がっていけば、
とても住みよい社会になると思っています。
これが私が取り組んでいるコムケア活動の考え方なのですが、
実はそれが本当に良いことか、そして今可能なのか、
1年前から迷いだしています。

人のつながりは喜びを生み出しますが、
同時に哀しみも生み出すからです。
喜びも哀しみもおなじことなのでしょうが、
最近は悲しみに耐える力が少し萎えてきたように思います。
普通は歳とともに強くなると思っていたのですが。
困ったものです。

投稿: 佐藤修 | 2007/02/08 08:10

あまり何度もコメントを送るのはどうかとも思うのですが、少しだけ。

>最近は悲しみに耐える力が少し萎えてきたように思います。
>普通は歳とともに強くなると思っていたのですが。

私は、歳とともに感情はどんどん豊かになっていくと思います。
特に、悲しみを感じる、ということについては。
歳ふるうちにいろいろな経験をしますので、その経験がどんどん感情を豊かにしていくのだと思います。
だからこそ、悲しみはより深く心に響くようになるし、他人の痛みも感じることができるようになるのだと思います。
それはとても良いことだと思います。
決して「困ったこと」ではありません。

…と、思います。私も佐藤さんの歳になったときに同じように思うのかもしれませんが。

投稿: 小川美鈴 | 2007/02/09 21:20

小川さん
ありがとうございます。

そうですね。
確かに納得できます。
言葉や情景の後ろにたくさんのことが見えてきてしまうのです。
そしてきっとある時に、そのあふれすぎる感情が洪水になってしまわないように、「痴呆現象」が起こるのではないかと私は思っています。

でも、実際の生活においては、
みんなの前で涙が出てきてしまうと結構困るものです。
一度、銀座の映画館で終わり際に涙がとまらなくなり、
女房と2人、泣きながら銀座を歩かざるを得なくなったことがあります。
入れ替え制の小さな映画館だったので、でざるを得なかったのです。しかもお昼時でした。
あの時は、かなり困りました。

しかし、
今朝、ある人からメールが来ました。
泣きたい時は泣くのがいい、というメールです。

これからは困らずに、堂々と泣くようにします。
まあ、それも困ったものかもしれませんが。

投稿: 佐藤修 | 2007/02/10 09:49

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