■あなたは誰のために生きていますか
みなさんは誰のために生きているのでしょうか。「何のために」ではなく「誰のために」です。
「何のために」は手段概念であり、「誰のために」は「生きる」ことに内包された目的概念だと考えています。
生命や生活を支えるのは、きっと「何のため」ではなく「誰のため」です。
昨年、東尋坊で自殺予防の活動を続けている茂さんにお会いした時にもそう感じました。茂さんは著書「東尋坊 命の灯台」でこう書いています。(94ページ)
東尋坊で崖の上から身を投げようとするとき、人は孤独です。 でも、そこに辿り着く前に、とっくに人は孤独になっているのだと思います。(中略) 「あなたは孤独だ。あなたは生きる資格がない」 一度その声が聞こえ始めると、容易には振り払えない。孤独とは社会的な死かもしれません。 自殺する人は、その前に死を体験しているのかもしれません。 自殺予防の鍵は、そこにあるのかもしれません。
孤独のなかで社会的に大活躍している人がいるではないかといわれそうですが、その人の心の中にはきっと「誰か」がいるはずです。
そうでなければ活動は持続できないのではないかと思います。
あるいは、落語「粗忽長屋」にあるように自分が死んでしまったのに気づかないだけの話かもしれません。
「誰のために」の「誰」を見つけるのは簡単です。
うれしいこと、悲しいことがあった時に、みなさんは先ず誰に話したくなるでしょうか。
その人が「誰」その人なのです。
どんなに大成功しても、有名になっても、それを分かち合える人がいなかったら、喜びも半減するでしょう。
見ず知らずのたくさんの人が喜んでくれるよりも、身近な誰かが喜んでくれるほうがうれしくはないでしょうか。
分かち合ってくれる人がいなければ、悲しさも倍増します。
人は決して一人で完結しているのではありません。
自立とか自律とかいう言葉がありますが、人は関係性の中においてしか自立も自律もできないのです。
あの人のために生きているという思いこそが、人の生命を支えています。
それがなかったら、人はもっと簡単に死んでしまえるでしょう。
死を阻んでいるのは、死への恐怖ではなく、自分でない誰かへの優しさなのではないでしょうか。
自分の生命を支えてくれる誰かの先には、また同じようにその人を支えている誰かがいます。
そうして支えのつながりは、植物の根のように絡み合いながらどんどん広がっています。
そうしたつながりが育ってくると、社会から自殺も殺人も戦争も貧困もなくなるはずです。誰かを傷つけることは、結局は回りまわって自らの生命を傷つけることになるからです。
問題は、生命を支える、そうした「誰」かが見えにくくなってきたことです。
その一因は、お金かもしれません。
誰かのためではなく、お金のために生きる人が増えているのが寂しいです。
お金は決して、私たちの喜びや悲しさを分かち合ってはくれません。
私の生命を支えてくれているのは女房です。
私は女房のために生きています。
そして女房の先にあるたくさんの人たちのためにも、です。
そこにはおかしな話ですが、自分も含まれています。
みなさんは誰のために生きていますか。
追記
この記事にトラックバックがついていますが、ぜひその記事も読んでください。
そのブログも面白いので、他の記事もお薦めです。
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