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2007年3月

2007/03/31

■「女性の社会進出」とは何だったのか

自治会の会長を引き受けて1年。明日、会長役を引き継ぎます。

自治会長を引き受けた時は、いろいろとやりたいことがあったのですが、
この1年は女房の体調の関係で、私自身極めて不安定な状況になり、
秋以降は仕事もやめてしまい、様々な活動も最小限にせざるをえなかったような状況でしたので、
結局、何もやれずに終わってしまいました。

しかし、いろいろな気づきはありました。
近くの小学校の学校評議員との合同会議に出て、最近の小学校のおかれている状況を垣間見たのも、
地域の防災演習がいかに形式的になっているかを知ったのも、
地域の祭礼が仲間内の閉じられた活動から抜け出られない理由が少しわかったのも、
世代間の近隣社会に対する考えや位置づけが大きく違っていることがわかったのも、
行政にとって自治会がどう位置づけられているのかが確認できたのも、
社会福祉協議会や日赤や赤い羽根などの寄付が出資者の意思とは無縁に徴収されている仕組みに驚いたのも、
すべて自治会会長を引き受けたおかげです。

自治会(町内会)がもっている可能性を、改めて確信できたのもうれしかったことです。
たまたま三沢市の花いっぱい運動に関わらせていただきましたが、
それも合わせて、これからの社会の方向性を考える大きな示唆をもらえたのも、
私には大きな収穫でした。
感謝しなければいけません。

近隣社会に顔見知りが増えたのもうれしいことです。
最後の役員会を終えた後、班長の一人が散歩がてらに家族みんなで、
実家に咲いていたと言って、紅白の梅の花を持ってきてくれましたが、
これが自治会の仕事をした最高の報酬でした。
自治会活動以前は、全く面識のなかった人です。

173世帯の自治会なのですが、さまざまな人がいます。
忙しいので班長の仕事もそんなにできないと言ってくる「忙しい」人もいましたし、
連絡をしてもナシのつぶての余裕のない人もいます。
役所の職員と言い合ったこともないわけではありません。
しかし、基本的にはみんなの協力のおかげで、気持ちよく1年を過ごせました。

ただ、困ったことは、班長に連絡しようと電話をしても、なかなか連絡がつかないことでした。
昼間、不在の人が本当に多いことを実感しました。
多くの人が、かなり遅くまでの共稼ぎなのでしょうか。
地域社会が成り立たなくなるのがよくわかります。

1970年代から80年代にかけて、「女性の社会進出」という言葉が盛んに使われました。
当時、私はその言葉に大きな違和感を持っていました。
女性が会社に勤めることは、社会進出ではなく、会社進出であり、
社会からの隔離ではないかと考えていたのです。
社内レポートで、そんな報告を書いたこともありました。
ちなみに私が会社を辞めた時に雑誌に頼まれて書いた小論は「会社をやめて社会に入る」でした。

会社は決して社会に開かれた組織ではなく、
むしろ社会の一員たる意識さえも欠落しているというのが、私の25年間の会社生活の実感でした。
会社の常識と社会の常識の乖離の大きさにはいつも戸惑いがありました。
会社人は決して社会人と同じものではありません。

女性の社会進出こそが日本の社会を壊したのだと私は確信しています。
つまり、会社という働く場に取り込まれていった男性たちの不在の中で、
社会を支え、男性を支えていた女性たちまでをも、
近代産業の規模拡大のために動員していく、政財界のキャンペーンこそが、「女性の社会進出」だったのです。
しかし、今にして思えば、男性の社会進出こそが必要だったのです。
そして、実際に今、そうした動きが出てきています。

こうした「常識」的ではない私の考えが、
最近、正しかったのではないかと改めて思うことが少なくありません。
自治会活動から見えてきたことも、きっと数年後には顕在化していくでしょう。

1年間の自治会の仕事は、とても刺激的でした。

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2007/03/30

■大統領の陰謀と首相の犯罪が存在した良い時代

昨日書いた西山事件が気になって、昨夜、「大統領の陰謀」を観てしまいました。
ウォーターゲート事件を追って、ついにはニクソン大統領を辞任させたワシントンポストの記者を扱った実話に基づく映画です。
もう30年前の映画ですが、テンポのよい、しかも何となく尻切れトンボのような、まさに最近の映画に似た作品です。
最近の映画はますます尻切れトンボが多いですが、まあ、それは今日の話題ではありません。

ニクソンが大統領を辞任したのは1974年ですが、
同じ年に日本では田中角栄首相がロッキード事件で辞任しました。
当時は日本にもアメリカにも、志と根性をもったジャーナリストがおり、司法も一応、良心を維持していたようです。

国家犯罪と大統領や首相の犯罪とはもちろん同じではありません。
しかし、昨今のような大政翼賛会的国家体制のもとでは、それらはかなりかぶさっているようにも思います。
これだけ格差が構造化してくると、強いものの側につくことの意味が極めて大きくなりますから、その流れがますます強まるでしょう。
そう思っていたら、まさにそれを象徴するような笑えない話が新聞に出ていました。

朝日新聞の記事の一部を引用します。

山梨県議選で、初当選したばかりの横内知事派が与党議員を増やすため、小泉前首相流に敵対する県議の選挙区に「刺客」候補を立てようとしたところ、その役を買って出る人が次々登場、標的となった県議の引退が続出している。有権者からは「オール与党体質の中で、勝ち馬に乗ろうとしているようにしか見えない」との嘆きも聞こえる。
勢力拡大に喜ぶ声はあるが、知事の選対幹部だった県議などは「誰も彼もが『知事選で応援した』と言うが……」と苦々しげだ。知事が立候補予定者に贈る「祈必勝」の張り紙の依頼は、知事選で敵対した県議からも絶えないという。 知事の後援会幹部の表情は複雑だ。「自称『刺客』まで当選すれば、オール与党で議会対応は楽になるが、議会のチェック機能は期待できなくなる。知事が裸の王様になってしまわないだろうか」

笑い話のような話ですが、こうした動きは決して少なくないはずです。
日本の地方政治は国政がモデルなのですから。
しかし、こうした動きが広まれば、選挙は意味を失います。

残念なのは、もはや大統領や首相の犯罪は成立しない時代になってしまったことです。
30年前は、まだとても良かった時代だったのかもしれません。
あの程度の事件で、というとヒンシュクをかいそうですが、まああの程度の事件で辞任させられたのですから。

ところで、私の知人が熟議投票を広げたいと活動しています。
熟議投票とは、千葉大学の小林正弥教授が「熟議民主主義」の一環として提唱されている考え方で、平和への結集を目指す市民の風で話題になっています。
私も共感している考え方ですが、時代の流れはむしろ無議論投票に向かっているような気もします。

ともかく「勝ち馬」に乗ろうとみんな動いているのです。
議論の結果の勝ち馬ではなく、議論以前の勝ち馬です。
私のように、勝ち馬にもなれず、勝ち馬にも乗りたくない中途半端な人間はどうしたらいいでしょうか。
時代を嘆きながら、思索にふけるのがいいかもしれません。
そのせいか、最近、ものすごく学ぶ欲求が高まっています。
今日からラスキンを読み出しました。

ところで、「大統領の陰謀」ですが、
アカデミー助演賞をとったジェーソン・ロバーズ演ずる編集主幹ベン・ブラッドリーの言動は、何回観てもワクワクします。
こうした上司は今の日本の企業にいるのでしょうか。
もしいたら、その職場のメンバーはきっとみんなモティベーションが高いでしょうね。
部下を元気にしたかったら、この映画を観るといいです。

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2007/03/29

■沖縄密約事件請求棄却に思うこと

毎日新聞の西山記者によるいわゆる沖縄密約事件はいまでも強く印象に残っている事件です。
西山記者の歴史的なスクープは、国家権力とそれに追随するマスコミによって、矮小なゴシップ事件に貶められ、本質的な問題はいつの間にか忘れられてしまいました。
私もすっかり忘れていました。
しかし、その後、西山さんが暴いた事実は、どうやら真実だったことが確実になってきました。
そして西山さんは国家の嘘を暴くために、訴訟を起こしました。
その裁判の結果が27日に出されました。
不思議なことに毎日新聞にはあまり掲載されていないようですが。

判決は請求棄却でした。
今回の訴訟は西山さん自身の損害賠償請求という民事裁判だったのですが、
「不法行為から20年が過ぎているので、損害賠償請求権は自動的に消滅する」として請求は棄却されたのです。
西山さんの主張はJANJANの記事をお読みください。

外交機密という言葉があるように、外交には密約は必要だと、私たちは何となく思っています。
国家防衛上、当然ではないかという人もいます。
本当でしょうか。

そもそも国民主権の国家において、国民に内緒での国家防衛戦略などというのがあるのでしょうか。
密約を締結する権限など、首相にもないはずです。
戦時中であれば、そうしたこともありえるでしょう。
それは古代ローマからきちんと制度化されています。
しかし平和時に、国民に隠してまで国家の根幹に関わるような密約があっていいでしょうか。
まさに、そうしたことが問われているのが現代です。
そうしたことを議論する絶好のチャンスでしたが、裁判官はそれを選びませんでした。

主権国家間の戦争の時代は終わろうとしています。
アントニオ・ネグりによれば、今や世界の日常は戦時状況になりました。
それを加速させたのがブッシュであり、小泉ですが、
それによって一見、主権国家の権力は強化されたようにも見えます。
しかし実際に強化されたのは人間を管理する体制です。
ネグりは、そうした国境を越えたネットワーク状の見えない権力を「帝国」と呼んでいます。
スターウォーズやターミネーターの世界がすでに始まっているのです。
小泉やブッシュは、その走狗でしかありません。

西山さんが暴こうとしている「国家の嘘」は、
主権国家というものがどういうものなのかの本質を垣間見せてくれます。
しかし、その先にもっと多くの地平を感じます。
戦時状況の日常を生きるのではなく、
誰もが気持ちよく暮らせる社会にいきたいとのであれば、
西山さんたちの活動を見習わなければいけません。
平安は、向こうからは来ないのですから。

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2007/03/28

■自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望むことの意味

全日本病院協会による延命治療アンケートの結果が25日の朝日新聞に出ていました。
アンケート調査の結果、「自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望む」という人が多かったそうです。
詳しくは次のブログが取り上げています。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-711.html

この結果をどう考えるべきでしょうか。
この3日間、ずっと気になって考えていました。
「人は誰のために生きるか」の根底には、「人は何のために生きるか」が、実はあるわけですが、生きることの意味が、このデータにも色濃く出ています。
延命治療もまた、家族のためなのかもしれません。
「家族のため」の意味もまた多様ですが、ここでは素直に「家族のため」と考えたいです。
家族の死を体験した人、死に直面した人にはわかってもらえると思います。
人の生命は、実は自分のものではなく、他の人のものという側面が大きいのです。

ある局面では、生きることよりも生きることをやめることのほうが簡単です。
しかしそうした場合でも、死を選ばないのが人間です。
それは「生命」は私的所有対象ではなく、みんなのものだからではないかと思います。
一昨日の言葉を使えば、「いただきもの」なのです。
そうしたことが生命には内在しているように思います。

「生命」はつながっています。
個人の死は、決して個人では完結していないのです。
だからこそ、「生物多様性」の重要性があるのです。
インドラの網のように、あらゆる生命が、私の生命とつながっており、関わっているわけです。

もう一つのメッセージも感じます。
それは、私たちは、家族を延命治療したくなるような生き方をしているのではないかということです。
しっかりと書かないとうまく伝わらないような不安がありますが、
もし毎日をしっかりと家族と暮らしていたならば、延命治療など選ばないのではないかということです。
家族の愛が強ければこそ、延命治療を望むのではないかという気もするのですが、これは悩ましい問題です。

人の生命にかかわる問題はいくら考えても、いつも結論を見出せません。
自らの延命治療の是非を、自らで決めていいのかどうかも、悩みます。

ところで、調査結果をこう読み替えることは不謹慎でしょうか。
「自分は自殺を望むが、家族は自殺を望まない」
これはたぶん事実でしょうが、では「社会」はどうなのか。
安直な延命治療の仕組みやその反対の自殺に追いやるような仕組みが、いまの社会には広がっているような不安があります。
哀しい社会になってきてしまったような気がします。
これも誤解されそうな文章ですね。

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2007/03/27

■病院の予約制度を変えませんか

今日もまた病院で2時間近く待ちました。
予約時間よりも10分早く着きましたので、正確には1時間半強ですが。
担当医によりかなり違いがありますが、
今日の医師の場合はいつも最低1時間は待ちます。
それぞれ事情があり、医師が悪いわけではありません。
システムが悪いのです。

予約時間を設定しながら、1時間待たせるのが状態というのであれば、
予約制度は意味がありません。
それを病院経営責任者は気づいていないわけです。
もちろん医師もそうしたことに気づくべきですが、
現代の病院の医師はともかく文字通り忙しいのです。
つまり「心を失い」がちなのです。
医師に限らず、現代人のほとんどすべてがそうなのですが。

こうした基本的なことに気づいていないということは、
もっと大きな問題にも気づいていないことを推測させます。
組織の病理は、こうした些細なところに出ます。
私も一応、経営コンサルタントなので、そういうことは体験的にわかります。
もちろん解決策も、です。
組織の病理を正すのは、いつの場合も簡単です。
簡単すぎるのでビジネスにはならないために、コンサルタントは難しくして、解決しないです。
解決したらビジネス市場はなくなるからです
少し言いすぎですが、まんざら嘘でもないはずです。

この病院(国立)はとても良い病院なのですが、この待ち時間だけは辟易します。
ご意見箱などがあるので、それに書こうとも思いましたが、
患者の立場としては、なかなかその勇気が出てきませんでした。
おそらく多くの患者たちがそう思っています。
隣り合わせた患者とそういう話をすることもありますが、
みんな一種の諦めと病院への「服従」感があるのです。
今日も、初めてこの病院に来た人が受付にまだかと訊きに行きましたが、こういうことも多いです。
この人も、そのうち慣れるでしょう。
一人の患者としては、「納得」する以外には選択肢はないのですから。

こういう状況を毎週体験していると、人は無反応になります。
奇妙に納得するのです。
アウシュビッツを時々想像します。そんな風景なのです。
今朝も、また今日も最低1時間は待つのだろうと思って、出かけたわけです。

今日は2時間近く待ちましたが、
そのおかげで、やはりこの状況はおかしいことに気づきました。
おかしいと思ったのは、待たされるという状況ではありません。
おかしいと思いながら、おかしいと指摘しない自分の状況です。
おかしいことはおかしいと言おう、と以前に書いたことを思い出しました。
この件に関して、なぜこれまで言わなかったのかという理由は、実はいくつかあるのですが、
それにしてもこの件に関する自分の行為はやはり恥ずべきです。
そういえば、最近、そうした妥協体験が増えているような気もしてきました。

辺見庸さんのメッセージ鶴見和子さんの悔しさ、いろいろと鼓舞されたにもかかわらず、
私は動かずにいる。恥ずべき話です。

さて本論の病院の待ち時間ですが、解決するのは簡単です。
予約システムを現実に対応してしっかり組み直せばいいだけの話です。
私に任されれば、1ヶ月で再構築します。
しかし、そんなことをしなくても、代替的な解決策があります。
しかも、それは病院のパラダイムを変えることにつながるかもしれません。

具体的にはこうです。
予約制度を踏まえて、銀行のように受付番号を発行し、その進行状況を表示します。
そんなことはすでにやっているところは少なくないでしょうが、今日行った病院にはありません。
大切なのは、その受付番号と進行状況表示と併せて、自分の番が回ってくるまでの時間をある程度わかるように、それまでの時間を効果的に活用できる仕組みをつくることです。
健康相談でもいいですし、ビデオライブラリでもいいでしょう。
待合室でのリラックス体操でもいいでしょう。
笑いが起こるような場にすることも考えられるでしょう。
ともかく、「病の場」ではなく、「元気がでる場」を創ることです。
それがうまくいけば、病院に行けば元気がもらえる場になるかもしれません。
「病院」などという、自己矛盾した名前からも解放されるでしょう

どこかの病院で、こうした挑戦をするところはないでしょうか。
わが社(コンセプトワークショップ)でぜひ受託したいと思います。
3億円もあれば実現できます。
場合によっては、美味しいコーヒー一杯でも受託します。はい。

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2007/03/26

■「貧乏はいただきもの」

「貧乏はいただきもの」。
この言葉は、私の友人が創った言葉です。
彼女(その友人は女性です)は、たぶん貧乏なのです。
しかし、たぶん「豊かな人」でもあります。
病気を克服した人から「すごく大切なものを、病気から『いただいた』と思う」と聴いた時に、この言葉がひらめいたそうです。
それ以来、貧乏が一気に楽しくなってしまって、「もう一生貧乏でもいいや」と思ってしまったのだそうです。彼女は、「それはそれで、問題の多い人生哲学ですが」とシャイに語りますが、いやいやどうして、悟りに近い人生哲学ではないかと思います。
かのラスキンもきっと拍手してくれるでしょう。

この言葉の生みの親である「病気はいただきもの」の心境は、私たち夫婦の実感でもあります。
これに関しては、以前、CWSコモンズにも時々書きました。
柳原和子さんも同じような言葉を書いてきてくれたことがあります
病気をプラスに転化させることは、そう簡単なことではありませんが、マイナスに受けとめてしまうと、その呪縛から抜け出られなくなり、免疫力を低下させかねません。
そうはいっても、柳原さんですら、時には嘆くこともあるでしょうし、女房は落ち込むこともあります。
いつもポジティブシンキングを維持できるわけではないのです。

しかし、少なくとも女房の病気のおかげで私たち夫婦の生活は大きく変わりました。
そして見えてきたことはたくさんあります。
人の優しさ(と時に忙しさ)も見えてきました。もちろん自分たちも含めて、です。
何よりも、これまでの生き方が良かったのかどうか、
いささかの不安を持ちながら、いまの生き方を正したいという気持ちは高まりました。
非礼で傲慢な自分も少し見えてきました。

コムケア活動に取り組んで実感したことの一つは、
ケアマインドは、ケアされる立場にある人ほど強いということでした。
自らがそうなって初めて見えてくることがたくさんなるのです。
この3年半、痛いほど実感しました。

「貧乏はいただきもの」。
この言葉で、1冊の本が書けそうですね。
いや、新しい歴史が始まるのかもしれません。
ガンジーの反近代化活動は、そこから始まったのかもしれません。

ガンジーの、自らの生命を脅かすまでの断食行為は、
飢餓に直面している貧しい人たちとの壁を壊すためだったという人がいます。
そしてそれは見事に成功したわけですが、しかし不可触民との壁は破れず、アンベードカルに糾弾されました。
アンベードカルは「ガンジーは断食など止めた方がいい。無駄死にをするだけだから」と言ったそうです。
ガンジーほどの人でも、「いただきもの」としての「不可触民」との距離は越えられませんでした。

しかし、この世のすべては「いただきもの」かもしれません。
すべての人に「いただきもの」は与えられるのでしょうが、その中身はそれぞれ違うのです。
ガンジーとアンベードカルに贈られたものは違っていたのです。
「貧乏」もまた、それぞれにとって違うものなのかもしれません。

人生そのものも「いただきもの」だと思えば、きっと生き方が変わります。
粗末に扱うことなどできなくなります。

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2007/03/25

■ガンジーの予言

CWSコモンズにアンベードカルのことを書いたことがあります
そこで、アンベードカルに比べたらガンジーは小賢しいというようなことを書いてしまいました。
その後、ガンジー伝を改めていくつか読んで、後悔しました。
ガンジーの偉大さはやはり大きなものがありました。
小賢しさも感じないわけではありませんが、それ以上に大きな人だとも思いました。
私の記事は、その時々の気分で書いてしまうので、後悔することが少なくありません。
間違いも少なくありません。知ったかぶる傾向があるからです。
しかし、嘘を書いたことは一度もありません。それが私の信条なのです。

ガンジーのことを書いたのは、昨日、病院のことを書いていて、思い出したからです。
ガンジーは反近代化論を展開していますが、病院に関して、こんなことを書いています。

医者は薬などで表的には病気の苦痛を取りのぞいてくれるが、その結果かえって病気の真の原因(不摂生や油断)を戒めることを人は忘れる。 良い薬、良い医者によって、肉体的苦痛を、簡単に一時的に治して貰って健康になったと思っていることの繰り返しで、人は何を失うのか。それは不摂生の助長と自分の肉体に対する精神の支配カである。 人の心は弱くなり、自制心をなくし、真の意味で体を大切にすることを忘れてしまうのである。

実に核心をついています。
ガンジーが1907年に発表した「ヒンドウ・スワラージ」に書かれていることですが、その書にはこんな文章もあるそうです。
私は引用でしか読んでいないのですが。

「我々はいますぐ即座にあなた方の妄想を解くことはできそうもないが、あなたがたは遠からず、あなた方の自己陶酔が自殺に等しいものであり、あなた方が我々を嘲笑したのは理知の思い上りに他ならなかったことを悟るでしょう」

ガンジーは、近代の本質が、人間中心主義と人間の欲望の解放にあることを見抜き、それとは違う未来に向けての活動を重ねていくわけですが、それは近代化路線を走っている人たちには理解されなかったのです。
私もかなり勘違いしていました。

それにしても、100年前に書かれたこの文章は見事に現在を言い当てています。
「ヒンドウ・スワラージ」に書かれているガンジーの目線の確かさには感動します。
いまの私たちも、まだ妄想から抜け出していないのかもしれません。

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2007/03/24

■「病を治すものは自然である」

昨日の朝日新聞の天声人語に、タミフルの問題に関連して、こんな文章がありました。

ヒポクラテスは「病を治すものは自然である」という説を立てたという。治療法として自然の回復力を重んじつつ、病人や症状についての注意深い観察の大切さを説いた。

ヒポクラテスは、ギリシャ時代の人で、医学を科学として確立した「医学の祖」と言われています。

現在の医療体制には大きな違和感があり、素人ながらいろいろと考えることが多いのですが、
そうした関心から昨年春に私も「ヒポクラテスの会」を立ち上げて、公開フォーラムを開催しました。
しかしその直後、女房が胃がんを再発し、あまりに当事者になってしまったために、
精神的余裕を失い、この会の活動はストップしたままになっています。
会づくりを少し急ぎすぎたため、組織体制ができていなかった結果です。

その後、女房の病気の関係で、当事者的にいろいろと病院体験をしており、いろいろと考える機会が増えました。
書きたいことが山のようにありますが、その反面で書く気力が出てこないという奇妙なジレンマに陥っています。
近代医学や現在の病院への大きな失望感と無力感を、ドサッと背負い込んでしまった感じです。

しかし、この文を読んで、「病を治すものは自然である」ということを私たちはもっと認識しなければいけないことを改めて強く思いました。
ヒポクラテスの会も再開したいと思っていますが、どなたか協力してもらえるとうれしいです。

女房の状況を見ていると、まさにこの言葉が当てはまります。
ちなみに、「自然」には人間の生活やふれあいも含まれていると私は考えています。
アガンペンの言葉を借りれば、ゾーエ(生物的にただ生きている存在としての「素直な生」)としての人間の関係性もまた、広義の自然に含まれると考えるからです。
自然と人間を分けて考えている限り、この言葉は真実味を持ってこないような気がします。
そうした人間さえも含む自然のなかで、私たちは生きています。
ですから病気になるのも病気を癒すのも、基本は自然であることは間違いありません。
そして「自然の治癒力」はとても大きく、時に「奇跡」を起こすはずです。
もちろんそれは、「奇跡」などではなく、小賢しい人智を超えた摂理なのですが。

天声人語は、続いてこう書いています。

ひとりひとりの患者の症状をよく診る。そしてその患者にふさわしい処方をすることを、現代のヒポクラテスたちには期待したい。

日本の現在の病院には「標準治療」という発想があります。
私はこの概念を知った時に、愕然としました。
もし患者の家族ではない時であれば、すんなりと受け入れられたかもしれません。
しかし、患者の視点で考えると、これは結構「冷たい」発想なのです。
昨日書いたことに重ねていえば、これは「制度に合わせた処方」と言えるかもしれません。
私も、天声人語に書かれているように、「その患者にふさわしい処方」を基準にした医療の仕組みが実現できることを願っています。

患者が求めているのは、検査や所見ではなく、治癒なのです。
触診さえしない病院や医院が増えています。
元気づける一言や心和らげる笑顔こそが、最高の治療かもしれないと、最近痛切に感じます。

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2007/03/23

■制度にあわせる生き方からの脱出

昨日、最後に、生き方を決める基準はなんだろうかと書きました。
生き方の基準がない人が多くなってきているように思いますが、
そういう人にとっては「制度」(法律もその一つです)に合わせる生き方があります。
問題が生じたら制度のせいにしたらいいのですから、極めて都合のいい生き方です。
最近は、その生き方が大勢を占めているのかもしれません。
いや社会全体が「制度に合わせる生き方」を指向しているともいえるでしょう。
それが「近代化」の一つの側面なのかもしれません。

きのくに子どもの村学園という学校があります。
「学校に子どもを合わせるのではなく、子どもに学校を合わせる」という理念に基づいて、創設され運営されている学校です。

ここには大きな発想のパラダイムシフトがあります。
近代の学校はすべて「子どもを学校に合わさせる」発想です。
それが「教育」であり、「教育施設」のミッションだったからです。
個性豊かな子どもたちは、そこで社会の一員として育てられるわけです。
個性が強すぎる子どもは逸脱せざるをえません。

ところが、この学校は子どもたちの多彩な個性を起点に発想します。
一人ひとりの子どもの育ちを支援するために、何が出来るか、何をするかを決めていきます。
そして、生徒である子どもたちの個性に合わせる形で、カリキュラムが設計され、プログラミングされます。
全体から考えるか、個から考えるかの違いです。
個から考えて、全体を構築するのは大変なエネルギーが必要になります。
しかし、全体がうまく構築できれば、管理コストは大幅に縮減できるでしょう。

そもそも個性豊かな子どもたちを一つの制度に合わせさせること自体、無理な話なのです。
かつてのように、管理がアバウトだった時代にはなんのとか矛盾は克服できたでしょうが、最近のように管理が追及され、親の目も届きすぎるほどに届くようになると、逸脱行為は許されなくなってしまい、矛盾は破綻へとつながります。
最近の学校の乱れは、そうしたことの必然的な結果です。
教育再生会議がいくらがんばっても解決できることではありません。
逆に状況を悪化させることになりかねません。

最近の企業も同じです。
企業の実態に合わせないと従業員はつとまりません。
おかしさに気づいても、それを自己納得させないと企業ではやっていけないことが多いからです。
企業は盛んに「企業変革」を口に出しますが、本気で変革しようなどということにはなりません。組織には根強いホメオスタシス機能が働いているからです。
もし本気で企業変革するつもりがあれば、企業を変えるのはいとも簡単なことなのです。企業のパラダイムを変えればいいだけです。
みんなが企業という制度に合わせてしまうと、その企業そのものがパワーを失ってくる時代になってきています。

しかし、制度に合わせた生き方から抜け出す動きも広がっています。
いわゆる「当事者主権」の動きです。
コムケア活動でさまざまな活動に触れる機会がありますが、障害を持つ人たちや社会的弱者といわれる人たちが、自らの声と行動で、制度を変えようとする動きの広がりです。
今のところ、必ずしも成功している事例ばかりではありませんが、制度に合わせて自らを抑えるのではなく、制度を変えようと働きかける人が増えているのは間違いありません。
そして、そうした動きこそが、制度そのものの価値を高め、制度を活かしていくことにつながりだしているように思います。

時代はどう展開していくのか。
それは私たち一人ひとりの生き方にかかっています。
時には制度に合わせることも大切ですが、時には制度から逸脱し、制度を変えるように働きかけていくことも大切です。
制度に合っているからなどという、主体性のない言い訳だけはしたくないものです。

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2007/03/22

■徳治国家・法治国家・金治国家

松岡議員に関することで、一番気になるのは、法律(制度)にしたがってやっているのでいいという本人や首相の答弁です。
昨日書いた電力会社も、ホリエモンや村上ファンドもそうですが、経済的な「事件」を起こした当事者がよく弁解に使う理由の一つです。
日本は法治国家ですから、法に従えばいいということのようですが、これに関しては以前も何回か書きました。
「法治国家」とは何なのか。
大切なのは、言葉の定義ではなく、言葉の使い方かもしれません。

法治国家に対して、徳治国家という言葉があります。
しかし、これは対立概念ではありません。
徳が廃れた国家であればこそ、法に頼らなければいけないのではなく、徳があればこそ、法が生きてくると考えるべきでしょう。
言い換えれば、徳がなければ法は、徳を蹴落とす手段になりかねないのです。
最近の日本は、すでにそうなりつつあるのかもしれません。

徳治国家に対しては、金治国家という言い方があるかもしれません。
しかし金(カネ)もまた法と同じく、徳があればこそ生きてくる手段です。
徳を切り捨てた金の横行が目立つ社会は長くは続くことはないでしょう。

徳と法と金。
みなさんは何にしたがって生きていますか。
私はなんでしょうか。
いずれもどうもぴんときません。
人間の生き方を決める、もっと大切なものがありそうです。

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2007/03/21

■隠すことのコスト

原発の臨界事故隠しが毎日のように報道されています。
法律上の報告義務はないとしても、当の電力会社自身が、「臨界事故になる可能性も否定できなかった」というほどの重大な問題が発表も報告もされずにいることが「常識」になっているような状況に不安を感ずる人は少なくないでしょう。
電力会社にとっても、これは明らかにマイナスになるはずです。

日本ではまだ「隠蔽文化」が強く残っているようです。
しかし、情報の隠蔽はもはや「過去のこと」になりつつあります。
インターネットのおかげで、情報環境はこの5年ほどでパラダイムを変えたのです。
「情報公開の時代」はとうに終わり、いまや「情報共有の時代」になったのです。
つまり情報は公開されるのではなく、情報は最初からみんなに見えている時代になってきたのです。
情報を隠すことなど、できないのです。
そうした状況の中では、情報を隠すことには膨大のコストとエネルギーがかかりますが、
それ以上に隠した情報が発覚した時点で発生するコストは、さらにそれを上回るはずです。
結果として、消滅した会社もありますし、人命すら失うこともあります。
目先のわずかばかりの利得を得るために、取り返しのつかない損失を背負うことは、経済的にも引き合わないはずです。
これは、何も今に始まったことではなく、長年の歴史が明白に証明しています。
水俣病もそうですし、アスベスト問題もそうです。
しかし、問題は利益と損失を受ける人が違うために、そうした不条理なことが起こるのです。
そこを正さなければいけませんが、いまの政治家も財界関係者も、むしろ目先の利益を優先しがちです。
心の貧しい人たちが増えてしまいました。これはたぶん「教育」のせいでしょう。

企業の危機管理の重要性が指摘されだしてから、もう15年はたちます。
しかし、日本の企業は全くといっていいほど、何も学んできていません。
危機管理の教訓は、隠さないことがコストを上回る利益をだすことです。
社会にとってはもちろんですが、当事者にとっても、です。
そのことをしっかりと学んでいれば、隠蔽行為は決して起こらないでしょうし、逆に危機を自らの成長に活かせていくはずです。

原発の臨界事故隠しは、日本のエネルギー政策に悪影響を与えています。
その損失はきわめて大きいことを踏まえて、断罪されるべきです。

ちなみに、私は原発反対論者です。
しかし、それは原発が技術的に危険だからではありません。
専門的な知識がないために、評価できません。
にもかかわらず、反対論者である理由は、原発関係者の情報隠蔽体質です。
当事者に確信があれば、情報は隠しません。
情報を隠すようなことをしている技術や事業には賛成しようがないのです。
素人にはわからないから隠すのだという言い訳は、通らないでしょう。
原発関係者は、自らの情報隠蔽体質や議論回避体質を見直すことが必要ではないかと思います。
電力会社の広報戦略は根本から見直すべきだと思います。
東電や電事連の広報戦略は、結果から見て、完全に間違っていたことは否めないでしょう。
まだ遅くはないはずです。
いまはまさに絶好のチャンスです。
危機管理の本質は、災い転じて福と成す、です。

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2007/03/20

■イラク戦争がはじまって4年目

イラク戦争が始まって4年たちました。
戦争とは不条理で嘘の固まりだといっていいでしょうが、
イラク戦争は世界と歴史を壊すほどに大きな不条理と嘘の塊のような気がします。
それを利用した小泉首相の無血クーデター(法と国民の意思を否定しての暴走)によって始まった「日本改革」もほぼ定着してきました。
いまや嘘と不条理は、世界を覆ってしまったような気がします。

イラク戦争が始まった時、CWSコモンズのメッセージに、こんなことを書きました

私は最初、とても悲観的でした。 強者による先制攻撃によって、この数百年、営々として築き上げてきた人類の平和への努力が一挙に崩され、暴力の時代にベクトルが反転したような思いがありました。シジフォスの苦行のように、哀しい奈落のそこへとまた戻ったような気がしたのです。 (中略) 暴力と不条理に向けて、歴史の軸を逆転しはじめたと、先週までは思っていました。 しかし、攻撃が開始されて、違った歴史の始まりを感じ出しています。 そう考え出したきっかけは、世界各地で個人が動き出したことです。テレビの映像がどれだけの真実を伝えているかはわかりませんが、かなり意図的に編集されていると思われるNHKのニュースですら、全国各地の市民の異議申し立てを伝えています。 国家の時代の終わりと個人の時代の始まりを予感させます。

残念ながら、そうはなりませんでした。
イラク戦争が始まる1年半前、女房とテロ対策特措法反対のデモに参加しました

その時、期待と懸念を感じました。
その後、ピースウォークにも参加したりして、期待のほうが高まっていたのですが、
小泉クーデターの勢いには勝てなかったようです。

最近の松岡議員のことも電力会社の事実隠蔽も、こうした流れと無縁ではないように思います。
最近、明るい話として流されていることのなかにも、嘘と化粧を感じることが少なくありません。
嘘がはびこる社会になってきてしまったのが、哀しいです。

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2007/03/19

■日本の仏教界からのメッセージは何でしょうか

最近、なぜか「仏教」の話題が、私の周りで増えています。
先月から毎日、般若心経を唱えだしたおかげでしょうか。
友人が仏教を学ぶために大学に入るという話を書いたら、
それを読んだ友人が、私もすでに学んでいるとメールしてきました。
先週会った友人も、仏教を学ぼうと思っているというのです。
シンクロニシティが起こっています。

先週は2冊の本が送られてきました。
一条真也さんの新著「日本三大宗教のご利益 神道&仏教&儒教」(だいわ文庫)
と五木寛之さんの「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)です。
CWSコモンズのブックコーナーで「仏教への旅 朝鮮半島編」(講談社)のことを書きましたが、
このブログでも少し書かせてもらうことにしました。
いろいろと考えさせられたからです。

たとえば、韓国の仏教界が社会に向けてしっかりとメッセージしているのに対して、
日本の仏教界は何をしているのかという疑問が起こりました。
仏教への関心が高まっているのに、有効なメッセージを出せていないのではないでしょうか。
もしそうであれば、とても残念な話です。

韓国仏教の根底には華厳思想があるそうです。
いわゆる「一即多・多即一」の思想です。
宮沢賢治の小品の題材にもなっている「インドラの網」も華厳経に出てくる話です。

現代風に言い換えると、ホロニックパラダイムと言っていいでしょうか。
個々の存在と全体像が再帰的に構造化されている世界観です。
近代の基軸になっている要素還元主義とは別の世界観です。

その世界観が、仏教の基本にあることを再認識することはとても重要なことだと思います。
多様性が世界を豊かにする思想が、そこにあります。
同時に、誰か、あるいは何かを傷つけることが、自らを傷つけることであり、
自らを傷つけることが誰か、あるいは何かを傷つけることになるという「つながりの思想」が生まれます。
そこでは「自殺」の問題も見え方が変わってくるはずです。
そうしたことを起点にして、発想を広げていくと、おそらく最近の社会とは違った社会が見えてくるでしょう。

韓国が、そうした社会になっているわけではないでしょうが、韓国の仏教界のメッセージは明確なようです。
それに引き換え、日本ではどうでしょうか。
どんなメッセージが出されているのでしょうか。

最近の日本社会の実情を考えると、仏教界が果たせる役割は少なくないように思います。
仏教思想には、未来を解くためのヒントがたくさんあるからです。
いまこそ仏教界が社会に向けてメッセージを出す時期ではないでしょうか。
もっと社会の中に入り込んで、私たちの生き方を問い直す動きを出してもらいたいと思います。

いま動かずして、いつ動くのでしょうか。
宗教は滅びを慰めるものではなく、いのちを輝かすものではないかと思うのですが。

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2007/03/18

■国会での議論のあり方

都知事選候補者たちの討論はなかなか面白いです。
問題がしぼられているからかもしれませんが、議論の中でさまざまな政治課題とそれぞれの姿勢が見えてきます。
議論にも人間性が出ていますし、なによりも自分の言葉で議論されています。

ところが、国会での議論はいつも退屈です。
最近の例で言えば、松岡農水相の光熱水費問題の質疑を聞いているとまったく国会議員というのはどういう人間なのかと疑いたくなるばかりか、こういう議論のために税金を納めているのかと思うと納税意識はとても出てきません。
それにしても国会での議論はどうしてこうも無意味な内容ばかりなのでしょうか。
私は昨年春までは比較的国会実況はテレビで観ていたほうだと思いますが、腹立たしいことのほうが多かったです。
議論になっていないのです。質問するほうも、そうしたことを前提にしているのかもしれません。

せめて国会での議論も、いまの都知事選候補者の議論の水準にはしてほしいと思います。
そうでないと、国政への信頼感や納税意識は育たないのではないかと心配です。
自分の言葉でしっかりと語る政治家が出てきてほしいです。
都知事選に立候補した4人には、それを感じます。

なぜ国会議員にはそれができないのか、その理由はいろいろとあげられますが、おそらく議論すべき課題の水準が違うのではないかと思います。
その議論すべき課題に正面から向かうのが難しいために、問題を安直に摩り替えてしまうことが多いように思います。
松岡農水相の光熱水費問題はその典型例です。
わかりやすいが故に、盛んに取り上げられているようですが、本末転倒な話です。

それに、多額な光熱水費をはらって環境負荷を与えているのではないかというような質問は、テレビバラエティではいいでしょうが、国会で質問すべきことではないでしょう。質問者の見識を疑います。
最近の国会議員の質問は、アリバイ工作と国民の受け狙いに焦点が置かれているような気がしてなりません。

本当に大切なことは、いったいどこで議論されているのでしょうか。
議論はされていないのではないかと、いささか不安です。

それにしても、国会での審議よりも、テレビでの公開討論会のほうが面白く、内容があることが多いのは、どう考えるべきでしょうか。
国会での審議の方法を、そろそろ考え直す時期に来ているのではないでしょうか。
党議拘束や組織起点発想の呪縛から、そろそろ自由にならなければならないと思います。

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2007/03/16

■都知事選立候補者4人の討論会をテレビでみました

昨日の都知事選立候補者4人の話し合いをテレビで聴きました。
話を聞いていて、一番魅力的なのは残念ながら石原さんでした。
個人の人間性が出ているからです。好き嫌いはともかく。
それに論理を根底に置きながら、自分の感性で話しています。
黒川さんは論理的ではない上に、感性というよりも感情という感じでした。
浅野さんと吉田さんは話の内容は共感できますが、論理発想が勝っています。
つまり「正しすぎる」ような気がします。
一言で言えば、退屈なのです。
この2人のいずれかが知事になったら、きっと東京は良くなるだろうなという感じはしましたが、
面白くはならないだろうなと思いました。
今のような時代には、「面白さ」はとても大切な要素です。

今回は浅野さんで決まりだと思っていましたが、昨日のテレビを見て、わからなくなりました。
石原さんはオリンピックで夢を与えたいと語りましたが、これはポジティブアプローチです。
結果として、夢は悪夢になりかねませんが、やはり心を揺さぶるのは夢とビジョンだと思いました。
皆さんはどう評価しているでしょうか。

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2007/03/15

■知事選におけるポジティブキャンペーンへの期待

都知事選のことを昨日書きましたが、今日は最近の首長選挙での争点のことです。
最近の首長選挙では、すでに決まったことを中止することを掲げた人が当選することが増えているような気がします。
ネガティブキャンペーンが強い時代になってしまいました。
これは私にとっては、あまり楽しいことではありません。
ネガティブキャンペーンは、人を元気にしません。
人が元気になるのはポジティブキャンペーンです。
ネガティブキャンペーンが優勢になる時代は、決して健全とはいえません。

昨年の滋賀の知事の争点は、すでに工事が始まっていた新幹線駅の新設を中止することが争点でした。
今回の都知事選挙の争点はオリンピック招致中止です。
少し違いますが、長野県知事選の争点も、脱ダム政策の見直しでした。
多くの知事選がネガティブキャンペーンです。
明るい未来のイメージはそこからは見えてきません。

何か新しいことに挑戦するのがリーダーの役割であり、首長を選ぶ場合も、そんなわくわくするような未来への期待や思いがあればこそ、選挙への関心が高まり、そこに政治のハレの場が実現するというのが、私の首長選挙観ですが、そういう選挙は少なくなってしまいました。
ですからどうしても首長選挙には関心が低下しがちです。
それは私だけではないように思います。

どうしてネガティブキャンペーンが増えてきたのか。
それは現実への不満が高まっているということです。
しかも、その現実は未来も含めた現実です。
未来への不安の高まりといってもいいでしょう。

こうした状況が起こったのは、1990年代に入ってからです。
バブルがはじけてからといってもいいでしょう。
世界都市博覧会中止を掲げて青島さんが都知事に選ばれたのは1995年でした。

小泉内閣のキャンペーンもネガティブキャンペーンだったように思います。
わくわくするような未来への展望はありませんでした。
内容のない、小手先の表現で、巧みに言いくるめはしたもの、改革によって実現するビジョンは何も語られませんでした。
その時代がまだ続いています。

未来を語ることで、選挙がハレの場になる時代はいつ戻ってくるのでしょうか。
今回の都知事選で、浅野さんにはポジティブキャンペーンを展開してほしいと思っています。

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2007/03/14

■都知事選に4人も立候補してしまいました

都知事選に4人の候補者がほぼ出揃いました。
当選の可能性のあるのはおそらく石原さんと浅野さんだけでしょうが、にもかかわらずなぜ4人も出るのか。
選挙はさまざまな意味をもっているのでしょうね。
ただ、上記の2人以外の人が当選する可能性は皆無かといえば、そんなことはありません。
過去においても、本命の2人が争っているうちに、予想外の第三者が漁夫の利を得る結果になったことは必ずしも少なくありません。
それが良い結果をもたらしたケースもあります。
しかし、今回の知事選に限って言えば、そうした結果にはたぶんならないでしょう。

選挙は啓発やPRの場として捉え、当選は二の次にする考えもあります。
共産党の選挙姿勢は、そうした考えで貫かれているようですが、今回の都知事選もその延長と考えていいでしょう。
もちろん長期的には当選を目指しているわけですが、目先の当選は目指さない考えです。
つまり、共産党にとっての選挙は、啓蒙活動であり、運動といってもいいでしょう。
それもひとつの見識であり、戦略でしょうが、その発想は自らの党利党略を優先していますから、社会の視点は乏しいです。
それが共産党の伸びない理由だと私は思っています。
政党としては、そして主張としては、共産党が一番しっかりしているといつも感じますが、共産党には先ず投票したことはありません。
私が考える選挙ではないからです。

黒川さんやふくろう博士の場合は、どうでしょうか。
まさか当選の可能性があるなどとは思ってはいないでしょう。
黒川さんは石原知事続投を防止するためといっていましたが、そうした選挙観にはとても私は共感できません。
結果的には石原続投を支援することになるでしょうから、その見識も疑わざるを得ません。
強いものに最も利するのは、そうした独善的な視野の狭い言動です。
反権力勢力を無節操に分断する効果しかありません。

もっとも黒川さんの場合は、それを承知でのことかもしれません。
国会議員選挙にも当選の可能性の全くない立候補者が毎回のように立候補しますが、その人たちの動機とそう違わないのかもしれません。
いずれにしろ動機は全く自分勝手で不純だと思えてなりません。
本人はそうは思っておらずに、純粋なのかもしれませんが。

問題は、都知事選で問われるべき課題と都民の判断が結果に的確に伝わることです。
そうした視点から、どういう姿勢で選挙に臨むかを考えるべきだと私は思いますが、そういう視点で考えている人はいないように思います。
おかしな言い方ですが、そういう意味では、石原さんが一番考えているような気もします。
もちろん私は彼のような人はリーダーには相応しくない人だと思いますので、石原さん以外の人であれば、だれでも彼よりはもっと良くなると思っています。

話は違いますが、「平和への結集をめざす市民の風」というネットワーク組織が、平和憲法を守るために、「憲法の平和主義を守り活かす」ことに焦点を置いて、政策の違いや組織の立場を超えて、統一候補に終結しようという活動を展開しています。
その理念に共感して、私も最初は呼びかけ人や運営委員に名前を連ねていましたが、「憲法の平和主義を守り活かす」という一点を基本に、大同団結することの難しさを実感しました。
問題意識の旺盛な方であればあるだけ、小異にこだわり、大同を設計しにくいということも体験しました。
そして、活動の目標が、結局は盛りだくさんになったり、小異を捨てられなかったりしてしまい、結集は絵空後地になりかねないのです。
一時は成功したかに見えた沖縄でも、知事選では大同団結できませんでした。
都知事選でも、反石原での結集を働きかけましたが、実現できませんでした。
結果的には浅野さんが立候補したので、かなりの結集は出来そうですが。

体制を変えていくのは至難のことです。
現在の体制が抱える問題はさまざまであり、その批判勢力はどこに重点を置くかで政策や攻め方が変わってくるからです。
その結果、批判勢力はどうしても分散しがちです。
そして反石原の人が3人も出てしまうことになるわけです。
批判票が分散すれば、現体制、あるいは目標が明確な人が戦いやすくなるはずです。
反体制の分散した小さな動きが増えれば増えるほど、体制は強固になっていくのです。
そしてナチスは国家を掌握していったのです。
勢いがついてくれば、それを止めることは難しくなり、このブログのような負け犬の遠吠えは増えても、効果は出てこないでしょう。
困ったものです。

選挙って何なのかを書こうと思って書き出したのですが、どうも違うところに話が行ってしまいました。
最近の選挙って、何なのかについては明日、書くことにします。

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2007/03/13

■うたごえ喫茶からカラオケへ

女房と近くで開催されたボニージャックスのチャリティコンサートに行きました。
その一部が「うたごえ喫茶」でした。
会場のみんなと一緒に歌うコーナーです。
40年前を思い出して、女房と一緒に久しぶりに歌いました。

私はカラオケが好きではありません。
流行していた時にも、仕事の付き合いでカラオケに行くのが苦痛でした。
あまり行きませんでしたし、歌いもしませんでした。
会社時代に社長がカラオケというか生オケというか、ともかく好きで、
それにつき合わされたのが本当に苦痛でした。
全く歌わないわけにもいきませんでしたが、私が唯一歌ったのは、水谷豊の「カリフォルニアコネクション」でした。この歌はアップテンポなのでスマートに歌えるのです。
情を込めずに歌えるということです。

カラオケは嫌いですが、うたごえ喫茶の文化は好きでした。
全共闘世代の前の世代なのですが、連帯とか共闘ということにはなぜか心がうずきます。
今でもそうです。

ソーシャル・キャピタル論の原点になった、
社会学者パットナムの「ひとりでボーリングをする」という論文があります。
アメリカのボーリング人口はそう減っていないのに、
なぜか一人でボーリングする人が増えてきたという問題提起の小論です。
そこから社会の大きな変質が示唆され、ソーシャル・キャピタル論が広がっていくのですが、
日本では「うたごえ喫茶からカラオケへ」というのが、まさに社会の変質を示唆しています。

「カチューシャ」や「ともしび」などという、1960年代に大流行した歌を、
うたごえ喫茶風に歌いながら、そんなことを考えていました。
コンサートには1500人くらいの人が入場していましたが、
少なくとも私の周りの人はほぼすべて歌っていました。
しかも1曲は、ボニージャックスは歌わずに、会場だけで大合唱になりました。
共通の言語とつながる思いが、まだ残っているのです。
40年前の時代が良かった、などという気はありませんが、
思い出すだけでも表情のある物語が際限なく浮かんできます。
この30年の思い出とは全く違うような気がします。
日本のソーシャル・キャピタル論を考える視座が、ここにあるような気がします。

ちなみに、うたごえ喫茶で好んで歌われたのがロシア民謡です。
念のために言えば、ソ連民謡ではなく、ロシア民謡です。
ソ連が捨ててきた文化の一つだと思いますが、
それもまた実に示唆に富むことです。当時はそんなことには全く気づきませんでしたが。

最近また団塊シニアたちがうたごえ喫茶を再開させているようです。
そのエネルギーは社会と未来に向けてではなく、仲間と現在に向けられているような気もしますが、
もしかしたら、また社会が動き出すのかもしれません。
以前、書いた掛川で行われた嬬恋コンサート2006もそうですが、
何かが動き出そうとしている気配はあります。
もちろん、それをつぶそうという動きのほうが圧倒的に強いですが、
無敵の朝青龍が連敗したように、地盤変化が起ころうとしているのかもしれません。

まあ、私が生きている間には顕在化はしないでしょうが

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2007/03/11

■3大関と横綱が敗れました

今日から始まった大相撲春場所で、3大関と横綱が敗れました。
そのテレビを見ていて、今場所の相撲は面白くなりそうだと思った人と退屈になりそうだと思った人がいるでしょう。
皆さんはどちらでしょうか。
私は後者です。
たぶん、今場所の相撲のテレビはもう見ないでしょう。

私は、弱い存在が強い存在を打ち負かすことに拍手を送るタイプです。
典型的な日本人かもしれません。
あるいは自分が強い存在になれない、負け犬的根性が染み付いているのかもしれません。
子どもの頃からいつもそうでした。
このブログの記事も、極めて攻撃的なものが多いですが、
常に攻撃の対象は「強い存在」に向けているつもりです。
もっとも「強さ」と「弱さ」は、コインの裏表ですから、時には弱い存在を批判しているかもしれませんが、私が攻撃して負けるような相手は攻撃をしていないつもりです。
負け犬の遠吠えかもしれません。

にも関わらず、強いはずの大関、横綱がそろって負けてしまうことに、なんとなく気分がスカッとしないのはなぜでしょうか。
別にそんなことに意味などないし、どうでもいいじゃなかいかといわれそうですが、
それで納得せずに、その理由を哲学してしまうのが、私の悪癖です。

きっと私の心のどこかで、
大関や横綱はもはや強い存在ではなく、弱い存在だと考えているのです。
強さと弱さが逆転してしまう。
そんな時代に私たちは生きています。
そんなことをテレビを見ながら感じていました。
先入観を外して考えると、強弱の風景はちょっと変わって見えてきそうです。

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2007/03/10

■おふくろさん騒動に思うこと

森進一と川内康範のおふくろさん騒動がますます大きくなっています。
先日、川内さんが住んでいた三沢市に行った時に、その話を聞いたのですが、まさかここまで大きな問題になるとは思っていませんでした。
これもまた、今の社会を象徴しています。

私自身は、知的所有権という概念にはあまりなじめない人間なのですが、
問題の本質はたぶんそんな話ではないのでしょう。
人と人との付き合い方の基本的な姿勢にあるのではないかと勝手に推測しています。
そういう視点では、川内さんの発言の後ろにあるメッセージに共感してしまいます。

世の中の争いの多くは、ちょっとした考えのずれから始まります。
その小さなずれが、バタフライ効果のように、大きな違いを生み出していきます。
その違いが小さなうちは、お互いに見過ごすか、自分に都合よく理解し問題視しないことがほとんどです。
しかし、その間にそのどちらかにストレスがたまっていきます。
それが閾値を超えると爆発してしまうのでしょう。
そうなるともはや論理の話ではないですから、論理的な解決策は逆効果です。

まあ今回の事件ほど大きくはなくても、こうしたことは誰もがきっと経験していることでしょう。
人の付き合いの範囲が拡大し、時間も忙しくなってくると、誰にも起こりえる話です。
決して他人事ではありません。
みなさんの周りは大丈夫でしょうか。
私の周りは、・・・・、かなり心配です。
私自身の生き方の粗雑さに、この頃、改めて反省をしているところです。

それにしても、日本の社会の支えであった「人のつながり」がどんどんと壊れてしまっている流れを早く反転させなければいけません。
いまの「構造改革」は社会を壊すだけの改革でしかありません。
この数年で失ったものの大きさに、そろそろ気づくべきでしょう。
そう思えてなりません。

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2007/03/09

■「鹿児島地検が12人全員の控訴断念」という表現

新聞を読んでいて、時々、あれっ、と思うことがあります。
たとえば、今朝の朝日新聞にこんな見出しがあります。
鹿児島地検が12人全員の控訴断念 
鹿児島県議選で公選法違反の罪に問われた12人全員が無罪になった事件に関する話です。
私が気になったのは「断念」という言葉です。
この事件の真実は、もちろん私には判断できませんが、
控訴を断念したという表現だと、本当は有罪なのだが証明できないので控訴を断念したというようなニュアンスを感じます。底に検察の無念さ、悔しさを感じます。
つまり、裁判では無罪だったのだが、本当は有罪なのだという意味が言外に感じられるということです。
それもそう強くではなく、無意識の次元での話です。
一種のサブリミナリー効果です。
同じ新聞に、この事件に関連して、「警察庁は、全国の都道府県警察に綿密で適正な捜査を徹底するよう通達を出した」という記事が出ています。
この記事は、警察による不適正な捜査の存在を認めているわけです。
警察による不適正な捜査が人権を踏みにじることがあれば、それは立派な犯罪ですが、権力の犯罪の多くは、秩序維持の大義のもとに見逃されるのがほとんどですから、実際には裁かれる犯罪にはなりません。
この2つの記事が含意することをつなげて考えると、いささか末恐ろしい未来が見えてきます。
いや、未来ではなく現在というべきでしょうか。

新聞の見出しは、現場記者ではない人がつけると聞いていますが、
見出しのメッセージの影響の強さを考えれば、もっと慎重であるべきでしょう。
どの視点で記事を総括するかで、メッセージは全く変わってくるはずですから。
ジャーナリストの視点は、常に権力批判的なところに置かれていないと、権力側にとってもその対象側にとっても、良い結果を生まないでしょう。
そうしたことをジャーナリストはもっと認識すべきではないかと思います。
この見出しは、「鹿児島地検控訴せず反省」としたいですね

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2007/03/07

■病院におけるコミュニケーションの出発点

先日、朝日ニュースターの番組に出た時に、病院におけるコミュニケーションが話題になりました
済世会関係の病院の院長や入院中の患者もいたので、話はリアルで具体的でした。
その病院では、先ず患者に「セカンドオピニオン」の話をするそうです。
私はこれまで経験したことがなく、セカンドオピニオンをどう切り出せばいいか、今も悩んでいますので、その話には感激しました。
しかしその病院に入院中の人が、「そういわれても実際にセカンドオピニオンを実行するのは難しい」と発言しました。
それもまた同感できます。きっとどこかに制度設計の欠点があるのです。もったいない話です。

以前、女房の主治医とインフォームドコンセントについて話しました。
主治医はとても丁寧に説明してくれますから、何となくわかったような気になります。
しかし知識や情報に大きな差があり、立場も正反対ですから、現実には情報を共有するのは至難なことです。
要は医師を信頼できるかどうかというようなことになります。
幸いに私たちの主治医は、そのことがよくわかっていて、
制度的なインフォームドコンセントではなく、ヒューマンなカウンセリングを重視してくれています。

コミュニケーションとは何かはいろいろな受け止め方があるでしょうが、
単なる情報のやり取りではないということは間違いありません
私は、コミュニケーションとは共有する世界を広げることだと思っています。
そして、コミュニケーションの出発点は「信頼」であり、
コミュニケーションの到達点もまた「信頼」であると思っています。

いま通っている病院では、毎回1~2時間は待たされます。
しかし、医師が「長く待たせてしまい、すいません」と目を見ながらにこやかに言ってくれると、その時点で待たされた時間の不満は氷解します。
そこから効果的なコミュニケーションが始まります。
その一言がない場合は、それだけで疲れてしまいます。
コミュニケーションとはそんなものだろうと思います。
前者の医師は患者の視点で考えていることを感じさせますが、
後者の場合は患者を対象物として考えているような気さえします。
医師の忙しさは理解できても、信頼感は生まれにくいでしょう。

病気に関する説明も、まずは患者の話や不安をきちんと聞くことから始めれば、患者が受け入れる話し方が見えてくるはずです。
コミュニケーションにとって大切なのは、「話すこと」ではなく「聴くこと」です。
いくら話しても、相手が聞き入れなければ意味がありません。
そのことを理解している人は決して多くはありません。

最近、病院でのコミュニケーションの問題が話題になってきており、様々な試みが行われだしています。
それはとてもうれしいことです。
しかし、多くの場合、制度的なところにばかり目が行っているのではないかと思います。
人間のコミュニケーションは、機械の情報伝達とは違います。
コミュニケーションは、論理の世界の話ではなく、感性の世界の話ではないかと私は思っています。

病院は英語でホスピタルです。
ホスピタリティと同じ語源から生まれた言葉です。
ホスピタリティはサービスとは違い、心を開いた、対等の目線でのもてなしのことです。
病院のコミュニケーションの問題は、そうした視点で考えていくことが大切なような気がします。
そういう視点に立てば、空間設計も含めて、今の病院は大きく変わっていくはずです。

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2007/03/06

■地球温暖化論議のむなしさ

今年は暖冬でした。
一昨日、私の住んでいる我孫子市ではなんと20度近い温度になったそうです。
街中をTシャツ1枚で歩いている若者にも出会いました。
昨日は鶯が庭で鳴いていました。
どうなっているのでしょうか。
地球温暖化のせいでしょうか。

友人が「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを教えてくれました。
そこに「地球温暖化のエセ科学」という記事があります。
昨今の地球温暖化説は政治的なキャンペーンだと言う指摘です。
それが正しいかどうかは私にはわかりませんが、こうした議論を聞く度に思い出すのが、「オゾン戦争」と言われる米国でのフロンガスをめぐる論争です。
これに関しては、社会思想社から「オゾン戦争」という本が出ていますので、関心のある方はぜひお読みください。
私もある小論で、その話を書いたことがあります

フロンガスに関しては今では決着がついているのではないかと思いますが、まだ決着のつかない問題に関しても、予防原則の立場に立てば、対応に仕方はおのずと明らかです。
日本では残念ながら「予防原則」は多くの場合、基準になっていませんが、取り返しのつかない間違いを犯す可能性が少しでもあるのであれば、経済的にも予防原則を採用するべきでしょう。
これは昨日書いた「冤罪問題」のようなことにも当てはまる話です。

私がこうした論争で残念に思うのは、しっかりした相互理解と共創の姿勢が欠落していることです。
たとえば原子力の問題での議論は、多くの場合、すれ違いです。
諫早湾開拓の話もそうでしょう。
みんなが目指す社会はたぶん同じはずなのですが、その判断の元になる材料(情報)と時間軸の取り方で価値基準がかわってしまうのです。
そのため情報のやり取りは行われても、相互に学びあい価値を創りだそうとするコラボレーション(共創)は起こらないことが多いのです。
地球温暖化が進んでいるのかどうなのか、またその原因は何なのか、その速度はどの程度なのか。
そんなことはまだわかっていないはずです。
しかし現実の自然の動きが変調を来たしている事実は否定できないように思います。
その事実をホリスティックに捉えて、さまざまな立場から誠実に議論していくことが大切です。
そういう姿勢がなかなか育ってこないのは残念なことです。
「対立」からは何も生まれませんが、「共創」からはきっと何かが生まれます。

科学とはあくまでもある前提からの論理帰結でしかないのですから、前提の事実が変われば結論も変わります。
そして全知全能の神でないかぎり、その前提要素は可変的なのです。
専門家はそうしたことを自覚しているでしょうが、中途半端な人は前提要素の世界の中でしか発想できません。
そうした専門家や科学者が多すぎるような気がします。

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2007/03/05

■冤罪を生みだした検事や警察はなぜ裁かれないのでしょうか

今朝の朝日新聞に富山冤罪事件の被害者への取材記事が出ていました。
富山冤罪事件は、富山県警は1月19日、懲役3年の実刑判決を受け服役した県内の男性(39)が無実だったと発表しました。これが富山冤罪事件です。
いろいろなサイトで取り上げられています。
たとえばこのサイトをご覧ください

こうした冤罪事件は、今もかなり多いような気がしますが、それを正す方策がほとんど行われていません。
それを放置しておいて、司法改革などはないと思いますが、
警察の民主化は大きなパラダイム転換をしなければいけませんから、統治側、つまり政府は本気では手をつけないでしょう。
時代は暴力的な支配社会からパノプティコン型の自律社会へと向かっているとはいうものの、逆のそうした状況の中では暴力的な支配構造は見逃されやすくなります。
冤罪はそうした典型的な事例の一つです。誰も、そんなことはあるまいと考えてしまうわけです。
裁判員精度の前に、こうした状況にこそ目を向けるべきですが、そうしたことを隠すためにこそ、裁判員制度は話題にされているというべきでしょう。
そこに法曹界の闇があります。
司法の役割は、秩序維持ですが、それは正義論とは別の話です。

新聞報道では、県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示しているといいます。
なんということでしょう。
権力を傘にきた悪代官そのものの構図が今も存続しているのです。
しかも彼らがおかした「犯罪〕の償いは、私たち税金から支払われることになっています。
彼らこそ犯罪者として断罪すべきです。
しかし彼らは重過失罪にも問われずに、これからも平和に生活していけるのです。
パサジェルカの世界です。

なかには熊本さんのような方がいるかもしれませんが、問題は構造の問題です。
権力に支えられた仕事とそうでない仕事は、恐ろしいほどに違うのです。
しかも、だれでもが冤罪の被害者になりうるのです。
恐ろしいと思いませんか。

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2007/03/04

■患者だって医者の役に立っている

今日、NHKで「百万回の永訣~柳原和子 がんを生き抜く~」が放映されました。
柳原さんのことは、CWSコモンズにも何回か登場しましたが
「がん患者学」の著書もあり、NHKのがんサポートキャンペーンにも同時進行的なエッセーを連載しています。
柳原さんががんばっている姿は私たちにも大きな力を与えてくれています。
こういう番組は、当事者にはかなり厳しいものですので、
見たい気分が半分、見たくない気分が半分というのが正直なところです。
迷っていたのですが、見せてもらいました。
元気そうな柳原さんの姿を見て、とてもうれしく思いましたが、
その後ろにある柳原さんの姿も垣間見えて、複雑な気持ちで見せてもらいました。

その番組のなかで、柳原さんがある集まりで、こんな主旨の発言をされています。

患者が喜ぶのを医師が喜んでくれる。患者でも医師に役立つことが出来るんだと思った。
この言葉にとても共感できました。
癒しているのは医師ではなく、患者かもしれない。
そんな思いが、最近強くなっています。
病んでいるのは医師ではないか、というわけです。
病院における医師と患者の関係は、双方向であり、
ホスピタルの本質は実は患者が創りだしているのかもしれません。

柳原さんの主治医の一人は工藤医師です。
工藤さんが、自分の専門分野以外は最新の知見は知らないので、他の先生に相談する、というような主旨の発言をしていました。
これにも感激しました。
そんなことは当然なのですが、実際にはほとんど行われていないのも事実でしょう。
最近の医師は忙しすぎるのです。

このブログでも医療時評を始めようと予告したのですが、なかなか書けずにいます。
先週、CWSコモンズには病院の呼び方に関して書きましたが、
そろそろこのブログでも医療関係の記事を抑え目に書き出そうと思います。
ところで、タイトルにした「患者だって医者の役に立っている」という言葉ですが、
これにはさまざまな意味が込められているように思います。
それはともかあく、この言葉をひっくり返すと、こうなります。
「医者だって患者の役に立っている」

この2つの命題のどちらにより大きな真実があるでしょうか。
今の日本の医療制度の問題の本質は、
この2つの命題のどちらに軸足をおいているかに関連しているかもしれません。
視点を変えると風景は全く変わってくることの典型的な一例がここにもあるような気がします。
ちなみに、これから書く医療時評は、そんなラディカルな内容は書かないつもりです。

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2007/03/03

■マスメディアの捏造機能

テレビ番組でのデータ捏造行為の発覚がまだ続いています。
まるで、「捏造!あるある大事典」のようですが、そもそもこの事件が最初に起こった時に、どの程度の人が驚いたのでしょうか。
私は何をいまさらという感じでした。
こんなに大騒ぎになるとは思ってもいませんでした。

「産業のジレンマ」と同じ構図がマスコミの世界にもあるように思います。
産業のジレンマとは、産業が新しい社会問題を起こし、市場を自己創出していくということですが、マスメディアもまた、自らが話題を自己創出していくという性格を持っています。
ですから、「捏造」こそがマスメディアの機能ではないかと、私は思っています。
そう考えていますから、何をいまさらと思ったわけです。

「捏造」はマスメディアにはよくある話です。
新聞も含めて、マスメディアに関わって、自らの関わる事実とは違った報道をされて、迷惑を受けた人も少なくないでしょう。
私も何回か体験しました。
マスメディアの「捏造」が犯罪事件を助長した事例もあります。
そもそもマスメディアにおける情報は、編集されるものですから、事実とは別のもう一つの世界になっているというべきでしょう。
ですからそこでの捏造などは日常茶飯事のはずです。
少し思い出してもらえれば、意図的な捏造ではないかもしれませんが、結果としての捏造の例には枚挙がないでしょう。
イラク戦争もサリン事件も、あるいは数々の冤罪も、マスメディアが捏造した(と思える)報道に支えられています。
時に権力は、そうした捏造をマスメディアを使って仕組むこともあるように思います。
マスコミのニュースには、多かれ少なかれ「捏造」の要素が含まれているといっても良いでしょう。
そもそも第二次情報はすべて「意図」と「編集」が入りますから、解釈情報であり、捏造的な要素が入り込むのは当然なのです。
そうでなければ、メッセージ性は高まりません。
「花伝書」を持ち出すこともないですが、事実以上に事実らしくしなければ、情報は伝わりませんし、説得力を持ちません。

そもそもマスメディアとは、そういうものだという認識が大切です。
目くじら立てて、捏造を暴き出していったら、テレビ報道などは成り立たなくなるでしょう。
今回程度の捏造などは、それこそいくらでもあるでしょう。
そんなことよりも、政府や企業や経済界が発信する情報の捏造性をチェックするほうが大切だと思えて仕方がありません。

しかし、捏造って一体なんでしょうか。
そうでないものがあるのでしょうか。
それすらも私にはいささかの疑問があります。

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2007/03/02

■自殺は卑怯という言葉

先日の朝日新聞の投書欄に、「『自殺は卑怯』胸に残る一言」と題して、命よりも大切なものはないという信念を持って生きよう、という投書がありました。
それに関して、昨日、息子を自殺で失った母親から、「「自殺は卑怯」冷酷な言葉だ」と題して、「意見はもっともだが、私たち遺族にとってはつらすぎる」という投書が寄せられていました。

いずれの人も、何とか自殺を止めたいという思いでは一致しているはずですが、言葉の受け止め方は全く違ってきます。
立場が違うと同じ言葉が全く違った意味を持ってきます。
ですから、相手の立場になって考えることが大切ですが、実際には限界があります。
とりわけ自殺のような問題は、決して当事者にはなりえないのです。
そして、お互いの善意が、お互いの不幸を生み出してしまうことも少なくありません。
私たちは、気づかないうちに、まわりの人を傷つけていることがあるのかもしれません。
言葉とは、本当に難しいものです。
バベルの塔の教訓を、私たちはもっと学ばなければいけないのかもしれません。

昨日投書された方は、最後にこう書いています。

昨年10月、自殺対策基本法が施行された。年間約3万人の自殺者を出す日本の状況を直視することが、故人への批判よりも重要だ。

本当にそう思います。
毎年3万人以上の人が自らの命を絶つというような状況は何とかして変えていかなければならないと思います。
その状況を作り出しているのは、私たち一人ひとりの生き方だとしたら、変えられないはずがないのですから。

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2007/03/01

■「君が代伴奏命令は合憲」という最高裁判決と反対意見の存在

入学式で君が代を伴奏することを拒否して懲戒処分された小学校教諭が起こしていた違憲訴訟は、
最高裁が「公務員は、思想・良心の自由も制約を受ける」とした1、2審判決を支持し、
上告を棄却したため、合憲が確定しました。
一昨日の新聞で報道されています。

おそらく多くの人が、裁判長の「学校が組織として国歌斉唱を行うことを決めた以上、音楽教諭に伴奏させることは極めて合理的な選択。職務上の義務として、伴奏させることも必要な措置として憲法上許される」という判断にあまり違和感を持たないのではないかと思います。
むしろ日教組の体制批判的なイメージを思い出すかもしれません。

「君が代問題」については、このブログでも何回も書いていますし、CWSコモンズでも書きました
私も4年前であれば、見過ごしていたかもしれません。
私は君が代も歌えますし、日の丸にも特別の違和感はないのです。
そんなことに目くじらをたてることはないではないか、と思っていたのです。
しかし、君が代を歌えず、日の丸の前では立てない渡辺さんの思いを知ってからは、考えが変わりました。
目くじらを立てていたのはどちらか、ということを改めて考えてみると、違った見え方がしてきました。
強制するのではなく、歌えない人、立てない人が、歌えるようになり、立てるようになるにはどうしたらいいかを考えるべきだと考えるようになりました。
サッカー選手が君が代を歌うのをやめさせようなどとは渡辺さんも考えてはいないはずです。
寛容でないのはだれなのか、答は明確のような気がします。
君が代問題の背後にある、私たちが背負っている歴史を、もっと明らかにしていくことが大切です。

この判決には反対意見が付されています。
5人の裁判官のうち、一人だけが、「原告の思想・良心の自由とは正確にどのような内容か検討し、公共の利益との比較についてより具体的に検討する必要がある」と述べ、審理を高裁に差し戻すべきだとしたのです。
敗訴した教師は、「上告して良かったと思っています。藤田裁判官の少数意見が付いたから」と語ったそうです(朝日新聞)。

先日、テレビ朝日の報道ステーションで、40年前の袴田事件の裁判官だった熊本さんが、自らが書いた判決に関して、自分は無罪だと思っていたと告白したことが報道されていました。
報道ステーションのホームページから引用させてもらいます。

「袴田事件」で、元裁判官が新証言 1966年、静岡県の旧清水市で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、味噌会社の従業員で元プロボクサーの袴田巌死刑囚が逮捕された、いわゆる「袴田事件」で、担当した元裁判官が心境を語った。「事件の進行具合では無罪だと思った」と語る熊本典道・元裁判官。裁判は3人の合議制で行われ、無罪を主張したのは熊本氏だけだった。法廷に提出された自白調書は45通で、採用されたのは1通のみ。残りの44通は「任意性がない」として却下された。「袴田事件を一生背負っていかなければならない」と語る熊本氏は、袴田死刑囚の再審請求に協力する意向だ。
熊本さんは当時29歳。皮肉にも無罪を主張した熊本さんが死刑判決分を書かされることになったのだそうです。そして熊本さんは、判決の7ヶ月後に裁判官を辞職したのだそうです。 袴田さんもですが、熊本さんも人生を大きく変えてしまったわけです。 ちなみに残りの2人の裁判官はもうなくなっています。 なぜ今頃になってと思いますが、熊本さんはその荷物を背負ったままでは死ねなかったのでしょう。 いま言っておかねば、という熊本さんの思いが画面から強く伝わってきました。 もし当時、反対意見も併記されていたらどうだったでしょうか。

民主主義とは多数決ではありません。
少数の意見が大切にされることです。
法曹界の人たちが、もし司法の民主化というのであれば、そのことを忘れないでほしいものです。

ひどい裁判が多すぎますが、今回の反対意見の存在には少しホッとしました。

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