■地球温暖化論議のむなしさ
今年は暖冬でした。
一昨日、私の住んでいる我孫子市ではなんと20度近い温度になったそうです。
街中をTシャツ1枚で歩いている若者にも出会いました。
昨日は鶯が庭で鳴いていました。
どうなっているのでしょうか。
地球温暖化のせいでしょうか。
友人が「田中宇の国際ニュース解説」というサイトを教えてくれました。
そこに「地球温暖化のエセ科学」という記事があります。
昨今の地球温暖化説は政治的なキャンペーンだと言う指摘です。
それが正しいかどうかは私にはわかりませんが、こうした議論を聞く度に思い出すのが、「オゾン戦争」と言われる米国でのフロンガスをめぐる論争です。
これに関しては、社会思想社から「オゾン戦争」という本が出ていますので、関心のある方はぜひお読みください。
私もある小論で、その話を書いたことがあります。
フロンガスに関しては今では決着がついているのではないかと思いますが、まだ決着のつかない問題に関しても、予防原則の立場に立てば、対応に仕方はおのずと明らかです。
日本では残念ながら「予防原則」は多くの場合、基準になっていませんが、取り返しのつかない間違いを犯す可能性が少しでもあるのであれば、経済的にも予防原則を採用するべきでしょう。
これは昨日書いた「冤罪問題」のようなことにも当てはまる話です。
私がこうした論争で残念に思うのは、しっかりした相互理解と共創の姿勢が欠落していることです。
たとえば原子力の問題での議論は、多くの場合、すれ違いです。
諫早湾開拓の話もそうでしょう。
みんなが目指す社会はたぶん同じはずなのですが、その判断の元になる材料(情報)と時間軸の取り方で価値基準がかわってしまうのです。
そのため情報のやり取りは行われても、相互に学びあい価値を創りだそうとするコラボレーション(共創)は起こらないことが多いのです。
地球温暖化が進んでいるのかどうなのか、またその原因は何なのか、その速度はどの程度なのか。
そんなことはまだわかっていないはずです。
しかし現実の自然の動きが変調を来たしている事実は否定できないように思います。
その事実をホリスティックに捉えて、さまざまな立場から誠実に議論していくことが大切です。
そういう姿勢がなかなか育ってこないのは残念なことです。
「対立」からは何も生まれませんが、「共創」からはきっと何かが生まれます。
科学とはあくまでもある前提からの論理帰結でしかないのですから、前提の事実が変われば結論も変わります。
そして全知全能の神でないかぎり、その前提要素は可変的なのです。
専門家はそうしたことを自覚しているでしょうが、中途半端な人は前提要素の世界の中でしか発想できません。
そうした専門家や科学者が多すぎるような気がします。
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