■うたごえ喫茶からカラオケへ
女房と近くで開催されたボニージャックスのチャリティコンサートに行きました。
その一部が「うたごえ喫茶」でした。
会場のみんなと一緒に歌うコーナーです。
40年前を思い出して、女房と一緒に久しぶりに歌いました。
私はカラオケが好きではありません。
流行していた時にも、仕事の付き合いでカラオケに行くのが苦痛でした。
あまり行きませんでしたし、歌いもしませんでした。
会社時代に社長がカラオケというか生オケというか、ともかく好きで、
それにつき合わされたのが本当に苦痛でした。
全く歌わないわけにもいきませんでしたが、私が唯一歌ったのは、水谷豊の「カリフォルニアコネクション」でした。この歌はアップテンポなのでスマートに歌えるのです。
情を込めずに歌えるということです。
カラオケは嫌いですが、うたごえ喫茶の文化は好きでした。
全共闘世代の前の世代なのですが、連帯とか共闘ということにはなぜか心がうずきます。
今でもそうです。
ソーシャル・キャピタル論の原点になった、
社会学者パットナムの「ひとりでボーリングをする」という論文があります。
アメリカのボーリング人口はそう減っていないのに、
なぜか一人でボーリングする人が増えてきたという問題提起の小論です。
そこから社会の大きな変質が示唆され、ソーシャル・キャピタル論が広がっていくのですが、
日本では「うたごえ喫茶からカラオケへ」というのが、まさに社会の変質を示唆しています。
「カチューシャ」や「ともしび」などという、1960年代に大流行した歌を、
うたごえ喫茶風に歌いながら、そんなことを考えていました。
コンサートには1500人くらいの人が入場していましたが、
少なくとも私の周りの人はほぼすべて歌っていました。
しかも1曲は、ボニージャックスは歌わずに、会場だけで大合唱になりました。
共通の言語とつながる思いが、まだ残っているのです。
40年前の時代が良かった、などという気はありませんが、
思い出すだけでも表情のある物語が際限なく浮かんできます。
この30年の思い出とは全く違うような気がします。
日本のソーシャル・キャピタル論を考える視座が、ここにあるような気がします。
ちなみに、うたごえ喫茶で好んで歌われたのがロシア民謡です。
念のために言えば、ソ連民謡ではなく、ロシア民謡です。
ソ連が捨ててきた文化の一つだと思いますが、
それもまた実に示唆に富むことです。当時はそんなことには全く気づきませんでしたが。
最近また団塊シニアたちがうたごえ喫茶を再開させているようです。
そのエネルギーは社会と未来に向けてではなく、仲間と現在に向けられているような気もしますが、
もしかしたら、また社会が動き出すのかもしれません。
以前、書いた掛川で行われた嬬恋コンサート2006もそうですが、
何かが動き出そうとしている気配はあります。
もちろん、それをつぶそうという動きのほうが圧倒的に強いですが、
無敵の朝青龍が連敗したように、地盤変化が起ころうとしているのかもしれません。
まあ、私が生きている間には顕在化はしないでしょうが
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コメント
こんにちは。
私は最近津軽三味線を始めたのですが、先日転勤の挨拶に見えた生徒さんとその場にいた全員で、入門曲を合奏しました。
私は初心者なのですが、師匠に「ゆっくり弾くからあなたも入って」といわれ、私も一緒に合奏しました。引き終わったとき、人を送るとはこういうことなのだな、と心に響くものがありました。
動物としての人間は、言葉を獲得する前は歌うことでコミュニケーションをとっていたとする学説もあるとか。同じ霊長類であるテナガザルは、ペアの間で歌うようになき交わすそうです。コーラスや合奏などで曲を奏でることは人間が心を通わせるためのものかもしれません。
社会の大きな動きと佐藤先生がおっしゃるのは、動物としての人間を取り戻す動きなのではないかと感じます。便利になりすぎた世の中で、人間が本来持ち続けてきた知恵や文化が「おくれたもの」として切り捨てられている中、本当はその中にこそ人間として一番大切なものがある、ということに気がつく人が増えているからではないでしょうか。
投稿: 齋藤聖子 | 2007/03/19 13:47