■自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望むことの意味
全日本病院協会による延命治療アンケートの結果が25日の朝日新聞に出ていました。
アンケート調査の結果、「自分は延命治療を望まないが、家族の延命治療は望む」という人が多かったそうです。
詳しくは次のブログが取り上げています。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-711.html
この結果をどう考えるべきでしょうか。
この3日間、ずっと気になって考えていました。
「人は誰のために生きるか」の根底には、「人は何のために生きるか」が、実はあるわけですが、生きることの意味が、このデータにも色濃く出ています。
延命治療もまた、家族のためなのかもしれません。
「家族のため」の意味もまた多様ですが、ここでは素直に「家族のため」と考えたいです。
家族の死を体験した人、死に直面した人にはわかってもらえると思います。
人の生命は、実は自分のものではなく、他の人のものという側面が大きいのです。
ある局面では、生きることよりも生きることをやめることのほうが簡単です。
しかしそうした場合でも、死を選ばないのが人間です。
それは「生命」は私的所有対象ではなく、みんなのものだからではないかと思います。
一昨日の言葉を使えば、「いただきもの」なのです。
そうしたことが生命には内在しているように思います。
「生命」はつながっています。
個人の死は、決して個人では完結していないのです。
だからこそ、「生物多様性」の重要性があるのです。
インドラの網のように、あらゆる生命が、私の生命とつながっており、関わっているわけです。
もう一つのメッセージも感じます。
それは、私たちは、家族を延命治療したくなるような生き方をしているのではないかということです。
しっかりと書かないとうまく伝わらないような不安がありますが、
もし毎日をしっかりと家族と暮らしていたならば、延命治療など選ばないのではないかということです。
家族の愛が強ければこそ、延命治療を望むのではないかという気もするのですが、これは悩ましい問題です。
人の生命にかかわる問題はいくら考えても、いつも結論を見出せません。
自らの延命治療の是非を、自らで決めていいのかどうかも、悩みます。
ところで、調査結果をこう読み替えることは不謹慎でしょうか。
「自分は自殺を望むが、家族は自殺を望まない」
これはたぶん事実でしょうが、では「社会」はどうなのか。
安直な延命治療の仕組みやその反対の自殺に追いやるような仕組みが、いまの社会には広がっているような不安があります。
哀しい社会になってきてしまったような気がします。
これも誤解されそうな文章ですね。
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