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2007年4月

2007/04/30

■教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」

「ローマ・ヒューマニズムの成立」(小林雅夫/地中海研究所紀要第5号所収)という小論の中に、古代ギリシア人が「教養」と想定している学科構成というのが出ていました。
20人以上のソフィストたちの考える科目が一覧できるのですが、ほとんどの人が「音楽」をあげているのに興味を持ちました。
プラトンは、教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」としていたそうです。
古代ギリシアでは音楽と体育は重視されていたようですが、その音楽と体育は歌舞の中の統合されていたわけです。

そのいずれも私は得手ではありません。
楽器も出来ませんし、ダンスはフォークダンスですら不得手でした。
大学のころ、仲間たちと1週間、キャンプに行くことになり、新しいフォークダンスをやろうということになりました。私が選んだのが、ウェストサイド物語の挿入歌「アメリカ」でした。
知り合いに頼んで振り付けをしてもらい、教えてもらったのですが、どうもそれが覚えられずに、重いテープレコーダー(当時はとても重かったのです)を山まで運んだのに、みんなで踊った記憶がありません。
体育も得手ではなく、苦労しました。運動神経もあまりよくないようです。
したがって、古代ギリシアでは私は「教育のない人」の典型です。

ところが、最近の「学力論議」では、このいずれも出てきません。
いずれも不得手な私にとっては好都合なようにも思えますが、その私でさえ、こうした要素が入らない学力には納得できません。
音楽と体育こそ、生きていくうえでの重要な要素だと思うからです。
さらにここにアート(創作)が加われば、もう人間としてはいうことありません。
それがあってこそ、物理や歴史の知識が意味を持ってきます。
日本の教育体系では、音楽、体育、図工(創作)、家庭科などは入試とは関係なかったが故に常におろそかにされてきました。
しかし、人間が豊かに暮らしていくためには、これこそが大切な科目なのではないかと思います。
そこにこそ、学ぶ喜びもあるはずです。

必修科目と選択科目の配置を入れ替えなくてはいけません。
英語を必修にするかどうかの次元で考えている時ではありません。
もう機械のような労働者や技術者を育てる時代ではなくなったのです。
学校のパラダイム、教育のパラダイムを変えてもいいのではないでしょうか。

そういう議論が全くないのが、不思議でなりません。

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2007/04/29

■経済的な連休から精神的な連休へ

大型連休のはじまりです。
資本主義経済の発展を支えているのは、いうまでもなく「市場」です。
つまり「消費」こそが経済の原動力です。「生産」ではありません。
しかも、「消費」と「生産」の意味は、資本主義経済の状況によって変質してきます。
たとえば「価値の消費」が「価格の消費」に変化し、「価値を創る生産」が「価値を壊す生産」に変化するようなことが起こるわけです。
大型連休は、過剰な生産を清算する消費にも、過剰な消費を清算する生産にも、大きな効果があります。ですから年々大型化していく傾向にあります。
言葉足らずで、わかりにくい書き方になっているかもしれませんが、ブログではなく、もっときちんと書かなければいけないテーマかもしれません。
しかし、20年前には生活(余暇)のためにあった連休が、いまや経済のための連休になってきていることは、もっと意識されるべきではないかと思います。

私は、この20年近く、連休とは無縁な生活をしています。
この数年でいえば、あるプロジェクトのおかげで、連休はいつも自宅で報告書づくりをしていました。「消費」の対象は、市場的なものではなく、私自身の時間だけでした。経済の発展には全く寄与してきませんでした。
今年の連休は、例年よりももっと無為に、女房との時間を過ごす予定です。
そして自らの生き方や社会との関わり方を考えてみるつもりです。

そろそろ経済的な連休ではなく、そうした精神的な連休のあり方が必要になってきているのかもしれません。
個人の話ではありません。社会全体の話です。

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2007/04/28

■「騙された者の罪」

マスコミではもうあまり騒がれなくなってきましたが、憲法改正が着々と進められています。
これは日本の問題である以上に、人類の歴史にとっての大きな問題ではないかと思います。
せっかく人類の英知が辿り着いた日本国憲法第9条を、私物化して改正しようと図っているのはいうまでもなく、小泉、安倍と続く日本国の首相です。
そして、それを首相にいだく私たち現代の日本人です。
哀しいことに私もその一人というわけです。

私はこの2人は卑劣な犯罪者であり、その罪は重罪だと思います。
小泉、安倍両名が、未必の故意をもった大量殺人企図者とすれば、
私もまたその共犯としかいいようがないわけで、
そう考えると新聞をにぎわすたかだか数人の殺人者を断罪する資格があるのかと思うこともないわけではありません。

私が、改めてそう思ったのは、「軍縮問題資料」5月号で、憲法学者の樋口陽一さんと土井たか子さんの対談を読んだからです。
郵政民営化で騙されたのは、当面は私たちがただ経済的な損失を受けるだけですが、憲法を変える話はそれではすみません。
金正日と同じような卑劣な人物が、紳士面をしてテレビで内容のない話をしているのをみると、それを放置している自分の生き方に嫌悪感を持ってしまいます。
なかなか辺見庸さんのようには行動できません。

ところで、その対談の最後に、樋口さんが伊丹万作の「騙された者の罪」の話を語っています。
「騙された者の罪」とは、伊丹万作(伊丹十三の父)が1946年、つまり日本が敗戦した翌年に書いた「戦争責任者の問題」のなかのメッセージです。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(中略) だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

さらに伊丹万作は、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と続けます。

あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。 (中略) 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

60年以上前に、すでに現在の日本国民の犯罪は予告されていたのです。
「戦争責任者の問題」の全文はネットで読めます。
ぜひ読んでみてください。

ところで、5月6日(日)夜の10時からNHK教育テレビで、
ETV特集アンコール「焼け跡から生まれた憲法草案」が再放送されます。
まだ見ていない人はぜひご覧ください。
騙されないためにも、罪を犯さないためにも、もっと真剣に時代と関わらなければと思っています。
そうでないと、昨日書いた飲酒運転者と同じ犯罪者になってしまいかねません。

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2007/04/27

■飲酒運転者から免許を剥奪することがなぜ出来ないのか

飲酒運転事故が後をたちません。
しかし、それを激減させるのは簡単なことです。
飲酒運転が見つかったら、即刻、免許運転を永久に剥奪すればいいだけの話です。
自動車は走る凶器ともいわれます。
もしそうであれば、それくらいの罰則が必要でしょう。
飲酒運転の罰則を強化したら、事故を起こしたり検問にかかったりしたら逃げて暴走する車が増えるという話もありますが、事故や検問で逃げた運転手は、飲酒運転以上に悪質だとして、運転免許剥奪に加えて、10年以上の懲役にしたらどうでしょうか。
無期懲役でもいいくらいだと、私は思います。
もちろんいずれも、原則であって、情状酌量は考えなければいけませんが。

そういうルールにして、なにか不都合はあるでしょうか。
まともに生きている人たちには、全くないはずです。
ではなぜそれが実現できないのか。
その理由も簡単です。
自動車が売れなくなるからです。
経済規模が縮小するからです。
雇用の場も減るという思いに縛られているからです。
それらはすべて、これまでの「古い経済」の論理でしかありませんが。
サステイナブルな経済からは、そういう論理は出てこないはずです。
つまり現在の私たちの経済的豊かさの根幹には、そうした「まともでない人たち」の思惑が蠢いているわけです。
まやかしの持続可能性議論が多すぎます。

世の中の問題を解決するのは、本当はいとも簡単なのです。
それがなかなか実現できないのは、
問題が解決されないことを望んでいる人たちがたくさんいるということなのでしょうか。

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2007/04/26

■学力テストへの犬山市の異議申し立て

24日に実施された全国学力テストに、愛知県犬山市の小中学校は予定通り参加しませんでした。
最後には崩れるかと思っていましたが、日本にも骨のある教育委員会があると感激しました。
犬山市の姿勢は次のサイトをご参照ください。
http://www.janjan.jp/area/0704/0704032972/1.php

今回の学力テストにかかった費用は77億円だそうです。
私は、この一事をもってしても、このテストに否定的です。
どこかの業者が利益を上げ、そこから寄付をもらう政治家が私腹を増やすだけのことでしょう。
教育産業で利益を上げている企業の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
彼らは教育を壊しているとしか、私には思えません。いささか言いすぎだとは思いますが。
今や教育はどんどん産業化されてしまっていますが、犬山市ではまだ教育の片鱗が残っているのかもしれません。

もっともテレビのインタビューでは犬山市の市民は不安を表明していました。
しかし、そのテレビ取材のディレクターの好みで住民を選んだのかもしれません。
まともに考えれば、学力テストなど無意味なのです。
なぜ無意味かといえば、テストで学力などわかるはずがないからです。
いや、テストでわかるような学力にはあまり意味がないのです。
そう思いませんか。

学力テストでわかるのは、たぶん「従順度」や「作業適性」や「創造力のなさ」くらいでしょう。
そういう子どもたちを育ててきた結果が、今の社会なのだということを、なぜみんな気づかないのでしょうか。
市町村合併に異を唱えた矢祭町の町長もそうですが、しっかりした活動を行っていれば、霞ヶ関の机上論には振り回されないはずです。
しかし、昨今はそういう自治の人は少なくなりました。

地方自治はいま、崩壊の危機にあります。
地方分権の時代とは、地方自治とは正反対の時代を意味することを認識すべきではないかと思います。
分権と自治は全く相容れない発想のはずです。

犬山市の教育委員会の勇気ある行動に、大きな拍手を送りたいと思います。

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2007/04/25

■不都合な結果は有権者の「誤解」のせい

高知県東洋町長選で、放射性廃棄物最終処分場受け入れ推進派の現職が落選したことについて、甘利経済産業相が記者会見で「(有権者が)誤解をしたまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」と述べたというニュースには驚きました。
これは有権者を馬鹿呼ばわりしている話であり、受け入れが正しいと決め付けている話です。
馬鹿な住民たちが、理解もしないで反対していると甘利さんは考えているのでしょう。
類は類を呼ぶのでしょうか。
こうした人たちがいまの閣僚には多いように思います。

「住民参加」とか「住民参画」とかいう言葉があります。
この二つは違うらしいですが、そんな小賢しい議論に騙されてはいけません。
もっと大切なのは、そこでの住民は誰かなのです。
一時期、「住民」ではなく「市民」という、これまた小賢しい議論が広がったことがありますが、これもまた騙されてはいけません。
こうした瑣末な議論には共通した発想があります。

つまりこうです。
政府やお上や有識者の考えに楯突くのは、無知で誤解している馬鹿な住民という発想が、そうした議論の根底にあるのです。
ですから、予め「賢い」市民をあつめて、タウンミーティングを開催し、計画にまで参画させるスタイルをとってきたわけです。
市民は「賢い」ですから、無理は言わないのです。いや、無理を言わない人が「賢い」人なのです。
もし彼らが楯突くようであれば、目先の利益しか考えていない住民エゴと切り捨てればいいのです。
しかし、今回の事件は、むしろ受け入れが目先の利益論でしたから、この論理は通用しません。
ですから「誤解」という理由が考えられたわけです。

誤解しているのは自分ではなく、住民だと決め付けるのはなぜでしょうか。
甘利さんにはきっとたくさんの情報があるでしょうし、「頭の良い」官僚や貪欲な学者が取り囲んでいるのでしょう。
しかし、その情報は実際の生活や文化で培われてきた情報に比べたら、どれほどのものでしょうか。
間違いなくほんのわずかな情報ですし、身勝手な編集で集めたものでしかありません。
甘利さんの家族の住んでいる地域の首長が、受け入れを決めたら、甘利さんはどうするでしょうか。
今の政治家には、そうした視点が欠落しています。
学者たちも自らの生活と無縁なところで考えています。
それはいつの時代も変わりはありません。
水俣や四日市を思い出せばいいでしょう。
熊本大学にいた原田さんのような生活とつながった学者も、もちろんいますが、そうした学者は決してメジャーにはなれません。ましてや本当の意味での、政策形成にはかんよすることは出来ないでしょう。

書いているうちに、だんだん腹が立ってきました。
笑顔を忘れるなとつい一昨日書いたばかりなのに、困ったものです。
誰が一番賢いのか。
そして行政とは、どの視点で考えるべきなのか。
これまで何回も書いてきましたが、相変わらず甘利さんのような人たちが政治を押さえている現実を知ると、疲れがドッと出てしまいます。

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2007/04/24

■コミュニティケアからケアコミュニティへ

このブログでも書きましたが、22日にコムケアフォーラム2007という、
全国の表情を持った全国のNPOの集まりを開きました。
急に決めたにもかかわらず、150人近くの人が集まってくれました。
その準備から当日の様子、またその後の動きなどは、
コムケアフォーラム2007のブログに書かれています。
これからも書き込みがある予定です。
よかったら読んでいただき、ぜひコムケアの輪に入ってください。

私は、その活動の事務局を6年やっていますが、
そこで全国の述900のNPOやボランティアグループの活動にささやかに触れてきました。
そのおかげで、日本の社会の実相を垣間見ると共に、日本のNPOの問題点も見えてきました。
数は増えましたが、9割のNPOは自立していませんし、
自立しようともしていないという気もします。
しかし、新しい社会を創り出そうと健闘している人たちも決して少なくありません。

この活動を始める時に、キーコンセプトを「つなぐ」に決めましたが、
6年間の活動を通して、ケアとはつなぐことだと確信しました。
それも表情のあるつながり方、遠心力を持った開かれたつながり方です。
いまの福祉行政には、そうした視点が弱いですし、多くのNPOもまたそういう発想をもっていません。
それはこの半世紀以上の経済至上主義のせいかもしれません。

かつての日本は「つながりの深い」社会でした。
人と人のつながりだけではありません。
自然とのつながり、文化とのつながり、物とのつながり、過去とのつながり、未来とのつながりです。
その「つながりの文化」は、近代化には不都合な側面がありました。
そのために、私たちはみんなで「つながりこわし」をしてきたわけです。
そして核家族社会や企業社会が生まれてきました。
社会は荒廃し、少子化が進みだしました。
そして、そうした状況に中で、産業はますます広がっているわけです。

そういう時代の流れに、棹をさしたい、というのが、
私がコムケア活動を始めた思いでした。
その活動拠点が、コミュニティケア活動センター(コムケアセンター)です。
しかし、最近、コミュニティケアではなく、ケアコミュニティという発想を軸にすべきだとようやく気づきました。
ケアコミュニティ。
ケアしあう文化の社会。
つながり、支えあう社会。
コミュニティケアとは視点や視野が全く違ってきます。第一、目線が違います。

いま私たちの周りで欠けているのは、ケアの仕組みや行為ではなく、ケアの文化です。
改めて私たちの先代たちが育て守ってきた「つながりの文化」を復活させることが必要です。
それができるかどうか、それによって、私たちの未来は大きく変わっていくような気がします。
全国のさまざまな実践者と話し合って、改めてその思いを強くしました。

今回のフォーラムで、コムケア活動から少し離れたいと思っていましたが、どうもそれは無理のようです。
人生はなかなか思うようにはなりません。

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2007/04/23

■あなたはいつも笑顔でいられますか

私がこの世で一番尊敬でき、信頼できる人は、いつも笑顔でいる人です。
宮沢賢治も憧れた
「欲はなく決して瞋(いか)らず、いつも静かに笑っている」(雨ニモマケズ)、
そういう人に私もなりたいと思っています。
しかし、私の現在は、それとは全く対極にあるような気がします。

今日、いつも笑顔の友人がやってきました。
友人というのには、まだ付き合いが短いのですが、
不思議なことになぜか昔からの知り合いのような気がお互いにしているようで、
その人もブログで私のことを友人と書いてくださったので、友人と呼ばせてもらいます。

その人は、いつも笑顔なのです。
その人を追いかけ取材した30分のテレビ番組を見せてもらいましたが、
内容はかなり厳しいものなのに、いつも笑顔なのです。
番組の内容よりも、その絶えない笑顔のことが私の脳裏からは離れないほどの強い印象を受けました。
そういえば、これまで3回お会いしましたが、いつも笑顔が絶えたことがないのです。

そこで、今日は極めて不躾な質問をしました。
「***される前から、いつも笑顔が絶えなかったでしょうか」
実はその人は数年前に大きな事件があって、生き方を変えたことがあるのです。
その事件以来のことではないかと実は私は考えていたのです。
人はとても辛いことを経験するとやさしくなれることを実感してきたからです。
ところが、答はそうではなく、事件の前からそうだったそうです。

どんなに苦労しても、笑顔が絶えない人がいるのです。
有名な人では、横田さんや河野さんがいます。
拉致事件とサリン事件の被害者ですが、いつも笑顔です。
この時代にも、笑顔を絶やさないことができるのです。

笑顔の友人と話していて、自分自身の生き方を今日はとても反省させられました。
笑顔を忘れないように、心の平安を維持できるように、今日から少し意識を変えたいと思っています。
いや、きっと、笑顔を絶やさないことこそ、心の平安を維持する秘訣なのでしょうか。

いじれにしろ、笑顔をもっと大切にしないといけません。
今日はたくさんのことを学ばせてもらいました。

もし、平和を望むのであれば、笑顔を絶やさないことから始めるべきかもしれません。

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2007/04/21

■優先席には率先して着席という発想

娘が、「リアルシンプル」という雑誌のコラムに載っていた表題の記事を教えてくれました。
一部を引用させてもらいます。

優先席に座るのは、なんとなくちゅうちょしてしまう人がほとんどでしょうが、生活総合情報サイトallaboutのガイドを務める筑波君江さんは、「優先席には率先して座りましょう」と話します。「優先席を譲ってもらえず困っている人はたくさんいます。だからこそ、あなたが積極的に座って“キープ”してあげるのです」。困っている人が乗ってきたら、すかさず声をかけて譲りましょう。

以前から電車の優先席にはどうも違和感を持っていましたが、この発想は気づきませんでした。
最初、この話を聞いた時にはとても納得できたのですが、少し考えているうちに、どこかおかしいような気がしてきました。
これは痛烈な日本人批判なのかもしれませんが、奇妙に納得してしまいたくなるところが落とし穴ですね。

3月から私が利用している常磐線にグリーン車ができました。
これも私は違和感があります。
以前、「グリーン車をすべてシルバー車にしたらどうか」と新聞の投稿欄に投書したことがありますが、グリーン車も好きになれません。もっとも、体調の関係で長距離の場合には利用させてもらうことがありますが、それはそもそも長距離列車が疲れすぎる構造にあるからです。
優先席を設けたり、グリーン車や女性専用車両をつくったりすることは問題解決にはなるかもしれませんが、同時に問題発生を加速させているのかもしれません。

残念ながら最近では私も優先席を譲ってもらう年齢になってしまいましたので、筑波さんのお薦めにはどう対処しようか迷うところですが、少し心がけてみてもいいかもしれませんね。
しかし、どこかに抵抗があるのはなぜでしょうか。

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2007/04/20

■経営における道徳性

夕刊を見ていたら、電力各社のデータ改ざんや隠蔽などの不正問題を調べていた経済産業省が計50事案を特に悪質な法令違反と認定した、という記事が出ていました。
経済産業省こそ問題なのではないかという気もしますが、それはともかく、いわゆる「公益企業」といわれる電力会社ですら、こういう状況が依然続いていることには驚きを感じます。
こうしたことが問題になってから、もう数十年もたつのに、事態は変わっていないのです。

そこには、「産業のジレンマ」の構造が、フラクタルに存在しています。
経営学やカウンセリングにも、また同じような「ジレンマ」があるのでしょう。
企業の目的は「顧客の創造」であるという定義(これこそが「産業のジレンマ」の出発点です)を読んで以来、どうしても好きになれない経営学の泰斗、ドラッカーは、現在の産業パラダイムの中では最高の経営学者だと思いますが、そのドラッカーは1954年の著書“The Practice of Management”のなかで、こう書いています。

経営層によい精神を生ましめるために必要なものは、道徳性(モラリティ)である。そして、道徳性は、人々の長所を強調すること、高潔を強調すること、正義を重んじ、高い行動の標準を創ることを意味する、

近代広報の父といわれる、アイ・ビー・リーは、広報の本質を「フランクネス」といっています。隠すことのコストは以前書きましたが、コストの問題以前に、それは道徳性に関わることです。

道徳性がなぜ必要かは2つの理由があります。
まずソーシャル・キャピタルの視点からの価値です。
ソーシャル・キャピタルが高まれば、さまざまな意味で経済的なコストは削減され、人間的な安寧さが高まります。
道徳的であることが、現在の経済パラダイムにおいてさえ、実は最も経済的なのです。

個々人の立場からも、道徳性は価値があります。
道徳的であることは個人に生きやすい状況を提供してくれます。
人が一番、生きやすいのは周りの人の長所と付き合うことです。
これは私の体験からほぼ間違いないと確信しています。
長所だけ見ていたら、すべての人が善人に見えてきますから、毎日が幸せです。
自らが好んで嘘をついたり、明らかな不正義を犯そうとしたりする人は通常はいないでしょう。
そういう行為を行わざるを得ない事情が、それぞれにあるのです。
あるいは、自らの行為の意味が理解できていないのです。
最近の銃の事件も、その例外ではないでしょう。

念のために言えば、そうした考えであればこそ、私は犯罪行為には厳罰が必要だと思っています。
犯した罪よりも、重い罰が与えられなければ、人は救われないと思っています。
ですから、殺人を犯した人は、死刑以上の罰を受けるべきです。
雑な言い方ですみませんが、現代の刑の与え方はあまりにも軽すぎます。
それは冤罪なども含めて、裁判の監視の仕組みがないことと無縁でないようにも思いますが。

友人が始めた「経営道」運動に関わっていますが、どうもどこかで設計ミスがあるような気がしてきています。
そろそろ経済や産業のパラダイムを考え直す時期に来ているような気がします。
同じような企業不祥事のニュースを、いつまでも繰り返し読みたくはありません。
経済同友会が経営者の社会的責任を提言した1956年から、日本の企業の経営者は少しは前進しているのでしょうか。

そろそろ「企業のあり方」を考えなおす時期に来ているのではないかと思います。
経営論の時代ではなく、企業論の時代です。

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2007/04/19

■「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」

イラクにはなかなか平和が戻りません。
昨日もバグダッドで5件の連続爆弾テロがあり、170人以上が死亡したといわれます。
フセイン時代以上に、イラクはいま戦争状態です。

戦争は20世紀に入ってからも、2回にわたり大きな変質を起こしました。
最初は、いわゆる総力戦への移行です。
それまでの軍隊による戦争が国家全体の争いになったのです。
そこではもはや戦闘員と非戦闘員の区別はつかなくなります。
国家の戦争には否応なく巻き込まれてしまうようになりました。
良心的兵役拒否の動きはありましたが、それは感動的ではあるものの、
どこかに裏切りのにおいがしなくもありません。
さらに悪いことに、被害者は非戦闘員のほうが多くなる傾向が出てきます。
先に問題になった沖縄での集団自決などはそうしたことの一つの表れです。
手を下したのは敵軍ではなく、自軍なのです。
対立の構図が変わったわけです。

そして20世紀末に戦争はさらに変質します。
戦争が「事件」から「状態」に変化してしまったのです。
20世紀前半までは、国家間の総力戦になったとはいえ、戦争は一時期の事件でした。
戦争が終結すれば、平和が訪れたのです。
1945年以降の日本の昭和時代は、まさにその最後の平和の時代だったのかもしれません。
しかし、次第に戦争は状況になってきます。

このあたりは、アントニオ・ネグリの「帝国」や「マルチチュード」にわかりやすく書かれています。
ちなみに、この「マルチチュード」は批判もありますが、現代を読み解く視点をたくさん提供してくれます。
その「マルチチュード」の表現を使わせてもらえれば、
戦争と政治の区別はますます曖昧になり、「戦争は今や永続的な社会関係にまでなりつつある」というのです。
とても納得できます。

イラク戦争は終わったといわれますが、その後も戦争状態は継続し、死者は決して減少していません。
「戦争とは別の手段による政治の継続である」とクラウゼヴィッツは言いましたが、
最近では、「政治そのものが別の手段によって実施された戦争」とも言われるのだそうです。

戦争が変質したのです。
そして敵もまた変わったのです。
こうした文脈で、時代を読み解いていけば、さまざまなことに気づくはずです。
昨日起こった不幸な銃殺事件、イラクでの日常的な爆弾テロと軍隊による市民虐殺事件。
それらはつながっています。

戦争の変質を踏まえて、政治も変わらなければいけません。
そして平和運動も変わらなければいけません。
しかし、戦争を推進している日本の政治家も、
それに抗して平和運動を展開している平和運動家も、
これまでと同じ発想で、活動に取り組んでいるように思えてなりません。

ちなみに、私の平和運動はコムケア活動なのです。
4月22日に、その集まりがあります。
面白い実践者たちが集まるフォーラムになりそうです。
よかったらぜひ参加してください。
そして声をかけてください。

戦争状況から脱するためには、人のつながりをリゾーミックに育てていくしかありません。
それこそがこれからのソーシャル・キャピタルです。
政治はもちろん、経済のパラダイムが変わらなければいけません。
その一歩を私たちは踏み出すべき時期に来ています。

今日の朝日新聞の天声人語にノーマン・メイラーの言葉が引用されていました。
「次の世代のために毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義」。
小さな一歩を積み重ねていければと思っています。
疲れますが。


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2007/04/18

■銃を撃ってしまう不幸

昨日、アメリカと日本で銃による痛ましい事件が起こりました。
バージニア工科大学の乱射事件は死者が30人を上回る悲惨な事件ですが、その報道のさなかに起こった長崎市長銃撃事件は、日本での、しかも長崎での事件だったために、私にはそれ以上に衝撃的な事件でした。
大学乱射事件は銃社会の病理と考えられますが、長崎の事件は銃社会ではない日本での話です。
しかも、報道ではまだ読み取れませんが、本島市長に続いての事件であり、日本社会の行く末を感じさせるものがあります。

名刀をもつと人を斬りたくなる、という話があります。
私はまだ真剣を持ったことはありませんが、そうしたことは何となく納得できます。
人を殺傷する武器が容易に手に入ることは、決して幸せなことではありません。

アメリカの憲法修正第2条には、次のような「人民の武装権」があげられています。
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。
この条文は、アメリカがまだ近代国家としては未熟であることを表しています。
以前も書きましたが、暴力を独占するのが近代国家の特徴の一つですが、アメリカはまだ独占し切れていないのです。

9.11時件はこうした背景の下に行われたわけです。
武器は銃だけではありません。自動車も飛行機も、いうまでもなく武器の要素を持っています。日本の特攻隊やイラクの自爆自動車を考えればわかります。
アメリカは極めて未開な暴力社会を引きずっているわけです。
もっとも、条文には、さすがに「武器を使用する権利」までは書かれていません。
しかし、「保有」「携帯」と「使用」とは、実質的には同義語です。使用できない保有は無意味ですし、自己防衛は解釈問題ですから、いかようにも拡大できます。そこが「法律」の世界の恐ろしいところでもあります。
アメリカは決して先進国ではないのです。
基準を少し変えれば、遅れた国なのです。

もし銃がなければ、今回の事件は起こらなかったかもしれません。
起こったとしても、違った結果になったでしょう。
銃の殺傷力は大きいです。
それに、ナイフなど直接身体を使うものに比べたら、行動を起こすための自己抑制力は格段に低いはずです。ただ引き金を引き、返り血すら浴びないのですから。
銃が安直に入手できるが故に、銃を撃ってしまう不幸が起こってしまうわけです。
撃たれたほうはもちろんですが、撃つほうの不幸も否定できません。
銃のない社会を目指すことが大切です。

が、ちょっと視野を変えると、実はこの銃社会の構造は国際関係の基本なのです。
バージニア工科大学の乱射事件は、イラクやアフガニスタンにおける米国軍隊の行動に重なります。彼らは、銃よりももっと心理的抵抗の少ない武器を作り出しています。
長崎の事件は、日本の自衛隊のあしたの姿を思わせます。

期せずして起こった日米の事件は、とても不幸な未来を予兆しているような気がして、今朝は朝から気分が晴れません。

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2007/04/17

■国民投票法をつくって何が悪いのか

憲法改正の手続きを定める国民投票法をめぐる論議が続いています。
多くの人は、単なる手続法だからどうでもいいではないか、それにどうせ必要なのであれば早く決めればいいではないかと思いがちです。
教育基本法改正だって同じです。
今の教育には問題が多いのだから、その改善のために基本法を見直すのは当然ではないかというわけです。
障害者自立支援法も、なぜ反対するのか理解できない人は多いでしょう。
障害者の自立を支援することのどこが悪いのか。
そうやって、次々と法律が生まれていきます。
法律ができるとそれを施行するための行政組織が必要になりますから、政府はどんどん大きくなります。

さて、法律が出来ると何が変わるのでしょうか。
いろいろあるでしょうが、間違いないことの一つは、法律に通暁している人が行動しやすくなることです。
法律に通暁している人は、たぶん法律が対象にしている普通の国民ではありません。
もしそうであれば、またそれを目指しているのであれば、現在の法律のように「難しい」「多義的な」条文ではなく、もっと短くわかりやすいものにするはずです。
そうでないということは、要するに法律専門家や法律を基準に行動する行政人や、法律を悪用する犯罪者が法律の一番の使い手ということになります。
ちょっと飛躍がありますが、まあ、そう大きくは違わないでしょう。
すくなくとも、法律は決して「国民」のためにあるのではありません。
国民を「統治する」ために、あるいは「統治される」ためにあるのです。

国民投票法は手続法といわれますが、法律はすべてが手段で、基本的には手続法といってもいいでしょう。
統治手続法ということです。
一般には、法律関係それ自体の内容を定める実体法と、実体法が定める法律関係を実現するための手続きを定める手続法、というように区別しますが、よく考えてみれば、法律は価値判断をするための拠り所であり、個人や組織の行動を律したり評価したりするためのものですから、実は実体法と手続法はつながっているはずです。
しかし、なぜか「手続法」と言われてしまうとついつい内容には目が向かなくなりがちなのです。

法律を変える場合、「改正」と「改悪」がありますが、変えようとする側は決して「改悪」とは言いません。
ですから法律を変えることは、いつの場合も「改正」です。
しかし、法律を変える場合、誰かにとっては有利になり、誰かにとっては不利になることは言うまでもありません。法律は価値配分の基準になるからです。
しかし、たとえば「教育基本法改正」という言葉には、状況が良くなるという意味合いが強くこもっています。
内容も読まずに、なんとなく賛成してしまうのが多くの人かもしれません。
ましてや「自立支援法」などといわれれば、反対のしようがありません。
そうした言葉の魔術のなかで、実は私たちを取り巻く管理環境は厳しくなる一方です。
それが法律を整備するという意味なのです。

憲法改正は何も憲法条文を変更しなくてもできることです。
法論理的にさえ、今回の国民投票法は憲法を変える内容になっていると思いますし、たぶん教育基本法「改正」もまた、憲法を実質的には変えてしまったのだろうと思います。

大切なことは「法律」そのものではありません。
その「法律」もしくは「法律の変更」を議論するプロセスです。
そこで実状が明らかになり、問題が共有され、意見が交わされながら、さまざまな考えが吟味されながら、問題が解決され、未来が開けていくことです。
真剣な議論の結果、法律が不要になるのが理想のはずです。
しかし、どうも最近の日本は、法律の制定がなぜか先ず日程を決めてから進められるようになってきました。

法律をつくることが目的なのではないのです。
もし法律の制定を急ぐ人がいたら、その裏にはきっと大きな私利私欲がうごめいているのだろうと思います。
もう少しきちんとした議論をする仕組みが必要なように思えてなりません。

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2007/04/16

■わくわくするほど気に入っている参加費方式

前回、ご紹介したフォーラムに関する話をもう一度させてもらいます。
ちょっと気に入っている新機軸をご紹介したいのです。
この記事はコムケアフォーラム2007のブログにも書いたのですが、ちょっとだけ修正して再録します。

22日のフォーラムの参加費は1000円なのです。
最初は無料の予定だったのですが、実行委員会で無料はだめだとある人が主張しました。
そこで1000円の参加費になったのですが、単なる参加費ではコムケア的ではありません。
そこで新機軸を出そうということになり、会場で出会った共感できる活動に取り組む人に、その1000円を提供できるようにしたのです。
ですから、参加することで、ささやかに「社会参加」できる仕組みになっています。
この仕組みは、ケアップカードで行います。

参加費と引き換えにケアップカードをもらい、それが寄付の金券になるわけです。
しかし、これでは前回の公開選考会の時と同じです。
ちなみに、前回の反省を踏まえて、今回はコムケアセンターへの提供は禁止です。
前回は元締めのコムケアセンターへの寄付が多かったのです。

そこで新機軸の登場です。
もし共感できる人に出会えず、自分のほうが良い活動をしていると考えたら、自分に提供することも可能にしたのです。
つまり「自分への寄付」です。
平たく言えば、参加費は取り戻せるのです。

自分への還元が多いと問題ではないかと思うかもしれません。
そんなことはありません。
自分に資金を提供すると、その分、責任が発生しますので、これからコムケア活動をしたくなるかもしれません。
そうすればコムケアの仲間が増えるのです。
こんな良いことはありません。

そんなわけで、自分に提供する人が多いといいなと思っていますが、たぶんそうはならないでしょう。
何しろ魅力的な活動がたくさん集まるからです。

私は、この仕組みがすごく気にいっています。
みなさんはいかがでしょうか。
1000円を自分に寄付できるかどうか、試しに来ませんか。

いまこのアイデアにほれ込んでいます。
すべての入場料や参加費がこういうようになると、きっと楽しくなるでしょうね。
そう思いませんか。

いや、社会の経済システムが壊れてしまうかもしれませんね。
しかし、NPOはそういうことも含めて、イノベーティブでなければいけない、と私は思っています。
社会を壊すほどに。

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2007/04/15

■新しいNPOのつながり育ての集まりがあります

今日はちょっと趣向の違う記事です。
とても長いですが、ぜひお読みください。

日本のNPOの世界の動きには、当初から違和感がありました。
私は企業と行政が主役の管理主義、経済主義の社会、言い換えれば「公民の社会」から「共(コモンズ)の社会」に向けて、社会は変わっていくことをビジョンにしている人間です。
その視点からすると、日本のNPOは官が育て、経済主義をベースにした、公民の端役になりがちだという気がしていたのです。
そういう状況に、ささやかに新しい風を吹き込みたいと思って始めたのがコムケア活動です。
NPO(その名称が一番違和感のある言葉ですが)の役割や行動原理は別の所にあると思っているのです。
これに関しては、コムケア活動のホームページCWSコモンズにあるコムケア理念をお読みください。

そのコムケア活動も7年目を迎えました。
そこで、改めてコムケアの仲間と一緒に、これからのNPOや市民活動のあり方を考えるフォーラムを開催することにしました。
といっても難しいフォーラムではなく、いろいろな活動に取り組む人たちの、それぞれの「表情」を交換しあうフォーラムです。
そこに企業や行政の人たちにも参加してもらい、新しいつながりを生み出していきたいという思いもあります。
そんなことで1か月前に決断し、4月22日に東京の上野近くの廃校になった小学校の体育館でコムケアフォーラム2007を開催することにしました。
詳しい案内は次のサイトにあります。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007.htm

開催を決意してから全国のコムケア活動の仲間に呼びかけました。
急なことだったので、どれだけの人が参加してくれるか不安でした。
ところが、福岡や山口、福井や大阪など、遠方からの参加も含めて、20を超えるグループが展示に参加。30人近い人が会場で呼びかけを行ってくれることになりました。
うれしい話です。
会場では、ミニセッションもいろいろあります。
スタッピング平和展もあれば駄菓子屋もでますし、対話法のミニセッションもあれば、遠隔地介護のミニサロンもあり、ケアプランづくり体験や異文化体験などのコーナーもあります。
まだまだいろいろあります。

参加者による呼びかけもいろいろ出てきそうです。
昨年、「NPOが自立する日」を出版し、NPOの自立を問題提起した日本NPO学会副会長の田中弥生さんも呼びかけに参加します。
事業型NPOで話題になり、団塊世代問題でもテレビなどで活躍のイーエルダーの鈴木さんも来ますし、新しい社会事業モデルに取り組む田辺大さんも来ます。
交流時間もタップリありますので、いろいろとつながりを広げることができると思います。

参加するのはNPO関係者だけではありません。
大企業の部長も、中堅企業の社長も参加してくれます。
学生も主婦もホームレスも社会起業家も、ともかくいろいろです。

ともかく面白い場になりそうです。
できるだけたくさんの人に参加してもらいたいと思い、このブログでも紹介させてもらいました。
このブログを読んで、もし関心をもたれたらぜひ参加してください。
きっと目からうろこがおちます。

もし参加されたら、会場でぜひ声をかけてください。
一応、私はこの活動の事務局であるコムケアセンターの事務局長なのです。

だれでも歓迎ですので、気楽にご参加ください。まわりの人にもぜひお誘いください。
参加団体の一部を下記します。
もしお会いしたい人がいたら、当日お引き合わせさせてもらいます。

 ○日時 2007年4月22日(日)13:00~17:00
 ○会場 台東デザイナーズビレッジ(新御徒町近く)

<参加予定者の一部>
福祉ビジネス・手がたりの会:新しい事業モデルを創出しだしています
コミュニティアートふなばし:アートのパワーを活かして社会活動をしています
日本対話法研究会:コミュニケーション力を高めるための方法を広げています
NPO法人パオッコ:離れて暮らす親のケアを考える会です。
龍の子学園:先日朝日新聞トップで紹介されたろう者の学校に取り組んでいます
全国マイケアプラン・ネットワーク:介護の世界に新しい風を起こしています
市民活動情報センター・ハンズオン!埼玉:新しいコミュニティビジネスモデル
NPO法人エルマーの会:発達障害児の家族の会です。
NPO法人ふぁっとえばー:障害を持つ人たちが自分たちで働く会社を作りました
NPO法人カドリーベア・デン・イン・ジャパン:ベアドールを活用した活動です。
NPO法人感声アイモ:独特な発声法で、病気や障害の克服を応援しています
共生支援センター:九州で新しい地域コミュニティづくりを進めています
団塊世代プロジェクト:団塊シニアのインキュベーションを支援する活動です
NPO法人デイコールサービス協会:孤独死や独居老人支援の活動です
NPO法人イーエルダー:事業型NPOのモデルを確立しました。
東尋坊で自殺予防活動に取り組んでいる茂さん:ともかく人間的な人です
NPO法人ライフリンク:マスコミで自殺問題が取り上げられる契機を作りました。
ホスピタルアート:病院をもっと元気が出る空間にしようとしています
日本NPO学会副会長田中弥生さん:今のNPOを革新したいと思っています
ビッグイッシュー:ホームレス支援の活動をしています
GLI:世界中の社会起業家のネットワークづくりをしています
その他いろいろです。

22日、会場で会えるとうれしいです。
申し込みは次のサイトからお願いします。
http://homepage2.nifty.com/comcare/ccf2007m.htm
ありがとうございました。

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2007/04/14

■不幸と幸せはコインの表裏

コミュニケーションの出発点は自らの弱さ(ヴァルネラビリティ)を見せることだということは以前、金子郁容さんから学んだことです。
金子さんが安積遊歩さんたちと一緒に東中野で障害のある人の支援活動をしている時のことです。
私もささやかに協力していました。
その時に学んだのは、ヴァルネラビリティとアファーマティブアクションです。
その二つは私にとっては、コミュニケーションのことを考える上で大きなヒントになりました。
以来、体験的にヴァルネラビリティ効果の確かさを納得しています。

この数年、私の弱さは見えすぎるほど見えていますので、逆に私もまた周りがよく見えてきました。
見るという行為は一方的な行為ですが、「見える」ということは双方向的な関係です。

昨日、友人から家族の「不幸」を曝けだすメールがきました。
その友人は、何か問題がありそうなのに、とても明るく振舞っているので、軽く考えていましたが、思いもしない問題を抱えていました。
その友人から「生きている気力って何?」と質問されて、驚きました。
そんなだったのかという驚きです。
気づかなかった私は友人失格かもしれません。
笑顔の後ろに、みんなそれぞれの問題を抱えているのです。

久しぶりに会った、幸せそうな家族的な友人が、後で離婚していたことを知りました。
あの幸せそうな素振りは、その裏返しだったのかもしれません。
それに気づかなかった私の感受性のなさにショックを受けました。
突然訪ねてきた人がいます。なんでもない話をして帰りました。
なぜわざわざ来たのかなあと思っていたら、知人から彼は結構切羽詰っているのだと聞きました。
その人は初対面だったこともあり、私はあまり弱みを見せませんでしたので、心を開けなかったのかもしれません。
反省しなければいけません。

自治会の会長をやっているといろいろなことに触れる機会があります。
良いことばかりではありません。
昨夜も電話がありました。もう自治会長は次に人に回したのですが。
お話を聞くといろいろあります。
わが家とはかなり離れているところの、会ったこともない人ですが、近隣社会が壊れていることから発生した問題の相談です。
自治会長時代には気づきませんでしたが、その気になれば気づいたはずの問題です。
自分の問題で精一杯だったので、見ないようにしていた自分がいたのでしょう。
恥じなければいけません。

長々と書いてしまいましたが、この半年、こういう話が毎週のように舞い込んできています。
ここに書いた話は、いずれも深刻ではないほうの話です。
みんなそれぞれに問題を抱えていることを実感しました。
いつの時代も、こんなにみんな問題を抱えていたのでしょうか。

「生きる気力」を訊いてきた友人に、こう返信しました。

どこの家も外から見ると平和そうでも、中に入るといろいろ問題はあります。 わが家にもいろいろあります。 そうした悩みも含めて、それこそが人生です。

私よりも辛い状況にいる女房は、
みんなそれぞれにがんばっている。私もがんばらなくては。
といつも言います。
病気になってから身につけた、女房のポジティブシンキングスタイルです。
「病気はいただきもの」と考えるかどうかで、その人の幸せは決まります。

外から見える幸せと中にある悩みや哀しさ。
外から見える不幸と中にある幸せ。
不幸と幸せはコインの表裏かもしれません。

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2007/04/13

■家事とビジネスとどちらが難しいでしょうか

最近、女房や娘に任せていた家事をちょっとだけ分担しています。
そこで感じたのは家事に比べたら、ビジネスの仕事などいとも簡単だということです。

これには異論のある方もいるでしょう。
もう少しきちんと説明したほうがいいかもしれませんが、
たとえば食堂での食事をつくるのと家族のための食事では、
前者が簡単なのはお分かりいただけるでしょうか。
なぜ簡単かといえば、前者はつくりたいものをつくればいいからです。
できたものを食べたい人が食べればいいのです。
それに毎日同じものを作っていればいいのです。
食べる人は変わるのですから。

しかし家族のための食事は、家族が食べたいものを、
その家族の健康状況や人生を考えながらつくらないといけません。
しかも毎日同じ人が食べるのです。
毎日メニューを変えなくてはいけません。

先日、CWSコモンズのほうに百姓のことを書きましたが、
百姓仕事、最近の言葉を使えば農民の仕事と工業関係の仕事を比べたら、これまた工業の仕事は簡単です。

これも異論があるでしょう。
しかし工業の世界はマニュアルがつくれますが、自然相手の農業はマニュアルなどあてにはなりません。
自然は毎年同じとは限らないからです。
いまの時代には、家事はビジネス仕事よりも下位におかれ、
農業も工業よりも下位に見られていますが、とんでもない話です。

世界に冠たる大企業の社長も、家に帰ったら奥さんに頭があがらない存在かもしれません。
生活面では、たぶん自立していないでしょう。
そうした自立もできない人が現場で汗している自立している生活者に訓示を垂れている風景は、
私にはとても滑稽に感じます。
百姓を見下す工業エンジニアにも可笑しさを感じます。

私はただいま、家事見習い中ですが、難しいものです。
最近は資格認定が多いですが、役にも立たない資格認定などやめて、
家事資格というのを始めたらどうでしょうか。
目標を与えられるとがんばってしまう男性たちがこぞって家事を学びだすと、
もしかしたらまた日本の家庭は世界に誇れる家庭になるかもしれません。

いや、ますます悪くなりますね。
どうせ資格制度をつくるのであれば、百姓資格認定がいいですね。
私などはまだ「十姓」くらいでしかありませんが。
現代社会の仕事観は根本から変えていかねばいけないと思っています。
本当に価値のある仕事をしたいものです。

家事や百姓仕事に比べたら、企業のナレッジマネジメントなどはままごとみたいな話かもしれません。
たいした頭は使わないでいいはずですから。

またみんなからヒンシュクをもらいそうですね。はい。

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2007/04/12

■無党派層から勝ち馬政党層への移行

統一地方選挙の前半結果から見えてきたのは、政党政治が自治体にまで広がっていることです。
当選者を見ると政党基盤に立っている人が多いのに、改めて驚きます。
政党離れが始まったのかと思っていた私には意外な結果です。

もっともそれが予想できなかったわけではありません。
私の友人知人がこれまでも何回か地方議員として立候補してきましたが、
昨年あたりからみんな政党の公認を受けるようになりました。
私にはとても違和感がありますが、それが現実なのでしょう。
無党派層が多いのではなく、勝ち馬政党層が増えているのです。
政治の質が変わったのです。
個人が個人で社会的に言動することが民主主義の基盤ですから、
民主的な社会は霧散したといっても良いかもしれません。

選挙の質も変わりました。
私の友人が立候補した時、応援してくれた私の友人から、
何が何でも当選するという意気込みがなければ次は応援できないといわれました。
選挙は当選してこそ、意味があるというのです。
私はそうは思いません。
当選か落選か、選挙の意義はそこにはないと思うのです。
しかし多くの人はそう考えています。
白黒つける偏差値教育で洗脳されているからでしょうか。
そうした考えの延長に、当選すれば何でもできるというとんでもない発想が生まれます。

そうした状況が広がれば、みんな勝ち馬に乗りたくなるでしょう。
ともかく当選しなければならないのです。
それに今や議員は職業になってきました。
私自身は議員と政治家は別のものだと思っていますが、いまや議員こそが政治家です。
まあ、そんなこんなで、私の友人知人もほぼ例外なしに政党に入りました。
そして当選率は急上昇です。
後半に立候補する友人知人も、きっと当選するでしょう。
地方議員の友人が私には増えるわけです。
彼らの社会への影響力は高まり、私の住みやすい社会に近づくかもしれません。
でもどこか違うような気がします。

改めて今こそ、民主主義にあり方を考えてみる時期かもしれません。
硬い組織で成り立っている政党ではなく、
やわらかなオープンネットワークのスタイルの仕組みが、
政治の世界、とりわけ地方政治を民主化していくのではないかと思うのですが、
時代の流れは正反対を向いています。

負け戦が好きな私としては、気持ちが悪くて仕方ありません。

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2007/04/11

■裁判員制度の意味することの顕在化

裁判員制度実施に向けて模擬裁判が行われていますが、
そこから出てきた問題点が朝日新聞で報道されていました
一部を引用させてもらいます。

市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させるために09年までに導入される裁判員制度で、プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念が強まっている。法曹三者が、全国で行われている模擬裁判の検討を進める中で、課題として浮上してきた。

もしこの文章が正しいのであれば、気になる点が2つあります。
まず、「市民の「健全な社会常識」を裁判に反映させる」という点です。
市民の健全な常識と司法界の人たちの健全な常識は別だということを意味する言葉です。
市民の常識にはかぎ括弧がついているのも意味ありげですが、
これは朝日新聞の書き手の勝手な考えでしょうか。
それはともかく、両者の「健全な常識」の違いこそが問題なのですが、
それを正すには、どちらがどちらに合わせるかというのが次の課題です。

それに関して、「プロの裁判官が、ふつうの市民から選ばれた裁判員の考えを誘導しすぎるおそれがないかという懸念」というくだりが問題を顕在化してくれています。
裁判員制度は、「市民常識」を「司法常識」に合わせることを「正す」ことが読み取れます。
そんなことは最初からわかっていたことだろうと思っていましたが、
これほど露骨に行われるとは思ってもいませんでした。
意図的なリークとさえ、思えるほどです。

「賢い」司法界の人たちが、「馬鹿な」市民を啓発してやるというのが、
今度の裁判員制度の目的だと私は思っています。
それこそが近代のパラダイムなのですから。
この制度は、制度起点パラダイムの延長であり、社会状況への認識において間違っているというのが私の考えですので、批判的に考えすぎているかもしれませんが、実際には模擬裁判によって、そうした真実が露呈してきているのだろうと思います。
発想のベクトルを変えなければいけません。

つまり、「馬鹿な裁判官や検事や弁護士」を「賢い住民」が啓発していく仕組みにしなければいけません。
いつの時代も、額に汗して働き生きる人が一番賢いのです。
これはまさに「地方自治」の世界で進められてきたことと同じです
そのために支払ったコストは膨大でした。
法曹界もまた同じことをやろうとしています。

こうした状況を変える方策がないわけではありません。
ファシリテーターが参加し、議論の外からバランスを取る仕組みを創ればいいのです。
こうしたことは、地方自治やコミュニティ活動などで多くの知恵と体験が得られています。
そこから学ぶことは少なくありません。
それによって、裁判員制度導入による大きなダメッジは避けられるかもしれません。

しかし、もっと大切なことは、裁判や取調べの透明化です。
そこをおろそかにして、いくら形を整えても、流れは変わりません。
お金と時間の負担が増えるだけです。完全に時代に逆行しています.
流れを変える気が、もしあるのであれば、発想を一変させなければ、司法改革などできるはずがないのです。

その気になれば、企業を変えるのは簡単なように、社会を変えるのは簡単です。
しかし、誰も本気では変える気がないのです。
裁判員制度のようなことを考えて、ともかく延命を考えるわけです。

しかし、じわじわと社会が変わりつつあるのも事実です.
見えない変化が、見えてくるのはいつでしょうか。
そうした変化が、見え隠れしている時代を、私たちは生きているのだろうと思います。
しっかりした眼を持つことが大切です。

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2007/04/08

■都知事選の常識的な結果

8時からのテレビの報道で、東京都の都知事は石原さんの圧勝と言っていました。
開票前ですが、出口調査でほぼ確実にわかるようです。
他の県知事もすべてもう結果は判明しているような報道でした。
選挙ってなんなのでしょうか。
いつも出口調査報道を見て、納得できない気分になります。

予言の自己実現というのがあります。
予言が意識化されることで、関係者の行動が変化し、予言が現実のものになるということです。
予言は、予言することで実現するわけです。
そうしたことを言い出したR.K.マートンによれば、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」です。マートンは「自己成就的予言」と呼んでいます。
多くの占いは、こうしたことを背景に成り立っています。
私たちの多くの生活もまた、こうしたことで安定しています。

選挙に勝つ出発点は、勝つという予言を広げてしまうことです。
小泉さんも石原さんも、そうしたことが得意です。

ところで、出口調査ですが、出口調査で結果が読めるのであれば、出口調査的なアンケート調査でも結果は読めることになります。
その技術が精度を高めれば、選挙など不要になります。
それをもう一歩進めれば、予言によって選挙結果は変えられるかもしれません。
20世紀のドイツは、その実例かもしれません。
しかし、現代は当時以上に、そうしたことが簡単に出来そうです。
以前書きましたが、いまは誰もが競って「勝ち馬」に投票する時代なのです。
問題は、予言の神託は誰が発するかです。

私は、浅野さんが当選すると予言していました。
もちろん、そう確信していました。確信せずして、予言は出来ません。
予言は「いのち」を持ち出すからです。
しかし、残念ながらその予言は成就しませんでした。
そういう予言を強く持てる人が少なかったのでしょうか。
つまり、「最初の誤った状況の規定が新しい行動を呼び起こし、その行動が当初の誤った考えを真実なものとすること」にはならなかったのです。
予言が成就する時と、成就しない時との、分かれ道は何でしょうか。

今回の知事選挙は全国的にみても、閉塞状況を打破するような、新しい風は吹かなかったようです。
予言が不在だったのでしょうか。
予測が勝ったのでしょうか。
いずれにしろ、流れは変わりませんでした。
どなたかから叱られましたが、最初から私の予言は流れから外れていたのです。

しかし、大切なことは、当てることではなく、思いを持つことです。
次回もまた、同じように、当たらない予言を確信するようにしたいと思います。
少し負け惜しみの感がありますが、私は負け戦や予言はずれが性に合っているのです。
そして、きっとまもなく、勝敗の関係は逆転するはずです。
まあ、これも私の強い予言なのですが。はい。

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2007/04/07

■スクエアになった朝日新聞

朝日新聞の紙面の構成スタイルが変わりました。
一言で言えば、「四角」になったのです。
題字の印象も変わりました。
毎日新聞や産経新聞と似てきました。
誌面割りは四角のユニットで切り刻まれてしまいました。
読みやすいのかもしれませんが、なにやら味がなくて、退屈です。
おそらくそれは内容にも通じているでしょう。
それぞれの記事が切り離されてしまい、しかも枠組みに合う分量になってしまったのですから、おのずと記事内容も変わっていくはずです。
読者もきっとお目当ての記事を「スクエア」に読んでしまうでしょう。
これまでの紙面構成に慣れているものにはとても退屈で味気なく、なにやらR21のコラム記事を読んでいるようです。
最近、街はまた「猥雑さ」が見直されてきたように思いますが、新聞雑誌はまだしばらくはスクエア路線なのかもしれません。
バーチャル空間とリアル空間の、こうしたタイムラグはもしかしたらつながっているのかもしれません。
新聞の性格もこの10年で大きく変わってしまったように思います。

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2007/04/06

■2児拉致容疑事件と国家の暴力観の変質

近代国家を成り立たせている考えの根底には「暴力の独占」という考え方があります。
国家は国内の暴力を規制し管理する、暴力の独占主体になったことで、主権を確立したわけです。
秀吉は刀狩によって暴力手段を独占し、徳川幕府は私的な仇討ちを禁止し、暴力を管理しだしたわけです。
現在、そうした意味では、近代国家の存在はいささか危ういものになっていますが、逆にそうであればこそ、暴力の管理機関(ということは実施主体でもあるわけですが)としての国家が改めて必要になってきているという言い方もできるわけです。
「国家」とは「悪」を「正義」に変えるフィルターですから。

昨日、新聞で北朝鮮の2児拉致容疑事件が報道されました。1973年の事件です。
捜査が本格化されるそうですが、いまさらなぜ、という気がします。
しかし、国家による暴力の独占という視点から考えると、そうおかしなことでもないわけです。いや、それこそが国家の本質だといってもいいでしょう。

北朝鮮の拉致事件は、国家の行為による「正当な暴力行為」です。
ついでにいえば、偽ドル札づくりも、「正当な行為」かもしれません。
これはもう少しきちんと書かなければいけませんが。

最近の風潮は、しかし、その国家暴力への異議申し立てが、人権思想を背景に高まってきているということです。
このことは30年ほど前に、「21世紀は真心の時代」という小論で少しだけ書いたことがあります。
まだ状況認識は極めてあいまいでしたが。
そうした流れの中で、いま、北朝鮮の拉致問題が批判の対象になってきました。
つまり、国家が独占していた、暴力の正当性が揺らぎだしているのです。
大きな地殻変動の予兆を感じます。

ところで、2児拉致容疑事件問題ですが、おそらく事件発生当時から日本の当局は「事件」への疑いを持っていたでしょう。
しかし、そこに踏み込むべきかどうか、が議論されたのではないかと思います。
北朝鮮と同じように、日本という国家もまた「暴力」を独占していますから、それを「暴力」と認定するかどうかは考え方一つなのです。
言い替えれば、拉致行為も拉致への対処行為も、実は国家による暴力行為の裏表だということです。
そこを覆せるのは、個人の生活や人権思想に立った「人間の異議申し立て」活動です。
暴力を正当化する仕組みは、克服されなければいけません。
しかし、まだ1世紀はかかるでしょうか。
せめて「正当な暴力」への批判力は持続していきたいものです。

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2007/04/05

■多数決は民主主義とは無縁

直接民主主義を追及しているリンカーンクラブ代表の武田文彦さんとは、民主主義と多数決原理について、よく論争します。
もっとも発想の起点が違うので、議論にならずに言葉の応酬になりがちで、平行線で実りの少ない議論ですが。

多数決は民主主義とは無縁だと私は思っています。
民主主義は「思想」であり、多数決原理は「手段」だと思うからです。
民主主義が実現しているところの多数決結果と情報操作が行われたり、強力な権力者がいたり、大きな格差があるような社会の多数決結果は全く違うものになるでしょう。
未練がましいですが、郵政民営化が多数決で決まりましたが、みんなが情報を共有し、熟議が行われていたら違っていたはずです。
あれは多数の声が実現したのではなく、少数の利権者が多数工作をしただけだと、私は今でも思っています。

民主主義とは「少数派の発言の機会が保証されていること」と言ったのは、ジョン・S・ミルだそうですが、
私はそれに加えて、不条理な格差がないことが大切な要件だと思います。
「保証」の意味に含まれているのかもしれませんが。
もっとも、「少数派」とは何か、「不条理」とは何か、も問題です。

民主主義は、一人ひとりから発想して全体を構築する思想だという捉え方もできます。
そうなると、社会の構造原理は今とは全く違ってきます。
繰り返し書いているように、これまでの社会構造原理は、全体(社会)を起点として発想しています。
統治者や管理者や研究者の視点です。

個人起点で考えると社会の構築の仕方は一変します。
先日、地方議会不要論を書きましたが、
コモンズ型の地方議会をモデルに国会を構想すると、たぶん新しい地方議会の存在価値が生まれてくるでしょう。

物事を考える発想のベクトルを逆転させなければいけません。
そして、いまはそうしたベクトルの転換が求められているように思います。
転換してしまうと、今の時代は住みにくくなりますが。

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2007/04/04

■権力の民営化

以前、駐車違反摘発の民間委託について異論を唱えました。

ところで、その後、違反駐車状況は変わったのでしょうか。
いつの間にかまたもとの状況に変わってしまったような気もしますが、みなさんの周りはどうでしょうか。
もし何か変化が起こっていたらぜひ教えてください。

ところで、前と同じになっているなと思いながら、今日も歩いていたのですが、
その時に「権力の民営化」という言葉が浮かびました。
書き出すと長くなるのですが、忘れると悪いので簡単に書いておきます。
フーコーのパノプティコンともつながってくる話だと思います。

いま進められているのは、国営事業や公益事業の民営化ではなく、権力の民営化なのだと考えると、また風景が違って見えてきます。
かつてのように、外部から見える絶対的な権力主体は少なくなりました。
主権国家といえども、アメリカは別かもしれませんが、それ以外はたいした権力も持っていません。
ブッシュがその気になれば、先制攻撃を加えて、主権を踏みにじることができるのです。
その一方で、権力主体は分散し、見えなくなってきています。
9.11事件を起こした主体は見えてきません。
ですから、犯人はブッシュ政権ではないかという噂すら流れてしまうわけです。
絶対的権力ではなく、相対的権力、あるいは相互抑止力が社会を覆いだしています。
相互抑止力は相互支援力とも似ていますが、これは両刃の剣です。

「権力の民営化」は、こういう状況の中で進められているわけです。
パノプティコン社会の中で、権力を分散するほうが、メタ権力を生み出せるからです。
つまり、少数の支配が「民主主義」をテコにして成り立つわけです。
実は、そうしたところに「民営化」の本質があるのかもしれません。

「権力の民営化」という視点に立つと、社会構造原理も再考しなければいけないかもしれません。
ちょっと小難しいことを書いてしまいました。
こういう議論をしに来る人はいないでしょうか。

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2007/04/03

■地産地労の思想

今朝、みのもんたさんのテレビを見ていたら、夕張市が話題になっていました。
みのさんが夕張市を訪問した時に、市役所を退職されて、まだ新しい仕事が見つかっていない人が、「30分くらいで通える仕事はなかなか見つからない」と話したそうです。
みのさんは、それに対して、東京では1時間から2時間かけて通勤しているのが普通なのに、30分以内で探すとは真剣さが足りないのではないかと怒っていました。
それに対して、コメンテーターの池上淳さんは、「1~2時間かけて通勤するほうがおかしいのではないか」と発言しました。
少しすれ違った議論ですが、とても重要な問題を提起しています。

「地産地消」が流行になっていますが、私は「地産地労」こそが大切ではないかと思っています。
地産地労が実現すれば、おのずと地産地消も進むはずです。
そういう視点からいえば、池上さんがいうように、通勤に1~2時間かけることこそ問題です。
東京の悪しき常識を押し付けてはいけません。
発想のベクトルは逆転しているのです。
それに、環境問題も地域社会の荒廃も、たぶん子育て問題や介護問題も、すべてはここにつながってきます。
職住接近という言葉もありますし、ワークライフバランスも議論されだしています。
そうしたことも含めて、改めて私たちの働き方や「仕事とは何か」を考えるべきです。

よく地方には仕事がないといわれます。
そんなことは全くないというのが私の昔からの考え方です。
仕事がないという時の「仕事」とは「賃仕事」です。
つまりお金をもらえる仕事です。
価値を生み出すということを仕事と考えれば、その気になれば、どこでも仕事はあるのです。いや創れるのです。
金銭の呪縛から解放されれば、仕事はいくらでもあります。
そして、すべての人が、子どももお年よりも病人も、価値を生み出す仕組みがある社会こそが健全な社会ではないかと思います。
私がコムケア活動で目指しているのは、まさにこうした社会です。
「お客様」のいない社会といってもいいでしょう。

私たちはいまの生き方にあまり疑問を持たずにいることが多いです。
みのさんは湘南の自宅からテレビ局まで自動車で送り迎えでしょうから、通勤時間の意味は実感されていないかもしれませんが、毎日往復に3~4時間かかる生き方は、どう考えても異常です。
無駄の多い、環境負荷の高い生き方です。
失業してもなお、30分のところで仕事を探す。そんな甘いことを言っていて良いのかという、みのさんの怒りはわかりますが、視点を変えれば、彼らのほうが豊かなのかもしれません。
第一、賃仕事しなければ生きていけない東京とは違って、たぶん彼らはどうにかなるのです。
それが実は社会が成り立っている証ではないかと思います。

地産地労を壊したのは、産業革命以来の資本主義です。
生活と切り離して仕事を工場に集めたのです。
そして、その先に生まれたのが、「消費」を「仕事」に優先させる経済の仕組みです。
さらに、それが「仕事」とは切り離された「金銭」によって主導される経済になってきたのです。
こうした流れの中には、個人の「生活」は見えてきません。
「生活」を基軸にした新しい経済の仕組みを再構築していくことはできないものかどうか。
それが私の関心事です。

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2007/04/02

■統一地方選挙に思うこと

統一地方選挙が始まりました。
私の友人知人が各地で立候補しています。
地元の県会議員選挙にも知人が2人立候補しています。
悩ましい問題です。

いずれもがんばってほしいと思う反面、地方議員選挙に関していつも思うのは、地方議会は本当に必要なのかということです。
結論的にいえば、私は今のような地方議会は全く必要ないと思っています。
いまや国会議員の予備軍育成や選挙対策としての役割しかないのではないかと思います。
こんなことをいうと、立候補している友人知人やすでに議員職にある友人知人には申し訳ないのですが、そもそも国会制度をモデルに地方議会制度をつくった時代状況は過去のものです。
それらは全くパラダイムが違うのだと思いますし、ベクトルも違うのです。
それに情報環境がこの数年で大きく変わりました。
代議制度でなければやれない情報環境ではなくなったのです。
古代ギリシアの直接民主主義や古代ローマの元老院制度のような仕組みのほうが、むしろ効果的かもしれません。

それに、国民主権国家の枠組みが壊れだしていますから、
そもそも民主主義発想をベースにした議会発想がもはや機能しなくなっているのかもしれません。
議会の性格や役割が大きく変わってきているのです。

そうしたなかで、果たして今のような地方議会が必要なのかどうか。
自治体の財政立て直しの出発点は議会の廃止ではないかと思います。
議員の人件費の節約の効果もあるでしょうが、それは瑣末なことで、
議会の廃止によって自治体職員の仕事が迅速になり効果的になると思います。
いまの地方議員は仕事を邪魔する存在になっているはずです。

首長の専横的執行になっては困りますが、
インターネットなどの技術的環境整備とNPOなどの住民組織の成長により、そ
うしたことにはならないようにいくらでもできるはずです。

高齢社会の到来は、自分の生活だけではなく社会に目を向ける余裕のある人も増やしていくでしょう。
もはや地方議会の役割は終わったのです。

私は数年前に2つの自治体で、そうしたことを長期的に視野においた共創プロジェクトに取り組んだことがあります。残念ながら、その試みは見事に挫折しましたが、そこからいろいろなことを学びました。
まだまだ日本の自治体職員の意識は「お上」感覚や「公僕」感覚です。
そうした上下構造意識を持っている限り、地域主権の時代は来ないでしょう。
そして財政再建も実現しないでしょう。
どこかで議会を廃止する自治体は出てこないものでしょうか。

とまあ、こんなことをいいながら、
実際には立候補した友人知人を応援しているのですから、困ったものです。

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2007/04/01

■嘘で覆われている時代のエイプリルフール

関西テレビの「発掘!あるある大事典」のデータ捏造(ねつぞう)問題がまだ話題になっています。
かなり厳しい処罰がされているようですが、どうも違和感があります。
以前も書きましたが、この程度の捏造などは、マスコミがよくやることではないかと思うからです。
罰せられる人が本当にいるのでしょうか。
もちろん意図的な捏造はそう多くないかもしれませんが、未
必の故意的捏造は、日常茶飯事ではないかとさえ思っていました。

捏造はマスコミだけではありません。
昨日の新聞でも電力会社の隠蔽事件の日常化が報道されていますし、
松岡議員のようなお粗末な例も含めて政治家の捏造行為は数限りないでしょう。
極端に言えば、彼らの言動はほとんどすべて嘘か無知のかたまりです。

教科書での歴史の捏造も少なくありません。
従軍慰安婦問題や沖縄集団自決問題など、どう考えても真実は明らかです。
子どもたちへの影響は大きいでしょう。
ドイツの教育と日本の教育はあまりにも違うようです。

真実を明らかにした上で、間違いを正すのは難しいことではありません。
しかし嘘をつきだした人は、なかなか後戻りできないのでしょう。
結局は膨大なコストを国民に強いることになるのです。

裁判での犯人捏造や事件捏造も毎週のように報道が行われています。
今もって冤罪などという言葉が生きているのです。
もっとも沖縄集団自決冤罪訴訟なるものも起こされており、
話はいささか複雑なのですが、二重三重の捏造が広がっているわけです。

日本社会はいまや嘘で覆われつつあるのです。
数年前に私が懸念したことは杞憂ではなかったようです。

今日は4月1日。
昔はエイプリルフールなどと言われて、嘘をついても許される日でした。
最近は、だれもエイプリルフールなどといわなくなりました。
毎日を嘘の中ですごしているせいなのでしょうか。
嘘に対して、もはやみんな何も思わなくなってしまったのかもしれません。
裸の王様という寓話がありますが、
嘘を嘘といってしまうと、大人の社会では生きにくいのです。
みなさんは嘘の世界に生きることにもう慣れてしまっていますか。

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