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2007/04/30

■教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」

「ローマ・ヒューマニズムの成立」(小林雅夫/地中海研究所紀要第5号所収)という小論の中に、古代ギリシア人が「教養」と想定している学科構成というのが出ていました。
20人以上のソフィストたちの考える科目が一覧できるのですが、ほとんどの人が「音楽」をあげているのに興味を持ちました。
プラトンは、教育のある人とは「歌舞の訓練をつんだ人」としていたそうです。
古代ギリシアでは音楽と体育は重視されていたようですが、その音楽と体育は歌舞の中の統合されていたわけです。

そのいずれも私は得手ではありません。
楽器も出来ませんし、ダンスはフォークダンスですら不得手でした。
大学のころ、仲間たちと1週間、キャンプに行くことになり、新しいフォークダンスをやろうということになりました。私が選んだのが、ウェストサイド物語の挿入歌「アメリカ」でした。
知り合いに頼んで振り付けをしてもらい、教えてもらったのですが、どうもそれが覚えられずに、重いテープレコーダー(当時はとても重かったのです)を山まで運んだのに、みんなで踊った記憶がありません。
体育も得手ではなく、苦労しました。運動神経もあまりよくないようです。
したがって、古代ギリシアでは私は「教育のない人」の典型です。

ところが、最近の「学力論議」では、このいずれも出てきません。
いずれも不得手な私にとっては好都合なようにも思えますが、その私でさえ、こうした要素が入らない学力には納得できません。
音楽と体育こそ、生きていくうえでの重要な要素だと思うからです。
さらにここにアート(創作)が加われば、もう人間としてはいうことありません。
それがあってこそ、物理や歴史の知識が意味を持ってきます。
日本の教育体系では、音楽、体育、図工(創作)、家庭科などは入試とは関係なかったが故に常におろそかにされてきました。
しかし、人間が豊かに暮らしていくためには、これこそが大切な科目なのではないかと思います。
そこにこそ、学ぶ喜びもあるはずです。

必修科目と選択科目の配置を入れ替えなくてはいけません。
英語を必修にするかどうかの次元で考えている時ではありません。
もう機械のような労働者や技術者を育てる時代ではなくなったのです。
学校のパラダイム、教育のパラダイムを変えてもいいのではないでしょうか。

そういう議論が全くないのが、不思議でなりません。

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