■銃を撃ってしまう不幸
昨日、アメリカと日本で銃による痛ましい事件が起こりました。
バージニア工科大学の乱射事件は死者が30人を上回る悲惨な事件ですが、その報道のさなかに起こった長崎市長銃撃事件は、日本での、しかも長崎での事件だったために、私にはそれ以上に衝撃的な事件でした。
大学乱射事件は銃社会の病理と考えられますが、長崎の事件は銃社会ではない日本での話です。
しかも、報道ではまだ読み取れませんが、本島市長に続いての事件であり、日本社会の行く末を感じさせるものがあります。
名刀をもつと人を斬りたくなる、という話があります。
私はまだ真剣を持ったことはありませんが、そうしたことは何となく納得できます。
人を殺傷する武器が容易に手に入ることは、決して幸せなことではありません。
アメリカの憲法修正第2条には、次のような「人民の武装権」があげられています。
規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。
この条文は、アメリカがまだ近代国家としては未熟であることを表しています。
以前も書きましたが、暴力を独占するのが近代国家の特徴の一つですが、アメリカはまだ独占し切れていないのです。
9.11時件はこうした背景の下に行われたわけです。
武器は銃だけではありません。自動車も飛行機も、いうまでもなく武器の要素を持っています。日本の特攻隊やイラクの自爆自動車を考えればわかります。
アメリカは極めて未開な暴力社会を引きずっているわけです。
もっとも、条文には、さすがに「武器を使用する権利」までは書かれていません。
しかし、「保有」「携帯」と「使用」とは、実質的には同義語です。使用できない保有は無意味ですし、自己防衛は解釈問題ですから、いかようにも拡大できます。そこが「法律」の世界の恐ろしいところでもあります。
アメリカは決して先進国ではないのです。
基準を少し変えれば、遅れた国なのです。
もし銃がなければ、今回の事件は起こらなかったかもしれません。
起こったとしても、違った結果になったでしょう。
銃の殺傷力は大きいです。
それに、ナイフなど直接身体を使うものに比べたら、行動を起こすための自己抑制力は格段に低いはずです。ただ引き金を引き、返り血すら浴びないのですから。
銃が安直に入手できるが故に、銃を撃ってしまう不幸が起こってしまうわけです。
撃たれたほうはもちろんですが、撃つほうの不幸も否定できません。
銃のない社会を目指すことが大切です。
が、ちょっと視野を変えると、実はこの銃社会の構造は国際関係の基本なのです。
バージニア工科大学の乱射事件は、イラクやアフガニスタンにおける米国軍隊の行動に重なります。彼らは、銃よりももっと心理的抵抗の少ない武器を作り出しています。
長崎の事件は、日本の自衛隊のあしたの姿を思わせます。
期せずして起こった日米の事件は、とても不幸な未来を予兆しているような気がして、今朝は朝から気分が晴れません。
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