■basement ethicsとaspiration ethics
相変わらず組織の不祥事がなくなりません。
組織を預かっている人たちにモラルもエシックス(倫理)もないのでしょうか。
科学技術倫理フォーラムの杉本泰治さんから教えてもらったことですが、全米プロフェッショナル・エンジニア協会(NSPE)の倫理規定には、“ don’t do” で始まる条文と“shall do”で始まる条文とがあるそうです。
前者は行動の最下層をきめたもので、このレベルより下のことは、何であれするなという、最下層倫理(basement ethics)、後者は、何かをする気にさせるもので、抱負倫理(aspiration ethics)と呼ばれているそうです。
そして、倫理規程の冒頭に、「公衆の安全、健康、および福利を最優先するようにしよう(shall do)」と明記されています。
日本ではまだコンプライアンスなどということが課題になるレベルですが、コンプライアンスはおそらくbasement ethicsよりも下位の概念でしょう。
まともな大人であれば、あえて言うまでもない当然の遵守事項であり、決して免責のためのものではありません。
倫理というと、なにやらうっとうしい気もしますが、aspiration ethicsと考えると楽しくなりそうです。
発想を変えると世界が変わってくることの一例です。
日本の企業倫理論議で欠けているのは、こうした発想ベクトルの転換です。
それがない限り、現実は変わらないような気がします。
倫理を守ることが当事者にメリットになるように設計する知恵が必要になっているように思います。
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コメント
アメリカのプロフェッショナル・エンジニアに関する法律の制定目的は「公衆の安全、健康、および福利を実現するため」と最初に明記されています。同様の日本の法律では技術者の使命は、「科学技術の発展に寄与して、産業の振興を図ること」が最初にきます。そして「公衆の安全、健康、福祉」に対してはそれを侵害することがないようにするよう注意する責務があるとなってしまいます。
発想のベクトルが根本的に違っているのを感じます。
「日本の企業倫理論議に欠けているのは・・」とのご指摘ですが、アメリカでは個々人の倫理観が大きな存在感を持っていると思っています。個人が埋没してしまう日本企業の体質も問題だと思います。もう一つですが、「shall do」の訳としては、何かをしよう、では意味が弱く、強い意志、義務を表すものです。aspiration ethicsとアメリカで呼ばれていることは知りませんでしたが、この場合も日本語の抱負倫理と訳すのは適切な表現ではない(表現として弱すぎる)ように思います。
投稿: tamura | 2007/05/19 08:09
たむらさん
ありがとうございます。
同感です。
発想のベクトルが違いますね。
1990年代末から、日本でも土木学会や日本機械学会、電気学会などの倫理規程などで公衆優先原則が取り上げられるようになりました。しかし残念ながらご指摘の通り、技術士法はまだ公衆を向いていません。
私自身も、企業倫理というよりも、そこに所属する個々人の倫理問題だと考えています。
個人起点で社会の仕組みを考え直していかないといけない時期に来ているように思います。
最近のMOT議論も、まずはこうしたところから始めるべきではないかと思います。
aspiration ethicsを「抱負倫理」と訳することには、私も違和感があります。
来週、訳者と会いますので、お話してみます。
ちなみに、この話は昨年亡くなられた高城重厚さんが、「環境と科学技術者の倫理」の著者のヴェジリンド教授を訪問した時の記録にでています。とても面白い取材記事です。
ご関心があれば、私にメールいただければと思います。
技術者倫理と社会のテーマに関するフォーラムなども、いつか開催できないかと思っています。
投稿: 佐藤修 | 2007/05/19 09:07