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2007年5月

2007/05/31

■文化とは、一体何でしょうか?

昨日の記事に出てきた、地方に転居した友人というのは大分県国見町の竹沢孝子さんです。
先月、東京に来たのでお会いしましたが、見事な百姓暮らしをしています。
農民ではありません。百姓です。まあ、私の勝手な定義なのですが。
彼女のブログがあります。これも以前、私のホームページ(CWSコモンズ)で紹介しましたが、竹沢さんの思考や行動の一部が、前後の脈絡なく唐突に現出するブログなので、ついていくのが大変ですが、面白いメッセージが書かれています。
よかったら読んでみてください

そのブログで次のような問いかけがありました。
正確な問いかけの文章はブログを読んでください。
以下はその中の文章をつなぎ合わせたものでしかありませんので。

「文化は辺境にある」と最初に教えてくださったのは、鶴見俊輔さんでした。
すると、ここには文化が残っているのでしょうか? 
文化とは、一体何でしょうか? 
どうぞ、教えてください。

竹沢さんが私に問いかけているのが感じられたのですが、こんな問題に簡単に答えられるはずがありません。
放置していたのですが、竹沢さんからまたメールも来たので、ついつい答えてしまいました。
文化の問題はもっと考えなければいけないテーマだと、私も思っています。
なぜならいまや文化は死に絶えそうになっているような気がするからです。
そんなことはない、文化はますます高まっているといわれそうですが、私の生活の周りにはあまり文化のにおいがしません。
私の生き方が、文化的ではないのでしょうが。

文化とは何か。
悩ましい問題ですが、私はこう考えています。
文化とは、ある集団のメンバーに共有されている生き方で、変化する「生きたもの」。
それが制度化されたのが文明。
「文化鍋、文化包丁、文化住宅」は、その過程にある、文化の残渣、あるいは死んだ文化の象徴。
「文化」は言葉にした途端に、その生き生きしたダイナミズムを失いだすのだと思います。
文化は辺境、もしくは周縁にあるのは、一種のトートロジーで、制度化された死んだ文化の中心が、これまでの社会認識の底流にありましたから、そうなってしまうわけです。
視点を変えれば、東京などはまさに文化の辺境なのです。
統治者たちの視点で、私たちは歴史や社会を見ていますから、そうなってしまうわけです。
というのが、私の考えです。

以上は竹沢さんのブログにコメントしたものを少し変えただけのものです。
私が「文化は死に絶えそうになっている」と感ずるのは、文化が商業化されているからです。
いま広がっているのは、「文化鍋」レベルの文化のような気がします。
「文化」という言葉もまた、浪費されてきているように思います。
最近の都心再開発地域のおぞましさは、私には息が詰まります。
新しい文化住宅でしかなく、経済遺跡にはなっても、世界遺産にはならないでしょう。
売り物にされた文化やアートは、私には退屈です。
もちろん文明として受け止めれば、それなりの魅力はありますが、
あんな街に住んでいたら人間もまた死んでしまうのではないかと不安になるのです。
モヘンジョダロを思い出させます。
そうした、都会での文化の死が、地方にも広がっているような不安があります。

私の誤認であればいいのですが。

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2007/05/30

■孤独から抜け出るのは簡単です

一昨日、Comfort isolatesについて書いたら、
ある人から、現代はみんな孤独なのだというメールが来ました。
それに安直なつながりや連帯よりも、孤独であることの自覚と主体性も大事なのではないかというのです。
たしかに、一理あります。

昨日紹介したシンポジウムで、ソンタグはまた、
Solidarity corrupts solitude(連帯は孤独を堕落させる)
とも言っています。
堕落していない孤独とは何か、これまた難問ですが、でも何かわかる気がします。
私も安直な連帯やつながりは好きではありません。
功利主義的なつながりには嫌悪感すら持ちます。

まあ、しかし、それはそれとして、
現代はみんな孤独なのだと決め付けることもありません。
私が地方に行って感ずるのは、とても気持ちの良い「つながり」です。
外から見るからそう感ずるので、中に入ると結構冷たい、と地方に転居した友人は言いますが、
きっといつか心を開きあう仲間になっていくでしょう。

私も決して孤独ではありません。
勘違いかもしれませんが、孤独と感じたことはありません。
孤独と感じていないから、孤独ではないのかもしれませんが。
孤独は自分で創りだすことかも知れません。
ソンダクが言うように、どこかで「安寧」にもつながっているのです。

生前の松岡さんはどうだったのでしょうか。
孤独だったのでしょうね。
孤独でなければ、少なくとも自殺や殺人は避けられるはずです。

ところで、孤独から抜け出るのは簡単なことです。
隣の人に(自宅の隣人に限りません)声をかけ続ければいいのです。
返事がないかもしれませんが、返事があるまで声をかければいいのです。
もちろん声のかけ方は充分に注意しなければいけませんが、
素直に声をかけていけば、いつかは返ってくるでしょう。

人は決して孤独ではありません。
人間は幼児の時は母親や看護師に「依存する存在」であることから、
他者と協働して、「共通善」を目指すことが必要な動物だとする、
アメリカの哲学者マッキンタイアの考えに従えば、
依存を受け入れる姿勢が人間には内在しているのです。

人間はみんなつながっているのです。
そう思えば、人生はずっと楽になります。
自分は孤独だなどと思うのはやめたいものです。
安寧は人を孤立化させるかもしれませんが、
孤立した中での安寧は、決して本当の安寧をもたらしません。

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2007/05/29

■Comfort isolates

松岡農相の自殺から考えさせられることがたくさんあります。
そのひとつが、「人のつながりの多さは、人を幸せにするか」です。
私のこの十数年の活動は、ほぼすべて、「つながり育て」の活動でした。
しかし、「つながり」は両刃の剣かもしれません。

松岡さんは豊かな人脈により、社会的地位を獲得し、大臣にまでなったのでしょう。
しかし、その豊かだったはずの人とのつながりが、逆に彼を追い詰め、死に追いやったのかもしれません。
松岡さんが創りあげた「つながり」が金に支えられていたというだけのことかもしれませんが、しかし「つながり」そのものの持つむなしさや冷たさも感じられます。
それは松岡さんに限らず、私もよく体験することでもあるからです。
悪意や善意という話ではなく、「人のつながり」はもろく冷たいものでもあります。

Comfort isolates(安寧は人を孤立化させる)。
2002年に開催されたシンポジウム「この時代に想うー共感と相克」でスーザン・ソンタグが話した言葉です。
ソンタグは、精力的な批評活動を展開している米国の作家です。
このシンポジウムの記録は、「良心の領界」(NTT出版)として出版されています。

そのシンポジウムで、ソンタグはComfort isolates.と述べたのです。
「つながり」をテーマにして、さまざまな活動に取り組んでいた私にとっては、忘れられない言葉でした。ずっと心にひっかかっていました。前にもホームページで書いたかもしれませんが、否定したくなりながらも、うなずきたくなる命題です。

このブログでも、時に「安寧」という言葉を使ってきました。
「平和」という意味合いを込めて使ってきたつもりです。
「平和」という言葉は、私にはなかなか実感がもてないのですが、個人の安寧は平和を実感させる言葉なのです。
そして、私の平和観は、突き詰めると「つながり」を育てることです。

そこで、頭が混乱してきてしまうわけです。
「平和」→「安寧」→「孤立化」→「つながりこわし」→「平和の破綻」
という関係になってくるからです。
「安寧は人をつなげる」という、私のビジョンは、この命題とは相反します。
しかし、ソンタグの命題は、昨今の日本社会を見ると、あながち否定できません。
鍵は、「安寧」と「つながり」の定義なのでしょうが、悩ましい話です。

安寧を目指す中での孤立化の広がり。
松岡さんの事件には、まさにそれを感じます。
そして、それは松岡さんに限ったことではありません。
みんな「安寧」を求めすぎて、孤立している自分に気づいていません。
孤立していては決して「安寧」は得られないのですが。

松岡さんは自らの生命を絶つことで、安寧を手に入れたでしょうか。

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2007/05/28

■松岡農相の自殺

松岡農相の自殺のニュースは衝撃的でした。
家族の方々には、心よりお悔やみを申し上げます。
キャリアから考えると、充分予想されたはずですから、おそらく周辺の人たちはかなり注意していたのでしょうが、事前に食い止められなかったことは残念でなりません。
こうした事件が繰りかえされるのが本当にやりきれません。
しかもいま、政府は自殺対策基本法に取り組みだした矢先です。
政治家は範を示す立場にいます。
それが、なぜ食い止められなかったのか、しっかりと考える責任があります。
本当に哀しいことです。

石原都知事は、彼もサムライだったのだ、とコメントしていましたが、こうしたコメントが、自殺を礼賛していることに気づかないのでしょうか。
また、安倍首相にはしっかりとその責任を受け止めてほしいものです。

自らの生命を軽んずることは決して許されることではありません。
死者に鞭打つことは避けたいですが、殺害者は非難してもいいでしょう。
自殺者は死者であるとともに、殺人者でもあります。
生命は、たとえ自らの生命であろうとも、自らだけのものではありません。
生命はすべてつながっているのです。
一人の死は、決して当人だけでは完結しないのです。

しかし同時に、いわゆる殺人事件と同じように、実行犯だけではなく、その背後にある「殺害に追いやった多くの人たちや社会の仕組み」を見落としてはいけません。
実行犯だけを罪に問うのではなく、もっと大きな状況の中で事件は裁かれなければ、同じ事件が繰り返されます。
自殺に関しては、特にそうだと思います。
その認識と展望がなければ、自殺予防対策は難しいでしょう。
グランドデザインのない構想は実効性が乏しいものです。

もう政治家の死はなくしたいものです。
政治に透明性を持ち込めば、不条理な死はなくなるはずです。
政治家はそうしたことを自覚してほしいものです。
政治家の死は、政治の死にもつながることを理解してほしいものです。

松岡農相が抱え込んだ政治の「毒」を社会に公開したならば、松岡さんご自身の生命が失われなかったばかりでなく、政治の死も避けられたでしょう。
生物的に死ぬ前に、これまでの生き方のしがらみを捨てて素直に生き直せば、死に追いやられた状況を反転することができ、自らも、また自らが生きる社会も、甦らせることができるかもしれません。

自殺を実行する前に、まずはそれまでの生き方を捨てることに取り組んでほしいものです。
松岡さんには、その勇気を持ってほしかったです。
しかし、きっとそれ以上に追い詰められていたのでしょうね。
とても嫌な時代になってきているのかもしれません。

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2007/05/27

■多様な行動するネットワークへの期待

先週、座談会でお会いしたことが縁で、早稲田大学の古賀勝次郎教授の「西洋の法と東洋の法」(「法の支配」研究序説)を読みました。
久しぶりに、「実定法の不法」という言葉に出会い、学生時代に憲法と刑法にはまっていた頃のことを思い出しました。
今日はちょっと時間があったので、いろいろとネット検索して、いくつかの論文を読むことができました。
ラートブルフのナチスへの言及が面白かったです。

このブログを読んでくださっている方はもうお分かりでしょうが、
私は法実証主義の立場はとっていませんし、
実定法には解釈による多義性がある以上、論理的にも実定法に規定されることはありえない、法とは関係性の中で浮遊する文化の表象でしかないと思っています。
やや危険な発想かもしれませんが、むしろ自らが住む社会の文化に根ざして生きたいと思っています。
ですからコンプライアンスという言葉には違和感を持つわけです。

また、私は最近のリベラリストほどには他者の言動に無関心ではありません。
その一言一言が私の暮らしに深く関わっていることを感ずるからです。
たとえ異質な意見であろうと、お互いにケアしあうことこそが寛容さの基盤と考える私は、
無関心と不寛容とは同義だと考えています。

先日、このブログに掲載した弁護士へのメッセージはやや言葉が過ぎたせいもあって、いろいろな批判ももらいました。
それは心して聴かなければいけないのですが、どこかで「全くわかってもらえないな」という傲慢さが私の内部にあることも事実です。
一番わかっていないのは私自身であるということかもしれませんが。

しかしネット上では同じようなブログ記事がかなりあることにも気づきました。
私は決して特異ではなく、また独創的でもないわけです。
いってみれば、よくある退屈な意見の一つとも言えます。

ある事件が起こると、ネットの世界ではワッというほどにたくさんの反応があるのです。
私のブログはマイナーですが、大きな影響力を持つブログもあり、
そこからのメッセージが大きなネット世論を形成しているようです。
それは私が予想している以上に大きいようです。

しかし、そこで私自身は萎えてしまうのですが、「だから何が変わるのか」ということです。
さまざまな問題で、テレビでもネットでも議論が活発に展開されますが、それで何が変わるのか。
個別の問題は解決することは少なくありませんが、大きな流れは変わっていないように思います。
もちろんその積み重ねが時代の流れを変えていくのでしょうが、
ナチス台頭の時期の世界も、昭和初期の日本も、もしかしたら同じだったのかもしれません。
そう思うとますます気分は萎えてきます。
テレビで古館さんが怒り、ネットで多くの人たちが声をあげても、時代は流れを変えることなく進んでしまう。
そしてある時に破局を迎える。
これがおそらく歴史の本質かもしれません。

しかし、と、そこで思うわけです。
そうした状況を変えられるほどの情報交流と価値創発の仕組みを私たちは持ったのではないか。
ITはビジネスツールではなく、社会のツールなのだと思うのです。
たとえば、古館さんがテレビで呼びかけて、ネット世論をつなげてビジュアライスするだけでなく、実際の行動につなげていったら、大きなことができるはずです。
これは両刃の剣ですが、そうした多様な行動するネットワークがたくさん生まれていけば、どこかで調和点が目指せるかもしれません。

こうした視点で時代を論じている、ネグリの「マルチチュード」論には賛否両論でしょうが、私には実に魅力的で刺激的な主張です。
なにやらスターウォーズの世界を思わせますが、帝国と共和主義連合との闘いが始まっているような気がします。

そんなわけで、最近は気持ちが揺れ動く毎日です。

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2007/05/26

■「ホテル・ルワンダ」

話題になっていた「ホテル・ルワンダ」をDVDで観ました。
気にはなっていたのですが、最近、この種の映画を見るのにはかなりの勇気が必要です。
どうしても滅入ってしまい、気力を吸い取られるからです。
5年前までは逆にこの種の映画で元気をもらえたのですが、最近は無力感のほうが強くなります。
あまりに現実が、そうした悲惨な状況に近づいてきているからかもしれません。

最初は虐殺場面があったら、そこで観るのをやめようという程度の「逃げ腰」で見始めたのですが、引き込まれてしまいました。
サスペンスがあるわけでもなく、涙が出るほどの感動的場面があるわけでもないのですが、ぐいぐいと自分の心に入ってくるのです。
自らの生き方を問いただされるような、そんな映画でした。

2つの場面が印象的でした。
一つは取材していたカメラマンと主人公ポールとの会話です。
映画のサイトのストーリーから引用します。

カメラマンのダグリッシュは狂乱と化した街で精力的に取材を続けていた。彼の撮ってきた映像を観てショックを受けるものの、これが世界で放映されれば国際救助が来ると確信するポール。しかしダグリッシュの答えは違った。「世界の人々はあの映像を見て──“怖いね”と言うだけでディナーを続ける」。

それはまさに私の生き方です。
そうやって私たちは、事件を消費し、看過しているのです。
そしていつか自らがその立場になった時に、世界を恨むのでしょう。
そこからどうやって抜けたらいいのか。

もう一つは、結局、世界はルワンダを見捨てて、外国人たちは退去するのですが、その時、雨の中を飛行機に向かうダグリッシュたちに、ポールの仲間が傘を貸そうとすると、傘などいらない、自分たちだけが退去するのが恥ずかしい、傘をさしてもらう価値などないとつぶやく場面です。
涙もろい私は、涙が出るよりも乾く感じだったのですが、この場面だけは涙が出ました。
いま、こうやって書いていてもまた涙が出てきました。

人はみんなやさしいし、誇りを持っています。
にもかかわらず、なぜルワンダのようなジェノサイドが起きるのでしょうか。

いや、ルワンダの話ではありません。
最近のテレビのニュースは殺人事件ばかりです。
なぜ人は人を殺せるのか。
殺せるはずがないのですが、どこかで何かが壊れてしまっているのです。
そうした状況を変えるための一歩は、自らの近くにある人を愛しているかどうかだと思います。
あなたは家族を愛していますか。友人を愛していますか。隣人を愛していますか。
そして何よりも、自分を愛していますか。
そんなことを考えさせられた映画でした。

ぜひ多くの人に観てほしい映画です。


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■弁護士の反応

昨日の記事の続きです。
7人の、私が信頼できるだろうと思っている弁護士の方にメールしたら、すぐに2人の方から返信がありました。
お2人とも誠実に回答してくれました。
ただ残念ながら論点がかみ合いませんでした。
私の昨日の記事はどうも誤解されているようです。
そこで念のため、昨日の主張の論点を整理しておきます。
もしかしたら他の弁護士の方が読んでくれるかもしれませんので。
読んでいただけたらぜひご意見をお聞かせください。
私に直接メールしていただければうれしいです。
個人名での公表などはもちろん一切いたしません。

昨日の記事の論点です。

①「殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為」などという発言の是非
これは思想の自由や発言の自由という問題ではありません。価値観の違いや異論を封じようというのではなく、単にその主張の内容を問題にしています。もちろん弁護活動という社会的地位を踏まえての是非論です。

②制度論争を個人の事件を利用して展開することの是非
もし死刑制度反対であれば、大きな社会運動にすべきです。司法制度は法曹界の人たちのためにあるのではありません。制度を独占している法曹界の発想を問題にしています。

③裁判に取り組む姿勢の誠実さへの懸念
弁護士というプロフェッションとしての職責をどう考えるかという問題です。人を「裁く」ということへの誠実さをもってほしいと思っています。

繰り返しますが、「死刑制度」の是非とは全く関係ありません。
それに関してはさまざまな意見があることは望ましいことです。

それと補足です。
昨日、「この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています」と書きました。
その意味は、今回の加害者を利用しての自己主張の行為と松本サリン事件も含めて冤罪が防止できないことは共通の原因を持っているということです。
そこにあるのは、真実を見ようとしない法曹界の姿勢です。それには人間の機微への感受性の弱さも含まれます。冤罪事件の弁護士に、そうした姿勢があれば、多くの冤罪は防止できるはずです。もしできないとすれば(そしてこれまではできなかったことが少なくないのですが)、それは現在の「裁判制度」に欠陥があるからです。それを正すのが、本当の意味での「司法改革」ではないかと思います。そこを怠っている弁護士たちに私は不信感をもっているのです。
弁護士と検事が対立しているような裁判には、人を「裁く」ということへの畏敬の念が感じられません。弁護士はもっと国民のなかにはいってこなければ、真実などは見えようはずがありません。
そういうことを私は、このブログの司法時評で言い続けているつもりです。

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2007/05/25

■弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか

光市母子殺害事件の差し戻し控訴審が始まりました。
21人もの弁護士団の主張が断片的にしか報道されていないので、報道されている限りの情報からすれば、呆れた話としか思えません。
その発言内容は、まもなく週刊誌などで報道されるでしょうが、とても正常な人が話すような内容ではないと思いました。
彼らは殺人ではないと言い張った上に、殺害後の陵辱行為を死者を甦らせる行為と主張したそうです。
何と都合のいい論議でしょうか。
精神的に成熟していないのは、犯人ではなく、21人の弁護士ではないでしょうか。
この人たちには家族がいるのでしょうか。
その家族はどう思っているのでしょうか。

こうした「おかしな人」が弁護士なのです。
それも21人がいとも簡単に集まってしまう。
これが日本の弁護士の実態なのでしょうか。

同じ弁護士たちは、なんとも思わないのでしょうか。
弁護士という職業に、もし誇りを持っている人がいるのであれば、なぜ声をあげないのでしょうか。
恥ずかしくないのですか。
「おかしいことをおかしいという」基本を失ったら、人を裁く資格などなくなります。
ということは、おかしいと思っていないのでしょうか。
生活者との大きな溝を感じます。
難しい法議論の前に、社会が積みかさねてきた文化の規範があるはずです。
人を裁きに関われるのは、そうした社会の規範の上に立っているからこそです。

21人の弁護士たちの言動が、それを壊そうとしています。
この事件の裁判以上に、大きな裁判が必要になってきています。
21人はそれを求めているのでしょうが、彼らは「原告」ではなく、「被告」になるべきです。
その罪の大きさを彼らは自覚しているのでしょうか。

せめて、こうした人たちには弁護士の資格を返上してほしいです。
裁判員制度導入の前に、こうしたおかしな法曹人の資格審査をする公開の評価機関の導入が必要だったのではないでしょうか。
この事件と氷見市の冤罪事件は通底しています。
現れ方が違いますが、日本の司法体制の本質的な問題点が感じられます。

この弁護士団の言い分については、私の友人知人の弁護士にメールで感想を聞いてみようと思います。
弁護士の友人を、また何人か失いそうですが。
このままであれば、私は日本の弁護士はもう信頼できません。

*この記事に関する続報が次にあります。
弁護士の反応
弁護士の反応の報告

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2007/05/24

■かなり「危うい話」

先日、「ちょっと」危うい話を書きました。
今日は一歩進んで、「かなり」危うい話です。
どこかに書いたことがありますが、今から10数年前に、前世の友人から手紙が来ました。
その人は前世で私と親しかったようです。
岩手山によく一緒に登ったことがあるそうです。
その時に、来世のある時期が来たら、会いに来て、前世のことを話してくれと私が頼んだのだそうです。

そして約束通り、彼はやってきてくれました。
私がまだ会社にいたころです。
電話で会いたいといってきました。
どうして私のことを知ったのでしょうか。今では全く記憶がありません。
とにかく突然やってきて、付き合いが始まりました。
数年後、そのことを手紙で伝えてきたのです。
そして、前世を思い出すヒントを私にくれました。
それはある場所に行くことでした。
私はちょっと迷ったのですが、行きませんでした。

ところが、数か月後、全く別の友人から、その場所の近くに転居するという電話がありました。
なぜ私に電話してきたのか、わかりませんが、電話してきたのです。
ちなみに、その2人は全く面識がないはずです。
偶然だったのでしょうか。そのころ、ともかくいろいろなことが、その場所を示していました。
たくさんのシンクロニシティが起こっていたのです。

それでも私は行きませんでした。
その話を信じなかったからではありません。
こだわりがあったわけでもありません。
前世を思いだしたくなかったからでもありません。
単に行かなかっただけです。
もしその時、そこに行ったら、前世が思い出され、人生は変わっていたかもしれません。

そして、また10年以上が経過しました。
その前世の友人は、もちろん今でも付き合いがあります。
私のホームページにも何回か登場しています。
今では会っても前世の話はしません。必要ないからです。

ところで、その前世の話を軸にして、私のこれまでの人生を振り返ると、
いろいろと面白い解釈ができることがたくさんあります。
奇妙に自分の人生が納得できるのです。
人生は、だれにとっても、自分が主役のひとつの物語です。
それをどんな物語にするかによって、これまでの生き方の意味が変わってきますし、
これからの生き方も変わっていきます。
この話は、私にひとつの物語のテーマを与えてくれたのです。
もしかしたら、前世の私はそれを期待して、彼に伝言を頼んだのかもしれません。

前世の友人から教えてもらった場所が今でもあるかどうかはわかりません。
もう10年以上が経過しているからです。
でもそろそろ行ってみてもいいかなと思い出しています。
今生への未練はいまやほとんどありませんし、来世も少し見えてきたからです。
来世で、このブログに出会えるかどうか、それが少しだけ気になりますが、きっと出会えるでしょう。
もっとも来世は人間ではなく、蛙かもしれませんが。

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2007/05/23

■死刑制度のない社会と死刑のない社会

以前、弁護士の犯罪について書きましたが、またそれが繰り返されています。

光市母子殺害の被害者の家族、本村洋さんの発言が昨日の報道ステーションで取り上げられていました。
この裁判の大きな争点は、「犯行時18歳だった被告を死刑にすべきか否か」ですが、死刑判決が出る可能性が高まったことで、21人の「死刑反対論者」の弁護士が集まって、弁護団が結成されたようです。
悪徳弁護士の集団としか私には思えません。
「悪徳」というのはひどい言葉ですが、私にはそれ以外の言葉が見つかりません。

弁護士や検事や裁判官は、犯罪を起こさないと思いがちですが、そんなことはありません。
彼らは法の世界に詳しいですから、犯罪を起こしても法的犯罪にならない方法を知っているだけなのです。
そうした事例はたぶんいくらでもあるでしょう。
弁護士は、弱い人を助ける人というイメージがありますが、そんなことはありません。
サラ金業者もまた、弱い人を助けるという名目で、弱い人を利用して利益を上げます。
たしかに弱い立場の人を支援する弁護士は、私の知人にも少なからずいますが、仕事として取り組んでいる人も少なからずいます。

死刑廃止はどうでしょうか。
私も学生の頃は、死刑廃止論者でした。
しかし、大切なのは、死刑になるような犯罪が起きない社会を作り出すことです。
制度としての死刑廃止ではなく、実態として死刑がなくなる社会が目指されなければいけません。
今回、集まった「悪徳弁護士」たちは、そうした努力をしているのでしょうか。
彼らは死刑になるような事件を助長しているだけではないかという気もします。
殺人ほう助罪と思いたくなるほどですが、まあこれは言い過ぎかもしれません。

木村さんの昨日の記者会見の話をぜひ多くの人に聞いてほしいと思います。
世間知らずの裁判官の判決よりはよほど説得力があります。
私欲に陥っている悪徳弁護士には通じないでしょうが。
本村さんの発言の記録をいろいろと調べたのですが、ネットでは見つかりません。
もし所在をご存知の方がいたら教えてください。
ちなみに、昔、まだニュースステーションだった頃に、本村さんが久米さんに語ったことに言及しているブログがありました。

市民の法論理と弁護士の法論理とどちらが説得力があるか、
不勉強な悪徳弁護士たちに少し考えてほしいと思います。
いまの法科大学院で学んでいる人たちにも考えてほしいですね。
もっともそんなことを考えていたら司法試験には通らないかもしれません。
底にこそ、実は大きな法曹界の問題があると私は思います。
私が検事を目指していたことと、状況は変わっていません。
司法改革の方向性が問われなければいけません。

またかなりの暴言を吐いてしまいました。
どうも「寛容」にはなれません。
困ったものです。

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2007/05/22

■不寛容の時代

私の生活信条の一つは「わがままに生きる」ことです。
誤解されそうですが、本意は、「自分が納得できる素直な生き方」を大事にすることです。
この生き方を長期的に実現するには、他者の「わがまま」も尊重しなければいけません。
人間は他者とのつながりの中で生きていますので、そうした関係性の中で、自らの納得の内容を絶えず吟味していくことが必要です。
そうしないと、井の中の蛙や裸の王様になってしまい、結局は「わがまま人生」がどこかで破綻しがちです。
ですから、「わがままに生きる」とは、実は自らにも他者にも「寛容に生きる」ことかもしれません。

先週、CWSコモンズの週間報告に「寛容について」を書きました。
そこで、村上陽一郎は「文明の死/文化の再生」の中に書かれている文章を引用しました。再録します。

自己が一つの選択肢としての、ある伝統に依拠していることを自覚することができ、それに基づいて、伝統に関して他の選択肢の可能性を認め、かつそれに依拠する他者の存在を認め、また、その可能性を自ら検討できる、という2つの能力を有するとき、その個人、あるいは共同体は、「寛容」であると定義できるのではないか。

こうした「寛容」な生き方に身を任せると、とても生きやすくなりそうです。
以前書いた、笑顔の人もまた、そうした寛容な生き方をしている人かもしれません。
しかし、残念ながら時代は、日本も世界も「寛容」でなくなりつつあります。

今日の朝日新聞に、全国特定郵便局長会(大樹の会)が、自民党支援か国民新党支援かで割れているという記事が出ていました。
結局は、政権党についていないと利権は守れないということらしいのですが、節操とか信念はどこにいったのでしょうか。主体性すらも失ったのでしょうか。
郵政民営化に反対したのにも関わらずに、自民党に戻った議員たちのように恥知らずの人たちの集団なのでしょうか。いささかの失望です。
信念のない人たちは、決して寛容にはなれません。
ともかく「勝ち馬」に乗るのが「政治」なら、そんな政治に存在価値はありません。
結局は価値議論のない、「勝てば官軍」の世界になってしまうからです。
そうした生き方は「寛容」とは似て非なるものであることはいうまでもありません。

寛容であるためには、自らの価値観をしっかりと持つことが必要です。
何でも受け入れることが寛容ではないように思います。
ましてや日和見的に状況に合わせていくことも寛容とはいえないでしょう。
自らの価値観との関係を踏まえながら、他者の言い分を理解し、その存在を支援することが寛容のポイントだと思います。
もしそうであれば、現代は「不寛容の時代」というべきでしょうか。

私のこのブログは、そうした点で、寛容には見えないかもしれません。
私自身はかなり寛容であることを大事にしてはいるのですが。
思いと言動はなかなか一致しません。困ったものです。

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2007/05/21

■団塊シニアの不安

団塊シニアが会社を定年で辞めだしましたが、彼らは退職後の生活に経済的不安をもっているかどうか。
今日、そんな議論をちょっとだけ、団塊世代の人としました。
リストラされずに無事定年を迎える団塊シニアは、何とかぎりぎりでバブル経済の恩恵を受けて、老後の経済的心配はないのではないかと、私は思っていました。
しかし、団塊世代である当人(大企業の役員です)は、そんなことはない、不安に感じている人が多いというのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。

私の意見はこうです。
団塊シニアの多くは、会社人間として目いっぱい「生産活動」言い換えれば「金儲け活動」に取り組んできました。その結果、お金を稼ぐことが仕事だと考えるようになってしまったのです。
逆に言えば、お金を稼ぐことはできても、お金を使うことが出来なくなってしまったのです。

資本主義経済の発展の両輪は、生産と消費です。
男性が生産を、女性が消費を担ってきたのです。
20年前に会社を辞めてから、そうしたことを実感することが多かったです。
カルチャーセンターでも、旅行でも、百貨店でも、いつも主役は女性でした。

生産と消費はコインの裏表ですから、そのどちらも必要なのですが、あまりに役割分担が進みすぎて、生産生活を続けてきた男性たちは、お金を使うという発想がなくなったのです。
お金を稼ぐことは、彼らにとって、生きている証になってしまったのかもしれません。
ですから、お金が稼げなくなると自らのアイデンティティが否定されるような気がするのかもしれません。
つまり、経済的不安ではなくて、自己否定される不安なのです。
よく、私は年金生活者だからという人がいます。
あれもまた、稼ぐことしか発想できない男性の哀しさを象徴しています。

団塊シニアが不安に思っているのは、お金が稼げなくなることではなくて、お金の使い方がわからないことなのではないか。そんな気がしてなりません。
お金を稼ぐ点では女性に負けなかった男性たちも、お金を使う点では女性には勝てないでしょう。
したがって、家庭での主導権は女性に移るのです。
その先には熟年離婚が待っています。
稼ぐことでしか居場所がなかった男性たちの冬の季節が始まるのかもしれません。

そうならないために、みなさん、お金を稼ぐことの虚しさに早く気づきましょう。
お金は稼ぐためにあるのではなく、暮らすためにあるのです。

みなさん、もし6億円が当たったら、きちんと使うことが出来ますか。
まさか「貯金する」などという馬鹿なことは考えないでしょうね。
貯金するくらいなら、6億円は当たる必要はないのです。
そう思いませんか。

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2007/05/20

■どこから考えるか

とても美味しいジュースをコップで半分飲んだところで、
「もう半分しか残っていない」と思うか、「まだ半分もある」と思うか。
よく語られる話です。
物事は考えようで、全く違った風景になります。

話題のTOTOビッグを買うことにしました。
いま6億円あると、ちょっと面白いこともできそうですので。
で、何枚買うかという問題に直面しました。
論理的な私としては、当たる確率から考えることにしました。
確率からいえば、極めて低い確率でしょうから、
1枚でも10枚でもたいした違いはないでしょう。
だとしたら、1枚でもいいことになります。
そこで1枚にしようと思ったのですが、発想を変えると1枚よりも10枚のほうが当たる確率は10倍になります。
数千円の差で、確率が10倍になるのであれば、
打算家の私としては、ここはやはり10枚にしたほうがいいと考え直しました。
ところが、10枚にしようと思った途端に、懐疑論者の私としては、どこかで騙されていないかと気になりました。
微小な数字が10倍になったところで、意味があるのだろうかというわけです。
やはり1枚でしょうか。
妥協好きな私として、真ん中をとって5枚にしようか。
いや、この場合、真ん中は5枚と考えるべきなのかどうか。
とまあ、こんなことを考えているうちに、結局、ビッグを買い損ねてしまいました。

風景が変わると決断できないことにもなりかねません。
自分の視点はしっかり持たなければいけません。

結局、優柔不断な私としては、6億円を失った後悔だけが残ったような気もします。
しかし、6億円失ったおかげで、構想していた苦労の多い仕事をしないですみました。
怠惰な私にとっては、6億円当たるよりも良かったのかもしれません。
それに、奇跡を信ずる私として、
もしかしたら買わなかったけれど当たるかもしれないという思いもあります。
それに当たった人がお裾分けしてくれないとも限りません。
ものは考えようでもあります。

ところで、みなさんは買いましたか。
6億円当たったらコーヒーをご馳走してくれませんか。
ドトールでいいです。

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2007/05/19

■basement ethicsとaspiration ethics

相変わらず組織の不祥事がなくなりません。
組織を預かっている人たちにモラルもエシックス(倫理)もないのでしょうか。
科学技術倫理フォーラムの杉本泰治さんから教えてもらったことですが、全米プロフェッショナル・エンジニア協会(NSPE)の倫理規定には、“ don’t do” で始まる条文と“shall do”で始まる条文とがあるそうです。
前者は行動の最下層をきめたもので、このレベルより下のことは、何であれするなという、最下層倫理(basement ethics)、後者は、何かをする気にさせるもので、抱負倫理(aspiration ethics)と呼ばれているそうです。
そして、倫理規程の冒頭に、「公衆の安全、健康、および福利を最優先するようにしよう(shall do)」と明記されています。
日本ではまだコンプライアンスなどということが課題になるレベルですが、コンプライアンスはおそらくbasement ethicsよりも下位の概念でしょう。
まともな大人であれば、あえて言うまでもない当然の遵守事項であり、決して免責のためのものではありません。

倫理というと、なにやらうっとうしい気もしますが、aspiration ethicsと考えると楽しくなりそうです。
発想を変えると世界が変わってくることの一例です。
日本の企業倫理論議で欠けているのは、こうした発想ベクトルの転換です。
それがない限り、現実は変わらないような気がします。
倫理を守ることが当事者にメリットになるように設計する知恵が必要になっているように思います。

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2007/05/18

■過剰報道と過少報道

今の日本の社会を象徴しているのはマスコミ報道の内容です。
最近の新聞やテレビは、まさに「パンとサーカス」の世界を感じさせます。

会津若松で起こった17歳の母親殺人事件は、猟奇的であるためか、克明に報道されています。
果たしてこれほど詳しく報道する必要があるでしょうか。
こうした報道が次の事件を生んでいくのか、防止するのか、意見は分かれるでしょうが、私は間違いなく生んでいくと思います。
その可能性がわかると選択肢に入れてしまうのが、人間の常ですから。
そういう意味では、いまのマスコミは私にはこうした事件を生み出す共犯者のような感じがします。
どう考えても過剰報道です。

娘に、そういう話をしたら、大きな事件がないからではないかといわれました。
とんでもない、いま大きな事件は静かに進行しています。
1人2人の死の話ではなく、大勢の人の生死にかかわり、さらには社会の死に関わる事件、がです。
たとえば、国民投票法、正確には平和憲法廃止準備法が成立し、教育関連法、正確には教育管理手続法が成立しようとしています。
これによって、どれだけ多くの人が実際に死に追いやられることでしょうか。
国家がやることですから、犯罪にはならないのですが、
そこに未必の殺意もあると思いますので、論理的には犯罪とほとんどかわりません。

そうした、新法の意味や、それを成立させるための詳しい手口こそを、マスコミは報道すべきです。
そうした動きに対する反対活動の報道も、過少報道になっています。
パンとサーカスの後ろで、何が行われているのか、マスコミに報道してほしいものです。
マスコミにとって、読者や視聴者は市場でしかないのでしょうか。

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2007/05/17

■少し「危うい」話

みなさんは死後の世界を体験したことがあるでしょうか。私の友人には3人ほど、臨死体験した人がいます。
みんなその時に同じお花畑を見てきたという話で盛り上がったことがありますが、今日の話題はそうした話ではありません。
私の体験談です。

いまから10年ほど前なのですが、自分が死んだ後の現世の風景を2回見ました。
いや、正確には、見た気がしています、というべきでしょうか。
一度は私のオフィスの近くの湯島です。
いつものように歩いていると何か奇妙にあたりから人の気配が消えました。
そしてそこに私が子どもの頃によく見かけた質素な服装のおばあさんと2人の幼子が遊んでいるのです。
なにやら自分の存在が実感できずに、遠くからその光景を見ているような気がしました。音がないのです。ほんの数秒の話ですが、とても奇妙な感じでした。
しかし、なぜか立ち止まらずにそのまま歩き続け、3人は視界から自然と消えました。
その時はちょっと奇妙な感じだけでした。
ところが、そのたぶん数日後、同じ風景に出会ったのです。
私の記憶では、場所は大阪の梅田です。
なぜか記憶があいまいなのですが、少なくとも湯島ではありません。
同じ3人が、同じ服装で遊んでいるのです。
神仙に遊ぶような雰囲気でした。
なぜかそれに疑問を感ずることなく、通り過ぎました。
その数日後、その光景が思い出されて、とても奇妙な気持ちになりました。
ありえない話ですから、すべては私の夢かもしれません。

これはずっと気になっている体験です。
なぜか、その一瞬の風景は、私の死後の、湯島や梅田の風景のような気がしてなりません。

1週間前、近くのスーパーに娘と買い物に行きました。
その時に、この体験が急に頭をよぎりました。
私が死んだ後も、このスーパーは同じようににぎわい、そこに行く途中の街並みは何の変化もないのだろうという感慨が沸き起こりました。
3人組を探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、なにか私が死んだ後のスーパーの店頭のような気がしました。
一瞬だったのですが。
人は60代になると死語の世界とつながっていくのかもしれません。
最近、自分が死んだ後の、仕事場の風景が感じられるようになってきました。

両親が亡くなった後、私の生活はどうだったでしょうか。
いろいろと変化はありましたが、世界のほとんどは何も変わりませんでした。
死者にとって、世界はたぶん非連続になくなるわけですが、世界にとって死者の存在は連続的な自然の営みでしかありません。
この非対称の関係は驚きです。信じ難く非対称です。

また母親殺しという悲劇が起こりました。
信じたくない事件ですが、個人レベルではなく、社会レベルでも、死後の世界につながりだした結果の事件かもしれないという気がします。
地下鉄サリン事件が起きた時に、私たちの世界は終わったのではないかと感じましたが、その時の絶望感がますます現実化してきているような気がしてなりません。
人は一線を踏み越えようとしているようです。
すべてが夢であればいいのですが。

わけのわからないことを書いてしました。
ちょっと危うい話でした。

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2007/05/16

■「がんという言葉」

一昨日のNEWS23の冒頭で、キャスターの筑紫さんが、自らの肺がん告白を行いました。
「がん」は、実に哲学的な病気です。
思考回路を変えさせる言葉です。
ですから、付き合い方がとても難しい病気です。

私の妻ががんなのです。
家族で現在、闘病中です。
「闘病」という言葉は、少し正確ではないかもしれません。
「がんという言葉」に立ち向かっているというべきかもしれません。
昨日も病院でした。
私も、4年ほど、毎月、多いときは毎週、通い続けています。
妻ががんになったことで、その世界が少しだけ実感できています。
ほんの少しだけですし、もしかしたら間違っているかもしれませんが。

しかし、ともかく、生命に対してセンシティブになります。
健康な人の言葉は強く感じます。やさしい言葉ですら心を刺すことがあります。
同じ病気を体験している人の言葉はやさしく聞こえます。
会った途端に、仲間に感じられて、お互いに何かしてやりたいと思います。
状況が厳しい時には、その余裕がなくなることもありますが、女房をみていると、いつも誰かに役立とうという思いを感じます。
これは彼女の性格というよりも、置かれた状況の成せることだと思います。
彼女だけではないからです。
ほぼ例外なく、私たちが出会ったがん患者はみんなそうです。

一昨日も、自らもがん患者でもあるにも関わらず、女房のために「免疫ミルク」の情報を送ってくれた人がいます。女房の新聞投稿記事を読んで、手紙を送ってきてくれたがん患者からの手紙も昨日届きました。ほぼ毎日、こういうことがあります。
「がん」という言葉は、人をやさしくし、つないでいく言葉でもあることを実感しています。
「がん」という言葉には、心がつながるコミュニティを生み出す力があるようです。

今日、病院で女房の友人に会いました。
彼女の夫にやはりがんが発見されました。
同行していた私の娘も、病院で同窓生に会いました。やはり家族と一緒でした。
病院で時々知り合いに出会います。
おかしな言い方ですが、がんは、今や私たちにとって極めて身近な病気なのです。
筑紫さんも、2人に1人ががんになる時代と話していました。
にもかかわらず、「がん」といわれると心身ともに変調を来たします。
私は妻が「がん」といわれた途端に、世界が変わったのを覚えています。

もしかしたら最大の問題は「がん」という言葉ではないか。
「がんという言葉」で、みんな自己暗示にかかっているのではないか。
そんな気がしてきています。

希望を萎えさせると同時に、人をやさしくし、つないでいく、「がんという言葉」。
そこに何かとても大きな意味があるようなきがしていますが、それが何かまだ見えてきません。

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2007/05/15

■「憲法改正手続法」を「国民投票法」と詐称する犯罪

昨夜の報道ステーションに国民投票法成立に取り組んできた自民党の保岡議員が出演していました。
そこで、古館さんや加藤さんと議論していましたが、その話の内容に驚きました。
古館さんは、最後の切れ味が悪かったものの、とても粘って質問していました。
これがいまの「放送法」管理下での限界なのかなという気がしてみていました。

本を読みながら聴いていたので聴き違いかもしれませんが、
最低投票率の議論に関して、保岡議員はこんな答をしていました。

35%の投票率で80%の人が賛成した場合、国民の28%が賛成したことになる。
40%の投票率で60%が賛成したら、24%が賛成だから、35%の投票率だったときよりも賛成者は少ない。
もし40%を最低投票率と定めたら、5%の人が投票をボイコットしたら、投票が無効になり、28%の賛成が活かされない。
とまあ、こんな説明でした。

この人は完全な詐欺師ですね。
さすがに加藤さんも古館さんも唖然としていましたが、めちゃくちゃな論理過ぎて、誰も反論する気になれないでしょう。ですから詐欺は成り立ちます。
オレオレ詐欺などはこういう人にかかったら可愛いものでしょうね。

そもそも国民投票法には大きな詐欺要素があります。
その法律名です。
この法律は、「国民投票法」ではなくて、「憲法改正手続法」と呼ぶべきです。
国民投票法と名づけたが故に、これが「国民主権の完成」などという意見が出てきてしまうわけです。
日本の政治はクリプトクラシー(盗賊政治)だと指摘している人もいますが、ますます大掛かりになってきました。なにしろ犯罪を取り締まり裁く側も、すべてが仲間の盗賊団、詐欺団ですから、困ったものです。
自己防衛しなければいけません。まあ、無理かもしれませんが。

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2007/05/14

■まずプロジェクト、原理はそれから

「真なるものとは単に、信じるほうがより便利なものというにすぎない」。
アメリカのプラグマティズムを代表するリチャード・ローティの言葉です。
おそらく「正義」もそうかもしれません。
以前書いたような気もしますが、「常識」もまた「それに従えば便利なもの」です。

国民投票法が成立しました。
今日、改めてまた、NHKで放送された「焼け跡から生まれた憲法草案」を見ました。
何回見ても、やはり今の日本の憲法状況はおかしい気がします。
現在の日本国憲法は、米国からの押し付け憲法ではなく、私たち日本人が戦争という大きな代償を払って到達した成果なのです。
そして、今の社会は明らかに違憲行為の積み重ねです。
つまり少なくとも小泉前首相も安倍首相も犯罪者です。
それが、私にとっての「真なるもの」であり、「正義」であり、「常識」です。
しかし、どうもそれは間違っているようです。
安倍内閣の支持率が上昇しているそうです。
私にとっては、実に気持ちの悪い社会です。

ローティの定義は、まさに西部劇の世界の話です。
歴史も原理もなかった、アメリカであればこそ、現世的な功利主義が優先したわけです。
そして、そこにこそ、アメリカ型の民主主義が成り立つわけです。

ローティはまた、“FIRST PROJECTS, THEN PRINCIPLES”(まずプロジェクト、原理はそれから)といっています。
プラグマティズムの政治スタイルを簡潔に説明しています。

文化は野蛮には勝てません。
インカ文化もアフリカ文化も、そして身近では琉球文化も、近代西欧の野蛮に破れました。
文化と野蛮は、これもまた定義次第ですが、私は近代に野蛮を感じます。

日本の文化もそろそろ終焉を迎えるのでしょうか。
それともまだ歴史を大きく変えていく存在になるのでしょうか。
いま、その岐路にあるように思いますが、時代はプロジェクト先行に向かいつつあるようです。
気持ちの悪い時代になってきました。

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2007/05/13

■野党は寝ているのですか

10日の国民投票法にまつわる国会議論の実況を見ていて、とても情けなくなりました。みんなまじめに議論してないのです。
だからこそ、国民投票法は成立してしまうのでしょうね。

それにしても、これだけ重要な争点があるのに、なぜ国会での議論は盛り上がらないのでしょうか。
国民の反対はかなり盛り上がっていますが、マスコミはいつものように、それには目も向けずに、つぶしています。お金で動くマスメディアの存在は有害無益です。

日本の不幸は、野党の存在がなくなってしまったことです。
二大政党制は野党をなくす構想ですから、それは仕方がないのですが、それにしてももう少しがんばってほしいと思います。
本来的な意味での野党とはいえませんが、民主党にさえも、もう少しはがんばってもらいたい気がします。
今の民主党は、自民党もどきの政党でしかありませんが、そこに所属する政治家には、少しは志のある人もいるはずです。私の知人も、そのはずなのですが、一向に何もしません。
立候補する時に、できる範囲で応援するといったら怒ってきた人がいます。
出来る範囲を超えて応援しろというのです。
その本人は、いま何をやっているのでしょうか。
時々、言葉だけのメールが来ますが、いささか寂しい気がします。
そういう人が多すぎます。
民主党は解党するか自民党と合体すべきです。

社民党と共産党は、野党といえる主張があります。
しかし、いずれも自己満足に陥っています。
本気で社会を変える意思があれば、国民の心を捉え、時代を変えていくためのイニシアティブを打ち出せるはずです。
護憲の問題にしろ、格差問題にしろ、福祉問題にしろ、国民はおかしいと思い出しています。
その国民の気持ちを束ねていけば、新しい風は起こるでしょう。
共産党も社民党も、これまでの組織原理や歴史にこだわることなく、新たな次元に向かって大同団結するべき時期に来ています。
政党の面子や利害にこだわっている時代は終わりにすべきです。
政治家は、いまこそ、自分の意志で動くべき時代です。
復党騒ぎに現を抜かす政治家はもういらないのです。
志があるのであれば、政党を離脱して、動き出してほしいものです。

参議院選挙が近づきましたが、政治家は一体何をしているのでしょうか。
保身のためにしか動いていないのでしょうか。
国民の思いに立脚した、本当の野党は生まれないものでしょうか。

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2007/05/12

■当たり前のことをやっていないのは誰か

教育再生会議による「子育て指南欽急提言」は、あまりの不評に「待った」がかかりましたが、首相周辺からも「当たり前のことを言っているだけではかえって世論の批判を受ける」という声があがったそうです(朝日新聞5月11日)。
当たり前の例として、たとえば「子どもにうそをつかないように教える」ということがあげられています。
しかし、これは決して当たり前のことではありません。
CWSコモンズでも書いているように、小泉政権以来、日本では「みんなでうそをつきましょう」という風潮が広がっています。その見本を首相や閣僚は見事に果たしています。日本の最近の内閣の騙しぶりは、詐欺師集団より見事かもしれません。
それをつくろっているのが、マスコミと裁判所です。

日歯連の1億円裏献金事件で、村岡被告は逆転有罪になりました。この事件で明らかなことは、村岡、野中、青木、橋本といった自民党を支えていた国会議員のだれか、もしくは全員が嘘をついていることです。そんなことすら裁判が立証で企業なのであれば、裁判の意味がありません。いや、真実を糊塗するのが政治事件の裁判であれば、充分に意味はありますが。
松岡国会議員の国会での答弁はどうでしょうか。
あれは「嘘以前」ではないでしょうか。
そうした事例にいくらでもあります。
いまや嘘をつくことが、立身出世し、経済的に成功する社会になったのです。
それが成功しすぎたりすると、さらにその上の嘘つき者から指弾されますが。

今朝の朝日新聞の天声人語は、こんな文で始まっていました。

「橋のない川」を著した作家の住井すゑさんは、「子育て」という言葉を嫌った。子どもの管理に通じる意識を、そこに見たからである。

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2007/05/11

■余命3か月

今日、女房と2人で散歩していて出会った人から聴いた話です。
残酷な話です。
書くかどうか迷いましたが、書くことにしました。

その人の親しい知り合いが、がんになりました。
気づくのが遅すぎたため、かなり厳しい状況でした。
医師から「余命3か月」というようなことを言われたそうです。
その方は、涙で話し続けられなくなりました。
他人事(ひとごと)ながら、ショッキングな話です。
なぜそんな話になったかといえば、私の女房も同じガンなのです。
そして、その人は、女房の投稿記事を読んで、女房のことを知っていたのです。

女房から、私もそういわれたのと詰問されましたが、
女房に関しては、これまで一度も、医師からはそうした話はありませんでした。
しかし、こうした表現で話されたという話を聞いたり読んだりしたことがあります。
信じられない言葉です。
そういう言い方をする医師は、医師の資格がないと思いますが、決して少ないことではないのかもしれません。

そういえば、私も信頼していたある医師から、女房に関してアドバイスを頼んだら、死に方の問題ですね、と言われて、その医師への信頼感を失いました。
これに関しては、以前書きましたが、それは医師の発想ではありません。
そんな医師にかかったら、殺されるのが関の山です。
こういう医師がいる限り、日本の医療は良くならないように思います。

がんの怖さは、先が中途半端に見えることです。
医学の知識は絶対的なものではありません。
統計的なものでしかありません。
優等生の医学生が、生命体への畏敬の念(センス オブ ワンダー)を学ばずに、そのまま医師になってしまうと、その統計的な知識を具体的な患者に当てはめてしまいがちです。
優等生的な医師ほど、恐ろしいように思います。

しかし、統計的な知識を信じてしまうのは、患者もその家族も同じです。
自己暗示にかかってしまうのです。
そして、先が見えてしまうような気がしてしまうのです。
そうなると、希望は失われます。
私たちも半年前までは、それに近かったのかもしれません。

それにして、「余命何か月」などという言葉は誰が言い出したのでしょうか。
創造主である神でも決していわない言葉でしょう。

女房は、自分がいま取り組んでいることをもっと話してやりたいそうです。
がん患者は、みんな同志になります。
自分の体験を分かち合いたいとみんな思うようです。
病になると多くの人が聖者に近づきます。
隣人の痛みがみえてくるからです。
病を治すのは、医師ではなく、患者たち同士なのではないかと私は思います。
医師ができるのは、その手伝いでしかありません。
手術などはもちろん別ですが。

自らががん患者と公表した民主党の山本孝史参院議員を民主党が公認する方向だという記事が今日の新聞に出ていました。よかったです。
山本議員は、遅れている日本のがん対策に取り組み、文字通り命をかけて、患者本位のがん医療を実現すべく、「がん対策基本法」の成立に尽力してきました。
しかし、この7月の参議院選挙での再選が危ぶまれているそうです。

そこで、がんの患者会メンバーや自殺対策支援団体メンバーなどでつくる「山本たかしさんを国会に残そう!有志の会」が主催して、下記の通り緊急集会を開くことになったそうです。私の友人から、案内が回ってきました。

日時:5月13日(日)14:00~16:00
会場:日本薬学会長井記念ホール(渋谷駅から徒歩8分)
お問い合わせは、有志の会事務局bxs00035@nifty.com まで(5/13まで有効)

お時間が許せば、ご参加ください。

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■「親学」よりも「主権者学」が必要

チェチェンニュース(5月2日)に、

「侵攻」か「進攻」か?チェチェン紛争をめぐる各紙の視点
という記事がありました。
チェチェン紛争に対するロシアの行動に関して、マスコミの表現が違う話です。
朝日と毎日は「進攻」、読売と産経、それに日経は「侵攻」だそうです。
ではイラクの時はどうだったか。
2003年3月、米英軍がイラク領内に爆撃を開始したとき、朝日、毎日はこれを「侵攻」と呼び、読売、産経、日経は「進攻」と呼んで議論を巻き起こした。

と書かれています。
こうしたことの積み重ねが、私たちの意識に大きな影響を与えることはいうまでもありません。

どこから見るかによって、世界の風景は全く違ってきます。
事実はひとつでも、その事実が持つ意味はたくさんあります。
正しいか正しくないかの話ではありません。
しかし、そうしたことの積み重ねが歴史を分けていきます。
そして、自分にとって居心地の悪い社会に生きなければいけなくなるかもしれません。
そうならないために、しっかりした自分の視点で、世界の風景を見ていくようにしたいものです。自分だけの問題ではなく、同時代に生きる人たちや次に続く子どもたちに対して、「騙された罪」を犯すことになりかねません。

問題はチェチェンやイラクなのではありません。
私たちの身近にある問題についても、いま同じことが毎日起こっています。
言葉ではなく、その奥にある価値観を問いただすことが必要です。
言葉で操られる存在になっては、国民主権を定めた憲法が嘆くでしょう。

「親学」が問題になっていますが、「主権者学」こそが必要なのかもしれません。

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2007/05/09

■冤罪事件報道で感じた恐怖

昨日のテレビ「報道ステーション」で、冤罪被害者の追跡調査の特集をやっていました。
報道ステーションのサイトから引用します。

2002年4月、富山県氷見市で、2件の婦女暴行事件に関わったとして当時34歳のタクシー運転手の男性が逮捕された。ところが出所後、別の事件で逮捕された容疑者がこの2件の事件について供述し、男性の冤罪が発覚したのだ。犯行現場に残された足跡に比べて男性の靴のサイズは明らかに小さく、さらには犯行の時間帯にアリバイがあったにもかかわらず、なぜ逮捕されたのか。そして、なぜ男性は自白に追い込まれたのか。当時の取調官に直接電話をかけ、問い詰める男性に独占密着。警察の杜撰な捜査の実態に迫る。

印象的だったのは、古館さんが心から怒っていたことでした。
私も感情を隠せない人間ですので、感情をあらわにする人が好きなのです。
古館さんの怒りは、そうした杜撰な処理をした警察、そして検察、さらには裁判に関わった人たちが、何の咎めもなく、今なお、冤罪被害者に非礼を重ねていることです。
この番組を見ていると、日本には公平な裁判はないのではないのかと思いますし、警察は暴力団以上に悪質な暴力団だと思わざるを得ません。暴力団でも、それなりに仁義があるでしょう。

しかし、私の周りにもとても誠実でまじめな警察官もいますし、弁護士もいます。
どうもそれがしっくりきません。

警察や裁判官たちが暴力団と同じだということは、ある意味では当然の話です。
彼らは暴力と人を裁く権限を法的に独占していますから、暴力団以上に暴力団になれるのです。両者がつながるのは当然の話です。

それにして、なぜこうした冤罪が繰り返し起こり、その冤罪に対して、常識的な対応ができないのでしょうか。
この2つは、実は深くつながっています。
企業の危機管理の歴史の中で、もはや常識になっていますが、危機に対する処理を間違っている限り、問題はなくなりません。
日本の企業や行政が繰り返し不祥事を起こすのは、それが犯罪だと認識されずに、しかもその処理がきちんと行われないからです。日本における企業不祥事も同じです。

冤罪を起こした警察官や検察官、弁護士が責任を問われない限り、冤罪はなくなりません。
今回の事件で、冤罪を意図的につくりあげた人たちは、免職ではなく、犯罪者として裁判にかけられるべきでしょう。しかも、少なくとも冤罪被害者よりは重罪にすべきです。
専門家とはそういうものでなければいけません。
裁判員制度などという無責任な制度を導入することができるのは、今の司法界の人たちに責任感も専門家意識もないからではないかと思います。

人の人生を狂わせておいて、心が痛まないような人が警察や司法界にいることが、とても恐ろしい気がします。
いや、そういう人でないと務まらないのが、司法界の真実かもしれません。

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■サプライチェーン・マネジメントの家庭への侵入

昨日の続きです。
最近の経営戦略のひとつが、サプライチェーン・マネジメントです。
これも1960年代から議論されていた経営テーマですが、明確な戦略として意識されてきたのは1980年代からでした。
サプライチェーンとは、原材料の源泉から最終消費者にいたるプロセスを統合的につないで考えるということですが、その統合する範囲に「消費過程」までを組み込もうというのが、昨日、言及した記事(「サプライチェーンを一般家庭まで延ばす」DHBR)の内容です。

これまではサプライチェーン・マネジメントは小売店で終わっていました。消費者が購買した後は消費者の管理に入るわけです。しかし、そこで経済的には無駄が発生します。消費者の管理はいかにも気ままだからです。
たとえば、今朝、わが家では朝食のパンが不足しました。昨日、買い忘れたのです。私は違うものを食べましたが、パンのメーカーは売上げを減少させたことになります。パン1枚が何だと思うかもしれませんが、社会全体では大きな額になります。
イギリスでは、そうした消費者の買い忘れで、年間90億ドルの売上げ減少を引き起こしていると、その記事は書いています。
そこで、消費者が購入した後も、商品管理ができないかという戦略が出てきました。
その萌芽は、通販や宅配販売などではかなり前から試みられていますが、それをITで管理し、まさに企業によるサプライチェーン・マネジメントに組み込もうというわけです。
ICタグやIC組み込みの冷蔵庫が、それを可能にします。
記事にはこう書かれています。

未来の家庭では、ハイテクごみ箱が登場し、ICタグのついた日用品が捨てられると。自動的に注文したり、購入を促したりするかもしれない。

すでに冷蔵庫内の使用量がわかるスキャナー内蔵の冷蔵庫の試作が始まっているそうです。
その記事の最後はこうです。

サプライチェーンの概念で喜ぶのは企業だけではない。
言うまでもなく、消費者もそのメリットにあずかれる。

言うまでもなく? ・・・・
こういう発想を持つ人が、産業や経済を主導しているとしたら、私たちがケージに入った鶏に「進化」できるのも、そう遠い先ではないかもしれません。

先週、購入していた地下鉄の回数券の7枚が有効期限切れになっていました。ちょいちょい発生するこうした損失はなくなるかもしれませんが、それ以上に人生の面白さもなくなるような気がします。
ちなみに、私の今朝の朝食は、久しぶりのホットケーキでした。

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2007/05/08

■生産者主導から消費者主導の経済への移行の幻想

経済の主導権が生産者から消費者へと動いてきていると、いわれます。
私が大学を卒業した時点では、産業構造の川上化か川下化の議論はまだ分かれていました。
私が入社した東レでも、それがテーマになっていました。
いうまでもなく、その当時も少し考えれば川下化は当然の流れでした。
しかし、そうはなりませんでした。
残念ながら東レは川下化路線を取りませんでした。
15年後に、私はトップに川下路線を再度提案しました。
それが結局は私が会社を辞める契機になるプロジェクトの始まりでした。

私が会社に入った1960年代に、すでに日本でもドラッカーは話題の人でした。
彼の本を読んで、私はしかし失望しました。
事業の目的は「顧客の創造」だと書いてあったからです。
以来、私はドラッカーは好きにはなれません。
しかし、企業経営に関して言えば、ドラッカーは的確でした。
「顧客の創造」とは、経済の起点は消費にあると明言しているわけですから。
当時はまだプロダクトアウトの経営観理論が全盛でした。
生産に起点をおいた経営論や産業論がほとんどでした。
しかし、資本主義の本質は「消費」にあることは、後知恵かもしれませんが、明白です。

1990年代になって、ニューエコノミー論が盛んになりました。
ITが大量生産体制の限界を克服し、柔軟な供給体制が可能になったのです。
カスタムメイドの経済が可能になり、ますます個々の消費者が主役になれるようになったのです。
とまあ、これがこの数十年の産業構造や経済システムの大きな流れです。
生産者主導から消費者主導の経済への移行です。

私は、しかし上記の議論には全く与しません。
表層的な動きに騙されていけません。
たとえば、こんな記事が今月号のハーバード・ビジネス・レビューに出ていました。
ICタグでサプライチェーンは冷蔵庫まで延びる、という記事です。
長くなりそうです。
この続きは、明日、書きます。
余計なことを書いてしまったので、肝心のテーマに行き着きませんでした。

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2007/05/06

■当事者主権の難しさ

最近、「当事者主権」ということが言われてきています。
私も、そうした動きに関心を持っています。
私が会社時代に取り組んだCIプロジェクトの理念の一つでもありました。
その体験もあって、それがどのくらい難しいことであるかも実感しています。

私が最近取り組んでいるコムケア活動の理念も当事者主役です。
しかし、「当事者」は常にマイノリティであるところに難しさがあります。
その当事者が、自分よりも不幸な存在である場合は、同情し応援しますが、
社会的に注目されだすと嫌悪感を持ち出す人がいかに多いかを私は身を持って感じてきました。
私の身近な友人知人や親戚でもそういうことは起こりますし、
私自身のなかにも、そうした面がないとはいえません。
それに、「当事者」自身、注目されだすと言動が変わることもないわけではありません。
私の友人から、「社会的弱者はそれゆえに社会的強者である」と指摘されたことがあります。
そうした面もないわけでありません。
同じ目線を維持することは、本当に難しいです。
目立つ釘は打たれてしまうのが、日本の社会かもしれません。

当事者主権で動き出した人たちが、社会から石を投げられた事例は枚挙に暇がありません。
私がそのことを意識した最初の記憶は水俣病でした。
最近では拉致家族会やハンセン病患者が、そうした目にあっています。
犯罪被害者の家族の話もよく聞きます。
弱いものほど弱いものをいじめることが多いですから、実は弱さと強さは逆転しているのですが、
現実に「いじめ」の対象にされてしまうと辛い状況におかれます。
時に、自殺へとつながってしまう悲劇も起こります。
自殺は決して「自死」ではなく、犯人の姿が見えにくい殺人だという気がします。
しかし、犯罪の概念を変えない限り、この事件は罰することができません。

私が昨日書いた、難病手術の家族の話もそうかもしれません。
私自身にも、そうした当事者が苦労して自らの人生を開いていった姿に否定的な発言をしてしまったのかもしれません。
急にそんな気がしてきて、ついつい懺悔したくなりました。

「思いやること」の難しさを感じます。

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2007/05/05

■多数決主義と民主主義と国民主権

先日書いた国民投票法の記事に、予め民主的な手続きをしっかりと決めておくことは必要ではないかというコメントをもらいました。
そこで、少し私見を書きます。いろいろな人がすでに言っていることなので、書くまでもない話ではありますが。

民主主義と多数決は次元の違う話であり、混同すべきではないということも前に書きました。
多数決は少数の人の意見を正当化する仕組みでもあるのです。それがまさに、いま話題になっている国民投票法のなかに仕組まれています。
「だまされることの責任」という佐高信と魚住昭の対談集があります。
2004年に高文研というところから出版されています。私にはとても刺激になりました。

そこに、なぜ日本は負けるとわかっていた無謀な戦争を始めたのかに関して、魚住さんが取材した話が出てきます。
そこでは「権力の下降」という言葉が出てくるのですが、ある思いをもった人が力のある上司を情念で説得し、それが次第に積み重なって、時代の流れを変えていくのです。
リーダーシップの弱いリーダーはそれを止められません。
そして最終的には天皇が利用されるわけです。
そうした状況を2人は「無責任体制」と呼び、それがいまなお続いていると指摘します。

ここで重要なのは、ある考えの共感者が増えていくのではないということです。
ある考えを実現するために、多数決方式が利用されていくということです。
たとえば、ある主張を持った人が同志を10人集めて、15人の集まりで、自らの考えを組織決定します。
その手法を繰り返していくと、いつか全体を制することが出来ます。
主体性のない人たちは、勝ち馬に乗りたがりますし、少なくとも反対はしなくなるのです。
そうしてナチスは大きくなったのです。
それが多数決主義の落とし穴です。
小泉内閣や安部内閣がよく使う手法です。

今回の国民投票法では、有効投票総数の過半数の賛成で憲法改正案は成立することになっています。
最低投票率制度は設けられていません。
したがって、もし国民の半分しか投票しなくても賛成が多ければ成立します。
国民の1/4でも成立しえるのです。いや、仕掛け方によってはもっと少なくても可能でしょう。

しかも国民投票することになったら、国会の中に「広報協議会」が発足し、国民に向けての情報提供(働きかけ)が行われることになっているのですが、その協議会のメンバーはその時の国会議員の議席数によって比例配分されることになっています。
情報は出し方によってかなり自由に印象を変えられますから、ここでの情報の出し方で国民の意見は大きく影響を受けることは間違いありません。
小選挙区導入や郵政民営化の時のことを思い出せばいいでしょう。
マスコミも有識者も全く機能しないでしょう。彼らもいまや職業でしかないからです。
新聞社の論説委員や編集委員が必ず政府に迎合し、終わった後で批判しだすのを、これまで何回か見てきています。私が信頼していた論説委員も、そうでした。
ここでも「無責任体制」は健在です。

多数決と国民主権は理念としては正しいし、その考えが社会を豊かにしてきたことは事実です。
しかし、同時に、その思想が悪用されて、あいまいな国民主権の実体を多数決手法で自らの考えを実現する道具に使ってしまう人が出てくるのです。
その人も、おそらくそれほどの「悪意」はないのかもしれません。
ヒットラーにしても、個人としてはそう悪意の人ではなかったように思います。
ただ、制度に利用されただけなのかもしれません。
だからこそ、日本国憲法は大切なのです。
瑣末なことに目を向けて、憲法改正賛成などといってはいけないのです。
憲法改正賛成だが、9条は変えたくないなどという論理は全くナンセンスなのです。
多数決方式を利用して、自らの考えを正当化する人たちに絶好の材料を与えるだけなのです。

手続きとは理念やビジョンや思想を具現化したものです。
手続きを決めることは、実体を決めることなのです。
気をゆるめて、ニーメラーのような後悔をしたくはありません。
テレビでの憲法特集が最近多いですが、その報道姿勢にむなしさを感じます。

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2007/05/04

■チビ太はいつもとても幸せそうに寝ています

わが家の犬(私はチビ太と呼んでいます)はよく寝ます。
いつ見ても寝ています。
一人で読書したりテレビを見たりしている風景を見たことがありません。
若い頃は一人遊びをしたり、哲学したりしていましたが、最近はそうしたこともめっきり減って、散歩と食事以外は、寝ていることが圧倒的に多いです。
いま11歳ですので、人間年齢では私とほぼ同じです。
今日、その幸せそうに寝ているチビ太をみながら、もしかしたら生命の基本は寝ることではないかと思いつきました。
活動するための休養が睡眠の目的ではなく、睡眠のための手段が活動かもしれません。
疲れたから寝るのではなく、寝るために疲れる、というわけです。
働くために食べるのではなく、食べるために働く。
発想を変えると生き方が変わるかもしれません。

まあ、こうした「無駄なこと」を考えたりしているので、人間は寝る暇がなくなるのかもしれません。

私も若い頃は特に、寝る時間を惜しんで学び働き遊んできました。
今もそういう感覚はどこかに残っています。
寝る時間がもったいないと思うことは、さすがに最近は少なくなりましたが、活動できる時間がもっと多ければいいと、ついしばらく前までは切実に思っていました。
最近、それがなくなりました。
生き方がまた少し変わりつつあります。

それにしても、チビ太の寝顔はすばらしく幸せそうなのです。
私も寝ている時は、こんなに幸せそうな顔をしているのでしょうか。
チビ太と私は、どちらが幸せなのでしょうか。
でも、次に生まれる時も、やはり人間がいいですね。
なかなか解脱できそうもありません。

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2007/05/03

■臓器移植報道と思いやる気持ち

米国で心臓移植手術を受けた松田京大ちゃんが元気に帰国しました。
これはとてもうれしいニュースです。
テレビでお母さんが、「日本中の皆さんの暖かい気持ちがなかったら、今の京大はありませんでした」と話していました。
こういう風景はこれまでも何回か見てきました。
しかし、いつも少しだけ疑問に思うことがありました。
このブログでも書きたいと思いながらも、書けずにいました。
一昨日、ある方からメールをいただきました。
その方のメールを読んで、今回は思い切って書くことにしました。
2日間、迷ったのですが。

疑問の一つは、京大ちゃんの問題は解決したかもしれませんが、同じような状況にある人たちの問題はどうなるのか、です。
必ずしも同じ病気でなくてもいいです。
お金が不足しているが故に、受けたら助かるかもしれない手術や治療を受けられずにいる人は決して少なくありません。
いや、それ以前に、健康保険料を払えないために、病院にも行けずに苦しんでいる人も増えています。
医療法の変更で、苦しんだ人もいます。
鶴見和子さんも、その一人かもしれません
すべてを一挙に解決することは難しいでしょうが、多くの矛盾を一つの美談によって見えなくしてしまうことに大きな疑問を感じるわけです。
仕組みとして、何か考えられないものでしょうか。
もしそうした状況に直面した時に、京大ちゃんの両親のように、誰でもがもし呼びかけられる仕組みがあれば、と思ったりします。

もう一つは、数年前に日本ドナー家族クラブの方から気づかせてもらった疑問です。
京大ちゃんが手術に成功した最大の功績者は、そして京大ちゃんのご両親が一番感謝しているのは、いうまでもなくドナーの方であり、その家族です。
その家族は、京大ちゃんと同じ年頃の子どもを亡くした家族かもしれません。
そうした家族の悲しみが、臓器移植の成功の陰には必ずあります。
しかし、テレビも新聞も、そうした視点がいつも感じられません。
そのために、私たちもまた、そうした報道の後ろにいるドナー家族の複雑な気持ち、悲しみと喜びに思いが向きません。
今回も、あるドナー家族の方から、どうして報道ではそうしたことを思いやる発想がないのか、残念ですとメールをいただきました。
それに続けて、こんなことが書かれていました。

秋には脳死移植法の改正が、臨時国会に上程されるそうです。その中にドナーのケアやサポートの文言はありません。

日本移植学会副理事長の大島伸一さんは、「いくら目の前の患者が生きる死ぬという状態でも、提供するドナーがいて始めて成り立つ。あくまでも、ドナーの人権や利益、意思や考えが第一優先でそれが侵されてはいけない」と発言されているそうですが、物事の後ろにある問題を、私たちはもっと思いやる気持ちが必要です。
意識しなければ、そうしたことはなかなか見えてきませんが。

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2007/05/02

■少子化になった理由

昨日、テレビのニュース23で、「派遣労働者の権利を守れ!」という特集をやっていました。
私の身近にもたくさんある話ですので、途中からでしたが観てしまいました。
こういう実態を、格差拡大に向けて「改革」を進めている政治家や財界人は少しは知っているのでしょうか。
どんなきれいごとを言おうと、大企業のほとんどやっていることは、私には犯罪としか思えません。未来に向けての犯罪という意味です。
こうした問題の解決にこそ、経団連のトップは動くべきです。
動けば、すぐに解決できることはたくさんあるのですから。
何がCSRだと、私などはいつも苦々しく思います。
私には、奥田さんも御手洗さんも恥ずべき人間にしか見えません。

しかし、私がその番組で印象に残ったのは、最後に筑紫キャスターがポツリと言った言葉です。
私の聞き違いかもしれませんが、筑紫さんはこういったのです。

こうしたことが小泉内閣が進めてきたことの結果の一つであり、それが少子化など未来にどうつながるかは別の問題です。

かなり私的に表現が変わっている可能性が大きいですが、その時の筑紫さんの「ためいき」のような疲れが私にもドッと伝わってきました。
以前も書きましたが、日本の社会は20年ほど前から未来への希望が持ちにくい社会になってきたようです。次の世代が今より幸せになると感じている人が2割しかいないというのが、当自の調査結果でしたが、私がいろいろのところで同じ質問をしてきた結果は、年々むしろ希望の灯は消えてきているような気がします。
希望のない社会では子どもを生みたくなるでしょうか。
希望のために子どもを生むという倒錯現象は起こるかもしれませんが。

この状況がどこかで破綻しなければいいのですが。
そうならないためにも、「つながり」を広げていくことはとても大切なことだと、私は思っています。
つながりを育てるには、お金も才能も、もしかしたら時間も不要なのです。

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■「病院」(sick center)から「健院」(hospital)へ

CWSコモンズに先日、次のような記事を書きました。

今日も病院だったのですが、待っている間にすばらしいアイデアが浮かびました。 まあ、それほどのものではありませんが。 待合室で健康教室をやるのはどうでしょうか。 足裏マッサージコーナーや太極拳コーナーはどうでしょうか。 健康サロンもいいですね。 ともかく自分の番が来るのがもっと遅いほうがいいと思わせるような、 楽しい役立つコーナーを待合室で行うことが出来ないものでしょうか。 講師はもちろん患者自身です。 もし実現したら、「病院」は「健院」に変わります。

この記事に賛成してくれた人がいます。
こんなメールが来ました。

実現するといいなと思いました。 もっとも病院経営上は困るかもしれませんね。 でも私たちにとっては、とてもいいことです。 私たち一人ひとりが肉体的にも精神的にも健康になれますし、国の赤字を少しでも減らすことができるのですから。 また、西洋医学と東洋医学との融合ができないかなと感じました。 一部の病院では取り組んでいるところがあるかもしれませんが、どこの病院でも、極当たり前のように西洋医学も東洋医学も共存するというようなことにならないかなと思いました。 今回の病気をして特に強く感じています。 自然を克服する対象とするか自然の中にあることを求めるかといったように、基本的な自然観が異なるため、融和は不可能なのでしょうか。

この人は脳出血の後遺症をかかえ、いまリハビリに取り組んでいます。

ところで、実はその後、女房は入院し、1週間以上、私も半分の時間を病院の病室やロビーで過ごしました。
私も、ますますこの構想が必要だと実感してきました。

病院の設計は、外来の待合室だけではなく、病室も病棟も問題が多すぎます。
病院建設の取り組んでいる建築家は、きっと自分の入院を想定していませんね。
病院ではなく、健院発想で取り組んだら、きっと違った空間になるでしょうね。

まあ、そこまでは一挙に行かないとしても、今の空間でも、いろいろなことが出来ます。
残念ながら今の病院の多くの医師たちは、病人ではなく病気を診ていますので、おそらくそんな発想は出てこないでしょうが、西洋医学コンプレックスを捨てて、この人の指摘するように、西洋医学と東洋医学の共存を考えてほしいものです。
せめて古代ギリシアに起こった西洋医学の原点くらいは学んでほしい気がします。

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2007/05/01

■「いいことだけ日記に」騒動からの気づき

先週、朝日新聞に私の女房の投稿記事が掲載されました。
「いいことだけ日記に」というタイトルの小文です。
実は女房はいま闘病中なのですが、夫である私が「いいことだけを書く日記」を勧めたという、ただそれだけの話です。
ところが、その記事に気づいた友人が、あるメーリングリストにそのことを書き込んでしまいました。
そのメーリングリストは、「大きな福祉」をめざすNPO関係者のメーリングリストでしたから、その小論は話題を呼びました。
たくさんの方々がメールを送ってきてくださいました。

入院中の女房に、それらをプリントアウトして毎日届けています。
なかには自分も同じ病気であることを告白する衝撃的なメールもありました。
その女性と女房は面識はないのですが、そのメールのやり取りで、心がつながっていくのがわかります。
しかも女房は、ケアされながらケアする立場に変われるのです。
つながりやコミュニケーションとは、こういうことなのだと目が開かれました。

ところが、送られてくるメールを読んでいて気づいたことがあります。
ほとんどすべてが女性なのです。
そして男性に関しては、3人を除いて、他はみんな闘病中の人なのです。
これは偶然でしょうか。
そうではないでしょう。
コミュニケーションを求めているのは、女性も含めて、社会の中心から外れたところにいる人たちなのです。

新聞を読んで、電話してきた女房の友人も少なくありません。
女房が一番感激したのは、20年前、ある趣味の教室で数か月一緒だった人から突然電話がかかってきたことでした。
女房よりもひとまわり年上の女性ですが、よくまあ電話番号を残していて、しかも電話してきてくれたものです。
しかも、女房はいま入院中なのですが、一時外出が許可されたわずか数時間の間に、その電話はかかってきました。

結論がとびますが、この投稿記事騒動で、日本の文化の根底は、女性たちの人生的なつながりや痛みを持った人たちのやわらかなつながりがしっかりとあったことを改めて確信しました。
そのつながりが、日本の文化のしたたかさとしなやかさを支えていたのです。
それが、いま壊されようとしています。
「痛みを分かち合う」社会だった日本の社会は、「痛みを分かち合おう」という言葉に踊らされて、痛みを押し付けあう社会になろうとしているのです。
共済文化つぶしも拝金主義による働く楽しみ奪いも学力テストによる学びの場こわしも、すべてそうしたベクトルで動いているように思えてなりません。

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