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2007/05/22

■不寛容の時代

私の生活信条の一つは「わがままに生きる」ことです。
誤解されそうですが、本意は、「自分が納得できる素直な生き方」を大事にすることです。
この生き方を長期的に実現するには、他者の「わがまま」も尊重しなければいけません。
人間は他者とのつながりの中で生きていますので、そうした関係性の中で、自らの納得の内容を絶えず吟味していくことが必要です。
そうしないと、井の中の蛙や裸の王様になってしまい、結局は「わがまま人生」がどこかで破綻しがちです。
ですから、「わがままに生きる」とは、実は自らにも他者にも「寛容に生きる」ことかもしれません。

先週、CWSコモンズの週間報告に「寛容について」を書きました。
そこで、村上陽一郎は「文明の死/文化の再生」の中に書かれている文章を引用しました。再録します。

自己が一つの選択肢としての、ある伝統に依拠していることを自覚することができ、それに基づいて、伝統に関して他の選択肢の可能性を認め、かつそれに依拠する他者の存在を認め、また、その可能性を自ら検討できる、という2つの能力を有するとき、その個人、あるいは共同体は、「寛容」であると定義できるのではないか。

こうした「寛容」な生き方に身を任せると、とても生きやすくなりそうです。
以前書いた、笑顔の人もまた、そうした寛容な生き方をしている人かもしれません。
しかし、残念ながら時代は、日本も世界も「寛容」でなくなりつつあります。

今日の朝日新聞に、全国特定郵便局長会(大樹の会)が、自民党支援か国民新党支援かで割れているという記事が出ていました。
結局は、政権党についていないと利権は守れないということらしいのですが、節操とか信念はどこにいったのでしょうか。主体性すらも失ったのでしょうか。
郵政民営化に反対したのにも関わらずに、自民党に戻った議員たちのように恥知らずの人たちの集団なのでしょうか。いささかの失望です。
信念のない人たちは、決して寛容にはなれません。
ともかく「勝ち馬」に乗るのが「政治」なら、そんな政治に存在価値はありません。
結局は価値議論のない、「勝てば官軍」の世界になってしまうからです。
そうした生き方は「寛容」とは似て非なるものであることはいうまでもありません。

寛容であるためには、自らの価値観をしっかりと持つことが必要です。
何でも受け入れることが寛容ではないように思います。
ましてや日和見的に状況に合わせていくことも寛容とはいえないでしょう。
自らの価値観との関係を踏まえながら、他者の言い分を理解し、その存在を支援することが寛容のポイントだと思います。
もしそうであれば、現代は「不寛容の時代」というべきでしょうか。

私のこのブログは、そうした点で、寛容には見えないかもしれません。
私自身はかなり寛容であることを大事にしてはいるのですが。
思いと言動はなかなか一致しません。困ったものです。

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