■多数決主義と民主主義と国民主権
先日書いた国民投票法の記事に、予め民主的な手続きをしっかりと決めておくことは必要ではないかというコメントをもらいました。
そこで、少し私見を書きます。いろいろな人がすでに言っていることなので、書くまでもない話ではありますが。
民主主義と多数決は次元の違う話であり、混同すべきではないということも前に書きました。
多数決は少数の人の意見を正当化する仕組みでもあるのです。それがまさに、いま話題になっている国民投票法のなかに仕組まれています。
「だまされることの責任」という佐高信と魚住昭の対談集があります。
2004年に高文研というところから出版されています。私にはとても刺激になりました。
そこに、なぜ日本は負けるとわかっていた無謀な戦争を始めたのかに関して、魚住さんが取材した話が出てきます。
そこでは「権力の下降」という言葉が出てくるのですが、ある思いをもった人が力のある上司を情念で説得し、それが次第に積み重なって、時代の流れを変えていくのです。
リーダーシップの弱いリーダーはそれを止められません。
そして最終的には天皇が利用されるわけです。
そうした状況を2人は「無責任体制」と呼び、それがいまなお続いていると指摘します。
ここで重要なのは、ある考えの共感者が増えていくのではないということです。
ある考えを実現するために、多数決方式が利用されていくということです。
たとえば、ある主張を持った人が同志を10人集めて、15人の集まりで、自らの考えを組織決定します。
その手法を繰り返していくと、いつか全体を制することが出来ます。
主体性のない人たちは、勝ち馬に乗りたがりますし、少なくとも反対はしなくなるのです。
そうしてナチスは大きくなったのです。
それが多数決主義の落とし穴です。
小泉内閣や安部内閣がよく使う手法です。
今回の国民投票法では、有効投票総数の過半数の賛成で憲法改正案は成立することになっています。
最低投票率制度は設けられていません。
したがって、もし国民の半分しか投票しなくても賛成が多ければ成立します。
国民の1/4でも成立しえるのです。いや、仕掛け方によってはもっと少なくても可能でしょう。
しかも国民投票することになったら、国会の中に「広報協議会」が発足し、国民に向けての情報提供(働きかけ)が行われることになっているのですが、その協議会のメンバーはその時の国会議員の議席数によって比例配分されることになっています。
情報は出し方によってかなり自由に印象を変えられますから、ここでの情報の出し方で国民の意見は大きく影響を受けることは間違いありません。
小選挙区導入や郵政民営化の時のことを思い出せばいいでしょう。
マスコミも有識者も全く機能しないでしょう。彼らもいまや職業でしかないからです。
新聞社の論説委員や編集委員が必ず政府に迎合し、終わった後で批判しだすのを、これまで何回か見てきています。私が信頼していた論説委員も、そうでした。
ここでも「無責任体制」は健在です。
多数決と国民主権は理念としては正しいし、その考えが社会を豊かにしてきたことは事実です。
しかし、同時に、その思想が悪用されて、あいまいな国民主権の実体を多数決手法で自らの考えを実現する道具に使ってしまう人が出てくるのです。
その人も、おそらくそれほどの「悪意」はないのかもしれません。
ヒットラーにしても、個人としてはそう悪意の人ではなかったように思います。
ただ、制度に利用されただけなのかもしれません。
だからこそ、日本国憲法は大切なのです。
瑣末なことに目を向けて、憲法改正賛成などといってはいけないのです。
憲法改正賛成だが、9条は変えたくないなどという論理は全くナンセンスなのです。
多数決方式を利用して、自らの考えを正当化する人たちに絶好の材料を与えるだけなのです。
手続きとは理念やビジョンや思想を具現化したものです。
手続きを決めることは、実体を決めることなのです。
気をゆるめて、ニーメラーのような後悔をしたくはありません。
テレビでの憲法特集が最近多いですが、その報道姿勢にむなしさを感じます。
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