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2007年6月

2007/06/30

■民営化が狂乱のごとく行われた時代

議論することの出発点は、相手の意見を聴くことです。
それがなければ、議論ではなく主張でしかありません。
最近の国会は議論の場でなく、作業処理の場になってしまったようです。
そうであれば、高いコストをかけて、代議士を選ぶ必要はなく、人材派遣会社に議員を派遣してもらえばいいでしょう。
国会議員もそろそろ派遣に切り替えたらいいように思います。
裁判もまたそうした方向に動き出していますし(裁判員制度はその一歩)、もはやすべては作業で処理できる時代になってきました。

というような「悪い冗談」は慎まなければいけませんが、最近の国会は一体何なのでしょうか。
まじめさが感じられません。
第一、私などの感覚では、ネクタイもせずに何が国会だと思います。
内容がないのであれば、せめてスタイルくらいは大事にしてほしいです。
それで少しは意識が変わるかもしれませんし。
ネクタイが良いわけではありませんが、もう少しけじめをつけてほしいです。
クールビズには私は大反対なものですから。

まあそんなことよりも、問題は社会保険庁解体法が成立したというのには驚きを禁じえません。
これでまた問題の本質は見えなくなり、責任はあいまいになるわけです。
しかも「民営化」です。今度は誰が儲けるのでしょうか。
私は年金をもらう年齢ですが、まだ払うほうであれば、やはり払い続けるでしょうか。
払うとしても、納得は難しいですね。
どうしてみんなおかしいと思わないのでしょうか。

民営化とは、何回も書いてきましたが、私有化のことです。
ミートホープのようなことが起こりかねない世界にゆだねるということです。

「マルチチュード」という本の中に、こんな記事がありました。

歴史のなかには、民営化が狂乱のごとく行われた時期もある。フランス革命後のルイ・フィリップからルイ・ボナパルトの治世にいたる長い時期がそうだし、ヨーロッパの福祉国家が危機に陥った後の1970年代や、ベルリンの壁崩壊以後、旧ソ連圏の官僚たちが資本主義的新興財閥として蘇った時代もそうだった。(下巻150頁)

そして後世の人は、このリストに日本の21世紀初頭の日本を加えるでしょう。

先日、テレビで銚子電鉄の紹介がありました。
「共営化」の事例です。
そろそろ官民の世界から「共の世界」へと発想を変えるべきではないかと思います。

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2007/06/29

■緒方弁護士や田中社長の世界観

朝鮮総連本部売買事件は緒方元公安調査庁長官による詐欺事件になり、緒方弁護士が逮捕されるという意外な展開になりました。
この事件に関しては、以前、 「事の本質」と題して少し書きましたが、まさかの展開です。よりによって詐欺事件になるとは思ってもいませんでした。
詐欺事件といえば、「騙す人」と「騙される人」がいるわけですが、その構図がややこしくて、簡単には見えてきません。
しかし「肩書き」と「経歴」が大きな役割を果たしたことは明らかです。
緒方弁護士も被害者、などというつもりは全くありませんが、私が一番気になったのは、社会的職責に対する自覚の不在です。

それは昨日の光市母子殺害事件の弁護団の弁護士にも当てはまるわけですが、彼らは弁護士という社会的肩書きを私欲のために使っています。
表向きは「死刑制度廃止のため」といっていますし、多くの同業者もまた社会もそう思っているようですが、そんなはずはありません。
前にも書きましたが、もし彼らが「死刑制度廃止」を本当に目指しているのであれば、手段を間違っています。
そもそも今回の一連の発言を聞いていると、彼らにはその資格はないでしょう。誠実さが全く感じられません。
私欲のために制度議論をしてはいけません。最も恥ずべきことです。
小泉前首相が「自民党を壊す」と声高に叫んで国民の喝采を受け、日本の政治そのものへの信頼性やこれまで先人が積み重ねてきた政治体制を壊したのと同じ愚挙でしかないと私は思います。
裁判制度が愚弄され、信頼感は失墜しかねません。
あれ、また話がそれました。
戻します。

緒方弁護士の詐欺事件はなぜ発生したのか。
彼が意図的に詐欺を起こしたとは私には思えません。
たぶん結果的に詐欺に加担したのではないかと思います。
まあ、そんな「藪の中」を探っても意味がないのですが、私が感じたのは法曹界の人たちの世界の狭さです。これほどとは思っていませんでした。
彼らもまた、企業不祥事を起こす企業経営者、最近で言えば、ミートホープの田中社長のように、自分たちの小さな世界のなかでしか生きていないのではないかということです。いや小さな世界で生きていればこそ、その世界のトップになれたのかもしれません。
もし緒方さんの世界がもう少し広かったら、そしてもう少し見識を持っていたら、たとえば世間によくいる「おばさん」たちほどの世界の広さと見識をもっていたら、こんな馬鹿げた詐欺事件には巻き込まれなかったのではないかと思います。
私がいつも危惧するのは、人を裁く人たちが、そんな小さな世界で生きていていいのかということです。世界の広さが見識の深さを決めていきます。

意味がわからないとまたコメントされそうなので、少し補足します。
私は現場で汗している人たちの知恵が一番だと考えている人間です。それは体験からそう感じているのですが、世間の常識とは違うかもしれません。
また、いわゆる庶民の専業主婦の「おばさん」たちの生きている世界は、安倍首相よりも広い世界なのではないかと思っています。
何を根拠にそう考えるのかと質問されそうですが、これも体験からそう感じているだけです。
真実を素直に見る目がなければ、世界は広がりようがありません。
いわゆる有識者や知識人の世界の狭さには時々辟易します。
繰り返しますが、世界の狭さは見識の浅さにつながります。
ましてや自分の人生を生きていない人には、世界などないと等しいでしょう。
しかし、そういう人が世界を動かす時代になってきました。
世界そのものが「バーチャル」になってきたとしかいえません。

緒方弁護士、田中社長、安倍首相、安田弁護士。
みんな同じ種類の人たちに見えてきます。
私も、もしかしたらその系列の一人かもしれません。
だから見えるのでしょうか。
いやはや困ったものです。

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2007/06/28

■分かち合う文化の復活

最近、いろいろな人が手づくり野菜を送ってくれます。
定年で会社や役所を引退した人たちの手づくり野菜は特に見事です。
鶏を飼って卵まで送ってくれる人もいます。
我が家でも近くの空き地で家庭農園をやっています。
私が毎朝、パンと一緒に食べるサラダ菜はプランターで育っているものです。
毎朝、自分でちぎってきますが、時に土がついていてじゃりじゃりします。
まあよく洗えばいいのですが、
近くのお宅に立派なびわの樹があります。
葉っぱをいつももらっているのですが、最近は実までもらってきます。そのお宅では食べないのです。我が家もこれまでびわはほとんど食べなかったのですが、そのお宅のびわの実はお店で買ってくるのと大違いで美味しいので、食べるようになりました。
最近はジャムも良く届きます。ゆずジャムやいちごジャムです。
そういえば、びわの樹のお宅には夏みかんもありますが、それをもらってきて、女房がジャムにして我が家とそのお宅とで食べています。
女房の友人がスイカをもらいました。夫婦2人では食べきれないので半分もってきてくれました。
果物も届きます。
高価なサクランボは我が家には縁遠いものですが、山形から年に一度、ドサッと送ってくれる人がいます。半分は近所や友人にお裾分けします。そうするとそれがまた違うものになって返ってきます。
つまらないことを書いていますが、みなさんのところでも、こうしたことが少しずつ増えているのではないかと思うのです。
食べ物だけではありません。
女房のところには実にさまざまな手づくり品が届きます。

こうした「お裾分け文化」「手づくり文化」が、昔は社会を育てていたのでしょうね。
私の両親の時代は、物が不足し、今よりはかなり貧しい時代でした。
しかし今よりもずっとお裾分けは多かったように思います。
自分が食べる量を少なくしてでも、周りの人にあげるという風習がありました。
人は貧しいほど、「分かち合うこと」を大切にするのかもしれません。
それは一種のセーフティネットでもあるのです。

みんなが、それぞれ得意なことを思い切りできるようになり、その成果をみんなで分かち合えることができれば、社会はもっと豊かになるでしょうね。
もしかしたら、お金がほとんどなくても暮らせる社会がまた戻ってくるかもしれません。
そんなことを最近よく考えます。

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2007/06/27

■ミートホープと光市母子殺害事件弁護団

ミートホープ詐欺事件光市母子殺害事件への弁護団介入
この2つの事件はまさに今の時代の病根を示唆しているように思います。

ミートホープの田中社長が、食肉業界では同じようなことが他社でも行っていることを示唆する発言をしたと報道されていますが、そう考えてもおかしくないように思います。
農水省も道庁も、ほかの事例を知っているような気もします。
そうでなければ1年前の関係者の報告を拒否したり無視したりすることはないでしょう。
耐震偽装事件と同じく、これは「みんなでやった事件」かもしれません。
ミートホープ社は極端すぎただけかもしれません。

いま信頼を失っているのは、ミートホープ社だけではなく食肉加工業すべてです。
食肉加工業がもっと自分たちの仕事に誇りを持っていたら、自分たちでこのような事件を起こす企業を監視し事件を防止できたはずです。
いやそうしなければいけません。

同じことは弁護士にも言えます。
今日の光市母子殺害事件の公判の被告人質問の報道を見ていると、弁護士という資格への信頼感が大きく揺らぐような気がしました。
これは21人の弁護士たちの問題ではなく、弁護士という資格の信頼性、さらには裁判への信頼性の問題ではないかと思います。
この裁判はいったい何なのでしょうか。
そう思っている弁護士はいないのでしょうか。
弁護士や法曹界の仲間主義がもしあるとすれば、残念なことです。

自らが信頼性を維持できないような資格は、たとえ権力がお墨付きを与えても、決して本当の信頼性は保てないでしょう。
弁護士仲間から何の動きも出ないことが残念です。
日本の法曹界もまた、政治と同じく、正義を忘れてしまったように思います。

弁護士が事実を捏造することは犯罪です。
せっかく築きあげてきた裁判制度への冒涜は許されることではありません。
政治家やジャーナリストによる「事実の捏造」も許しがたいことではありますが。

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2007/06/26

■ミートホープ従業員解雇と社会保険庁ボーナス自主返上

事件を起こしたミートホープ社が全従業員の解雇を決めたそうです。
社会保険庁はボーナスの自主返上を職員に呼びかけました。
問題の性格は違いますが、責任の取らせ方として、どこか共通点がありそうです。
共通点はトップの勘違いと組織と個人の不条理な関係です。

ミートホープ社に関して言えば、私は従業員も全くとがめられない存在だとは思いません。
既に内部告発した人もいますが、本気でやるのであればもっとやりようがあったでしょうし、現場の従業員も自分たちがやっていることがおかしいと気づいたはずです。
それを受け入れていたのは、厳しい言い方ですが、共犯者のそしりは免れません。
これだけ長く、また広範囲に不正をやっていたからには、おそらくみんなわかっていたはずです。
ですから、私は同社の従業員も責任を取るべきだと思います。

しかし、だからと言って、一方的に解雇というのはどこかおかしい。
完全にこの会社は田中社長の私物だったわけです。
会社とはいったい何なのかを考えさせられます。
同社にとって従業員は単なる労働力であり、従業員にとって会社はお金を稼ぐ仕組みでしかなかったのです。
これは極端な事例ですが、最近はこうした「企業」や「従業員」が増えてきているような気がします。

社会保険庁のボーナス返上に関連して、川崎前厚労相は「問題を知らなかったことの責任は取らざるを得ない」と話したそうですが、「知らなかったことの責任」は責任ある立場にいた人にはとても大きいです。
しかし、この責任もまたすべての人に当てはまるでしょう。
正確に言えば、「知ろうとしなかったこと」への責任ですが、ミートホープ者の従業員は、そのことをしっかりと認識すべきです。
いや、問題を起こしていない企業の従業員も、他山の石とすべきでしょう。
さらにいえば、私も含めて、この社会を生きるすべての人が「知ろうとしなかったこと」を恥じなければいけません
その上で、彼らを責めることができるはずです。

社会保険庁のボーナス返上に関しては、いまさら何をという気もします。
問題になりだしてから一体何年経過しているのかを考えれば、そんな話ではありません。
この間、まじめに仕事をしていれば、ボーナス返上額とは桁違いの金銭的カバーが出来ていたはずです。
問題が顕在化してからでも、おかしなことは山ほどあったはずです。
それに末端の職員も含めて、やはり「知ろうとしなかったことの責任」は否定できません。

しかし、それはそれとして、やはり全員にボーナス自主返上を呼びかけるのは理解しにくい話です。
強制減額するのであれば理解はできますが、トップが責任をとらない自主返上方式ではあまりに身勝手なことなのではないかと私は思います。
制度的に強制はできないとしても、それは姿勢の問題です。

私が職員であれば、返上はせずに、同じ額をもっと効果的に活かすことを考えます。
たとえば職員組合が有志の返上額を集めて、年金面で被害を受けている人を支援する仕組みを作ることはできないのでしょうか。
電話で年金相談を受けるNPO活動ならできるような気もします。

いずれにしろ、この2つのニュースはただでさえ気分のよくない事件をさらに憂鬱なものにしてしまいました。
いずれも最高責任者が責任を取らずに、責任を分散したわけです。
組織は責任を分散しあいまいにする仕組みになりきってしまうのでしょうか。

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2007/06/25

■嘘にかかるコストは、サラ金のように高利

昨日の続きです。
日本の企業の多くは、なぜこうも「嘘」をつくのでしょうか。
嘘をつくコストの高さに、そろそろ気づいてもいいはずなのですが。
企業の広報活動や危機管理の基本は「フランクネス」です。
そしてそれこそが一番、組織およびそのメンバーにとってメリットがあるのです。

嘘は一度ついてしまうとどんどんと成長していきます。
嘘が嘘を呼び、その嘘を撤回することが難しくなり、逆に嘘を「真実」に化粧するために、さらなる嘘が必要になってきます。
そればかりではなく、その嘘の世界に周囲の関係者を引きずり込む力が出てきます。
そして、そうした嘘の仲間に入ってしまうと短期的には「いい目」を味わうことができるのです。
そして社会そのものも変質していきます。
しかし、嘘にかかるコストは、サラ金のように高利です。
時には松岡議員のように、自らの命でつぐなわなければならなくなります。

成熟社会におけるソーシャル・キャピタルは「信頼」だといわれます。
嘘が横行する社会では、信頼関係は育ちません。
そこで膨大な社会コストが発生します。
企業の広報活動は、私はそうした信頼関係を育てるためのものだと思っていますが、残念ながら日本の企業の広報戦略はそれとは逆なことが少なくありません。
私は、企業の広報問題のコンサルティングも仕事にしていますが、私のような発想はなかなか受け入れてはもらえません。
困ったものです。

ところで、信頼関係の不在が社会コストを発生させるということですが、社会コストを発生させるということは経済活動を発生させる、つまり市場を創出するということです。
ここに近代産業(経済)の出発点があります。
近代経済に埋め込まれている、こうした「ジレンマ」をどう止揚していくか、これがこれからの課題ではないかと思います。
政治経済的な発想から、生活経済的な発想へのパラダイムシフトです。
持続可能な発展が議論されていますが、このパラダイムシフトなくしては、持続可能性は実現できません。
経済パフォーマンスを評価するための現在の経済指標は根本から見直される必要があるように思います。

嘘をなくしていくための、もう一つの切り口は組織のパフォーマンスシフトです。
現在の多くの組織は、責任をあいまいにする仕組み、つまり嘘をついてもそれを見えなくしてしまう設計になっています。しかし逆に嘘を見つけやすくすることを目指した組織構造も可能です。
これは、組織間の構造や関係づくり、つまり社会構造原理にも当てはまります。
嘘のなすりあいは日本の社会の特長であり、問題が起こるとそれが見事に展開されますが、組織構造原理もまたパラダイムシフトすべき時代になっているように思います。

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2007/06/24

■偽牛ミンチ事件で嘘をついていたのは誰でしょうか

また食品会社の偽装事件です。
ミートホープによる偽牛ミンチ問題は調べるほどに、そのひどさが明らかになってきます。
それにしても、なぜ同じような事件が繰り返されるのでしょうか。
昨今のような情報社会においては、必ずいつかわかってしまうことですし、わかった時の対処のしかたで会社の存続すら不可能になることもそろそろ経営者は学んでもいい頃です。
これまでのように行政や政治家が加担してくれる時代は終わったのです。
にもかかわらず、同じような繰り返しが続いています。

その理由として、「価格競争志向の経済システム」と「嘘を見逃すという文化」の2つを指摘したいと思います。
それを変えていかない限り、いつになっても繰り返しは続くでしょう。

まず、価格競争志向の経済システム。
以前も書きましたが、原価とは無縁に価格が設定される仕組みを見直していく必要があります。
価格は価値によって決めなければいけません。
市場が決める場合には、その自由が自律的に、かつ情報共有が保障されていなければいけません。
消費者も意識を変えなければいけません。
常識的に考えて、安すぎる商品はどこかに問題があるのです。

こうしたことの根底には、市場原理主義や自己責任原理があるように思います。
そのパラダイムを変えない限り、こうした事件は繰り返されるでしょう。
防止策として、内部告発や品質チェック機構もあるわけですが、そうしたものがほとんど機能していないことは、今回の事件でも明らかになりました。
いずれも制度の基本思想に間違いがあるのです。
設計者は、意図的にそうしたのかもしれませんが、市場原理主義のなかでは、防止策はあくまでもおまけのようなものです。

そして、嘘を見逃すという文化
小泉前首相は嘘を奨励しましたが、そのせいか、日本は今や嘘の上につくられたような社会になってしまいました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/message2.htm
毎日の新聞記事を読んでいると、いかに責任ある人が嘘をついているか、また嘘にかかる事件が多いか、嫌になるほどです。

日本では、いまや嘘をつくことは「恥」ではないのです。
むしろ嘘をつくことが美徳にさえなっているのかもしれないと思いたくなるほどです。
沖縄の集団自決強要の話などは、政府が嘘を子どもたちに教えようということですし、
先日の「有識者たち」の広告活動は「日本人は嘘つきだ」と世界に堂々と宣言しているわけです。
今回の事件でいえば、たぶん流通業者も購入者もその気になれば嘘は見つけたはずです。
その分野で仕事をしている人であれば、見抜けるはずではないかと私は思います。
みんなうすうす感じていたのに、誰も声を上げなかったのだろうと思います。
そんな話はこの件に限らずよくある話です。

ミートホープ社の社長のやったことは決して許せることではありません。
しかし、例の耐震偽装事件もそうでしたが、嘘をついているのは彼だけではないのです。
もっと大きな嘘が、日本の社会全体を覆っているのです。
田中社長の嘘への怒りの、ほんの一部を自らの反省にも向けたいと私は思っています。

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2007/06/23

■希望のない医療、感受性の乏しい医療の見直し

ベルガモンの古代診療所の遺跡を見て人生を変えた人の話を先日書きましたが、思い出したのが、「病院で死ぬということ」(文春文庫)の著者、山崎章郎さんです。
外科医だった山崎医師は、いまホスピスの活動に取り組んでいますが、その転機となったのが、本で出会った次の文章だそうです。

患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいらない。家族は彼をよく知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでやるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、2さじか3さじ液体がのどを通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか。
キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』に出てくる文章です。
私も『死ぬ瞬間』は読みましたが、この文章は覚えていません。
しかし山崎さんは、外科医の医師としての人生をやめてしまったのです。
ひとつの文章が、人の人生を変えることがあるのです。

「病院で死ぬということ」は読むのが辛い本です。
よほどの勇気がなければ読み続けられません。
しかし、そこからのメッセージは強烈です。

医師にとって何が一番大切かは私にはわかりませんが、患者の立場から言えば、感受性ではないかと思います。
しかし医師の立場から言えば、感受性が強いと、医師は続けられないかもしれません。
がんセンターに通いだしてから、そういう思いを強くしています。
感受性と医療体制。この2つを統合することで病院はきっと進化します。
そもそもホスピタルの原義は、そういう意味だったのですから、改めて原点に戻ることが大切なのかもしれません。

上記の本には、山崎さんが医師に成り立ての頃の体験が語られています。
末期がんの患者の延命に取り組む医師たちの姿です。

医師たちはだれ一人として、患者の病気が治っていくだろうなどとは思っていなかった。医師の使命と信じ込んでいる信念に基づいて、患者の延命に最大の努力を払っていたのだ。
この風景は、たぶん今もなお変わっていません。
いや、がんセンターのような病院では、この空気(がん=死)が病院全体を覆っているような気さえします。医師たちも、この呪縛に囚われているように思います。
私がいつも疲れてしまうのは、この文化に抗しているからです。

この文化を変えていくことが、がん対策の基本になければいけません。
延命と医療は全く別の行為ではないかと私は思っています。
希望のない医療、感受性の乏しい医療は、人の心と気を萎えさせます。

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2007/06/22

■議論しない国会と世論を育てない政府

教育関連3法も改正イラク特措法も成立しました。
しかし、将来の日本に大きな影響を与えるこうした法律が、きちんと議論されたようにはとても思えません。
国会はさまざまな視点から意見を出し合い、国の方向性を議論していく場ですが、同時に国会での議論と並行して、国民が問題を理解し考え、世論を育てていくことが、代表制民主主義の限界を克服するためには重要な仕組みです。
つまり国会の議論と国民の議論はセットで考えることが大切なのではないかと思います。
選挙だけが民意を具現化する手段ではありません。
国民が日常的に、自分たちの意見を表明する仕組みや環境はかなり整いだしています。その気になれば国民による幅広い議論を引き起こすことがそろそろ可能になり出しました。しかし、現実は残念ながら、議論をさせでずに賛否を問う、まさに○×式の問いかけが行なわれ、国民もまた議論せずに、いずれかを選択するという姿勢を強めています。大切なのは議論であって、○×をつけることではありませんが、訓練型教育を徹底してきた学校制度が見事に効果を出しているとしか思えません。
世の中の問題の答えは一つではありません。

議論をしない、あるいは国民に考える刺激と余裕を与えない国会は存在価値がないように思います。多数派がいつも押し切るのであれば、国費をかけて議員職をかかえる必要はありません。考えることも必要ないですから、最近は誰でも議員になれます。所属する政党の指示に従って投票すればいいだけです。だからテレビタレントの弁護士でも世間知らずの若者でも議員になれるのです。

その結果、学校はますます管理思考を強め、税金の無駄遣いが高まるように思います。生徒に接触する先生よりも、管理者のほうが多くなるのです。
また教科書検定は強化され、価値観の画一化はさらに進みそうです。
沖縄での集団自決問題が話題になっていますが、「事実(THE FACTS)」の創造もますます進むでしょう。学校は息苦しい空間になりそうです。
自衛隊のイラク派遣を2年間延長する改正イラク特措法についても、イラクの現実を見た上で、9条憲法との関係を明確にしてほしいです。
こうした動きに対して、それを疑問に思う政治家や知識人が出てこないのも寂しい話です。

日韓併合に対して批判の声を上げない明治日本の知識人を痛烈に批判した沖縄の伊波月城の言葉を最近、「軍縮問題資料」で読みました。
こう言っています。
「権力の前に頭を下げて、憐れむべきものや、敗北者や、失意の人々のために一滴の涙さえ注ぐことができない」。
知識人だけの問題ではないでしょう。
これほど情報が公開されている時代であれば、この批判はすべての国民が受けなければいけません。
私はとても恥ずかしい気がしました。
皆さんは大丈夫ですか。

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2007/06/21

■「裁判には絶望した」

以前、ここでも取り上げた富山の冤罪事件の有罪取り消し再審の初公判が昨日開かれました。そこでまた「事実隠し」が堂々と行われるという、これまでと全く同じ繰り返しが展開されました。
弁護側が、取り調べを行った警察官の証人尋問を求めたに対し、裁判長が「証人尋問の必要はない」としたのです。冤罪を受けた男性は、「裁判には絶望した」とコメントしたそうです。
もし私が当事者だったら、同じ発言をするでしょう。
またまた裁判への信頼性を揺るがす事件だと私は思います。
「裁判には絶望した」
これはとても重い言葉です。

今回は弁護士ではなく、検察や裁判官の側の問題のように見えますが、私は一番の問題はやはり弁護側にあると思います。被害者を守れないのでは、何のための弁護かといわれても仕方がないでしょう。
これほど杜撰な捜査や立件に対して、どうして冤罪を予防できなかったのか。
考えてみれば、この事件はそこから端を発しています。
先に問題提起した「弁護士への問題提起」に関しては、冤罪事件が起きないように、被告を守るのが弁護士の役割だと複数の弁護士の方からメールでもらっていますが、冤罪事件を引き起こした場合の責任は弁護士にも半分はあるはずです。その責任をとる覚悟がなければ、その役割(ミッション)は果たせないはずです。
今回の事件は、裁判官に批判の矛先が行くでしょうが、弁護士もまた同罪だと思います。
多いに恥じるとともに、自らの失敗を謙虚に振り返り、社会に公開すべきです。
そういう積み重ねの中で、ミッションは鍛えられ、制度の信頼性は高まります。

法曹界は、裁判の信頼性を回復する努力をもっとするべきではないかと思います。
その方法は明白です。
取調べや裁判の透明性を高めれば良いだけです。
もちろんその前に、「裁判とは何なのか」を再確認しなければいけませんが。

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2007/06/20

■朝鮮総連の会館売却問題の「事の本質」

朝鮮総連の会館売却問題の主役は、元公安調査庁長官と元日弁連会長です。
2人とも弁護士です。つまり「法の専門家」です。
この事件は政治色が強いので、真理は藪の中かもしれませんが、最近、弁護士のあり方を問題としている関係で、横道ながら書いておきます。
多くの人は、なぜ弁護士ともあろう人がこんなことをするのかと思うでしょう。
弁護士だけではありません。
元公安調査庁の長官がなぜ在日朝鮮人の権利保護などという名目で、こんなことをするのか。
そこに実は「事の本質」があるように思います。

エドガー・アランポーに「盗まれた手紙」という有名な小品があります。
「隠し方」は探偵小説の大きなテーマの一つですが、その代表作がこの作品です。
隠すかわりに、わざと目も前に放り出しておくという、真理の盲点をついたものですが、これはチェスタートンの「見えぬ人」やクイーンの「Xの悲劇」、さらには筒井康隆の「48億の妄想」などに受け継がれていくトリックの始まりです。
目の前で堂々と犯される犯罪は、意外と見えないものですし、ましてやその人の肩書きなどで真実が見えなくなることも少なくありません。
それを巧みに利用する詐欺も少なくありません。

私たちはさまざまな先入観で世界を見ています。
学歴の高い人は賢い、法曹人は正義の人、NPOは公益のために活動、政治家は政策に詳しい、学識経験者は判断を間違わない、イスラム教徒は怖い、民営化すれば効率的になる、医師は病気を治してくれる、ピカソの絵画はすばらしい、クリスチャンは人道的・・・・
そうした概念を捨てると全く違った風景が見えてくるはずです。
しかし私たちは、そうした概念的な呪縛に閉じ込められて、言葉で考えることに慣れてしまいました。
いや、私たちの世界があまりに広がりすぎ、変化が大きいために、そうしないと生きていけなくなってしまったというべきでしょう。
すべて顔見知りの小さな世界で生きられた時代は、ほとんどの人にとっては、遠い昔になってしまいました。
そこに、現代社会の問題の本質があり、それを象徴的に顕在化させてくれたのが、この事件かもしれません。

今回の事件は、法の専門家であり、北朝鮮問題に取り組んできた人だから、成立した事件なのです。
「見えるものを見えなくしてしまう存在」が必要でした。
ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要だった」ことを思いまします。

事件が起きた時に、そうした発想で考えると、事の本質が見えてくることが少なくありません。
どんな事件にも「意外性」などないのです。

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2007/06/19

■事実(THE FACTS)が創られる時代

米下院で審議中の従軍慰安婦問題に関する対日謝罪要求決議案は、まもなく外交委員会で採決される見通しだそうですが、これに関連して、6月14日、ワシントンポスト紙に「事実(THE FACTS)」というタイトルの全面広告が掲載されました。4月末、同紙に掲載された「慰安婦に対する真実」という広告への反論です。
広告主は「歴史事実委員会(the Committee for Historical Facts)」。屋山太郎、櫻井よしこ、花岡信昭、すぎやまこういち、西村幸祐の5人メンバーです。
賛同者として国会議員44名、知識人14名が名を連ねています。

そこでの主張は広告を読んでいただきたいですが、日本政府や軍が慰安婦動員に介入したという文書を見つけられなかったとし「日本軍が若い女性たちを性奴隷に追いやった」という慰安婦決議案内容は歴史的事実と違うと反論しています。
ワシントンポストに掲載された広告とその翻訳文(コメントもついていますが)は、ネットで読めます。

これに関するさまざまなコメントもたくさん出回っていますので、それを読んでほしいですが、私が気になったのはタイトルの「THE FACTS」です。

事実は一つでしょうか。
特にこうした広がりのある問題について言えば、さまざまな側面があります。
どこに焦点を当てるかで、全く反対の「事実」を描き出せます。
こうした手法はこれまで多くの人が意図的かどうかはともかく使っていました。

最近、こうしたことがとても気になっています。
たとえば抗がん剤の効果の説明もそうですし、住民参加の意見もそうです。
裁判における検察と弁護の主張のほとんども必然的にそうなるようになっています。
環境政策や福祉政策でも、環境運動や福祉の陳情活動でも同様です。

なぜそうなるのでしょうか。
そこに「対立」や「競争(勝敗)」の発想があるからではないかと思います。
もし「共創」や「共生」の発想で取り組むならば、状況は変わるはずです。

THE FACTS。
不寛容で傲慢な姿勢を感じさせる言葉です。
せめて「ONE FACT」というくらいにしていたら、コミュニケーションが成り立ったかもしれません。
「事実」が創られる時代がまた近づいているようです。

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2007/06/17

■がん対策基本計画の根底にある医療パラダイム

がん死亡率を20%減らすことを目指す、がん対策基本計画が閣議決定されました。日本のがん医療はアメリカに比べて、大きく遅れているといわれていますし、日本における「がん」への理解にも大きな問題がありますので、こうしたことが議論されることは歓迎したいのですが、どうも最近のこうした議論が「20%削減」というような数値目標に目が行き、その根底にある考え方があまり議論されないのが気になっています。
家族のがん治療体験から、がん対策の出発点は私たちの常識の見直しから始めなければいけないのではないかと、私は強く思っています。

トルコのベルガモンはアテネほど有名ではありませんが、古代世界の文化の中心地のひとつでした。塩野さんの「ローマ人の物語」にも何回も登場します。
私がベルガモンを訪問したのは10年以上前ですが、アクロポリスに残っているトラヤヌス神殿の遺跡はトルコ旅行で一番印象的だったもののひとつです。繁栄していた頃の文化の高さを感じさせます。
ベルガモンには医神アスクレピオスの神殿があります。アスクレピオス神殿は医学校でもあり、また療養所でもありました。私はそこで聖水を飲んできましたが、その診療所のことにはあまり関心を持ちませんでした。
ところが、その診療所を訪れて人生を変えた人がいます。
メキシコのオアシス病院の創設者アーネスト・コントレラスです。
その息子の書いた「21世紀の健康」(河出書房新社)に次のように書かれていました。

その療養所は、我々が現在知っている病院とはかなり違っていた。というのは、患者は3つの建物を通らなければならなかったからだ。最初の建物で、患者は、宗教上のカウンセラーに会った。彼らは、霊的に診察されることの必要性を信じていた。2番目の建物で、患者は、精神状態を診察する心理学者に会った。最後の建物で、患者は、身体的な診察を受けた。その考えに、父は愕然とした。ペルガムムの病院は、患者の身体だけでなく、人間全体を癒す所だったのである。ペルガムムを訪問して、父はこの考えに啓発されたのだ。それは、父が従うべき啓示であった。
これがオアシス病院の始まりだそうです。
息子のフランシスコ・コントレラスはこう書いています。

本質的に我々は、身体、健康、魂が統一された生き物として設計されている。しかし、むやみに忙しい現代社会では、全体的でバランスのとれた生活を営む余裕がない。我々は身体、精神、魂を持つ統一体であり、それぞれを分割することはできない。身体のみを重要視し、精神と魂を無視する医師は、充分な医療を実践できていないことになる。(同書231頁)

女房はいま、サプリメントとしてAHCCを飲んでいます。これはオアシス病院でも使っているものですが、その関係で私もオアシス病院のことを少しだけ話を聞かせてもらいました。そして、その院長が書いた本に偶然、先週出会えました。これはきっと意味のあることです。
並行して、いま、梶田昭さんの書いた「医学の歴史」(講談社学術文庫)を読んでいますが、医学に対する私のこれまでの常識がいかに浅薄なものであったかを思い知らされています。
しかも、ただ知らなかっただけではなく、ちょっと素直に考えれば気づいたことに気づかなかったことの気づきもあります。
病院や医学界への不信感は強まるばかりです。
そして、学校で学んだ知識が、世界を曲解させることがあることも、いま改めて実感しています。子どもたちのような清明な目と心が大切です。

がん対策基本計画の根底にある「がん」観はどういうものなのでしょうか。
昨今の病院や医療行政の不祥事を思い出すにつけ、この計画が悪用されなければいいがと思います。エイズの時のようなことがなければいいのですが。

ちなみに、ヒポクラテスはこのアスクレピオス派の流れをひく治療医でした。
そして重要なことは長生きだったことです。
彼はこう言っています。
「自然は病気の癒し手である」
とても共感できます。
医療と工業はやはりパラダイムが違います。

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2007/06/16

■あっちゃんの雑記帳

知人のSさんから小冊子が届きました。
「あっちゃんの雑記帳」。38ページの手づくりの小冊子です。
手紙にこう書かれていました。

同封の冊子を家族みんなで作りました。
私の母の想いがつまっています。多いに個人的な内容なので、ご迷惑かもと思いますが、佐藤さんにお目にかけたいなあ・・・と、つい思ってしまいました。
いろいろな活動からの経験で、この冊子を作ることが出来ました。母にも喜んでもらえましたが、一番楽しんだのは私です。ちょっと(かなり)自慢のこの一冊、ご笑納いただければ幸いです!

Sさんはコムケア活動で知り合った人です。
実に多彩な活動をしていますが、その活動の広がりと組み合わせがすごいのです。
地元での活動もあれば、全国的な活動もあります。自分の活動もあります。
いずれにも共通しているのは「楽しむ姿勢」です。そしていつも「暮らし」につながっています。

そのSさんのお母さんが「あっちゃん」です。83歳です。
Sさんは全国マイケアプラン・ネットワークのメンバーでもあります。
そこで作成した「マイライフプランの玉手箱」をあっちゃんに渡して、ともかく今までのことを気が向いた時にメモ書きしておいてね、と伝えていたのだそうです。
4月に実家に戻った時に、びっしりと書き込まれたノートを渡されました。帰りの電車で、それを読んだSさんは涙が出そうになったそうです。

そこには大正13年に東京の本郷で生まれたことから始まり、さまざまなことが書かれていました。それを読んでSさんは、母のメモリアルのための冊子にしようと決めたのです。そして姉妹と孫たちに呼びかけて編集会議が開かれ、みんなが楽しみながら完成させたのが「あっちゃんの雑記帳」です。
あっちゃんの両親のことも、あっちゃんの若い頃の友人のことも、もちろん娘のSさんのことも、孫たちのこともいろいろと書かれています。内容はいずれも個人的な話なのですが、逆にそのおかげで、当自の社会の様子が生き生きと伝わってきます。戦争の話もあれば、物価の話もあります。歴史が見えてきます。
Sさんが結婚した頃、我孫子に住んでいたことも書かれています。
Sさんの祖母が新潟の西蒲原出身ということも知りました。

私が一番興味を持ったのは、「あっちゃん」という名前です。
Sさんのお母さんの名前には「あっちゃん」につながる文字がないからです。
理由はあっちゃんのお父さんが、戸籍名をきらって子どもたちに、別の呼び名をつけていたのだそうです。
戸籍名は喜美子、呼び名は昌子(あつこ)。それで戸籍名とはちがう「あっちゃん」とずっと呼ばれていたのだそうです。
戸籍名と呼び名。面白い話です。まさに言霊の文化が感じられます。
これに関した研究はあるのでしょうか。知っている人がいたらぜひ教えてください。

長々と「あっちゃんの雑記帳」のことを書いてきましたが、この冊子が示唆していることはとても大きいように思います。
認知症予防のための回想法というのがありますが、そのひとつの「自分史法」に、最近広がりだしている「物語」(ナラティブ)発想を入れて「物語法」と言ってもいいでしょう(もうあるかもしれませんが)。
認知症予防という消極的発想から抜け出せるかもしれません。
多世代交流もできます。

さらにこうした自分史作りが広がっていくと、それは膨大な歴史資料になります。
平板な歴史書の時代は終わるでしょう。そして社会の認知症予防にもなるはずです。
企業を離れだすだす団塊シニアの皆さんにはぜひ取り組んでほしい活動です。
いや団塊シニアに限りません。子どもの頃からこうした思考をもてば、子どもたちの育ちも変わっていくはずです。家庭も家族も変わるでしょう。

これらはおそらく効用のほんの一部です。
「あっちゃんの雑記帳」から社会が変わりだしていくかもしれません。

Sさんは、そんなことは考えていないでしょうが、この小冊子の向こうにはとても大きな世界があるように思いました。
新しい歴史はいつも現場の小さな活動から始まるのです。

ちなみに全くの偶然なのですが、今日、我孫子でSさんに会うかもしれません。
実にフットワークがいいのです。我孫子のコンサートを聴きに来るのだそうです。
私もそのコンサートに出かけますので。

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2007/06/15

■社会保険庁の相談窓口対応

年金記録消失に関する相談窓口対応がいろいろと問題になっています。
自分の年金がどう記録され、どう処理されているのか、気になる人は多いでしょう。
私も気にならないわけではありません。

社会保険庁の杜撰な管理にも問題があるでしょうが、本当の問題は制度の仕組みです。
制度の透明性や自分での計算が不可能になっているのです。
ですから調べてもらって、大丈夫ですよと言われても、何が大丈夫なのかわからないはずなのですが、なぜかみんなそこで安心してしまうわけです。
ですから仕組みの問題は全く改善されないのです。
こうした考え方を変えなければ問題は解決しないはずです。

個別相談に対応するのにどのくらいのコストがかかるか、保険庁が使う税金の問題だけではなく、問い合わせに向ける国民のエネルギーの損失もあります。
しかも個別問題に対応することに目がいってしまい、根本の問題の解決は先送りになりがちです。いやおそらく誰も考えていないでしょう。
各人の心配は大きいとしても、半年はともかく待ってもらい、その間に仕組みの透明性と自分である程度確認できる仕組みを構築し、そこから段階的に相談に乗っていくというような、解決策のプログラミングが必要だと思いますが、いまは目先の問題を対症療法的に解決するやり方です。
おそらくコストのかかり方も解決にかかる時間も桁違いに大きくなっているはずです。
こうした取り組みが最近の日本の多くの問題対処法です。

それでいいのか。
この問題の報道が連日続いていますが、それを見る度に、何か本当の問題から目がそらされているような気になってしまいます。
こんなお茶濁しに満足してしまうのは、国民の視野が狭くなったことの現われでしょうか。
みんなの関心は、自分の年金額だけに向いてしまっているのでしょうか。
社会保険庁の職員と私たちは、一体どこが違うのか、最近それがわからなくなりました。

ところで、国民年金(厚生年金)って、いったい何だったのでしょうか。

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2007/06/14

■さくらんぼの憂鬱

昨日、福島に行ってきました。
そこで乗ったタクシーの運転手から聞いた話です。
話は最近のさくらんぼは高価だが、地元の人たちもあんな高いとそうそう食べられないでしょうと質問したことから始まりました。
60歳を超えた運転手の方は、私も他所の知り合いにお土産に持っていく時くらいしか買わなくなった、というのです。子どもの頃はいくらでも生っていて、よく食べていたが、最近は「ぜいたく商品」になってしまい、桃や梨とは違うものになってしまったというのです。
そして、果樹栽培は儲からないので、止める人が多いが、さくらんぼは儲かっているようだと続けました。
先日、書いたリンゴ農家の悲劇を思い出しました。
桃や梨は生産者には儲けが少ないようで、その時期になると1カートン1000円で売られているというのです。運転手さんによれば、仲買いだけが儲けているそうです。
なにやら最近の経済の問題点がたくさん示唆されているような話です。

ついつい同調してしまい、最近は汗して働く人は報われずに、汗しない人が儲ける時代になってしまいましたね、と言ってしまいました。
実は行きのタクシーの運転手とは、そういう話をしていたのです。
景気がよくなったというのはどこの話ですかね、とその運転手から質問されて、話しているうちに、そんな話になってしまったのです。
福島のタクシー運転手は、もはや生活を支える仕事ではなくなったと、毎回、運転手さんたちは言うのです。
汗している人たちが報われない社会。本当にそんな社会に向かっているような気がします。

横道にそれてしまいました。
話を戻します。

地産地消が叫ばれているなかで、さくらんぼは「高級商品」になってしまい、地元の人たちにも高嶺の花になりかけているのは、ちょっと考えさせられる話です。
その運転手によれば、山形が福島のさくらんぼのお鉢を取って、そうした高額商品化戦略をとったのだといいます。それが福島にも戻ってきたというのです。
生活に繋がる食べ物から市場価値のある商品への変化。
市場主義に乗ってうまく「商品化」すれば、儲かるわけです。
「商品化」していない桃や梨は儲からないのです。

食べ物から商品になると何が起こるか。
さくらんぼ泥棒が出てくるのです。
食べるために盗むのではなく、売るために盗むのです。
地元の人はそんなことはしませんよ、と運転手さんはいいますが、私もそう思います。
商品になるとおかしなことが始まるのです。
食べ物の時代には、これもよく書くことですが、生産者は天地の恵み者として、ほしい人にはあげるものです。飢えた人には断らないのが生産者の常でした(反論はありそうですが)。時に1つくらい無断で失敬する人が出るかもしれませんが、それにはそれなりの理由があったのです。カラスにも収穫の一部を残すのが、生産者の知恵なのです。
しかし商品になると、そう簡単にはあげることにはならないでしょう。
生産者の意識もまた変わるわけです。
なにやらたくさん反論をもらいそうな舌足らずの内容になりましたが、自然や人間とともにある経済のあり方とはどういうものだろうか、帰りの新幹線ではいろいろと考えさせられました。
やはり今の経済の仕組みは、どこか私には違和感があって仕方ありません。

ところで、高級商品になったさくらんぼの気持ちはどんなものでしょうか。
もしかしたら「憂鬱」になっているのではないか、そんな気がしてなりません。

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2007/06/13

■裁判における弁護の意味

福岡市3児死亡飲酒事故初公判で、弁護側は「飲酒は間違いないが、正常な運転が困難になるほどではなかった」と述べ、危険運転致死傷罪については否認したと報道されています(朝日新聞)。
この論理におかしさを感じないでしょうか。
しつこいですが、弁護士たちの発想のおかしさを、もう一度、書きます。

裁判における弁護とは、事実を明らかにすることによって、被告の人権が踏みにじられ、過重な量刑が課されないことだと思います。
決して、被告の罰を軽くすることではありません。
そこで目指されるべきは、多くの人たちが納得して受容されるような裁きがなされることです。
これは弁護士に限らず、法曹界に関わる人たちすべてに課されたミッションです。
それを実現することが、彼らのプロフェッションであり、そのために彼らには社会的権威と特権を与えられているのです。

そうした裁判の原点に戻って考えると、やはり先の論理には首を傾げたくなります。
もし家族が同じ事故にあったら、同じ論理を展開するでしょうか。
もしするとしても、問題は残りますが(いつか書きます)、
もししないのであれば、商売としての対応としか思えません。
私情とは別の判断をすることこそがプロフェッションだという人がいるかもしれません。
たしかにそういうことはあるでしょう。
しかし、この論理は、光市母子殺害事件の弁護団と同じレベルのものだと思います。

なぜこうした「ためにする論理」が横行するか。
それは裁判の役割がおかしくなっているからです。
ここでもたぶん、市場原理主義が蔓延しているのでしょう。
繰り返しますが、裁判は社会の安定のための仕組みです。
検事と弁護士が対立するのは本来はおかしい話です。
アメリカ型の法廷論争は決して正しい裁判の姿ではないはずです。
優秀な弁護士がついたら無罪になり、
優秀な検事なら死刑になったりする裁判が良いと思いますか。
弁護士と検事が力を合わせて、より正当な裁きを実現し、同じ過ちや不当な行動が繰り返されないことが、裁判の存在意義ではないでしょうか。

裁判とは何か。
それを弁護士たちには真剣に考えてほしいものです。
もちろん検事や裁判官にもですが。

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2007/06/11

■価格の裏側

昨日、私の住んでいる我孫子市はかなりの雨でした。
手賀沼沿いの道路の一部が水浸しになり、自動車が一時通れなくなりました。
自然の力のすごさを改めて実感しましたが、テレビなどで報道される集中豪雨はこんなものではないのでしょうね。
自然には勝てません。

昨日の朝日新聞の記事を思い出しました。
「リンゴ農家借金苦 作っても作っても返せない」という見出しの記事です。
今年2月、弘前市のリンゴ農家の奥さん(52歳)が一家心中を図った事件がありました。幸いに、間一髪で同居の義母が異変に気づき、未遂に終わったのですが、その裁判で、作っても作っても借金を返せない津軽のリンゴ農家の窮状が見えてきたのです。
台風などの被害続きで、5年に一度しか黒字にならなかったと被告は供述したそうです。そして、地元では寛大な刑を求める嘆願書の署名運動が起こったのです。
署名した男性の言葉が載っています。
「人ごとではない。1000万円単位の借金は半分以上の農家である。数年前も、仲間の一人が自殺した」

リンゴ御殿といったバブル時代の話もよく聞きますが、自然に依存した第一次産業の場合、豊作もあれば不作もあります。その収穫は不安定です。
それに最近は、豊作でも農家は喜べない仕組みになっています。
市況価格が下がり、農作物を破棄するおかしなことが起こるのが今の経済システムです。
一方では、中国に高い価格で輸出している知人もいます。農家の努力で状況は変えられるのではないかと思う人もいるかもしれません。それは正しいのでしょうが、問題は自殺を決意するほどの現実があるということです。

私はリンゴが大好きなので、今でもよく買ってきてもらいますが、いつも思うのは、さくらんぼの高価さとリンゴの安さです。
このリンゴをもう少し高く買えば、こうした悲劇は防げるのであるとしたら、高い価格を払いたいと思いますが、そうした「価格の裏側」は消費者にはなかなか見えません。
自然との関わりの中で営まれている農業が、工業化され、工業の発想で考えられているところに問題があるのかもしれません。
工業製品と農業製品は、似て非なる「商品」であることを私たちはもっと認識すべきかもしれません。
汗水流して働いても、生活が成り立たないような状況は、決して当事者だけの責任ではありません。どこかに問題があるはずです。

金融操作で莫大なお金を得ている人がいる一方で、こうした現実が「国内」にさえあることを忘れてはなりません。
国内のフェアトレード問題は、もっと注目されていいように思います。

念のために言えば、これは農産物だけの話ではありません。
同じ工業の世界でも同様なことが起こっています。
工業に内在する、そうした垂直構造の発想を経済学はもっとリアルに問題視すべきではないかと思います。それは実に刺激的なテーマのはずなのですが。

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2007/06/10

■コムスン事件は民営化路線の氷山の一角

訪問介護最大手コムスンの不正申請事件は、実態がわかるにつれて、問題が広がってきています。これに関しても、何をいまさらという気がしないでもないですが、耐震偽装事件と同じで、しっかりとチェックする仕組みがないままで、民営化してきた結果の一つでしかありません。
また書き出すと長くなりますが、「公私」ではなく「官民」と捉えること自体に問題を感じますが、同時に民営化は市場主義に乗せることという捉え方にはさらに大きな危惧を感じます。
これに関してはこれまでも何回か書きました。
現在の日本の経済の根底にある市場主義の原理は、「自立した個による自己利益追及」です。その結果、「見えざる手による」社会の効率化が達成されるというわけです。
小泉政権時代の「官から民へ」というスローガンに熱中した人たちが、推進してきたのは、この路線です。その路線の中で、公共サービスだった郵便局も福祉事業だった介護事業も市場化されました。いや学校さえもです。
市場主義の世界では、「自己責任」とか「自立」が叫ばれました。
そこではホリエモン事件やファンドの動きに象徴されているように、他者への配慮は軽視されました。
一方、福祉や暮らしの世界の原理は、「支えあいによる共同利益追求」であり、他者への配慮の重視、つまりケアです。
両者の大きな違いは、人をつなげるのが「金銭」か「愛」かです。
愛というと大げさに聞こえるかもしれませんが、人間はパンだけで生きられるわけでは在りません。
愛、ケア。ちょっと気にかける「人と人のつながり」がなければ、人間社会は成り立ちません。そのつながりを、心や愛ではなく、お金にしてしまったのが、昨今の市場原理主義です。
換言すれば、福祉の世界が市場化されたのです。
そこからこうした結果が出てくることは必然的とさえいえるでしょう。
「官から民へ」ではなく、「民から共へ」こそが、必要なのではないかと思います。
これが63歳までに書こうと思っていた私の本の題名「コモンズの回復」でしたが、怠惰なためにまだ1行も書けていません。
しかし、日に日に劣化する日本社会の中にいると、苦労して書くこともないかという気が強まります。
つまり、私自身が「劣化」しているということなのですが。

<民営化に関するこれまでの記事の一部>
民営化と私有化
民営化への不信感
民営化再論
民から共へ
民営化コンプレックス
民の本質


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2007/06/09

■「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」

昨日のニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のことが気になって、書庫にあった「ニュールンベルグ裁判」のビデオを引っ張り出して、観てしまいました。
この映画は、まだ私が検事志望だった大学生の頃に観た映画です。
私が司法の世界を志望したきっかけは、高校の時に観た八海事件を題材にした「真昼の暗黒」という映画です。
冤罪といわれた八海事件をドキュメント風に描いた映画で、私は場末の3本立ての映画館で観たのですが、映画館から自宅までの間、怒りで震えながら帰ったことを今でも覚えています。その時に法律を学ぶことを決めました。
そして、弁護士ではなく検事になろうと思った理由の一つがこの映画でした。
リチャード・ウィドマーク演ずる検事が、ともかく私には共感できたのです。その反面、マクシミリアン・シェル演ずる弁護士には「むしず」が走りました。映画ではシェルがアカデミー賞をとりました。

その「ニュールンベルグ裁判」を久しぶりに観ました。
20年ぶりでしょうか。前に一度だけ観ていました。だからビデオがあったのですが。

この映画は、ナチス首脳を裁いた有名なニュールンベルグ国際軍事裁判ではなく、それに続いて行われた各分野の政権協力者を被告とした裁判のうち、司法関係者の裁判をテーマにした法廷劇です。
実話を基本にしているようですが、実名ではありません。
被告の中心はナチ政権下で司法大臣などの要職をつとめたヤニングです。
ストーリーは映画紹介のサイトをご覧ください。

3時間を越える超大作です。
早送りして、最後のヤニング被告と判事の会話、つまり「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」という場面だけを観ようと思っていたのですが、観だしたらきちんと観たくなり、結局、観てしまいました。
いろいろと考えさせられることが多かったのですが、昨今の日本の司法界の人たちに見てほしいと思いました。司法研修所で、こういう映画を観ながらワークショップをしてほしいです。登場人物の発言は実に含蓄に富んでいます。
ヤニングは、自らの責任を進んで受けいれた上で、ナチスの暴挙に関して「私は知らなかった」と裁判が終わった後で判事に話すのですが、それに対して判事が即座に「ヤニング君、最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」と言い放つシーンは、上田弁護士が述べている通り、実に印象的です。
ヤニングはシュペアーのように、自らの責任を真正面から受け止める、正義の人として描かれていますが、正義とは何かを考える上でも示唆に富む言葉です。
「最初に無実の者を死刑にしたとき運命は決した」
これは決してナチ政権の時代の話ではありません。
同じような状況が、まさに今の日本で展開されています。

映画の中で、判事はこうも言います。
ヤニングのような正義の人がナチ政権を成り立たせたことこそが重要なのだ。
狂気のヒトラーの個人的犯罪ではなく、ビジョンと信念を持った人たちが、狂気を膨らませ、歴史を誤らせた、というわけです。
こうしたことは決して少なくありません。
小さな事件ではオウム集団(宗教集団と呼ぶべきではないでしょう)、大きな事件ではポルポト政権。そこでの主役は、多くの人に信頼されていた人たちの組織なのかもしれません。
歴史を狂わせるのは狂人ではなく、信念を持った誠実な人たちなのかもしれません。
そこに恐ろしさを感じます。
いまの日本は大丈夫でしょうか。

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2007/06/08

■弁護士の反応の報告

いささか挑発的な弁護士へのメッセージ「弁護士のみなさん、恥ずかしくないのですか」の記事のその後の報です。
一度、簡単な報告をしましたが、残念ながらその後まだ残りの5人からの返信はありません。
あまりメールをされていなくて、まだ見ていないのかもしれません。
あまり長くなってもいけないので、とりあえずの報告と私見を書きます。

返信してくれたお2人のうち、お一人は個人的には「あきれはしました」と書いてありました。
もうお一人は個人的な評価は読み取れませんでしたが、肯定的なコメントはありませんでした。
お2人に共通するのは、

いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮はあってはならない。

という点でした。
そしてまた、お2人とも、「死刑制度の是非」ということに、コメントの中心を置かれていました。
私が問題提起したのは前にも書いたように、死刑制度のぜひとは無縁だったのですが。

ところで、

いろいろな価値観の人がいることはいいことで、「主張をすること自体」を非難し、「これを許さない」といった風潮

ということを少し考えてみたいと思います。
そこにまさに問題の本質があると思うからです。

まず「いろいろな価値観の人がいることはいいこと」だというのは私も全く同感です。
問題は「いろいろな価値観」の範囲です。
人を勝手に殺してもいい、他人のものを勝手に奪ってもいい、という価値観も入るのでしょうか。
私が問題にしているのはその点です。
ある社会を維持していくためには、その成員に共通した何らかの価値観の領界があるはずです。
多様な価値観を許容することは何でもありということではありません。
自分以外の価値観の存在を許さないという価値観も認めることは、「自由のジレンマ」と同じようなジレンマに陥ります。
つまり結果的には、多様な価値観の存在を否定することになりかねません。

「主張すること」も悩ましい言葉です。
主張すると行動するとはどう違うのかです。
おそらく連続的です。
発言はいいが、行動はだめというのでは、犯罪教唆は成り立ちません。
さらにいえば、価値観を持つことも連続的というべきでしょう。

実際問題として考えてみましょう。
表現の自由が存在する状況においても、「許されるべきではない価値観」が存在することは否定できないと思います。
言い換えれば、ある範囲の中で、表現の自由は意味を持ってきます。
問題は、その範囲が狭くなっていくことです。
そして単一の価値観が支配しだし、価値観が意味をなくしていくことが結果として社会を壊してきた歴史は少なくありません。

価値観の許容範囲を狭くする道筋は2つあります。
一つは価値観が次第に収斂していく道筋です。
ナチスはその典型でしたし、いまの日本の経済システムはそれに近いです。
もう一つは、価値観の許容範囲が失なわれ、社会の自生的秩序が崩れる場合です。
どんな価値観も許容するというのであれば、おそらく価値観の意義そのものが失われていき、結局は一つの価値観に収斂していくことになりかねません。
今の日本がそうした入り口にあるようです。
社会が許容できない価値観は正さなければいけません。そうでなければ、社会の自生的秩序は維持できないでしょう。そのためにこそ、司法は存在しているはずです。

今回の弁護団の主張は、私には日本社会では許容範囲を外れるものだと思います。
しかも、司法を預かっているプロフェッションの主張です。
だから問題にしたわけです。

寛容に関しては以前も書きましたが、すべてのものを受け入れることが寛容ではないと思います。
社会を維持し、成員の多様な価値観の存在を保障していくためにも、価値観の許容範囲は大切なことです。
それを司るのが「司法」ではないかと思っていました。
だから問題は深刻なのです。

他の弁護士の方からの返信がないので、とりあえず中途半端な報告になってしまいました。
相変わらず独断的なコメントですみません。

お2人が「表現の自由」を書かれてきたことに異論があるわけではありません。
それはとても重要な問題です。
私が思い出したのは、立川テント村自衛隊官舎ビラ入れ裁判の東京地裁での内田雅敏弁護士らの弁論です。
その弁論と今回の弁護団の主張の、あまりの格差に驚きを感じます。
この裁判は、その後、思わぬ方向に向かっていますが、この弁論は多くの人、とりわけ多くの弁護士に読んでほしいと思います。
ニュールンベルグ裁判でのヤニング弁護士のこともぜひ思い出してほしいものです。
問題が違うではないかといわれそうですが、私は通底していると思います。

いずれにしろ、ニーメラーの教訓を忘れてはいけません。

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2007/06/07

■民主党の存在感のなさと新党への期待

参院選が迫っていますが、民主党のパワーがなかなか伝わってきません。
自民党の支持率は低下していますが、ではその分、民主党が伸びているかといえば、そんなことはないようです。
二大政党などといいますが、そもそも二大政党のそれぞれの違いを明確に言える人はいないでしょう。
つまりは基本的には同じものであり、主流派と反主流派のような関係でしかありません。
昨日も書きましたが、政治思想に違いがあるのであれば、わかりやすいのですが、ほとんどの政策で自民党と民主党は入れ替わってもそう大きな問題がないくらい、政策や思想は連続的です。
たとえば、9条を守るとか、年金は税金で対応していくとか、教育のパラダイムを変えるとか、市場原理主義をやめるとか、民主党独自の政策があれば、自民党との違いが見えてきますが、今の争点は極めて技術論的な次元の話でしかありません。
日本の将来にとって、最大の課題は、9条問題だと思いますが、この点に関しては民主党も自民党も一緒です。
政策も細かな話になると私などは理解しにくくなりますが、その基本にある考え方であれば、明確です。
たとえば9条は変えないとか、学校は訓練の場ではなく教育の場にするとか、福祉には当事者の事情に合わせた共創思想を持ち込むとか、市場原理主義は見直すとか、ともかくコアバリューを明確にしていくべきです。今の自民党と民主党のアイデンティティはそう違わないように思います。逆に言えば、アイデンティティ不在です。
自由主義と共和主義といった思想の違いも感じません。
その点、思想を背景とした共産党や社民党は明確です。新党日本もメッセージが伝わってきます。しかし民主党は亜流自民党のイメージしかありません。それでは選挙でも勝てないでしょう。結果的に勝ったとしても、それは政治状況を変えることにはならないでしょう。
しかし、そんなアイデンティティもあいまいな政党になぜみんなしがみついているのでしょうか。不思議です。
ここは思い切って、新しいスローガンを掲げた政党は生まれないのでしょうか。
共産党と社民党と新党日本と、一部の民主党党員で、共和党を立ち上げたらどうでしょうか。
マンネリ化している既存政党の共産党、社民党、民主党などの有志が、新党日本に移籍したら、日本の政界は一変します。
今こそ「共和主義」が必要になってきているように思うのですが。

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2007/06/06

■平和か年金か

7月の参院選の争点が「年金」になってしまいました。
平和につながる「憲法」が争点になるのかと思っていたので、なにやら「やられた」という気がします。
自民党と民主党が、まさか「つるんで」やったことではないでしょうが、両党の後ろで何かが動いているような気さえします。

国民は、平和よりも年金、それも自分の年金に関心が高いようなのも嘆かわしい話です。
戦争になったら年金などとんでしまいますし、第一、軍備にかけるお金をみんなの暮らしに向けたら年金など少しくらい少なくともやっていける社会はつくれるでしょう。
「平和」と「年金」は深くつながっているのです。

年金は本来ある意味での貯金でした。自分の老後のために積み立てて、そこに政府(国民すべてが預託した機関)が補助していくという仕組みだったはずです。
それがいつの間にか、世代間負担の話になり、高齢者を若者が支える発想が出てきました。
これは年金ではなく税の発想です。
保険庁の官僚たちと国会議員は、膨大な保険料を見事に好き勝手に使える仕組みに改変したのです。施設をつくる費用などは、おそらく些少な金額でしょう。陽動作戦でしかありません。もっと深いところで、その資金は使われたはずです。

資金を個人的に使った人も少なくないでしょう。
しかし彼らは一切の経済負担はしていません。せめてそれぞれが可能な範囲で賠償責任を負うべきだと思いますが、制度的には難しいでしょう。それよりも、今なお利得を得ている状況を即刻打ちどめるべきです。
5000万件問題処理のために、彼らはまた働き場を確保できるわけですが、いま仕事がなくて困っている人にこそ、そうした仕事の場を提供するべきです。
不始末をすればするほど、雇用が確保されるという行政の仕組みを変えなければいけません。

この問題はまた項を改めるとして、今日は参院選の争点の話です。
国民が年金問題に目を奪われているうちに、平和憲法はどんどんと侵食されていくおそれがあります。
平和憲法を変えようという思いは、自民党も民主党も同じです。
民主党には「護憲派」がいるといわれますが、もしそうだとしても、彼らは「護憲」は中心の価値ではないと思っています。ですから本当の意味での護憲派ではありません。

せっかく盛り上がるかに見えた「平和論議」、憲法問題が、また見失われそうで心配です。
「日本の青空」の映写会が広がっています。
年金よりも大切な課題があることを忘れたくはありません。

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2007/06/05

■「もうひとつの地産地消」

枚方市発注の清掃工場建設工事を巡って、また談合の事実が発覚しました。
企業も行政も、よくまあ懲りずにと思いますが、これだけ根強く残るにはなぜでしょうか。

そもそも談合は、取引費用という視点で考えるとわかりやすいです。
いかにコストダウンを図るかが、事業を成功させる一つのポイントだと思われています。
その際の「コスト」は、当初、組織内部の生産費用が対象でした。
そこでトヨタ方式のようなものが考えられていきます。
そして1960年代後半から、コスト発想は組織の外に広がり、物流革命が起こります。
同時に、顧客開発やマーケティング戦略が重視されていきますが、そうした流れの中で、たぶん、談合もまた制度化されてきたのでしょう。
もちろん談合の事実はもっと昔からあったでしょうが、市場主義の流れを逆手にとって、取引コスト縮減の仕組みとして、各社に受け入れられ、企業を超えて組織化さてきたのだと思います。
そもそも「入札方式」そのものが、責任回避と利権発生を育てやすい仕組みですし、入札と談合はセットのものと考えるべきだと私は思いますが、もしそうであれば、談合だけをやめるのではなく、入札方式もやめるべきです。
入札でコストダウンしたことがあるのでしょうか。
入札信仰はそろそろ捨てるべきでしょう。

取引コストを縮減する方法は他にもあります。
それは信頼関係と業務遂行の柔軟性の回復です。
地産地消が盛んに言われますが、これは何も農残物だけの話ではありません。
地域で働く人たちに業務をやってもらう体制をしっかりつくれば、責任関係が育ち、信頼関係が高まっていくはずです。
そうなれば、取引コストだけではなく、さまざまな効果が出てくるでしょう。
不在企業の不労所得は縮減され、地元で働く人たちや地場企業の利益は増えていくでしょう。

しっかりと顔が見え、長い付き合いができる、地域の事業主体に頼んでいくことは、「もうひとつの地産地消」です。
つまり、地域の産業(地産)は地域の人たちで消化(地消)していくわけです。
少しこじつけ的ですが、考えは繋がっているはずです。
東京のコンサルタントやプランナーに仕事を頼むのは、そろそろやめていくのがいいです。
となると、私にも仕事が来なくなってしまいますが、まあそれが時代の流れなのです。
もちろん地域の外にいる人に関わってもらうのが良いことも少なくありません。
しかし主役はあくまでも地域の企業です。

「もうひとつの地産地消」が広がれば、談合などはなくなるでしょう。
いや反対だといわれそうですが、そうした動きに対処するのは、たぶんそう難しくはないでしょう。
地域の長老支配はもう終わろうとしています。
彼らは中央と繋がっているからこそ、生き延びているのです。

これは産業だけではなく、政治の世界も同じです。
ベクトルを反転させる時期がきました。
地方選挙で中央の議員を応援に呼び込むような立候補者を信じてはいけません。
いやこれも時代は反対のようですね。
どうも私の発想は時代に逆行しているのかもしれません。
困ったものです。

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2007/06/04

■脱北者を人道上、受け入れるという発想

北朝鮮から4人の脱北者が日本に辿り着きました。
「人道主義の原則に基づき、本人の意思を尊重して処理する」と日本と韓国の政府の関係者は語っています。
乗ってきたのは腐りかけた木船だったといいますが、無事、辿りつけたことを他人事ながらホッとします。どれほどの恐怖を味わったことでしょうか。

こうした脱北者のニュースが流れるたびに、「人道上」という言葉が気になります。
なぜ生命の危険をおかしてまで自らの生活地から脱出するようなことが起こるのでしょうか。
そこにこそ、「人道上」の目は向けられるべきではないでしょうか。

問題は2つあります。
「国境の存在」と「北朝鮮という国家の実状」です。
往来を制限する国境がなければ、人は自由に行き来できます。
国家を超えて自由に自らの住む場所を決めることができることこそ、私は基本的人権ではないかと思います。
今の基本的人権は国内での「許可された人権」でしかありません。
人道上というのであれば、そうした国境を越えて自由な往来をこそ議論すべきでしょう。
国家や国境があっても、自由に往来できれば問題はありませんが、なぜか近代国家は国民を囲い込むようになりました。
そこに国家の本質があるのかもしれません。

次の問題は死を覚悟で脱出しなければいけない北朝鮮という国家状況の存在です。
その存在を許しておいて、人道上議論をしても始まりません。
たまたま今回の4人はその世界を抜け出られましたが、大勢の人たちがその世界にまだいるわけです。
人道上というのであれば、むしろ脱出すらできない人たち、いや、そうした人たちが存在するような状況を問題にするべきです。
念のために言えば、これは北朝鮮に限ったことではありません。

人道問題は定義も難しい問題です。
いつも思うのは、問題を引き起こす原因というべき実態は問題にされずに、例外的な人だけが「人道主義的扱い」を受けて、何となく事が決着していくことが、いつも納得できないのです。
本当に関係者は「人道上」と本気で考えているのでしょうか。
もしそうなら、もっと能動的に動くはずではないか。そんな気がします。

「人道上」などという言葉は使わないほうがいいような気がして仕方がありません。
そういえば、イラク派兵も「人道支援」でした。

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2007/06/03

■国民主権国家という壮大な幻想

年金保険料の納付記録が5000万件もなくなってしまったという報道があります。
本当に5000万件なのかどうかわかりませんが、判明後の政府の対応も含めて、国民主権国家という壮大な幻想の実態が見えてきます。

そもそも政府の役割は何でしょうか。
大きな役割の一つは、国民の財産の保護です。
そこには税金や政府主管の保険料も含まれます。
もちろん税金などで創られた施設も含まれます。
税金や保険料は国民から「政府」に財産権が移ったわけではありません。
しかし、そのあたりの仕組みや考えは、残念ながらあいまいのままできています。
なぜあいまいにしているかというところに、事の本質があるわけですが。

国民の財産の保護という場合、課題は3つあります。
「国民」とは誰か。
「財産」とは何か。
「保護」とは何か。
いずれも明白なように思うかもしれませんが、考えていくと全く明確ではありません。

たとえば「国民」。
日本ではまだ基本的人権すらしっかりとは保障されていない人たちがいますが、彼らは国民でしょうか。国籍も認められず、選挙権もなく、「棄民」のような扱いを受けた人もいます。いや、今もいないとはいえません。
税金を払っている人が国民という捉え方もできますが、税金を払っていても選挙権もなく保護対象にならない人たちもいます。

「財産」。
これも難物です。私的所有物と考えれば比較的簡単ですが、誰かに帰属しない財産はたくさんあります。むしろそうしたものがあるから、私たちは生きていけます。
たとえば、きれいな空気、人をつなげあう言葉や文化、心和ませる自然などの「コモンズ財産」はどう考えればいいでしょうか。
大切なのは「私的財産」ではなく、「コモンズ財産(共的財産)」です。
しかし残念ながら政府はどちらかといえば、それを壊すほうに重点がありそうです。

「保護」もまた多義的です。
単に「現状」を維持することではないでしょう。
先日書いた「知的所有権」制度は、短期的には特定の個人の利得を守るかもしれませんが、長期的には知的財産を活かし大きく育てることにはならないかもしれません。

また長くなりそうです。
今日、書きたかったことは、
政府が守ろうとするのは、一部の人の私有財産だということです。
その「一部」の範囲は時に変化しますが、決して全員ではありません。
つまり今の国民主権国家は「コモンズ国家」ではないのです。

保険金給付は、保険料名目での国民財産徴収のための見せ掛けのものでしかないのかもしれないと疑問さえ沸いてきます。
実際にこの数十年、所管部署の関係者はそれを好きなように浪費し、そのお咎めもなしに、今もかなりの浪費が行われています。
もちろんまじめに働いている人はいますが、かれらも収奪されるほうの人なのです。
まじめに働く人たちで外部との壁を構築するというのは、組織の本質です。
現状では、国民年金保険や厚生年金保険は、国民の財産を保護する仕組みではなく、収奪して一部の人たちの私欲を満たすための制度ではないかと思われても仕方がありません。
もしそうでないのであれば、保険金の計算根拠はもっと当事者に分かるようにすべきですが、そうしたことは全く行われていません。
少なくとも、契約に基づくものではなくお上による民の支配の仕組みであることは間違いありません。
自分がもらっている保険金額が正しいのかどうかなど、おそらく誰も分からないのです。
そうしたことの現われが、今回の納付記録不明事件です。
国民主権国家とは、大いなる偽装です。

しかし偽装とはいえ、理念があるのであれば、実体を育てていく契機にはなりえます。
そうしたビジョンとグランドデザインが不在なのが問題の本質だろうと思います。

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2007/06/02

■市況商品の上に乗っかっている生活

原油価格の上昇で、ガソリンがまた値上げになっています。
いやガソリンだけではありません。
いまや産業は原油の上に立っており、私たちの暮らしはその産業の上に成り立っていますので、原油価格上昇は私たちの暮らしに大きく影響を与えます。
工業製品だけではありません。
農産物もサービス産業も、いまや原油とは切り離せません。
まあこういうことはよく言われていることです。

問題は、今の経済の基盤ともいえる原油が、市況商品になっていることです。
つまり、誰かの操作と思惑で価格が決められる。
そのことの意味をもっとしっかりと認識する必要がありそうです。
今の経済は、つまり私たちの暮らしは、そうした誰かの思惑の上に展開しているわけです。
この経済システムを変えていくことが必要です。
50年くらいはかかるかもしれませんが、決して不可能なことではありません。
問題は、しかし、変えるどころか、そうした不安定さをますます強めようとする方向に時代が動いていることではないかと思います。

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2007/06/01

■知的成果の囲い込みの弊害

アップルがインターネットを通じた音楽配信事業で、コピー防止機能なしの楽曲を配信する初のサービスを全世で始めたそうです。
これが知的所有権とどうかかわるのか、よく知らないのですが、知的所有権に関して、今日は書きたいと思います。これにはかなり鬱積した思いがあるからです。

これまでも何回か書いているように、私は知的所有権制度には違和感を持っています。
私が大切にしていることに「コラボレーション」「共創」、つまりみんなで創りあげていくということがあります。その視点からいうと、知的所有権、つまり「知の囲い込み」は好ましいことではありません。

マルクスが整理した労働価値説によれば、商品の価値はそれを創った労働者にあります。そして、現在の私的所有権は労働者の労働に基礎を置いているといっていいでしょう。「自分の創ったものだから、自分のもの」というわけです。
これって正しいのでしょうか。私にはそうは思えません。
これは工業型生産社会の発想であって、農業型生産社会では出てこない発想です。
百姓(農民)は、自分で農作物を創ったなどとは思いません。
自然の恵みと考えるのです。ですからいつか書いたように、出来た農産物は気前よく、他の人にもあげてしまうのです。時には野鳥たちにも残します。

実は工業型生産においても、事情は同じです。
たまたま購入した原材料を使って商品を生産するので、自分たちだけで生産しているように勘違いしますが、原材料も廃棄物もすべては社会とつながっています。第一次産業の枠組みとかわらないのです。しかし、そのサブシステムとして捉えてしまうと、なんだか自己完結しているような気がして、「自分だけで創った」などと思ってしまうわけです。その結果が、たとえば資源浪費であり環境破壊です。
たとえば青色ダイオード特許訴訟の中村修二教授は、自分で発明したと主張していますが、彼の発明は人類が誕生して以来のたくさんの知の蓄積の上に実現したに過ぎません。
物財以上に、知識や情報はつながっていますから、知的発見はすべて人類全員のコラボレーションによって可能になるはずです。
科学の世界に限りません。
松本零士とマキハラの歌詞盗作事件も同じような話です。みんな勘違いしているように思います。

だれが「知的所有権」制度をつくったのでしょうか。
建前上の意図は、よく言われているように、創造的活動への動機付けでした。しかし、そんな動機付けなど本来は不要なのです。
本当の意図は、知的発見の囲い込みに過ぎません。
中村教授の問題提起は、まさにそれだったと思いますが、訴え方が間違っていたと私は思います。
知的発見の成果の還元は個人にではなく、広く社会に、あるいは歴史に向けて行われるべきです。
その最高の手段は、知的所有権の廃止であることは言うまでもありません。

知的発見の成果の囲い込みは、社会の進化を妨げるだけですし、中途半端な消化によって社会的弊害を引き起こすおそれがあります。

そういえば、数日前の新聞で報道されていましたが、「介護」という言葉はある企業が持っている商標だそうです。しかし、その会社はその知的所有権の独占を主張しないそうです。
そのおかげで、今では「介護」概念は日本国中に広がりました。
言葉を独占したり、知識を独占したりする制度は、愚かしい行為でしかありません。
そう思いませんか。

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