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2007/06/13

■裁判における弁護の意味

福岡市3児死亡飲酒事故初公判で、弁護側は「飲酒は間違いないが、正常な運転が困難になるほどではなかった」と述べ、危険運転致死傷罪については否認したと報道されています(朝日新聞)。
この論理におかしさを感じないでしょうか。
しつこいですが、弁護士たちの発想のおかしさを、もう一度、書きます。

裁判における弁護とは、事実を明らかにすることによって、被告の人権が踏みにじられ、過重な量刑が課されないことだと思います。
決して、被告の罰を軽くすることではありません。
そこで目指されるべきは、多くの人たちが納得して受容されるような裁きがなされることです。
これは弁護士に限らず、法曹界に関わる人たちすべてに課されたミッションです。
それを実現することが、彼らのプロフェッションであり、そのために彼らには社会的権威と特権を与えられているのです。

そうした裁判の原点に戻って考えると、やはり先の論理には首を傾げたくなります。
もし家族が同じ事故にあったら、同じ論理を展開するでしょうか。
もしするとしても、問題は残りますが(いつか書きます)、
もししないのであれば、商売としての対応としか思えません。
私情とは別の判断をすることこそがプロフェッションだという人がいるかもしれません。
たしかにそういうことはあるでしょう。
しかし、この論理は、光市母子殺害事件の弁護団と同じレベルのものだと思います。

なぜこうした「ためにする論理」が横行するか。
それは裁判の役割がおかしくなっているからです。
ここでもたぶん、市場原理主義が蔓延しているのでしょう。
繰り返しますが、裁判は社会の安定のための仕組みです。
検事と弁護士が対立するのは本来はおかしい話です。
アメリカ型の法廷論争は決して正しい裁判の姿ではないはずです。
優秀な弁護士がついたら無罪になり、
優秀な検事なら死刑になったりする裁判が良いと思いますか。
弁護士と検事が力を合わせて、より正当な裁きを実現し、同じ過ちや不当な行動が繰り返されないことが、裁判の存在意義ではないでしょうか。

裁判とは何か。
それを弁護士たちには真剣に考えてほしいものです。
もちろん検事や裁判官にもですが。

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