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2007/06/01

■知的成果の囲い込みの弊害

アップルがインターネットを通じた音楽配信事業で、コピー防止機能なしの楽曲を配信する初のサービスを全世で始めたそうです。
これが知的所有権とどうかかわるのか、よく知らないのですが、知的所有権に関して、今日は書きたいと思います。これにはかなり鬱積した思いがあるからです。

これまでも何回か書いているように、私は知的所有権制度には違和感を持っています。
私が大切にしていることに「コラボレーション」「共創」、つまりみんなで創りあげていくということがあります。その視点からいうと、知的所有権、つまり「知の囲い込み」は好ましいことではありません。

マルクスが整理した労働価値説によれば、商品の価値はそれを創った労働者にあります。そして、現在の私的所有権は労働者の労働に基礎を置いているといっていいでしょう。「自分の創ったものだから、自分のもの」というわけです。
これって正しいのでしょうか。私にはそうは思えません。
これは工業型生産社会の発想であって、農業型生産社会では出てこない発想です。
百姓(農民)は、自分で農作物を創ったなどとは思いません。
自然の恵みと考えるのです。ですからいつか書いたように、出来た農産物は気前よく、他の人にもあげてしまうのです。時には野鳥たちにも残します。

実は工業型生産においても、事情は同じです。
たまたま購入した原材料を使って商品を生産するので、自分たちだけで生産しているように勘違いしますが、原材料も廃棄物もすべては社会とつながっています。第一次産業の枠組みとかわらないのです。しかし、そのサブシステムとして捉えてしまうと、なんだか自己完結しているような気がして、「自分だけで創った」などと思ってしまうわけです。その結果が、たとえば資源浪費であり環境破壊です。
たとえば青色ダイオード特許訴訟の中村修二教授は、自分で発明したと主張していますが、彼の発明は人類が誕生して以来のたくさんの知の蓄積の上に実現したに過ぎません。
物財以上に、知識や情報はつながっていますから、知的発見はすべて人類全員のコラボレーションによって可能になるはずです。
科学の世界に限りません。
松本零士とマキハラの歌詞盗作事件も同じような話です。みんな勘違いしているように思います。

だれが「知的所有権」制度をつくったのでしょうか。
建前上の意図は、よく言われているように、創造的活動への動機付けでした。しかし、そんな動機付けなど本来は不要なのです。
本当の意図は、知的発見の囲い込みに過ぎません。
中村教授の問題提起は、まさにそれだったと思いますが、訴え方が間違っていたと私は思います。
知的発見の成果の還元は個人にではなく、広く社会に、あるいは歴史に向けて行われるべきです。
その最高の手段は、知的所有権の廃止であることは言うまでもありません。

知的発見の成果の囲い込みは、社会の進化を妨げるだけですし、中途半端な消化によって社会的弊害を引き起こすおそれがあります。

そういえば、数日前の新聞で報道されていましたが、「介護」という言葉はある企業が持っている商標だそうです。しかし、その会社はその知的所有権の独占を主張しないそうです。
そのおかげで、今では「介護」概念は日本国中に広がりました。
言葉を独占したり、知識を独占したりする制度は、愚かしい行為でしかありません。
そう思いませんか。

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