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2007/06/10

■コムスン事件は民営化路線の氷山の一角

訪問介護最大手コムスンの不正申請事件は、実態がわかるにつれて、問題が広がってきています。これに関しても、何をいまさらという気がしないでもないですが、耐震偽装事件と同じで、しっかりとチェックする仕組みがないままで、民営化してきた結果の一つでしかありません。
また書き出すと長くなりますが、「公私」ではなく「官民」と捉えること自体に問題を感じますが、同時に民営化は市場主義に乗せることという捉え方にはさらに大きな危惧を感じます。
これに関してはこれまでも何回か書きました。
現在の日本の経済の根底にある市場主義の原理は、「自立した個による自己利益追及」です。その結果、「見えざる手による」社会の効率化が達成されるというわけです。
小泉政権時代の「官から民へ」というスローガンに熱中した人たちが、推進してきたのは、この路線です。その路線の中で、公共サービスだった郵便局も福祉事業だった介護事業も市場化されました。いや学校さえもです。
市場主義の世界では、「自己責任」とか「自立」が叫ばれました。
そこではホリエモン事件やファンドの動きに象徴されているように、他者への配慮は軽視されました。
一方、福祉や暮らしの世界の原理は、「支えあいによる共同利益追求」であり、他者への配慮の重視、つまりケアです。
両者の大きな違いは、人をつなげるのが「金銭」か「愛」かです。
愛というと大げさに聞こえるかもしれませんが、人間はパンだけで生きられるわけでは在りません。
愛、ケア。ちょっと気にかける「人と人のつながり」がなければ、人間社会は成り立ちません。そのつながりを、心や愛ではなく、お金にしてしまったのが、昨今の市場原理主義です。
換言すれば、福祉の世界が市場化されたのです。
そこからこうした結果が出てくることは必然的とさえいえるでしょう。
「官から民へ」ではなく、「民から共へ」こそが、必要なのではないかと思います。
これが63歳までに書こうと思っていた私の本の題名「コモンズの回復」でしたが、怠惰なためにまだ1行も書けていません。
しかし、日に日に劣化する日本社会の中にいると、苦労して書くこともないかという気が強まります。
つまり、私自身が「劣化」しているということなのですが。

<民営化に関するこれまでの記事の一部>
民営化と私有化
民営化への不信感
民営化再論
民から共へ
民営化コンプレックス
民の本質


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コメント

私が大学生だった頃(30年前)には、親から与えられた自分の力をいかにして社会に還元するか、すなわちいかにして社会的意義のある仕事に取り組むか、ということが、もっと真面目に議論されていたように記憶しています。

折口氏にしろ、行儀の悪いファンドで働く若者にしろ、彼らが考えることは「自分の力は自分だけのために使う」ということでしょう。自分の会社だけが栄え、自分だけがおいしい思いをすれば良いということのようです。

劣化した日本社会で、日々こうした姿勢の人を見続けていると、私も「もうイイヤ」とつい思ってしまいます。こうして社会の劣化は崩壊へとつながっていきます。なんとか「もうイイヤ」と思う気持ちを持ち直し、微力ながら抵抗は続けたいのですが・・・。

投稿: 西浦裕二 | 2007/06/10 21:57

西浦さん
同感です。
めげたくもなりますね。

私の場合、私を支えてくれているのが、コムケア活動の仲間です。
まじめにNPO活動に取り組む若者たちに出会うことが少なくありません。
もっとも彼らもまた、企業に入ると変わってしまう気もしますが。

投稿: 佐藤修 | 2007/06/11 06:33

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