« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月

2007/07/31

■「法律1本、世論3年」と「何でも見てやろう」

小田実さんの訃報を聞きました。

先週、技術と暮らしを考えるサロンに参加したのですが、そのテーマが昨年亡くなった宇井純さんでした。
参加した40代以下の世代は、あまり宇井純さんのことを知りませんでした。
参加者の一人が、別の人の名前をあげて、その人は形として実績が残っているが、宇井さんの実績は何ですか、と質問しました。
ショックを受けました。
宇井さんは、いまや忘れられつつある人なのですね。

その時、思い出したのが、実は小田実さんです。
私にとっては、この2人は、知のあり方を教えてくれた人です。
そして私が育ってきた時代を象徴している人でもあります。
しかし、最近、その2人のことを私自身が忘れていたことに気づきました。
その矢先の訃報です。

私は残念ながら、宇井さんにも小田さんにもお会いしたことがありません。
雑誌や本でしか、その言動に触れたことはないのですが、この2人の生き方からは大きな刺激をもらっています。
現場から発想し、柔軟に発想し、自分の言葉で考え、考えたことは行動する、という生き方です。
私がそれを実現できているかどうかは確信がありませんが、極力、そうつとめてきました。

宇井さんは、日本に新しい学びの場を創出し、そこで学んだ人は少なくないでしょう。
小田さんは、新しい学び方を提案し、それに刺激された人は少ないでしょう。
宇井さんの言葉で、印象に残っているのは、「法律1本、世論3年」です。
公害基本法が成立し、それから少しずつ具体的な内容を持った実施法ができ、そのたびに問題があいまいにされていくことを指摘したものです(私の記憶が不正確かもしれません)。
これは昨今また繰り返されています。
小泉・安倍政権は法律を作ることで世論をおさえ、その矛盾が出てくるとまた次の法律をつくるということを繰り返しています。
法律を作ることは、政府の役割であっても、目的ではありません。

小田さんの言葉は、「何でも見てやろう」です。
それも自分の身体で、現場に行って見ていくわけです。
その背景には「まあどうにかなるやろ」精神があります。
小田さんといえば、「ベ平連」活動ですが、その活動自体も今では忘れられているのかもしれません。

2人とも、常に「暮らし」の視点にたっていました。
しかし、「自主講座」も「ベ平連」も、過去のものになりつつあるようです。
時代は再び、新しい学びの場、新しい平和運動の場を必要としているような気がしますが、宇井さんや小田さんのような実践の人がまた現れてくることを思わずにはいられません。

小田さんは、彼岸で何を見ているのでしょうか。
その旅行記を読みたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/07/30

■参議院選挙結果に思うこと

昨日の番外編の選挙結果予想は、またまた肝心なことでは完全に間違いました。
どうでもいいことでは、少し当たりましたが。
政治評論家などは、これほどの変化は予想もしていないといいますが、私には変化のない結果でした。
日本はどうやら動きそうにもありません。

まず投票率は、亥年現象は起きませんでしたが、投票率はあまり高くなりませんでした。要するに、これまでも選挙に行っていた人は行ったものの、選挙と無縁に暮らしている人たちは、相変わらず行かなかったようです。
つまり構造変化はおきなかったということです。これは残念ながら予想通りです。

民主党は大勝しましたが、それ以外の野党はのびませんでした。
これは私の期待を完全に打ち砕きました。
民主党と自民党は、私には同じ政党に見えますので、民主党の大勝は日本の政治状況を何も変えないというのが私の考えです。
相変わらず「二大政党論」が語られているのが残念でした。
日本の政治をだめにしたのは、小選挙区制度と二大政党論だと私は思っていますので。

選挙後の政治は変わりそうです。
安倍首相がいち早く続投を表明したからです。
これでたぶん続投はなくなり、国民の怒りは高まるでしょうから、民主党はやりやすくなるでしょう。波風がもう少し続きそうです。

結局、私にとっては、何も変わらなかった選挙でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/29

■番外編:実に勝手な選挙結果予測

自分のために書いておく番外編です。
今日は参議院選挙の日です。
今日の夜には結果はほぼ判明するはずですが、その前に少し書いておこうと思います。
私の選挙結果の予測はこれまで一度も当たったことはありませんが、結果を知る前に意見を書き残しておきたいと思います。
結果を知ってしまうと、おそらく自分の考えが微妙に変わりかねないので、私自身のための記録です。後で、これを掲載したことを公開するかもしれませんが。

投票率はそうあがらないでしょう。つまり選挙への関心は相変わらず高くはないということですが、それは政治への信頼が失われている結果だと思います。また日本人の政治意識の低さも一因でしょうが、それも含めて、これまでの政府がそう仕組んできたように思いますので、それが見事に奏功したということかもしれません。

結果は民主党が勝つでしょうが、新聞などの予想ほど大きな差は出ないと思います。
これはマスコミを通した政府の情報操作が成功したのだと思います。
今回は多くのマスコミは自民党に加担したと私には思えてなりません。
マスコミは大きな変化を望んでいないのです。マスコミを支配しているのは、いわゆる「勝ち組み」ないしは「勝ち組み寄生者」たちですから、当然です。
朝日新聞も自民党を応援しました。もっとも一般の見方は反対のようですが。

私は新党日本に期待していますが、田中さんも有田さんも当選すると思います。
国民新党もほどほどの成果を得るような気がします。
社民党ものびるでしょう。
つまり、二大政党への問い直しの動きが出てくるように思います。
しかし、それ以外の閉じられた仲間的な党はいずれもだめでしょう。
共産党は苦戦すると思います。記号価値を軽視しているためです。とても残念ですが、この党には未来は感じられません。私自身は一番期待している党なのですが、基本的な組織原理が時代にあっていません。公明党と同じです。

選挙後の政治はどうなるか。
残念ながら、何かが変わる展望が持てません。
自民と民主が実質的に国政を私物化し、国民不在の政治がもうしばらく続くような気がします。

めちゃくちゃな予想ですが、この予想がひっくり返ることを心から願っています。
私の不明が明らかになれば、とてもうれしいです。

もしまだ投票に行っていない人がいたら、行ってくださるととてもうれしいです。
私の明日の暮らしに繋がっている選挙ですので。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■光市母子殺害事件安田弁護士による死刑制度の私物化

光市母子殺害事件の安田弁護士の発言は、法によっては守られているのでしょうが、社会の規範からは完全に逸脱しているように思います。
今回の彼の発言を聞いて、いつものことながら、これほど「おぞましい人」がなぜまともに取り上げられているのか、そしてどうして弁護士仲間が異論を唱えないのか、とても不思議な気持ちになりました。
常識が通らない場での裁判には不信感をもたざるをえません。
しかし、私の思いとは反対に、司法界から何の声も上がりません。
私は彼をとがめているのではなく、彼のような存在を放置しておく司法界を問題にしているのです。
日本の裁判制度はもはやあまり信頼できなくなりました。

この事件のことはもう書くまいと思っていたのですが、やはり書かないと気がすまなくなりました。

人の生き方には、「法によって権力に従う生き方」と「規律によって規制された生き方」と「愛を活かしあう生き方」があります。
法治社会では「法によって権力に従う生き方」が推奨されます。
法に従っていれば、お上からのお咎めはないからです。
お上にとっては、正義ではなく統治が最大の関心事です。
企業のコンプライアンス発想もそうです。
ですからたとえ「不正義」でも、時に一時期のミートホープ社のように黙認されることもあるのです。
赤城議員などの政治家の逸脱行為もその一例です。

フーコーは、法による生き方から規律による生き方に社会は変わってきているといいましたが、日本においては歴史の流れは逆かもしれません。
恥の文化では、法以上に「誇り」や「正義」が尊ばれます。
いまでも日本各地の村では、お上が決めた「法」よりも、規律が重視されているところもあるように思います。
フーコーをかなり独善的に解釈していますが、私自身は、その先に、あるいはその前に、真心の社会があると考えています。それが「愛を活かしあう生き方」です。
そこでは規律のベクトルの意味が反転します。
これに関しては、いつかまた書きたいと思います。

ところで安田弁護士の生き方は、弁護士らしく「法に従う生き方」です。
つまり権力に守られた生き方、言い換えれば心を権力に売った生き方です。
権力に従う生き方は楽な生き方でしょう。
安田弁護士は権力に立ち向かう反骨の志というイメージを持っている人もいるかもしれませんから、こういう論理展開をすると、私の常識が疑われそうですが、そういう捉え方もできるという気がします。
権力に抗することと権力に迎合することとは紙一重です。
そして、その紙一重は共感の広がりで見えてきます。
安田弁護士の言動が、いずれかであるかは明白です。
権力に抗う形での迎合と考えるべきでしょう。

そう考えると、すべての風景は一変します。
たとえば、安田弁護士と死刑制度の関係です。
多くの論者は、そして私の知人の弁護士たちも、安田弁護士は、死刑制度廃止を目指しているといいます。
そうでしょうか。
死刑制度廃止と死刑を無くすことは違うことだと思いますが、それはともかく、私には安田弁護士が死刑制度を本気で廃止しようとしているとは全く思えません。
もしそうならば、もっと誠実に取り組むでしょう。
死刑はいろいろな意味で、人の生命に関わる問題ですから、誠実さが基本になければたぶん前に進まないでしょう。
それにこの問題は暴力と権力の問題にもつながる組織原理の問題でもあります。
安田弁護士の取り組みは、どう考えても、誠実とは思えません。
むしろ彼は、死刑制度の存続に寄生して生きている人だと思います。
もし日本に死刑制度がなければ、彼は自らの存在を維持できないでしょう。
つまり、彼が守りたいのは死刑制度なのです。
論理の飛躍があるかもしれませんが、そう考えてもおかしくないように思います。

彼のような、あざとい生き方が広がっているのが、とても哀しいです。
司法界だけではありません。
政界も財界も、学会も医療の世界も、なぜこのような小賢しさが蔓延したのでしょうか。

今回はかなりの暴論で、いくらでも反論の材料はあると思いますが、暑さのせいの暴論だと聞き流してください。
しかし、私には腹が立って仕方がないのです。
まだまだ人間が出来ておらず、寛容にはなれません。
寛容になれないままに、人生を終えそうなのが残念です。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/28

■タリバンの韓国人ボランティア殺害事件

タリバンによる韓国人ボランティアグループの拉致と殺害はやりきれない事件です。事件を聞いて感じたことを2.3書きます。必ずしも正確な事実には基づいていないと思いますので、その前提でお読みください。

まず「善意」とは何か、です。
傷ついた人がいれば危険を冒しても救いにいくという「善意」は、誰にとっても「善意」で歓迎されると思いがちですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
「善意」は行動者の意志ですが、その行動の対象者の評価が同じとは限りませんし、大きな枠組みで考えるとおそらく評価は一様ではないはずです。
もっとも、ボランティア活動をしている人たちは「善意」などとは考えていないでしょう。やりたいからやるのがボランティアですから。
しかし、組織活動としてのボランティアになると意味合いはかなり変わってきます。
個人の主体性に立脚するボランティア行為と組織としての行為にはズレが避けられません。
結果として、そうした行為が全体の状況の問題解決にマイナスに働くこともありえます。
さらにいえば、自らの生命を賭して活動している人にとっては、おそらく緊急事態でしょうから、コラテラル・ダメッジの発想が出てくる可能性を否定できません。
もちろんそれを肯定するわけではありませんが、タリバンの側で考えるとそういう発想が出てくるということです。なにしろこれまでたくさんの仲間を不条理に殺害されているわけですから。

もちろん、私はタリバンの行為に何がしかの正当性を認めているわけではなく、どんな事情があろうと許されることではないと考えています。
彼らにも言い分はあると思っていましたが、こうした行動を起こすことは言語道断であり、彼ら自身にとってもマイナスでしょう。
しかし、彼らはそこまで追い詰められていることも示唆しています。
自己防衛行為とはいえませんが、その要素が全くないともいえません。

そこで思い出すのが、マルチチュードの発想です。
もしかしたら、全体の構造の捉え方がみんな間違っているのかもしれません。
タリバンとはいったい何なのか。
そして政府とは何なのか。
世界の紛争や連帯の構図が大きく変わり出している中で、問題の立て方を間違うと問題はさらに複雑になり、悲惨になるかもしれません。
そんなことを考えさせられる事件です。

これはなにも軍事紛争だけの話ではありません。
福祉や環境に関わるボランティア行為すべてにあてはまることかもしれません。
問題を解決するためには、構造をしっかりと把握し、問題を的確に設定しなければなりません。

韓国のボランティアグループの人たちの安全が守られることを心から祈念します。
個人の生命は国家の命運以上に大切です。
そのこと忘れた国家や革命や反乱は成功しないと確信します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/27

■「経済成長を語ったことがあるか」

「民主党から、小沢さんから経済を成長させる、景気を回復するという話を聞いたことがありますか」と安倍首相は演説で話したそうです。

一昨日、引用させてもらったダグラス・ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」にこんな話がのっています。

コロンブスが「新世界」で最初に着いたのはカリブ海の島でした。その島にはタイノ族という先住民が住んでいました。当時の記録によると、コロンブスたちは、もしかしてエデンの楽園に戻ったんじゃないかと思ったそうです。自然がきれいで、そこに暮らす人たちは聖書のエデンの楽園に描かれたような生活をしていたからです。
まず彼らは物をあまり持っていない。暑いから服もあまり着ていなくて、裸に近い状態。農業も非常に優れた農法で、いろいろな種類の作物を同時に一緒に植える。そうすると管理、手入れがほとんど必要ない。だから畑では一週間のうち数時間しか働かない。魚が欲しければ海に入ればすぐ獲れるから、それもあまり時間がかからない。
では何をしていたかというと、まず音楽がとても重要でした。歌ったり、踊ったりする時間、楽器で音楽を作ったりする時間がとても多かった。男女が愛しみあう時間も多かったそうです。
そこで、働かせるために奴隷制度をつくったのですが、彼らは奴隷に向いておらず、病気で死に、座り込んで死ぬまで動かなくなり、うつ病で死に、子どもつくらなくなり、100年間で全滅した、というのです。

この話が真実かどうかわかりません。たしかにタイノ族はいましたし、そういう生活をしていたようですが、反乱を起こしたというような資料もあるようです。
しかし彼らの豊かな暮らしは「経済成長」や「景気」とは無縁です。
いま必要なのは、「経済成長」とか「景気」という考え方そのものを問い直すことではないかと思います。
そういう意味では、「経済成長」や「景気」について語っていないのは、安倍首相自身ではないかと思います。
野党の主張にもっと謙虚に耳を傾けるべきでしょう。
もちろん私たちもです。
これまでのような「経済成長発想」はもう終わりにしてもいいのではないでしょうか。
上記の本はとても示唆に富んでいます。
平凡社から出ていますので、夏休みにでも読んでみてください。
コモンズ書店経由で、アマゾンからも購入できます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/26

■放射性廃棄物の最終処分問題のメッセージ

中越沖地震で問題を発生させた柏崎刈羽原発への不安が広がっています。
相変わらず東電にはしっかりしたコミュニケーション姿勢がないのが最大の問題ですが、原発問題はまさに「コミュニケーションの問題」だということを電力会社や政府は認識すべきではないかと思います。
しかし、コミュニケーション問題がすべてというわけではありません。
そこにもう一つ絡んでいるのは、お金の問題です。
いや「お金」の問題が出発点なのかもしれません。
コミュニケーション不足を金で解決してきたのが、これまでの原発政策でした。
それは地域関係だけではなく、内部の人事管理にも言えることだと思います。
さらにいえば、政策決定に取り組む当事者たちのコミュニケーション不足も目に余ります。ですからだれも全貌が見えずに、自信がもてないでいるように思えてなりません。

秋田県上小阿仁村が、原発の使用済み核燃料を再処理した時に出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場を誘致できるかどうかの検討を始めたことが話題になっています。テレビでは村民は不安を持っているようですが、村長は財政再建の切り札と考えているようです。高知県東洋町の騒動がまた始まりそうな気配です。

こうした騒動はどこかにおかしさがあります。
なぜこれほどに不安が高まり反対がでるのでしょうか。
なぜ調査費だけで毎年10億円という予算がつくのでしょうか。
いや10億円のお金を出さないと調査すらもしてもらえないということは何を意味するのでしょうか。
誰もが高レベル放射性廃棄物の最終処分に不安を持っているのであれば、その問題を解決せずに、原発政策は決めようがないはずです。しかし、そのことを真剣に議論し国民に話しかける科学者はいません。いるのかもしれませんが、国民にきちんと語りかけてはいません。
その事実一つとっても、原発技術はまともな技術体系として成り立っていないように、私は思えてなりません。
まともな技術体系でなければ、多くの人の信頼を得ることは難しいでしょう。

私が原発に不信感を持ったのは、皮肉なことに仕事の関係で電力会社のエンジニアに原発を案内してもらったためです。そこで現場労働者の働き方や扱いを知りました。
技術としての原発に対しては評価能力がありませんが、労働の現場を見れば、その産業の本質は見えてくるものです。
そして原発関連の企業不祥事が起こるたびに、その見学の時の説明を思い出します。
それは私には繋がって感じられます。
共通しているのは資金の配布に関する「専門技術優先主義」です。

これからの日本社会を支えていくといわれる原発産業であれば、各地が競って誘致を申し出るはずです。しかし財政難に苦しむ貧乏な市町村に向けて、巨額なお金をちらつかせても、なかなか手を上げるところが出てこない現実に、原発の本質が見ええてくるように思います。
もっとオープンな場で、しっかりと話し合う時期ではないか。
それこそがコミュニケーション戦略ではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/25

■デモサイド「民殺」

昨日の記事に関連して、国家は自国の民を暴力から救うために武装し、国民は自らを守るために武装するのではないかというメールが来ました。
確かに国家の武装の大義は「自衛」です。
しかし、これも以前書きましたが、すべての戦争は「自衛」として説明できるでしょう。
問題は「自衛」の「自」とは何かです。

こんな報告もあります。
孫引きなのですが、ハワイ大学のR・J・ランメルという学者の書いた「政府による死」(1994年)によれば、国家によって殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いというのです(ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」に紹介されています)。
ランメルによればこの100年間に国家によって殺された人数は2億人を超えていますが、そのうちの約2/3は他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているそうです。
つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない、というわけです。

彼は、非戦闘員を殺すという意味で、デモサイド(democide)という言葉を造語しています。
デモサイドの主体者は誰なのでしょうか。
20世紀のデモサイドの多くは共産国家や社会主義国家、あるいは軍部独裁国家、ファシズム国家などで主に行われていますが、「民主主義国家」でも起こっています。
コラテラル・ダメッジは、まさに「民主主義国家の発想」かもしれません。
ちなみに、コスタリカは、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったといわれます。

デモサイドを遂行するのは誰でしょうか。
徴兵制のもとでは、だれでもが「戦闘員」に狩り出される可能性がありますから、結局は国民なのです。殺すのも殺されるのも同じ国民。それが現実なのです。
イラクやアフガンの現状はそのことを明確に示しています。

日本国憲法9条はたしかに不完全な条文です。
しかし、そこに込められた意味は大きい。むしろその意味を進化させるべき時期に来ています。
私たちも、コスタリカ人ほどの知性を回復したいものですが、それはすぐには無理としても、今度の選挙にはこうしたことを考えて投票に行きたいものです。
決して、年金選挙などではないのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/24

■国民の非武装権

残念ながら今回の選挙では「平和」は大きな争点にはなりませんでしたが、振り返ってみると、今回の選挙は日本の平和にとって大きな意味を持った選挙になっているのではないかという気がします。
そんな時期に、平和の問題をライフワークにされている川本兼さんがまた新著を出しました。
『「日本国民発」の平和学』(明石書店)です。
CWSコモンズに紹介していますので、よかったら読んでください。
そこで紹介したことと重なるのですが、とても示唆に富むメッセージが込められているので、このブログでも少し紹介させてもらうことにします。

川本さんは以前から基本的人権の一つとして「平和権」を主張しているのですが、そこに「非武装権」という概念を提起しています。
これまでの平和論からは出てこない発想ですが、この非武装権発想が意味していることはとても大きく、ぜひとも多くの人に知ってもらいたいと思います。

「非武装権」とは、国家の兵員になることを拒否する権利です。
民衆による暴力を禁止し、暴力を独占することによって、近代国家は権力の基盤を確立しましたが、それは同時に「国民を暴力に狩り出す権利」の獲得でもありました。
そのため、これまでの平和理論の中では「民衆の武装権」が問題になりました。
民衆が圧制からの自由を求めて、立ち上がる権利です。

その典型的なものが市民革命ですが、川本さんはそうした「民衆の武装権」はもはや必要なくなったといいます。
むしろそうした武装権は国家に組み込まれてしまい、実質的には国家に対する兵役義務に転化してしまったというのです。
最近起こったタリバンの韓国人ボランティアグループの拉致事件などを考えると、現実は必ずしもそこまでは行っていないと思いますが、大きな流れはそうかもしれません。

いずれにしろ国家による暴力行使の主体は国民です。
国家が戦争を遂行できるのは、兵員としての国民を自由に暴力遂行力として使えるからです。
ブッシュや小泉が戦争をするわけではなく、現地で戦いを担うのは兵隊や自衛隊員です。
つまり「戦争をさせる人」と「戦争をする人」は別なのです。
しかも「戦争をする人」は原則として戦場で人を殺すことも含めた暴力の行使を拒否することはできないのです。
そして「平和のために人を殺傷する」というおかしなことが起こります。
そこで、国家による暴力行使のために強制されることを拒否する権利として、非武装権が重要になってくるというわけです。

いいかえれば、非武装権とは「人を殺さない権利」なのです。
これまでの基本的人権は、当人だけで完結していましたが、非武装権は他人との関係性が対象ですから、人権思想のパラダイムシフトも含意しています。
さらにいえば、「非」ではじまる権利思想は、権利そのもののあり方への問題提起も含んでいるように思います。
そしてもちろん「平和」や「戦争」に深く繋がっていく思想です。
小泉さんや安倍さんが、そして小沢さんや岡田さんが、いくら戦争が好きでも、国民が非武装権を持っていれば、戦争などは出来ません。
もちろん彼らが戦場に行くことはできるでしょうが、それでは戦争にはなりません。

これはガンジーの非暴力主義とも違います。
非武装権。この考えを深めていくと国家暴力の矛盾が見えてくるかもしれません。
ぜひ皆さんにも読んでほしいと思います。
もちろんこの本は、非武装権のことだけを書いているわけではありませんが、他の主張も示唆に富んでいます。
私のサイトからもアマゾンでの購入が可能です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/23

■選挙結果予測は投票に影響を与えます

参議院選挙まであと1週間です。
しかしどうも選挙の実感が得られません。
私が住んでいるのは我孫子市ですが、立候補者の自動車もあまり来ません。
中央から政党の代表者が応援に来るという案内は時々回ってきますが、当の立候補者の演説の案内はあまりきません。
どこかでやっているのでしょうが、あまり耳には入ってきません。
私は中央から誰かに応援に来てもらうような人は、まず投票しないことにしています。
自分の言葉で語れないような人には期待はできません。
それに、議員はタレントではないのですから、誰かの応援に来る人の話などは聴きたくありません。
しかし、その基準で支持者を消していくと、いつもほとんど候補は残らないのが最近の状況です。
そんなわけで最近、選挙の意義があまり感じられなくなってきているのです。

ところで、新聞やテレビで選挙結果の予測調査がでます。
これをどう理解すればいいのでしょうか。
私はこれこそが選挙違反行為だという気がしています。
その予測記事が結果を変えることはかなり高い確率であると思いますが、
もしそうならば当然ですが、操作可能性があるわけです。

投票者は何を持って投票先を決めるのでしょうか。
「お灸効果」ということが最近よく言われます。
やりすぎの自民党にお灸をすえる気持ちで野党候補に投票する人がいてもおかしくないというわけです。
政治はパワーオブバランスの問題だから、そういう考えが出てきてもおかしくないと思いがちですが、私には違和感があります。
政策内容と無関係に、そういう基準で投票先を選んでいいのかと思うのです。
どこかにおかしさを感じます。

現在は野党優勢が多くの予測の結果です。
この報道を見て、お灸を据えようとしている人は、与党に投票しようと思うかもしれません。野党支援者は気を抜くかもしれません。
ゲームの世界の話であれば、その駆け引きは面白い問題ですが、それで日本の政策が決まっていくことを考えるとなにやら恐ろしさを感じます。ゲーム感覚で未来を決められたらたまったものではありません。
お灸効果などという言葉を抵抗を感ずる様子もなく語っている有識者を見ると、この人の「有識」って何なのだろうかと思ったりします。

きちんとした争点を明確にし、その判断を仰ぐことは出来ないものか。
たぶんできないでしょう。
それはそもそも今の選挙制度と政治制度には国民による政策評価機能はあまり期待できないからではないかと思います。
選挙って、本当に何なのでしょうか。
このごろ、選挙の意義が分からなくなってきてしまいました。
困ったものです。
もちろん投票には行きますし、もう投票する先は決まっていますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/22

■いまの選挙制度って根本的に無理があるのではないでしょうか

ある人の人物評を質問されました。質問した人は、その人と接点を持っているかもしれないと私に訊いてきたのですが、私も全く面識がありません。
そこで余計なお世話と思いつつも、その人のことを知っているかもしれない複数の人たちに、その人物評を質問してみました、

5人の人から返事がありました。
それがみんなかなり違ったものでした。
それも全く正反対に近い評価が含まれているのです。
私には実に面白い体験でした。

当然のことかもしれませんが、いろいろと考えさせられました。
人のイメージはかくも違うのです。
人物評というのは難しいものです。

選挙が近づいてきました。
みなさんはどういう基準で投票する人を決めるでしょうか。
正直に言って、市会議員を別にすれば、いつも私には確信が持てません。
以前は年齢やキャリアや公約を重視してきましたが、最近は所属政党で決めるようになりました。
党議拘束の現実や議論しない国会を知るにつれて、議員の主体性への信頼が揺らいでいるからです。

選挙は「人を選ぶ」制度から「政党を選ぶ」制度になってきています。
そう考えていくと、そもそも地方区などというのは意味があるのかと思います。
さらに、国民みんなが直接的に国会議員を選ぶという、現在の選挙制度にも疑問を感じ出しています。
政党を選ぶ選挙は、本当に選挙なのだろうか、という気もします。
もし「議員」を選ぶのであれば、顔の見える範囲で代表を選ぶ仕組みにすべきです。
国民主権を実現したいのであれば、選挙制度の構造変革が必要です。

まず自治会の役員をみんなの合議で決めることから始めたらどうでしょうか。
100世帯程度の自治会であれば、だいたい顔が見えるはずです。
そしてそこで選ばれた人が市町村の議員を選ぶのはどうでしょうか。
市町村の議員が県会議員を選び、県会議員がブロック単位で代表を選ぶ。
そしてその中から国会議員が選ばれるというのはどうでしょう。
議員に選ばれたたら、4年間は仕事を休んで活動します。その間の所得保証は行われますが、辞退する権利も認めていいと思います。
もちろん今のような特権階層扱いはしないでいいでしょう。議員は主権者の代理人でしかないのですから、名誉職的な処遇でいいでしょう。

それでは地域エゴに立脚した代表しか出てこないではないかといわれそうですし、現実的でもないといわれそうです。
しかし、地域主権や代表の発想から言えば、これが正論ではないかと思います。
もう一度、原点に帰って考えるべきでしょう。

地域代表からの積み上げで構成されるのは衆議院で、参議院は全く別の仕組みで、むしろ全国から発想するのがいいでしょう。
地域から考える衆議院と国家から考える参議院との緊張関係の中で国家経営が方向付けられていくわけです。

あまりにも素朴すぎて、と笑われそうですが、いま必要なのはそうしたシンプルな発想ではないかと思います。
年金制度も難しく考えすぎで、誰もが分かる簡単の仕組みにすれば、今のような不正は発生しなかったはずです。
もっと単純に考えれば、おそらく世の中の問題はほとんど解決するはずです。
高速道路だって、税金で造っているのですから、原則無料にするのは当然ですが、なぜか日本では有料が当然だとみんな思い込んでいます。
複雑にすることで、だれかが得をしていることに気づかねばいけません。

人物評の話が、どうも思わぬ方向に広がってしまいました。
いずれにしろ選挙にはいきましょう。選ぶ人がいないとしても、です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/21

■日本社会を襲っている「見えない地震」

今朝の朝日新聞には2つの悲劇が並んで報じられています。
経済的に追いやられ、もう「ご飯が食べていけない」と書き残して一家心中した大阪市東淀川区の事件と知的障害のある息子を殺害した母親への懲役7年の判決の報道です。

最近、こうした報道が増えています。
私たちの社会は、とても大切な何かをいま失ってきているように思います。
自殺であろうと殺人であろうと、人の生命を奪うことは許されることではありません。
しかし、そこまで追いやられてしまっている人を放置していていいのでしょうか。
それこそが、政治が取り組む基本ではないかと私は思います。

他人のことなど気にせずに、ともかく蹴落としてでも競争に勝っていくことに邁進してきた政財界は、そろそろそうした行き方を見直すべきではないでしょうか。
彼らが浪費している、ほんの一部の資金を、そうしたことに向けるだけで、社会は変化への一歩を踏み出せるかもしれません。

ささやかなコムケア活動の体験を踏まえて、社会の実相を体験的に垣間見てきましたが、やりきれないことがあまりに多すぎます。
新潟中越地震も大変な問題ですが、日本社会を襲っている「見えない地震」もとても気になっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/20

■やさしさへの気づき

北海道の知人から電話がありました。
私はたまたま不在だったので、女房が出ました。
私よりひとつ年上の女性です。
体調があまりよくないことを知っていましたので、気になっていましたが、私自身も最近、事件が多すぎて、電話をかける勇気が出ませんでした。
しかし、数日前に女房と彼女のことを話していたところでした。
体調不良の原因がわかったのだそうです。
肝臓がんでした。
女房ががんであることは彼女も知っています。
同じ病気だと会ったことがなくてもすぐに心が通ずるのです。
2人は面識がないはずなのに、今や私よりも親しそうです。
彼女も自然療法に身を任せるそうです。

私の女房のために、毎朝6時に祈りを上げつづけている人がいます。
その人もたぶん私の女房には会ったことがありません。
しかし、女房のことを知って、それ以来、祈りを続けてくれているのです。
私よりもちょっと年下の男性ですが、なぜその人が毎朝祈りをしているのか、なかなか勇気がなくて質問できずにいます。きっと何か理由があるはずです。

先ほど、これもまた年上の友人から久しぶりのメールが来ました。
知らなかったのですが、1月に交通事故にあい、3か月入院していたのだそうです。
「自分がこうした身になってみると他人様の健康問題も大変気になるようになりました」と書かれていました。
女房のことを気遣ってくれていました。

女房の病気のおかげで、人間というもののやさしさを毎日実感しています。
しかし、そのやさしさに気づかせないようにする状況が、いまの社会を覆っているのではないかという不安も、一方では強くなってきています。
杞憂であればいいのですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/19

■歯医者では目をつぶりますか

みなさんは歯医者で治療をしてもらう時に目をつぶりますか。
私はいつも目をつぶるのですが、私の娘は目をあけているそうです。
だから医師や歯科技工士が何をやっているかがよくわかるのだそうです。
目を開けているとやりづらいんじゃないかと私は思いますが、目をあけているほうも結構疲れます。
歯科医の椅子に座って、目をつぶるということは医師たちを完全に任せるということです。毒を盛られても、ドリルで歯を傷つけられても気が付かない恐れはあります。

歯医者はいいとして、他の病院はどうでしょうか。
目を開けていても、何をされているか分からないことが少なくありません。
最近は薬の説明も丁寧にしてくれますが、だからといいて反論や異論は唱えにくいです。
なにしろ情報量が違いますから。

商品の購入時はどうでしょうか。
品質表示が最近はかなりやかましくなりましたが、注意して見ても、肝心の知りたいことはなかなかわかりません。確かに表示はされていますが、形式が整っただけで実態はそう変わっていないような気がします。
肉まんにダンボールのかけらが入っていてもたぶんわからないでしょう。
先日も近くの大手スーパーで購入した長いもがおかしかったので、よくみたら賞味期間の表示が無いので、家族が電話したら、その商品は表示しないのだそうです。全国展開している大手スーパーです。もっとも最近は表示があっても、あまり信頼は出来ません。

政治はどうでしょうか。これはますますわからない。マニフェスト選挙と言われていますが、あれで本当に何かがわかるのでしょうか。私にはあまりわかるようには思えません。

結局、私は歯医者の椅子に座っているのと同じことを生活すべてにおいてしているのかもしれません。
それではいけないと、今日は歯医者で目を開けてみました。
しかしやはり疲れます。
すぐまた目をつぶってしまいました。
まあ「目をつぶった」生き方のほうが楽なのです。
それに最近は目をあけていると身が持たないのです。
毎日、今日こそは目をあけていようと思うのですが、なかなかそれを継続できずにいます。困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/18

■将来に信頼を持てない働き方でいいのか

労働政策研究・研修機構が行った企業従業員の意識調査結果が今日の朝日新聞に出ていました。
次のところがとても気になりました。

仕事や職業生活で感じている不安や悩みについてたずねた社員への調査では、73.2%が「将来の賃金水準」を挙げてトップ。「定年後の仕事、老後」(67.4%)、「会社の将来性」(64.8%)が続いた。
企業で働けている人たちですら、その2/3が、将来に不安を持っているというのです。
どう考えても異常な状況だと思います。
将来への不安は、もちろん現在の不安でもあるわけです。
一見、平和で豊かな今の社会のどこかに、きっと大きな落とし穴があるのでしょう。

20年ほど前にある調査機関が、「私たちの子どもたちは私たちよりも幸せになるだろうか」というアンケート調査を実施したところ、2割の人たちしか「はい」と答えなかったそうです。
私はいろいろなところで講演をさせてもらう時に、同じ質問をさせてもらいますが、「はい」と答える人は年々少なくなってきているような気もします。

将来に希望と信頼を持てるかどうかは、その社会の本質を象徴しています。
しかし、明るいニュースもないわけではありません。
新潟中越地震の報道が毎日伝えられていますが、柏崎のある商店街で、商店街の人たちが中心になって、ご飯を炊き上げ、必要な人に自由に持っていってもらう活動を始めたことが先ほどのテレビで報道されていました。
(追記)
19日の朝日新聞で報道されました。その記事はここをクリックしてください。
そこにないときは次をクリックしてください。
朝日新聞記事(2007年7月19日)
自分たちも大きな損害を受け、その片付けに取り組みながらの活動です。
そうした「支え合い」の輪のなかに自分がいることに気づけば、きっと将来への不安はなくなるはずです。

語呂合わせではないのですが、競争原理が働いている社会と共創原理が働いている社会の違いを改めて考えさせられました。
それにしても、「将来への安心感」の大切さは、それを失って初めてわかります。
この意識調査結果は、企業関係者はもっと真剣に考える必要があるのではないかと思います。
そして、安定した働きの場がない人たちの思いやりもぜひ持ってほしいと思います。

競争原理ではなく、共創原理で考えれば、もっと多くの働きの場が生まれ、しかも競争の不安から解放され将来への展望も開けていくはずなのです。

労働政策研究・研修機構も少し発想を変えて、行動を起こしてほしいと思います。
調査は新しい風を起こすための手段なのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/17

■みなさんは私的な駐車場を横切りますか

湯島のオフィスに行く途中に駐車場があります。
ちょうど道の角にあり、そこを横切るとわずかばかりの距離短縮になります。
しかし、そこは個人の私有地ですので、私は横切ることを避けていました。
その駐車場には自動車が駐車していることが少ないこともあって、ほとんどの人はそこを横切って近道します。
私も友人知人と一緒に歩いているとほぼ必ずみんな横断しようとします。
ここは私有地だからと、私は頑なに横切るのを避けていましたが、いつの頃からか私ひとりでも横切るようになりました、
ほんの僅かな距離短縮なので、近道しようなどという考えよりも、目標先がその先に見えるので最短距離を歩こうという自然な行動の現われなのかもしれません。
自然の流れに反するのは、私の考えに合わないと勝手な自己解釈に変わったのです。
さて、みなさんならどうしますか。
距離短縮のために横切るのが合理的か、私有地を勝手に横切らないほうが合理的か、どちらでしょうか。
くだらない質問をするな、その時の気分次第だ、第一、そんなことは考えもしない、と怒られそうです。
その通り、そんなことなど考えていたら、暮らしていけないのかもしれません。
しかし、そういうことを考えてしまうととまらなくなるのが私の悪癖です。

目的地が見えるところにあり、そこにいく具体的な方法もわかっている。
ただ、少しだけ法やマナーを犯すことになる。
そういう問題に置き換えたら、少しは意味があるでしょうか。
先の国会の強行採決はその一例かもしれません。

今日、久しぶりにオフィスに行きました。
曲がり角で考えましたが、駐車場は横切らないことにしました。
少しだけのマナー破りが、社会を壊していくことにもなりえます。
社会が壊れたら困るのは私ですから。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007/07/16

■知の世界におけるホメオスタシス

稲田芳弘さんの『「ガン呪縛」を解く』という本を読みました。

革命的な医学理論であるが故に学会から抹殺されてきた千島学説がわかりやすく紹介されています。
千島学説については、以前からネットなどではサラッと読んでいたのですが、この本が面白かったという人がいたので、早速取り寄せて読んでみたのです。
いままで何となく抱いていた医学への疑問のいくつかが解消されました。
この4年間の体験のおかげで、その内容がとても納得できる気がしました。

千島学説は、たとえば「血は腸がつくる」とか「がんは血液の浄化機能を果たすために生まれる」などという考えです。
それは現在の医学の出発点にある常識への挑戦でもあります。
ですから医学学会からはほぼ無視されてきたと、著者の稲田さんは書いています。
たくさんの事例を引用していますので、とても説得力があります。
もう少し早く本書を信頼していたら、私たち夫婦のがんとの付き合いはかなり変わっていたでしょう。
もっともがんとの付き合いが浅い段階では、本書のメッセージをうまく受け止められたかどうか自信はありませんが。

いずれにしろ、医学界は千島学説に関してもっと真剣に取り組んでほしいと思います。
もし千島学説にたてば、がん治療のあり方は一変するはずです。
千島学説が正しいかどうかは私には判断できませんが、少なくとも新しい主張には正面から取り組むべきです。

学会の常識をひっくり返すような考えが生まれた場合、それが抹殺されるか無視されることは少なくないように思います。
その意味では、学問の世界は、まだ本当の「知の世界」にはなっていません。
その原因は、「知」の世界が市場化され、権力構造に組み込まれているからです。

たとえば、CWSコモンズで最近話題にした土壌菌の内水理論もその一つです。
発見者の内田護さんにお会いした時の彼の言葉はいまなお鮮明に覚えています。
彼の新発見をつぶそうとした動きがいろいろとあったようです。
その後、土壌菌は思わぬ形でブームになりましたが、しかし今なお正面から本格的に取り組まれているようには思えません。

こうしたことは技術の世界に限ったことではありません。
邪馬台国論争における古田武彦説はきちんとした反論がないと古田さんが言い続ける中で、いつの間にか忘れられたような形になってしまいました。

数十年たって、その考えが再評価されることもあるわけですが、なぜそうした新しい発見や発想は無視されがちなのでしょうか。
情報社会、知識社会と言われて久しいですが、どこかに問題があるように思います。

ちなみに、がん治療に関わっている方は、冒頭の稲田さんの本は読むに値すると思います。信ずるかどうかは別ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

■投票率で選挙結果が変わるのでいいのか

投票率で結果が変わってくる、とよくいわれます。
今回も盛んに言われています。
投票率が低ければ自民公明が勝ち、高ければ野党が勝つというのが、大方の見方ですが、これっておかしくないでしょうか。
もちろん事実は正しいかもしれません。
そうではなくて、投票率によって結果が変わること自体に問題はないのかということです。
さらにいえば、投票率を低くするために夏休みに入る7月29日に延期されたとか、地方選があったために組織票が動きにくいとか、その道の専門家はいうのですが、これっておかしくないでしょうか。
もしそういうことが在るのであれば、それはやはり糾弾されるべきことだと思います。

選挙で大切なのは、どの政党が勝つかではなく、どの政党の主張がより多くの国民の支持を得るかです。
投票率を高くするのは政府にとっての重要な課題です。
また個人をないがしろにするような「組織票」がこれほど堂々と語られていいものかどうか。
こうした一事をもってしても、日本の選挙制度は正すべきことが少なくありません。

選挙は何のためにあるのか、もっとしっかりと議論すべきではないかと思うのですが。
選挙は議員を選ぶことだけが目的ではないように思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/15

■東京大空襲集団訴訟のメッセージ

狭山再審弁護団主任弁護人だった中山武敏さんが、東京大空襲集団訴訟に関わっていることはCWSコモンズでもご紹介しました
先月行われた講演会には私は参加できませんでしたが、今月の軍縮問題資料(8月号)で中山さんが「東京大空襲訴訟が問うもの」という一文を寄稿しています。
それを読んで、改めてこの訴訟のメッセージの大きな意味を再認識しました。

この裁判は、東京大空襲による民間人被害者が集団提訴したものです。
中山さんからのメールにはこう書かれていました。

改憲の動きが強まる中で、若い世代に再び戦争の惨禍の苦しみを与えてはいけないと東京大空襲の遺族、被災者112名が原告となり、被告国に対して謝罪と損害賠償を求める訴訟を提起されました。
原告らは高齢であり、「このままでは死ぬに死に切れない」との思いで国の責任を問う最後の機会として提訴を決意したのであり、この原告らの願いに答えることが法律家としての使命である」と考えて、中山さんはその代理人を引き受けたのです。
中山さんは「この裁判は「人間回復」を求める裁判なのです」と言います。

できれば「軍縮問題資料」8月号を読んでほしいのですが、とりあえずこの小論から2か所を引用させていただき、みなさんにもいろいろと考えてもらえればと思います。
今回は余計な私見は書きませんが、とても重要な問題が指摘されているように思います。
決して「過去の話」でも「東京の話」でもありません。

東京空襲は日本軍の国際法に違反した中国戦線での都市無差別爆撃が先行行為(原因) となり、アメリカの対日政策に大きな影響を与え、日本軍の撒いた種が、より大規模な無差別爆撃として東京、日本各都市空襲、広島、長崎への原爆投下と繋がったものである。

平和のもとで平等に人間らしい生き方を保障している憲法のもとで、軍人・軍属と差別し、戦争の被害については、「すべて国民が等しく受忍しなければならない」ものといった戦前の旧憲法下の人権感覚の判決は司法の権威を失墜せしめ、何人をも納得せしめないものである。東京空襲の裁判は、これまで述べているように東京空襲被害当日の被害のみでなく、戦後も国が民間人の被災者を切り捨て、何らの救護、補償をなさず放置し、人間の尊厳を奪ってきたことに対しての責任を問うものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/14

■政治生命を賭ける

民主党の小沢代表は今回の参院選に「政治生命のすべてを賭ける」と言明しています。
時々、この言葉を聞きますが、いつも奇妙な気がします。
女房にどう思うか訊いてみたら、「いつもはあまり政治生命をかけていないってことじゃないの」といともあっさりと言うので、ちょっと拍子抜けしてしまいました。
でまあ、そこからが短絡的なのですが、今回は民主党は負けるような気がしてきました。
もっとも、私の選挙予測は当たったことがありませんが。

しかし、選挙に政治生命をかけても、政治に政治生命をかけない民主党は信頼を得られないでしょう。
専門家はつねに専門家としての生命をかけて仕事をすべきです。
私でさえも、仕事であれば真剣に取り組みます。そうでなければ、仕事など継続してやらせてもらえません。
それが個人の名前で仕事をするということです。
あえて、「政治生命を賭ける」と表明することは、いつもは手を抜いているということでしかありません。
いや、そう思われても仕方がありません。

それに、小沢さんの政治生命などは日本の政治の行方に比べたら、瑣末な話です。
小沢さんの支持者にとっては意味のある言葉かもしれませんが、私などはどうぞご勝手にと思います。

この言葉には小沢さんの傲慢さと勘違いを感じます。
政治家としてはもう終わった人だと改めて思います。
それに政治生命をかけるなどというのは、公言すべき言葉ではなく、深く心に思うことではないかと思います。

日本の政治の流れが変わるのはもう少し時間が必要なのでしょうか。
その間に、どれだけのものが壊されるのか、不安でなりません。
せめて憲法9条だけは残ってほしいですが、野党のいまの状況ではなかなか安心もしていられません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/13

■患者を待たせる医師を育てたのは誰か

病院で2時間半待たされてしまいました。
予約制の外来診察なのですが、いつも予約時間から1~2時間は待たされます。
1時間程度であれば、我慢できますが、2時間を越えるとかなり精神的にも疲れます。
患者は女房なのですが、体調がかなり悪いので、身体にもこたえます。
低反発の座布団を持参したり、軽食を用意したりして、何とかがんばっていますが、2時間を超えると身体的にも限度を超えてしまうようで、私と違って我慢強い彼女も今回は何のための予約時間なのだと不満をいいながら、ソファにもたれたりしていました。
2時半の予約が、受診が始まったのは5時過ぎです。
さすがに今回は、女房も医師に「今日は待ち疲れました」とチクリと言っていました。
ちなみに診察時間は5~6分です。
病院での2時間半の待ち時間のせいかどうかはわかりませんが、その後、あまり調子は良くなく、3日経過した今日もまだ元気がありません。

もちろん医師もさぼっているわけではありません。
昼食も食べずに診察を続けているのです。
医師もがんばっているのだから患者も待つくらい我慢しようというのが私たち夫婦の考えでした。
実は今回も、初めてこの病院に来たという老夫婦がいました。もう1時間以上待っている、受付の人に訊ねてみようかどうか、と話しているのが聞こえたので、ついついここでは1時間程度は普通なので、心配ないですよ、などと物知り顔に話してしまいました。
多忙な医師に対して、患者が出来ることは待つくらいかもしれない、と思っていたわけです。

しかし、こうした考えこそが一番悪いのかもしれません。
世の中をだめにしているのは、そうした中途半端な「良識人」かもしれません。
今日はそれを痛感しました。

前にも書きましたが、この問題を解決するのはとても簡単です。
私が仕事で相談を受けたら、すぐにでも解決できる問題です。
実は以前この病院で「患者と医師とのコミュニケーション」に関するアンケート調査がありました。そこに少し書いて提出したこともあります。
今回はその解決策を書きたいわけではありません。

今回、気づいたのは、こういう状況を創りだしているのは誰かということです。
病院は英語では「ホスピタル」です。
ホスピタリティにつながっています。
ホスピタリティとは「同じ立場で気持ちのよい関係を創る」ことです。
予約時間は「約束」ですが、その約束を守らずに2時間も患者を放置しておくことは、ホスピタリティとは正反対のことです。
そのことをおかしいと思わない医師は、医師として失格でしょう。
患者を診る資格などありません。
とまあ、ここまでであれば、私も以前から思っていたことです。

今日、気づいたのは、そうしただめな医師を増やしているのは、患者である私たちではないかということです。
ホスピタリティはサービスとは違い、双方向の関係ですから、予約時間の「約束」を守らないことを受け入れてしまう患者にも問題がありそうです。

忙しい医師は、病気を診ても病人を診る余裕はありません。
ですから待合室の風景など思いもよらないのかもしれません。
介護保険制度の設計者が、介護の現場の大変さに気づかないのと同じことかもしれません。こうしたことはさまざまなところにあります。

当事者が声を上げずに誰が現状を正すのか。
つまり2時間半待たされたのは、結局は自業自得なのではないかと気づいたのです。
おかしいことをおかしいと言おうと、数年前に書きました
それが出来ていない自分に気づいたわけです。

現実を直すのはいつも自分からです。
人生は本当に疲れます。
直すよりも、その現実に馴染んだほうが楽に生きられます。
病院でいつも1~2時間待っていたのは、そういう利己的な生き方の象徴だったのです。
いやはや滅入ってしまいます。

いろいろと反論が来そうですね。
責任は医師でも患者でもないといわれそうですが、まあ今回はここでやめます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/12

■生活保護と格差社会

昨日、生活保護について書いたら、「生活保護の考えを根本から変えるべき時期にきている」というのはどういうことかと質問されました。
生活困窮者を保護すると言う発想を見直し、生活困窮者が増えていく社会のあり方を問い直す必要があるという意味だったのですが、うまく伝わらなかったかもしれません。
「保護」という姿勢に、私は大きな違和感があるのです。

ちなみに生活保護世帯数ですが、この10年、増加傾向にあります。
このこと自体。いまの社会のあり方が間違っていることの証左ではないかと思います。
生活保護世帯が増えていることと格差社会とはどうつながるのでしょうか。

貧しさには、絶対的な貧しさと相対的な貧しさがあります。
絶対的な貧しさとは、生存が維持できない状況のことです。
人はすべて繋がっているという発想に立てば、それは当事者の問題ではなく、社会の問題です。
相対的な貧しさは、実はこれとは全く違う話です。
生活は維持できるが、隣人の暮らしぶりなどに比較すると貧しさを感じてしまうというものです。
絶対的貧しさは「存在するもの」ですが、これは「つくられた貧しさ」です。
近代の産業は、こうした「つくられた貧しさ」に、その発展の源泉を置いています。
「顧客の創造」とは、そういうことです。
だからこそ、それとは別の視点で貧しさの問題に取り組むことが必要になります。
それが政治の役割です。

一見貧しそうに見えても、本人はむしろ豊かさを感じている場合もあります。
開発途上国の社会や、日本でもたとえば長崎県の離島での暮らしは、所得額は低くても一概に貧しいとはいえません。
そうした人たちに、貧困感を植え付け、市場を拡大してきたのが、この数世紀の産業発展だったといってもいいでしょう。
テレビは、そうした面で大きな働きをしました。いや、今もしています。

経済発展は貧富の差をなくすことではなく、貧困を利益がとれるかたちに作り直し、結果として貧富の差を拡大することだと言ったのは、イバン・イリイチです。
いわゆる「貧困の近代化」論ですが、おそらく近代産業は絶対的貧困層を、少なくとも数の上では増やしてきたはずです。
これは多くの人の常識には合わないかもしれません。

私たちは経済の発展を富の増加と考えがちです。
しかし、それは同時に、富の偏在を加速させることでもあります。
問題は、誰の富を増加させるかです。そして、その半面で誰の富を奪うかも視野にいれていかねばなりません。
南からの収奪が北を豊かにし、同じ国内でも富の偏在を進めることで、経済活動は活発になり、成長が実現します。
ブッシュ政権や安倍政権は今でも声高らかに「成長」を呼びかけます。
しかし、そうした成長の結果、貧しさもまた増幅しています。
格差がますます大きなものとなっているわけです。

その格差拡大は2つの種類の問題を起こします。
一つは相対的な貧困層の増大です。
しかし、実はもう一つ、絶対的貧困層もまた増大させていることを見落としてはなりません。
相対的貧困層は「清貧」な生き方になることで豊かさを獲得できるかもしれません。
しかし、絶対的貧困層はどうすればいいのか。現実に「ごはんが食べられなくなる」のです。
人のつながりが失われてしまった社会で、健康を害してしまったら、途方にくれてしまいます。
その時に、果たして生活保護行政は支えてくれるのでしょうか。たぶん難しいでしょう。
その証拠は新聞記事からいくらでも見つけられます。
在留孤児だった人が日本に来て、みんながみんな暮らしがよくなったわけではありません。

今回の事例もそうですが、生活保護を受けることはまじめに生きてきた人にとっては、とても難しいことなのです。
そういう人には、行政職員もあまり関わりたくないのです。財政状況も厳しいですから。

しかし考えてみてください。
難病の子どもの米国での手術のために億単位のお金が集まるほど「豊かな社会」です。
同じ地域に住む生活困窮者を放置しておかねばならないほど、全体としては絶対的貧困状況にはないのです。つまり社会の設計のどこかに問題があるのです。
正確に言えば、その「問題」に依存して豊かさを享受している人がいるということです。
格差社会の問題は、異質の2つの問題が混在しています。
少なくとも、生活保護に繋がるような状況はもっと真剣に考えなければいけません。
私もあなたも、いつそうした状況に陥るかわからないのですから。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/11

■生活保護ってなんでしょうか

今日の朝日新聞の夕刊の記事です。

北九州市小倉北区の独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たったとみられる状態で10日に見つかった。男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。
痛みに耐えた結果でしょうか。
この人はきっと「おにぎりを食べる」よりも働きたかったでしょうね。

同市では最近、毎年、こうした悲劇が起こっています。
いやこれは氷山の一角でしかないように思います。日本中に広がりだしている状況かもしれません。
みなさんにとっては、無縁の話でしょうか。
私には決して無縁の話ではありません。
私の周辺でも、最近はこれに繋がるようなことが少なからず起こっています。
いや、私自身も、いつ同じようなことにならないかとも限りません。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、不幸は突然に来るものです。
想像力の問題かもしれません。

北九州市は福祉分野では先進的な都市です。
北九州市が福祉の面でモデル的な展開をしたのは、それだけの事情があったからです。
数年前に知り合った北九州市役所の生活保護の仕事をしてきた職員から、その大変さを聞かせてもらいました。とても感激しました。現場での汗の多さが福祉行政を支えていることを実感しました。
その翌日、その課長がわざわざ1冊の本を持ってきてくれました。
「軌跡 北九州市・生活保護の30年」という本です。
帰りの飛行機の中で読ませてもらいました。
生活保護というのは、時代との闘いなのだなと知りました。
しかし私には縁遠い話に感じていました。

ところがです。
3年ほど前から、そうした話が決して縁遠い話ではない状況になってきました。
具体的には書きませんが、生活保護の相談に行ったらどうかというアドバイスをすることが立て続けに起こりだしているのです。
しかし実際に行政や社会福祉協議会に相談に行っても、なかなか相談には乗ってもらえないようなのです。
その現実が少しずつ見えてきたのです。

格差社会論も盛んですが、こうした現場の実態をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
格差は活性化の要素であり結果かもしれませんが、困った人を救えないような社会が住みやすいはずはありません。
いまどき「平等」は流行らないようですが、行き過ぎた格差は活性化さえも損なうはずです。いや、社会そのものの安定性や効率にも関わってきます。そうしたことから無縁な人はいないはずです。その結果、絶対権力を持っていた大統領ですら殺されることもあるのです。

年金を心配するのもいいですが、セイフティネットにこそ関心を高めていかねばいけません。それこそが社会の基本なのですから。

改めて宮沢賢治の「みんな幸せにならないと自分も幸せにならない社会」を目指すか、「だれかの不幸せの上に自分の幸せを築く社会」を目指すか、を考えたいものです。
あなたはどちらを望みますか。
そろそろ生活保護の考えを根本から変えるべき時期にきていると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/10

■嫌いな民主党への提案

私は民主党が嫌いです。
組織としてのアイデンティティが不在なのとビジョンが語れないからです。与党は守りでいいのですが、野党はビジョンを語れなければ、単なる反対政党になってしまいます。反対だけでは、新たな歴史は切り開けません。よほど現状がひどくなければ多くの人を吸引できないでしょう。
民主党が嫌いな、もう一つの理由は、野党としてのリーダーシップが意識されていないことです。党内では過ぎるほどの「大同小異」を受け入れながら、党外に対しては「連帯」の姿勢が感じられないからです。そこに歴史観の不在を感じます。

言うまでもありませんが、自民党はもっと嫌いです。犯罪者集団ではないかと思うほどに嫌いです。
もっとも個人的には共感できる人もいます。しかし自民党は好きにはなれません。聞いただけで虫唾が走ります。
ちなみに民主党には知人友人が数名います。それぞれに思いもある、良い人です。しかし民主党は好きではありません。

その二大政党が、今度の参議院選挙で覇を競うわけです。
前にも書きましたが、この2党は私には双子にしか見えませんから、政策ではなく権力で戦うとしか見えません。
いずれが勝つかは、私には興味がありませんが、国会や国民を無視して強行採決を繰り返しながら、格差拡大を進めている自民党政府には政権の座から降りてもらいたいと思っています。
このままだと、場合によっては、憲法さえも強行採決的手法で変えてしまいかねません。小泉内閣以来、自民党政府はクーデター内閣です。
ですから、ここは嫌いな民主党に勝ってもらいたいと思っています。

しかし、その民主党の掲げたマニフェストにはこれまでの延長でのメッセージしか感じません。しかも網羅的です。
これでは国民は吸引できないのではないか。
もっと具体的で単純明快なメッセージを出すべきではないでしょうか。
たとえば、「雇用を守り、格差を正す」とありますが、この「格差」是正だけに焦点を絞って、格差が縮小され、しかも活力のある社会を目指して、「格差を壊していく」というような呼びかけにしたらどうでしょうか。そのなかに具体的実践的なプログラムを打ち出せばいいのです。年金や児童手当などは行政の言葉であって、政治の言葉ではないように思います。年金不安や少子化の根底にある問題に焦点を当てるのが政治です。
あるいは、憲法問題に焦点を当てて、「戦争をしないで成功した歴史をまもっていく」でもいいでしょう。憲法を変えるかどうかではなく、戦争をするかどうかに焦点を絞れば、これも実際に戦争にやらされる若者たちを観方に出来るでしょう。
もっといえば、憲法9条を変えようとしている人たちをイラクに派兵するというスローガンはどうでしょうか。小泉元首相と安倍前首相にはイラクの前線に行ってもらうという公約はどうでしょうか。いや、そうなったら小澤さんも岡田さんもイラクに行かないといけなくなりますね。この提案は撤回です、はい。
いずれにしろ、もう少し魅力的な呼びかけメッセージを考えないと民主党への投票は増えないのではないかと、とても不安です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007/07/09

■赤城事務所経費事件で気になること

政治の世界は、相変わらずやりきれない報道が多く、選挙への関心も失いそうになる毎日です。
書いても愚痴にしかならないのですが、やはり書きたくなりました。

今日、残念に思ったのは赤城事務所経費事件に関する赤城農相の言動です。
毎日新聞のネットサイトには、こう書いてあります。

赤城農相は8日夜、記者団に「(父親の7日の発言は)単純な誤解。長年、後援会の方に集まってもらい、いろいろな会合を行ってきた」と述べた。さらに野党が要求している経費の詳細な公表については、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」と改めて拒否した。
顕在化している問題は、私にはあまり興味がありません。
そんなことみんなやっているでしょうに、と白々しさを感じてしまうわけです。
それにもっと大きなところでおかしなことをやっているでしょうから、この程度の額などは私には瑣末に思えます。
しかし、今回の事件は3つのことが気になります。

第1は、赤城農相は父親に嘘を強要しているのではないかという疑念です。
テレビで2回観た父親は善人そのものに見えました。
最初は事務所などには使っていないと言い切り、発言撤回した後も、息子から事務所経費をとるバカはいないでしょう、と明言しています。
まさに善人の顔です。顔で評価してはいけませんが。
その父親に発言撤回させる息子に哀しさを感じました。

第2は、「法律で公表する必要がないのであれば、まさにその法律の趣旨の通りに運用すべきだ」という赤城農相の発言です。
松岡農相と同じ論理です。
正義や公正に関する自分の考えのないことを表明しているわけです。
つまり主体性がないということです。
主体性がないことが最近は閣僚になる条件かもしれませんが、日本の学校教育の成果をまざまざと感じます。優等生の悲しさを感じました。

そして第3は、その法律をつい先ごろ、強行採決した人物が彼を任命していたことです。
ザル法とさえ言われた法が、まさにザル法であることを自分たちで証明したわけです。
真摯な議論をせずに、強行採決するということの意味が多くの人に伝わるといいのですが、それをアピールする技も力も意志も、今の野党にはないでしょうから、これはあまり見えてこないいかもしれません。
両院の議長の国会終了のメッセージの意味を改めて思い出しました。
強行採決とは何なのかは、もっとしっかりと認識すべきではないかと思いますが、あまり誰も議論をしません。
この事例をもとに、強行採決がどれほどの「犯罪」なのかを、どこかのマスコミが問題にしてくれないものでしょうか。
法律で禁じられていないから、悪いことではないと、みんな思っているのでしょうか。
私は「犯罪」以外の何ものでもないと思っています。
それをゆるした野党の責任も含めて、です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/08

■地方ごと、人ごとに時間があります

久しぶりに時間の話です。
世界標準時なるものがありますが、これが世界の画一化の第一歩だったのかもしれません。
人間のリズムの数倍の速さで、物理的な距離を移動できる自動車や飛行機によって、あるいは瞬時につながる通信手段の実現によって、世界各地の時間はつながってしまいました。
そして自然に合わせて生きていた私たちは、時間に合わせて生きなければいけなくなってしまいました。

私は基本的に時計を持たずに暮らしていますが、時間から自由になったわけではありません。
相変わらず時間に合わせながら暮らしています。
意識の上では文化の多様性が認められる一方で、世界標準時をベースにした画一的な時間を踏まえたライフスタイルが世界を席巻しているように思います。
エンデの寓話「モモ」を持ち出すこともないほどに、表情のない機械基準の時間は私たちの文化を画一化しているような気がします。

時間で管理されるということは多様な文化の存続には大きな障害になるでしょう。
どんな場所にいても、時間が来ると聖地を向いて礼拝するイスラムの人たちが異様に感じられることは、そのことの証左です。
日本国内においても、地域時間があるように思います。
私個人の体験においても、東京にいる時と地方に出かけた時とでは、明らかに時間の流れ方が違います。
山手線の駅だと5分も電車が来ないとイライラしますが、ローカル線の駅ならば30分待たされてもなんとも感じません。

地方で会議などをやると、定刻になっても人が集まらないことがあります。
以前は、「定刻より30分遅れるのが**時間」(**にはその地域の名前が入ります)などと主催者が話すこともよくありました。
最初は違和感がありましたが、それはそれで合理的だなと私は奇妙に納得していましたが、最近は残念ながらみんな時計通りに集まることが多くなってしまいました。

暮らしに時間を合わせるのではなく、時間に暮らしを合わせるようになったのです。
文化は退屈になるはずです。
時間意識は大きなソーシャル・キャピタルでもあります。
時間が共有化されていることが無駄をなくし、信頼のためのコストを削減しますから、論理的にはみんな暮らしやすくなるはずなのです。
しかし、何となく、それでいいのだろうかという気もします。

言葉は文化の本質です。
言葉をそろえることはコミュニケーション効率を高めましたが、そこで抜け落ちた文化や知恵はたくさんあるでしょう。同じことがきっと時間についてもいえるはずです。

よく時間だけはすべての人に平等に与えられているといわれます。
私は、全くそうは思いません。
機械時間はそうかもしれませんが、時間の長さは、実は人それぞれです。
介護や看護に取り組まれている方は、きっとそれを実感しているはずです。
それを無理やり、単一の管理時間に合わせる社会を作った結果が、いまさまざまなひずみを起こしているのかもしれません。
それぞれが自分の時間で暮らしていける社会。
自分たちの暮らしにあった時間をもてる地域社会。
時間というもののあり方を改めて考えてみることも大切なことではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/07

■国民をわくわくさせる政治家はいないのでしょうか

これほど自民党の人気が低下しているのに、民主党の人気が盛り上がりません。いや存在感すらありません。
自民党と民主党は双子の兄弟ですから、まあ仕方がないのかもしれませんが、この大事な時期に戦略が見えてきません。
それだけではありません。
新党日本の解党騒ぎや国民新党の日和見言動など、いずれもしっかりしていません。
政党の時代はもうとっくに終わっていると私は思ってはいますが、それにしても情けない状況です。
自民党は与党としてのリーダーシップを発揮できていませんが、民主党も野党としてのリーダーシップを発揮できていません。
いずれの側も、わくわくさせるメッセージが見えないからです。

いま政治への関心は決して高くはありません。
年金問題への関心は高いかもしれませんが、所詮は行政課題です。
政治への関心を高めるのは、問題解決ではなく社会創造的なビジョンや課題です。
日本はどこに向かうのかのビジョンでいえば、いまは「戦争が出来る国家」へというビジョンくらいでしょうか。それに代わるビジョンは何も見えません。

憲法を変えるというのも、憲法を護るというのも、国民をわくわくはさせません。
そもそも「憲法を変える」などというのは同床異夢の中身のいい加減な命題でしかありませんし、「憲法を護る」もこれまでを振りかえると虚しさがあります。
最近の政治家は「変える」「壊す」「改革する」「護る」などという手段用語しか語りません。積極的な実体概念が語られないことが多いのです。
ビジョンがないか知識がないかのいずれかの結果ではないかと思いますが、もっと国民をわくわくさせるようなメッセージはないものでしょうか。
これは国政に限りません。
地方政治に関しても、住民をわくわくさせるようなメッセージを打ち出す人がもっといてもいいように思います。

いま、私たちが直面している課題は何なのでしょうか。
国民がわくわくするような、そんなビジョンを打ち出す政治家はいないのでしょうか。
「ないものねだり」かも知れませんが、そう思います。
政治とは一体なんなのでしょうか。もう一度、原点にかえることも必要かもしれません。
政治家が政治を壊してしまったのではないかという気がしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/06

■今度の選挙は年金選挙でしょうか

国会も閉会し、いよいよ選挙です。
7月の参議院選挙は「年金選挙」と言われているようです。
それでいいのでしょうか。
いま問われているのは、年金などではないように思います。
もっと大切な問題があるはずです。
いうまでもなく「憲法9条」の問題です。
私たちが再び戦争を行うようになるかどうかの瀬戸際なのです。

問題は単に軍備の問題ではありません。
国家としてのビジョンであり、国家の形の問題です。
憲法9条があってさえも、政府はそれをないがしろにして、イラク派兵を決め、軍備を増強してきました。
違憲審査など気にもしてこなかったわけですし、司法さえも取り込みにほぼ成功しているように思います。
ナチス前夜などとは言いませんが、どこか似ています。
映画「日本の青空」やNHKの番組などによって、現在の憲法の成立過程の実態もかなり情報公開されだしましたが、そうした動きに棹差すように、憲法を変える動きは強まっています。
今のままだと、前回の戦争での教訓は失われてしまいかねませんし、日本のアイデンティティもまた混乱しかねません。

久間発言は波紋を広げていますが、それが本当の問題(戦争放棄理念の危機)を隠すことになることを危惧します。
まさに軍備派には思う壺です。
被爆者やその遺族の方々の怒りはわかりますが、目の向けどころが違うように思います。
その結果、むしろ本当の問題を見えなくしてしまい、気が付いたら自らもまた原爆に加担している国家になりかねません。
今の米国のように、原爆投下の正当性を言い出す国に向かわないとはいえません。

久間発言が瑣末なこととは言いませんが、問題はむしろ日本という国家が戦争のできる国へと移行しようとしていることであり、それをもっと問題視すべきでしょう。
いま議論すべきは、一人の人間の発言ではなく、政府の動きではないかと思います。
9条がなくなった時に、「しょうがない」などと振り返っても、それこそしょうがないのです。

年金などは、それに比べたら瑣末な問題に思えてなりません。
久間発言もこんなに大きな話題にすべき問題だとはどうしても思えません。
私の感覚がおかしいのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/05

■産業のジレンマと医療のジレンマ

昨日の記事はいささか舌足らずで、何を言いたかったのかあいまいなので、少し補足します。

死に向かう医療のパラダイムは、近代の産業パラダイムと同じで、結局はそのシステム自体が「死に向かう」ことになるのではないかというのが、言いたかったことなのです。
産業のジレンマに関しては、これまでも何回か書きました。
要は、現在の産業は、問題解決(社会ニーズ)のために存在しますが、ドラッカーが早い時期に指摘したように、顧客創造が目的になり、結果的に問題解決ではなく、問題創出(市場創出)というジレンマに陥る構造になっています。
生活に不安があるほど生命保険は売れ、自動車事故が多いほど自動車は売れます。
商品陳腐化戦略は成長戦略、競争戦略の基本の一つです。
その結果、持続可能性が問題にされるほど、社会は市場として浪費されてしまいました。

こうしたことはほんの一例でしかありません。
近代産業は、その内部に大きなジレンマをかかえています。
産業によって私たちは幸せや豊かさを得たということ自体、実はその産業のジレンマに内在されているわなの一つでしかありません。

産業は自己の内部に市場を拡大する手段を持っています。
環境問題に関して、昔少しだけこのことを書いたことがあります。
静脈産業論がまことしやかに語られていた頃のことです。
CWSコモンズに掲載しています。
そうした産業のパラダイム、さらには経済のパラダイムを変える必要があると、私は思っています。

ところで、医療ですが、現在の医療もまた、こうした近代の産業パラダイムに引きずり込まれています。
医療費の高騰は必然的な結果です。
それを回避するためには、一種の民営化発想がとられます。
つまり、負担能力のない人は健康保険の対象から外し、医療制度は市場主義に向かい、医療の産業化が進みます。
医薬産業や医療機器産業の市場拡大により、医療産業へと医療の世界は民営化していきます。

医療の基軸が「人間の暮らし」から「産業」へと移行してきているのです。
産業としての医療は、病人が顧客になります。
病人が病気を維持している限り、市場は確保されます。
このあたりは、すでにイバン・イリイチをはじめとしてさまざまな指摘がありますが、身近なことを考えても納得できるのではないかと思います。

たとえば、私の例で言えば、昔は1回で終わった歯医者がいまは半年かかります。
まあその分、徹底的に直してくれるので、私自身も納得はしていますが、これは患者にも見える事例です。
しかし、たとえばメンタルケアの場合や成人病などはどうでしょうか。
いささか大雑把過ぎる説明ですが、医者は自分で患者を作れるのです。
顧客を創出することが経営と考えている経営者と同じです。
かなり誤解されそうですが、そうした発想が今の社会を覆っています。

そのパラダイムを転換するにはどうしたらいいか。
生を目指す医療に発想を切り替えていくことではないかと、私は思います。
基本を治療から治癒へと変えていくわけです。
それが昨日言いたかったことなのですが、補足になったでしょうか。
あんまりなっていないかもしれませんね。

最近、ナラティブという発想が医療の世界で広がっています。
まさにコラボレーション医療ですが、そこに大きな期待を感じています。

また舌足らずの書き込みになりましたが、昨夜、ベッドに入ってから、今日書いたことの意味は何だったのか自分で反芻してみて気になってしまったので、今朝早起きをして補足を書かせてもらいました。

ちなみに、福祉の世界も、教育の世界もまた、同じ動きにあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/04

■死に向かう医療、生を目指す医療

今日は暴論です。
まあ、いつも暴論かもしれませんが。

女房ががんになったために、がんを通して医療の問題を考えることが多いのですが、近代医学のありように関してもいろいろと考える契機になりました。
がんという病気が特殊なのかもしれませんが、特殊なものにこそ、本質が現出します。

がんの場合、医師と話していて感ずるのは「がん=死の病」という呪縛です。
その根底には、近代医学のもつ病気観があります。
医師はがんが治るとは考えていないことが伝わってきます。
昨日、緩和医療の医師と話したのですが、医師は病状がだんだん悪くなるという前提で話をします。
つまり「死に向かう発想」で取り組んでいるわけです。
私たちのように、治ることを前提として立ち向かっている者には、とても違和感があります。
最近はそうした医師の姿勢に抗うのはやめることにしています。
近代医学というものの本質が理解できれば、それもまた受け入れることが大切だという考えにやっと私もたどり着きました。

ちなみに、「病院」という呼び方もそうですが、緩和医療(ケア)という表現にも、そうした発想の象徴的な現われです。

人間の人生の大半は「死」に向かっての歩みだという考えもあります。
いやそういう考えがむしろ普通かもしれません。
10歳を超えたら、生物的には滅びに向かいだすともいわれます。
しかし、それは一つの価値観に基づく評価でしかありません。
発達心理学の理論では、人間は死ぬまで発達するという捉え方もあります。

この4年、女房のがんを通して感ずることは、パスツール以来の近代医学は、結局は「死に向かう医療」の呪縛から抜け出ていないのではないかということです。
希望を根底におくことのない医療は、病気を治療しても人を治癒することはできません。
余命3か月などという、いかにも近代科学的らしい発想がでてくるのも、そのせいではないかと思います。

そうした「死に向かう医療」に対して、「生を目指す医療」があります。
私も最近知ったのですが、サイモントン療法というがんの心理療法があります。
その瞑想のためのCDがあるのですが、そのナレーションに次のような呼びかけがあります。

がん細胞は弱くて不安定な、混乱した細胞です。
がん細胞は私たちを攻撃したりしてはいません。
白血球は、常にがん細胞に攻撃をして、常に勝ちます。
あなたの体が喜びに導かれ、本質に気づき、ごく普通の働きをはたしはじめたとき、
あなたの白血球があなたの弱いがん細胞に働きかけて、正しい役割をはたします。
そして、そのがん細胞をどんどん取り除いていきます。
これはナレーションの一部ですが、そこには生に向けての希望を感じさせます。
こんなナレーションも出てきます。
病気が、何かを私たちに伝えようとしていることを思い出してください。
常に病気というものは、思いやりあるメッセージを発しています。
ヒポクラテスの医療とパスツール以来の医療とでは、何が変わったのでしょうか。
確かに病気を治す点では、大きな前進がありました。
しかし肝心の生命への意識やケアは、むしろ後退しているのかもしれません。

最近、医療訴訟が増えています。
その原因は、医療パラダイムに原因があるような気がしています。
病気は、医師が治したり諦めたりするものではありません。
治すのも諦めるのも、患者自身です。
病気に立ち向かっている患者にとって大切なのは、「治療」ではなく「治癒」なのです。

医師と患者のコミュニケーションではなく、医師と患者のコラボレーションが必要なのではないかと思いますが、近代医学のパラダイムはそれを拒んでいるように思えてなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/03

■儲け型経済から稼ぎ型経済へ

株主総会シーズンも大きな波乱なく終わりました。
企業業績も好調のようです。
しかし、企業業績好調のわりには、社会はそれを実感できずにいるようです。

守田志郎さんは、私が学んだ数少ない経済学者です。
いや経済学者ではなかったかもしれませんが、私が若い頃に経済の刺激を受けたのは、守田さんと玉城哲さんです。
経済学が嫌いになったのは、大学で玉野井芳郎さんの経済学を受講したためです。
私には理解できなかったのです。
それから10年、この2人の著作に出会った時には、それこそ目からうろこでした。生きた経済学に触れた気分でした。ちょっと経済学アレルギーがなくなりました。
そしてその後、経済学に興味を持つ契機になったのは、また玉野井さんでした。
沖縄大学に移ってからの玉野井さんの著作は、実に刺激的でした。
私はそこで「コモンズ」の発想を学びました。

まあ、そんな思い出はともかく、今日、庭仕事をしながら、なぜか守田さんの言葉を思い出しました。
守田さんは、著書の「農法」(農山漁村文化協会)でこう書いています。

農業は稼ぐ業であっても、儲ける業ではない。
守田さんは「稼ぐ」と「儲ける」とを峻別しています。
稼ぐとは「家業に精出すこと。励み働くこと」。
それに対して儲けるとは「ひかえを置くこと、利益を得ること」だといいます。
農業では「余剰」を残しておくことはできないのです。
たとえば、先週、わが家にたくさんのトマトが届きました。
3か所から手づくりトマトが届いたのですが、我が家だけでは食べきれません。
しかし、保存は難しいです。腐らせるのが関の山です。
なくなったころに届けばいいのですが、自然に左右される野菜はだいたい同時期に収穫になります。ですから当然、同じ時期に重なってしまうのです。

ではどうするか。
お裾分けです。
農家の人たちはお裾分けが大好きです。
それはまた自らのセーフティネットでもありました。
そして、そこにはコモンズ型の経済理念が感じられます。
稼ぎではなく儲け中心の最近の経済とは全く違う枠組みが感じられます。

守田さんは、さらにこう書いています。

「稼ぐ」と「儲ける」という言葉は、反対のことをいいあらわしている、とさえいえる。「稼ぐ」は、「家業に精を出す」ということで、この言葉の中には、物を右から左へ動かしただけでの利益とか、人を働かせて得をするとかいった儲けの精神はひとかけらもない。
もっとも、百姓は「農業」とは別に「稼ぎ仕事」もしていました。
しかし、そうした稼ぎ仕事(「余稼ぎ」という言葉もありましたが)も、まさに余剰のためではなく、生活のためでした。
つまり、「稼ぎ」は自分が汗をかき、「儲け」は他人が汗をかくのです。

長々と書きましたが、最近の社会はどうでしょうか。
稼ぐ人よりも儲ける人が増えてしまいました。
今朝の新聞に政治家などの所得一覧が出ていましたが、彼らは稼いでいるのでしょうか。儲けているのでしょうか。

業績を上げている会社はどうでしょうか。
汗して働く人たちがしっかりと報われる経済システムが出来ないものでしょうか。
そうすれば格差社会などは解決するでしょう。
格差社会は、儲けることを基本とした経済社会の必然的な結果ではないかと思います。
儲け型経済から稼ぎ型経済へ、と戻っていくのはどうでしょうか。
その先にはきっと「働き型経済」があり、さらには「暮らし型経済」があるように思います。
経済の原点に戻って、パラダイムシフトすべき時期に来ています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/02

■新しいM&Aの時代

今年の株主総会の時期も、大きな異変はなく終わったようです。
M&A時代の到来に大きな不安を持っている私としては、まあホッとしました。
昨今のファンド主導のM&A(企業の合併・買収)の広がりは、私の企業観、経営観には全く整合しないのです。
昨今の企業価値論やコーポレートガバナンス論にも大きな違和感があります。

ところが、これからはまさに「M&Aの時代」でなければいけないと言う人がいます。
一条真也さんです。
私が敬愛する企業経営者です。
一条さんの新著「龍馬とカエサル」のあとがきにこう書いています。

私は一人の経営者として、ミッション(使命)とアンビション(志)の二つを真の「M&A」として大切にしていきたいと思う。(中略)これからは「ハード」よりも「ハート」、つまりその会社の思いや理念を見て、顧客が選別する時代に入ると確信している。そのときに、最大の武器となり資産となるものこそ、「M&A」なのである。
使命感(Mission)と志(Ambition)。
まさに企業の原点だったはずです。
昨今の企業がさまざまな問題を起こしているのは、その「M&A」が見失われてしまったからです。
企業の病理を正すのは、それを構成している経営者や社員です。
まずは経営者や社員が「心」を取り戻すことです。
そして、初心に戻って、「M&A」を思い出すことです。
ミートホープの田中社長も創業の頃の思いを思い出してほしいです。
最初から「悪事」を働こうなどと思う人はいないはずです。

どこかで死刑判決を受けるほどの悪事にかかわらざるを得ない現実が多すぎるのが今の日本社会かもしれません。
それを正すことから、安田弁護士は構想すべきだったのではないかと思います。

最近、このブログで書いている事件は、すべて繋がっています。
小手先で「対処」するようなことの恐ろしさに、そろそろ気がつきたいと思います。

一条さんの「龍馬とカエサル」の紹介は私のホームページに載せました。
よかったら読んでください。
とても示唆に富む、読みやすい本です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/07/01

■言葉狩りの時代

「原爆投下はしょうがない」。
久間防衛相の原爆をめぐる発言が問題になっています。
野党にとっては格好な題材でしょうし、マスコミも話題にしやすい事件です。
私は「言葉」にはかなりこだわるタイプですが、この件に関してはあまり気になりません。
たとえ防衛相の発言であっても、です。
むしろ最近の「言葉狩り」の風潮に嫌気を感じています。

このブログで、弁護士の発言を問題にしているではないか、それは言葉狩りではないのか、とお叱りを受けそうですが、私の中では全く別の話なのです。
勝手な言い訳と思われるかもしれませんが。

発言には必ず「意図」と「原因」があります。
問題にすべきは、意図と原因(発言を引き起こした実体)であって、単なる表現された言葉ではないはずです。
言葉は手段であり結果なのです。
久間さんの発言は、確かに適切ではありませんが、ある文脈の中で私ももしかしたら言葉に出してしまうかもしれない言い回しです。
繰り返しますが、原爆を認めるとか、戦争終結の手段として正当化しようというような意味では全くありません。
歴史の状況の中で起こってしまったこと、という意味で「しょうがない」という考え方を完全には否定できないということです。
久間さんに、原爆投下を肯定する意図はなかったと思いますし、もしかしたら表現を間違えたのかもしれません。表現の間違いはだれにもあることです。

内山弁護団の発言、つまり確信的な発言とは全く違います。
いや、柳沢大臣の「産む機械」とも次元が違う話です。

現代はポリミッシュな時代、抗議が横行する時代です。
私のこのブログも、もしかしたら、そうしたポリミッシュなメッセージと受け取られているかもしれません。
書き手である私としては、決してそういう意図ではないのですが、最近の内容はそう思われても仕方がないかもしれません。
しかし、単なる言葉狩りだけはしていないつもりです。

国会の審議を見ていても、言葉狩りやら言葉論争が多いのにがっかりします。
中身の議論ではなく、言葉をあげつらう応酬が少なくないのは、抗議者にも良い感じをもてません。民主党の支持が増えないのは、それが一因ではないかとも思います。
それにしても、昨今は言葉狩りが多すぎます。
そんなことよりも、もっと議論してほしいことがたくさんあります。
でも言葉だけの議論は、誰でも参加できるせいか、マスコミは大好きのようです。
それに乗せられないようにしたいものです。
目を向けておくべきことは何なのか。
それをしっかりと持っていたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »