■タリバンの韓国人ボランティア殺害事件
タリバンによる韓国人ボランティアグループの拉致と殺害はやりきれない事件です。事件を聞いて感じたことを2.3書きます。必ずしも正確な事実には基づいていないと思いますので、その前提でお読みください。
まず「善意」とは何か、です。
傷ついた人がいれば危険を冒しても救いにいくという「善意」は、誰にとっても「善意」で歓迎されると思いがちですが、もしかしたらそうではないかもしれません。
「善意」は行動者の意志ですが、その行動の対象者の評価が同じとは限りませんし、大きな枠組みで考えるとおそらく評価は一様ではないはずです。
もっとも、ボランティア活動をしている人たちは「善意」などとは考えていないでしょう。やりたいからやるのがボランティアですから。
しかし、組織活動としてのボランティアになると意味合いはかなり変わってきます。
個人の主体性に立脚するボランティア行為と組織としての行為にはズレが避けられません。
結果として、そうした行為が全体の状況の問題解決にマイナスに働くこともありえます。
さらにいえば、自らの生命を賭して活動している人にとっては、おそらく緊急事態でしょうから、コラテラル・ダメッジの発想が出てくる可能性を否定できません。
もちろんそれを肯定するわけではありませんが、タリバンの側で考えるとそういう発想が出てくるということです。なにしろこれまでたくさんの仲間を不条理に殺害されているわけですから。
もちろん、私はタリバンの行為に何がしかの正当性を認めているわけではなく、どんな事情があろうと許されることではないと考えています。
彼らにも言い分はあると思っていましたが、こうした行動を起こすことは言語道断であり、彼ら自身にとってもマイナスでしょう。
しかし、彼らはそこまで追い詰められていることも示唆しています。
自己防衛行為とはいえませんが、その要素が全くないともいえません。
そこで思い出すのが、マルチチュードの発想です。
もしかしたら、全体の構造の捉え方がみんな間違っているのかもしれません。
タリバンとはいったい何なのか。
そして政府とは何なのか。
世界の紛争や連帯の構図が大きく変わり出している中で、問題の立て方を間違うと問題はさらに複雑になり、悲惨になるかもしれません。
そんなことを考えさせられる事件です。
これはなにも軍事紛争だけの話ではありません。
福祉や環境に関わるボランティア行為すべてにあてはまることかもしれません。
問題を解決するためには、構造をしっかりと把握し、問題を的確に設定しなければなりません。
韓国のボランティアグループの人たちの安全が守られることを心から祈念します。
個人の生命は国家の命運以上に大切です。
そのこと忘れた国家や革命や反乱は成功しないと確信します。
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