■光市母子殺害事件安田弁護士による死刑制度の私物化
光市母子殺害事件の安田弁護士の発言は、法によっては守られているのでしょうが、社会の規範からは完全に逸脱しているように思います。
今回の彼の発言を聞いて、いつものことながら、これほど「おぞましい人」がなぜまともに取り上げられているのか、そしてどうして弁護士仲間が異論を唱えないのか、とても不思議な気持ちになりました。
常識が通らない場での裁判には不信感をもたざるをえません。
しかし、私の思いとは反対に、司法界から何の声も上がりません。
私は彼をとがめているのではなく、彼のような存在を放置しておく司法界を問題にしているのです。
日本の裁判制度はもはやあまり信頼できなくなりました。
この事件のことはもう書くまいと思っていたのですが、やはり書かないと気がすまなくなりました。
人の生き方には、「法によって権力に従う生き方」と「規律によって規制された生き方」と「愛を活かしあう生き方」があります。
法治社会では「法によって権力に従う生き方」が推奨されます。
法に従っていれば、お上からのお咎めはないからです。
お上にとっては、正義ではなく統治が最大の関心事です。
企業のコンプライアンス発想もそうです。
ですからたとえ「不正義」でも、時に一時期のミートホープ社のように黙認されることもあるのです。
赤城議員などの政治家の逸脱行為もその一例です。
フーコーは、法による生き方から規律による生き方に社会は変わってきているといいましたが、日本においては歴史の流れは逆かもしれません。
恥の文化では、法以上に「誇り」や「正義」が尊ばれます。
いまでも日本各地の村では、お上が決めた「法」よりも、規律が重視されているところもあるように思います。
フーコーをかなり独善的に解釈していますが、私自身は、その先に、あるいはその前に、真心の社会があると考えています。それが「愛を活かしあう生き方」です。
そこでは規律のベクトルの意味が反転します。
これに関しては、いつかまた書きたいと思います。
ところで安田弁護士の生き方は、弁護士らしく「法に従う生き方」です。
つまり権力に守られた生き方、言い換えれば心を権力に売った生き方です。
権力に従う生き方は楽な生き方でしょう。
安田弁護士は権力に立ち向かう反骨の志というイメージを持っている人もいるかもしれませんから、こういう論理展開をすると、私の常識が疑われそうですが、そういう捉え方もできるという気がします。
権力に抗することと権力に迎合することとは紙一重です。
そして、その紙一重は共感の広がりで見えてきます。
安田弁護士の言動が、いずれかであるかは明白です。
権力に抗う形での迎合と考えるべきでしょう。
そう考えると、すべての風景は一変します。
たとえば、安田弁護士と死刑制度の関係です。
多くの論者は、そして私の知人の弁護士たちも、安田弁護士は、死刑制度廃止を目指しているといいます。
そうでしょうか。
死刑制度廃止と死刑を無くすことは違うことだと思いますが、それはともかく、私には安田弁護士が死刑制度を本気で廃止しようとしているとは全く思えません。
もしそうならば、もっと誠実に取り組むでしょう。
死刑はいろいろな意味で、人の生命に関わる問題ですから、誠実さが基本になければたぶん前に進まないでしょう。
それにこの問題は暴力と権力の問題にもつながる組織原理の問題でもあります。
安田弁護士の取り組みは、どう考えても、誠実とは思えません。
むしろ彼は、死刑制度の存続に寄生して生きている人だと思います。
もし日本に死刑制度がなければ、彼は自らの存在を維持できないでしょう。
つまり、彼が守りたいのは死刑制度なのです。
論理の飛躍があるかもしれませんが、そう考えてもおかしくないように思います。
彼のような、あざとい生き方が広がっているのが、とても哀しいです。
司法界だけではありません。
政界も財界も、学会も医療の世界も、なぜこのような小賢しさが蔓延したのでしょうか。
今回はかなりの暴論で、いくらでも反論の材料はあると思いますが、暑さのせいの暴論だと聞き流してください。
しかし、私には腹が立って仕方がないのです。
まだまだ人間が出来ておらず、寛容にはなれません。
寛容になれないままに、人生を終えそうなのが残念です。はい。
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