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2007/07/25

■デモサイド「民殺」

昨日の記事に関連して、国家は自国の民を暴力から救うために武装し、国民は自らを守るために武装するのではないかというメールが来ました。
確かに国家の武装の大義は「自衛」です。
しかし、これも以前書きましたが、すべての戦争は「自衛」として説明できるでしょう。
問題は「自衛」の「自」とは何かです。

こんな報告もあります。
孫引きなのですが、ハワイ大学のR・J・ランメルという学者の書いた「政府による死」(1994年)によれば、国家によって殺されているのは、外国人よりも自国民のほうが圧倒的に多いというのです(ダグラス・ラミス「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」に紹介されています)。
ランメルによればこの100年間に国家によって殺された人数は2億人を超えていますが、そのうちの約2/3は他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているそうです。
つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない、というわけです。

彼は、非戦闘員を殺すという意味で、デモサイド(democide)という言葉を造語しています。
デモサイドの主体者は誰なのでしょうか。
20世紀のデモサイドの多くは共産国家や社会主義国家、あるいは軍部独裁国家、ファシズム国家などで主に行われていますが、「民主主義国家」でも起こっています。
コラテラル・ダメッジは、まさに「民主主義国家の発想」かもしれません。
ちなみに、コスタリカは、政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作ったといわれます。

デモサイドを遂行するのは誰でしょうか。
徴兵制のもとでは、だれでもが「戦闘員」に狩り出される可能性がありますから、結局は国民なのです。殺すのも殺されるのも同じ国民。それが現実なのです。
イラクやアフガンの現状はそのことを明確に示しています。

日本国憲法9条はたしかに不完全な条文です。
しかし、そこに込められた意味は大きい。むしろその意味を進化させるべき時期に来ています。
私たちも、コスタリカ人ほどの知性を回復したいものですが、それはすぐには無理としても、今度の選挙にはこうしたことを考えて投票に行きたいものです。
決して、年金選挙などではないのですから。

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