■死に向かう医療、生を目指す医療
今日は暴論です。
まあ、いつも暴論かもしれませんが。
女房ががんになったために、がんを通して医療の問題を考えることが多いのですが、近代医学のありように関してもいろいろと考える契機になりました。
がんという病気が特殊なのかもしれませんが、特殊なものにこそ、本質が現出します。
がんの場合、医師と話していて感ずるのは「がん=死の病」という呪縛です。
その根底には、近代医学のもつ病気観があります。
医師はがんが治るとは考えていないことが伝わってきます。
昨日、緩和医療の医師と話したのですが、医師は病状がだんだん悪くなるという前提で話をします。
つまり「死に向かう発想」で取り組んでいるわけです。
私たちのように、治ることを前提として立ち向かっている者には、とても違和感があります。
最近はそうした医師の姿勢に抗うのはやめることにしています。
近代医学というものの本質が理解できれば、それもまた受け入れることが大切だという考えにやっと私もたどり着きました。
ちなみに、「病院」という呼び方もそうですが、緩和医療(ケア)という表現にも、そうした発想の象徴的な現われです。
人間の人生の大半は「死」に向かっての歩みだという考えもあります。
いやそういう考えがむしろ普通かもしれません。
10歳を超えたら、生物的には滅びに向かいだすともいわれます。
しかし、それは一つの価値観に基づく評価でしかありません。
発達心理学の理論では、人間は死ぬまで発達するという捉え方もあります。
この4年、女房のがんを通して感ずることは、パスツール以来の近代医学は、結局は「死に向かう医療」の呪縛から抜け出ていないのではないかということです。
希望を根底におくことのない医療は、病気を治療しても人を治癒することはできません。
余命3か月などという、いかにも近代科学的らしい発想がでてくるのも、そのせいではないかと思います。
そうした「死に向かう医療」に対して、「生を目指す医療」があります。
私も最近知ったのですが、サイモントン療法というがんの心理療法があります。
その瞑想のためのCDがあるのですが、そのナレーションに次のような呼びかけがあります。
がん細胞は弱くて不安定な、混乱した細胞です。これはナレーションの一部ですが、そこには生に向けての希望を感じさせます。
がん細胞は私たちを攻撃したりしてはいません。
白血球は、常にがん細胞に攻撃をして、常に勝ちます。
あなたの体が喜びに導かれ、本質に気づき、ごく普通の働きをはたしはじめたとき、
あなたの白血球があなたの弱いがん細胞に働きかけて、正しい役割をはたします。
そして、そのがん細胞をどんどん取り除いていきます。
こんなナレーションも出てきます。
病気が、何かを私たちに伝えようとしていることを思い出してください。ヒポクラテスの医療とパスツール以来の医療とでは、何が変わったのでしょうか。
常に病気というものは、思いやりあるメッセージを発しています。
確かに病気を治す点では、大きな前進がありました。
しかし肝心の生命への意識やケアは、むしろ後退しているのかもしれません。
最近、医療訴訟が増えています。
その原因は、医療パラダイムに原因があるような気がしています。
病気は、医師が治したり諦めたりするものではありません。
治すのも諦めるのも、患者自身です。
病気に立ち向かっている患者にとって大切なのは、「治療」ではなく「治癒」なのです。
医師と患者のコミュニケーションではなく、医師と患者のコラボレーションが必要なのではないかと思いますが、近代医学のパラダイムはそれを拒んでいるように思えてなりません。
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